虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

勉強が好きになるまでのプロセス 2

2016-11-30 22:17:40 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回の記事で、子どもが「習ってない!くんタイプ」だった場合、

次にとおるべきプロセスは、間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態で……といったことを書きました。

このことについて、もう少していねいに言葉にしていこうと思います。

 

幼児から小学校高学年くらいまでの子どもたちの育ちに付き合っていると、幼いころは、他の子よりあれこれ遅れがあってやきもきした子も

一般的な子より数年遅れでそうしたあれこれに夢中になって、急激な成長を遂げる時期を経るのをよく見かけます。

 

もちろんオールマイティーにできる子になるというわけではないけれど、苦手でできないように見えたことに、他の子が飽きたころに手をつけだしたかと思うと

いつのまにか苦手が得意になっている、できないが上手にできるに変わっている、という姿はめずらしくないのです。

熊本で会った小学生たちは、口をそろえて「工作が好き!」「絵を描くのが好き!」と言っていたのですが、荒尾のアトリエのレオさんにうかがうと、

今はもりもり作っているあの子もこの子も数年前まで「先生、作って!」が口癖だったというお話でした。

 

虹色教室では算数の学習も見ているので、工作や遊びだけでなく、勉強においても同様の変化があって、勉強でつまずいてばかりいた子が、ある共通するプロセスを経て、いつの間にか勉強が大好きな子になっているのをよく目にします。

 

遅ればせながら大逆転を遂げる子たちには、それが先に書いた「間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態」をしばらく過ごしているという共通点があります。

また、親や学校の先生や友達から一目置かれて認められていて、周囲の愛情を肌で感じられる状況があり、ありのままの自分を表現できる場がある点も共通しています。

 

「考える場面ですぐにシャッターを下ろしてしまう子」に対して、「間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態」に移行させようと思う親御さんは少ないです。

たいていは、できないところをできるようにさせようとしたり、考えないでも解ける形になおして、暗記メインで訓練したりします。

あっちのいい方法、こっちのいい方法、あの習い事、この習い事……と、とにかく大量にインプットすることで解決しようとする方もいます。

でも、そうした方法は、一時的に効果が上がったように見えてもさらに考えることから遠ざける結果を生んでしまいがちです。

 

話の途中ですが、次回に続きます。

(レッスンの記録がたまっているので、途中で別の記事をはさんで続きを書く予定です)


勉強が好きになるまでのプロセス 1

2016-11-29 10:14:08 | 教育論 読者の方からのQ&A

 熊本の遊びのアトリエさんのところにお邪魔してきました。写真は、連れて行っていただいた素敵なカフェです。

「九州に行く際は必ず寄りたい!」と感じた素敵なお店でした。

 

熊本の子どもたちと工作や算数を通して、わくわくする時間をたくさん過ごしてきました。

 

虹色教室で人気の「高さ(長さ)と重さ」のバトルカードは、熊本の子どもたちにも大好評でした。

バトルカードの裏には、ポケモンの体重と身長が書いてあります。(ポケモン以外に、身長(長さ)と体重がわかれば、どんなものも参加しているカードです。船舶や人間の子どもなども参加中。)

 

<遊び方> 

順番に、高さで勝負するか重さで勝負するかを宣言し、カードを出しあいます。

基本は、一番大きい数値のカードを出した人が勝ちですが、逆転勝ちのチャンスもあります。

体重の勝負で 負けてくやしいから逆転勝ちしたい場合、「勝ったカードの体重が、自分のカードの体重の何倍か」近い数字を当てられたら逆転できます。

正しいかどうかは、電卓で出します。

(勝ったカードの体重÷負けたカードの体重)

 

↑すごく上手に描いたカードとイラストをおみやげにもらいました。ありがとう!

 

学校で習ったりワークを解いたりする前に こうした学習ゲームで遊んでおくと、苦手感が薄れて意欲的に学習に取り組めるという声をいただいています。

AはBの□倍か?といった問題は、4、5年生が、

「どっちからどっちを割ればいいんだったかな?」と首を傾げたり、「難しい!無理!」と突っぱねたりする部分です。

でも、電卓を使ってでも、こうした遊びで触れていると、「何倍か?」という問いにどう対応すればいいか、すぐにピンとくるようになります。

 

熊本で算数のレッスンをしていると、見慣れないものを目にするたびに、よく見もしないで……また、数秒、考えてみることもしないで、即座に、「習ってない!そんなのわからん!」と突っぱねる子……(「習ってない!くんタイプ」とします。) と、

やる気まんまんで、積極的に参加しているんだけど、考えていく手立てが身についていなくて、答えを間違ってばかりいる子……(「やる気がからぶりくんタイプ」とします。)の2タイプの子たちがいました。

 

「習ってない!くんタイプ」と「やる気がからぶりくんタイプ」が、能力もできていることも同じくらいだったとすると、これから先の伸びとか可能性という面では、「やる気がからぶりくんタイプ」の方が利があるのです。

「習ってない!くんタイプ」は、チャレンジする前から、耳をふざいで、目を閉じて、心にシャッターをおろしちゃってますから。

でも、「やる気がからぶりくんタイプ」の方は、夢中になって関わっているうちに、体感が身についていったり、気づきが生まれたり、的確に指導することで、理解に至ったりするでしょうから。

 

ここで書きたいのは、だから、こんな口癖の子はダメだとか、この子の態度は丸でこの子はバツといったことではありません。

 

そうではなくて、子どもが「習ってない!くんタイプ」だった場合、次にとおるべきプロセスは、間違っていてもいいからやる気があふれだしている状態で、

それを存分にやりつくしてから、次の

「理解した上で答えを導きだす」

「慎重に忍耐強く考え抜いていく」

「考えるための技能を身につけて解く」

というプロセスへと移っていくといいのかな……と考えています。

 

途中ですが、続きは次回に書きますね。


ショッピングリスト と 2歳児さんのお仕事

2016-11-25 19:38:38 | 0~2歳児のレッスン ベビーの発達

明日より3日間、熊本の遊びのアトリエさんのところにお邪魔してきます。

しばらくブログをお休みしますが、帰宅次第、熊本の方々との交流の様子を記事にさせていただきますね。

 

2歳7ヶ月のAちゃんと2歳10ヶ月Bちゃんのレッスンで。

ショッピングリストというゲームが気に入って熱心に遊んでいたので、(ルールを2歳向けに少し易しくして遊んでいます)お家用のゲームを作りました。

 

<遊び方>

買い物カードを裏向けておきます。

自分の番になったら、カードを1枚めくります。買い物リストにあったら自分のカートにおいて、なければ元に戻します。

ショッピングカートがいっぱいになったら勝ち。

 

この時期の子はブロックで囲いを作るのが好きです。

囲いの中に入れたビー玉を他のものに移してみるのに熱心。

 

ハンカチを広げて、お店屋さんごっこ。

しきりのあるお菓子の箱に入れています。

 

エルモにジュースをあげる予定。

 

ちょっと凝ったケーキ作りも楽しんでいました。

 

封筒(敏感期のお仕事用に適度なサイズに切った封筒をたくさん用意しています。)

の中に熱心に積み木を入れていきます。


『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』という本

2016-11-24 14:56:09 | 日々思うこと 雑感

『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと(山田太一/PHP研究所)』という本を読みました。

前書きに次のような文章が綴られていました。

 

「生まれてくる子の性別も選べない。容姿も頭のよさも性格も健康も、あるがままに受けとめるしかない。

その上で『親ができること』をさぐりさぐり、なんとか一緒に生きていく。

その一緒の歳月では無論、親は子供に影響をあたえるけれど、その影響の大半は意識的な『子育て』によるものではなく、親の『存在』が避けようもなくあたえてしまう影響だというように思います。

いくら『教育方針』などというものを持って教育に励んでも、結局その親の器量以上のものを、子どもに伝えることはできない。

放っておく親とそれほど大差はないどころか、放っておいた親のほうが『よき影響』をあたえてしまうというようなことが、いくらでもあるのが子どもと親との関係だと感じています。」



「生まれてきたときから、子どもは他ならない『その子』です。

他の子と交換可能な個性のない存在ではありません。(略)


親ができることは『ほんの少しばかりのこと』です。

親の力の限界を知り、その中でどう生きるかというのが、子供との関係の基本だと思います。」

 

子どもは個性をもってうまれてくる存在だから、どこまで行っても、その子はその子。

子どもには親の持っている以上のものを伝えることはできない。

そうした言葉を目にすると、がっくりして、子育てに励む気力が失せる方がいるかもしれません。

一方で、「そんなネガティブな意見は信じない、親の努力次第で子供の将来は豊かになっていくはずだ」と憤慨する方がいるかもしれません。

私は、たくさんの子どもに会えば会うほど、「確かに子供は、交換可能な個性のない存在ではないな」と感じています。

0歳児でも、はっきりとしたどの子とも交換することができない個性を放っていますから。

それなら「いくら『教育方針』などというものを持って教育に励んでも、結局その親の器量以上のものを、子供に伝えることはできない」という考えに対してどんな思いを抱いたのかというと、

「それは真実なのだろうな。子どもをこれこれこういうふうに育てたいと思ってがんばっても、何もしないほうが良い結果が待っているのかもしれない。

でも、親が子どもとの関わりの中で、自分の視野を広げ、人への理解を深めて、学ぶことへの愛情に目覚めていくなら……そうして自分自身の器量を大きく育てていくなら、自分があたえることができる最上のものを伝えていくことができるだろう」

というものでした。


虹色教室で期待通りに成長してくれない子にやきもきして、悩んだり、叱ったり、あれもこれもといろいろなことを試したり、イライラしたり、

愚痴をこぼしたりしていた親御さんが(たいていの場合、親御さんが困惑するのも、ごもっとも……と思われる子どものやる気のなさや頑固さや困ったちゃんぶりがあるものですが)この子はこういう子なんだなと、あるがままに納得するときがあります。


その上で「気持ちが優しいし、素直な性格だ」

「こういうときは、きちんとしている」

「ユーモアがあって、明るい」などと、子どもの良い面を見つけて、自立をうながしながら、適度に手助けしはじめる方がいるのです。

すると、それまでダラダラ~グタグタ~していた子が、突然、意欲的にがんばりだすことがあります。

いきなり良い成績を取り出すまでにはならなくても、その子の個性的な素晴らしさが輝き出して、子どものグループの中でも一目置かれる存在になりはじめることがあるのです。

『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』の中で山田太一氏が、次のように書いておられました。

 

「歩き出したら、片時も目をはなせない。そんな厄介な存在と暮らして、幸福感があるのが不思議でした。

勿論、うんざりして、いなくなってくれないかな、と願ったことも何十回かはありましたが、何十回ぐらいですんだのは、子どもの可愛さでした。

子どもの可愛いのには、何千回も感嘆しました。

すべてが小さくて、しかしぜんぶ備わっていて、無力すぎる故に抗しがたくて、ほんとうに生物というものはよくできている、ちゃんと親の苦労にむくいるように子どもをこんなに可愛くつくってあるんだ、と見惚れました。」

 

子どもって、生きているだけで、そこにいるだけで感嘆するほど可愛いものです。

でも、子どもに、今この場で、いろんなものを求めてしまったり、自分の子育てに自信が持てなかったり、親が自分自身の価値を認めて、自分を大切に扱えないときには、子どもを可愛く感じられなくなるかもしれません。

でも、そういうときは、「子どもがこんなふうにしてくれたら……」とか、「子どもがこんな子だったら……」と思うのでなく、

まず子どもを可愛く思えない自分の気持ちを認めて、自分をいたわってあげるといいのかもしれません。

そうして自分に素直に向き合えば、、自分の器量が少しだけ大きくなりますよね。

そうすれば、少し大きくなった器量で、子どもに接することができるでしょうから。

 

私は前にも書きましたが、ADDの特徴をたくさん持っているので、調子が良いときに限って、自分でも信じられないようなミスをしがちです。

私が調子が良いときというのは、いろんなことを抱えすぎて、頭の中がいっぱいいっぱいになっているときでもありますから。

そうしたミスをするたびに、自分で自分に裏切られたような気持ちになるし、何をしても無意味だという気持ちに飲み込まれそうにもなります。

でも、私は自分がそういう特徴を持っていなかったら、もっと子育てで間違った方向に進んでたんじゃないかなとも感じているんです。

うちの子たちも、遺伝なんでしょうけど、同じような失敗が多い子なので、小学生くらいの頃は、

「何度言ったらわかるの?」「何回ミスすれば気がすむの?」

と喉元までそんな言葉が上ってくるような失敗をたくさんしていました。

でも、私は責める代わりに、失敗が続いたとき、

「どうしたら自分はダメな人間だとやけを起しそうになるときにも、正直に自分の欠点を見つめて前向きにがんばれるのか」

「どうしたら、何度失敗してもチャレンジし続ける勇気が持てるのか」

を伝えるようにしてきました。

 

それは私がADDの特徴があるからこそ、何度も何度も、自分の能力に絶望しながら、そのたびに、何とか気持ちを立て直して、自分にとっての最善をつくす方向に、一歩踏み出そうとしてきたからなのです。

それがどんなに苦しいことが、よくわかっているので、わが子がつまずいたときには、子どもが自分で問題を見つめて、欠点を乗り越えていくまで、大らかに待ってあげることができました。

それで、私の子にすれば、同じ年齢のころの私よりずいぶんしっかりしているし、それぞれの子が何にひるむことなく自分の可能性を広げ続けることに一生懸命なので、うれしく感じています。

 

この著書には次のような文章もありました。

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……そういう意味でいまの日本って、お人好し社会だと思うんです。

お人好しでなにがいけないかというと、人間の実態に鈍感ですから、たとえば、自分の実態を超えて過度にいい人になろうとするとか、

他の人にもうんといい人であることを要求するとか、子どもに対しても、そんなことを要求しても無理だということを要求してしまったりして、

その無理がどこかで暴力的に表に出て、自他を傷つけてしまうというようなことがあるからです。

たとえば、子どもの能力に関係なく東大に入れたいとか、幼児から慶応に入れて、あとをラクにしてあげようとか計画を立ててします。

子供は無力です。

十歳くらいまでは、どうしても親の計画に合わせざる得ない。

東大へ入ったから、なんなの?という議論は別にしても、その子の能力を考えない、無茶苦茶な計画である場合も多いわけです。

残念なことだし、なんかひどく頭の悪い人の計画というように感じてしまいます。

(省略)

親がどう抜け目のないプランを立てたって、子供がその通りにならなければ、手も足も出ません。

いい学校へ入れようとしても入れない子どももいるし、コネを総動員してなんとか入れたら、こんな学校行きたくない、と登校拒否してしまうという例も少なくないようです。

それが子どもの素晴らしさだと思うしかないのではないでしょうか。

はじめに流行の教育コースがあるのではない。生身の子どもがいるのです。

子どもに従うしかない。

それが一番リアルなことだ、というように思います。

子どもが「なにが好きか」を基準にする他はない。

それを助けることしか、親のできることはない、と思います。

——親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと/山田太一(PHP研究所)

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「人間の実態に鈍感」という言葉を目にして、このところ心に引っかかってもやもやしていたことが、浮かびあがってきました。

最近、教室の能力の高いしっかりさんたちが、小学校に通うだけでヘロヘロになって帰ってきて、勉強に対しての不満や怒りを口にするようになりました。

親御さんたちにたずねると、少し前まで授業中に騒ぐ子がいて親からのクレームが学校に集中したものですから、今度は学校側が過剰に厳しいルールを徹底するようになって、

授業中は後ろに手を回して「聞く姿勢」というのを保つことを要求されることが多いそうなのです。

手遊びをさせないための配慮でしょうが、低学年でも6時限まで授業がある日もあるので、四六時中、緊張し続けていると、かなりストレスが溜まるようです。

おまけに、そうやって微動だにせずに耳を傾けなくてはならない先生の説明が、みんなが正解するレベルに設定した

「これとあれは、どっちが正しいでしょう?」といった簡単なものばかりなので、授業が単なる苦行となっているようなのです。

一方で、文字がちょっとゆがんだり、はみだしたりするだけで赤で修正されるものですから、書き取りを嫌がったり、細部に神経質になるあまり、それまで書けていた字も書けなくなったりしているようです。

 

今の学校は少しルールをゆるめると、たちまち収拾がつかなくなるようなところがあるので、学校の対応とすれば、ある面、仕方がないのかもしれません。

先生方も大変で一生懸命だ、ということもよくわかります。

それでも、もやもやした嫌な気分がくすぶるのは、小学校での問題解決の方法が、どんどん生身の子どもとか人間というものの実態から、かけ離れていくように感じるからです。

人間は疲れるし、ストレスも溜まるし、興味をそそられる話や自分が能動的に関われる場面では、夢中になって集中しているけど、そうでないときは気がゆるむものです。

もちろん、小学校の授業を個々の子供の能力に合わせるのは難しいですから、それは仕方がないし、子供に常に先生の話に集中するように指導するのも当然といえば当然です。

でもそこに、人間というものを知っていて、全体に向けての基本のルールは徹底するけど、そこにちょっと遊び心を含めたり、余白を設けておいたり、

感情の部分では、ストレス抱えてがんばっている子どもの気持ちを理解していて、ある部分で見て見ぬ振りをするとか、大目に見るといった、ささやかな個別対応があっていいと思うのです。

親の側も、先生が自分の判断で、たまにはルールをゆるめたり、一人ひとりの子にじっくり関わるのを、人間というものへの理解から、

「ちゃんとしていない」とか「ひいきだ」とかいっていちいち目くじらを立てずに、そっとしておくことも必要なのかもしれません。

山田太一氏が親に向けて、次のようにおっしゃっているのですが、教育現場でもいえることだな、と思いました。

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人生の先輩として、方向をリードしたり忠告したりしたくなるのも人情でしょう。

しかし、親は自分の人格以上のものを口先で子供に伝えることはできないし、口で伝えるようなことは、黙っていても伝えてしまっているのが、親子というものではないか、と思います。

自分の毎日の姿で伝えるしかない。

教育的な言辞は無駄なことが多いと思います。

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忠臣蔵のポップアップ と 合掌づくり

2016-11-23 21:48:36 | 工作 ワークショップ

 

小学1年生のAちゃんは、忠臣蔵が好きでたまらない歴女です。

今回のレッスンでは、「合掌づくりが作りたい」と渋いことを言っていました。

ひとりでもりもり作るAちゃん。合掌づくりの屋根には、綿を入れました。

 

少し前のレッスンで、忠臣蔵のいけだやのポップアップを作ったAちゃん。

家でポップアップ絵本の続きを作っていました。

百科事典のような分厚さ。

 

Aちゃん作のシルバニアの衣装。

 

オリジナルのストロー技を駆使して、忠臣蔵のメンバーの癖や忠臣蔵の逸話(+オリジナル妖精話)を絵本にしていました。

 


年少さんと理科実験遊び

2016-11-22 20:50:39 | 理科 科学クラブ

年少のAちゃんは理科実験もどきの遊びが大好きな女の子です。

↑はAちゃんが自慢気に持ってきてくれた古代の海の生き物です。

 

期限切れの紅茶のティーパックやコーヒーなどをご近所さんに実験用にいただいています。

今回はティーパックを使ってろ過する実験。

 

ろ過装置は、ペットボトルを切って、上の部分を逆さにしてから、コーヒーフィルターを取り付けて使っています。

これだとろ過された液体が観察しやすいし、子どもの気分で土や野の草花などをろ過したい時、使い捨てにできます。

 

お湯の温度は、ぬるめのお風呂の温度くらいに。

 

ろ過した紅茶を三角フラスコもどき(300均で購入。教室でとっても人気があります)に重曹とクエン酸を入れて、化学反応を楽しみました。

三角フラスコ風の容器を使うと、泡の吹き出し方に迫力があります。

 

かたくり粉で、個体でもあり液体でもあるトロトロ~としたものを作り、ハートの入れ物に移していきます。

この作業が幼児にすごい人気です。30分以上やりたがる子もいます。

 

食紅を落とすと、ラテアートのような模様が描けるので面白いです。

 

砂鉄で遊んでいます。

 

Aちゃんはボードゲームやカードゲームに慣れている子なので、算数のレッスンで、グローカルヘキサイトを本来のゲームのルール通りにやりました。

ルールを理解して最後までやりきるAちゃんに感心しました。


愛情をかけて可愛がって育てているのに困った言動が増えてくる時7 (ユースホステルのレッスンから) 6

2016-11-21 13:17:19 | 日々思うこと 雑感

子どもの言葉を評価したり否定したりしないでありのままに受け入れるのは難しいです。

それは子どもの言うことを何でも聞き入れるというのとは違います。

 

最終的には、子どもの言う通りにできない場合も、いったんは自分の思考や感情や好悪のフィルターを通さずに「○○ちゃんはそう思っているんだね」ときちんと聞くということです。

 

ユースホステルのレッスンでこんなことがありました。

 

「園での活動を率先してやってくれます」と幼稚園の先生からはいつも褒められているという■くん。

 

でもお家ではダラダラゴロゴロして遊ぶのさえめんどくさがったり、イライラした反抗的な言動が増えているというお話でした。

 

もともとおりこうさんタイプの■くん。まじめで責任感があって穏やかな性質の子です。

 

それがレッスン中にも、お父さんが優しい口調で話しかけるたびに、つっかかるようなキレ気味の口調で返事したり、遊びの前にわざわざやる気がないことをアピールするような態度が目立っていました。

 

わたしも「このところ暑いし、疲れているのかな?」と気にかけていました。

 

晩の大人だけの勉強会の際に、別の子の親御さんの相談に対して、「子どもの言葉を評価したり否定したりしないで

ありのままに受け入れてみる」ことの大切さについて話しあっていた時のこと。

 ■くんのお母さんが、ハッとした様子でエピソードをお話になりました。

 

■くんが無気力になったり、反抗的になるちょっと前頃から、週何回か延長保育に参加するようになったそうで、そこにはちょっと乱暴な口をきく子たちがいたのだけど、■くんはそれなりに楽しそうに過ごしていたそうです。

 

その後、ちょこちょこ「お腹が痛いから幼稚園を休みたい」訴える日があったものの、熱もないし大丈夫そうだったので、「そんなことないよ、大丈夫だよ」と軽く言いくるめて園に送り出していたそうです。

 

するとそれなりに楽しそうに園で過ごしていたのだとか。

 

■くんのお母さんは、「■くんの幼稚園を休みたい」は何かのサインだったんじゃないか、

頭からその言葉を否定して、取り合わなかったのはよくなかったのではないか、

休みたいと言ったときは休ませた方がよかったのではないか、と反省しておられました。

 

園を休ませるかどうかはケースバイケースで、よほど深刻な事態でなければ行かせた方がいいのかもしれません。

 

でも、子どもの「幼稚園を休みたい」という訴えを、「大丈夫だよ。幼稚園に行けるよ」と端から否定してしまうと、その言葉の背後にある■くんの本当の気持ちやお母さんに聞いて欲しかったことが、言えなくなってしまうかもしれませんね。

 

「○○が痛い」が仮病のように見えてもその言葉のまま「○○が痛いのね」と共感して耳を傾けていると、お友だちとの間で傷ついた出来事や、自信がくじけた出来事がゆっくりと口に上ってくるかもしれません。

口にするのが辛いほど傷ついたことは、初めはもっと口にしやすい別の形で表現されるでしょうから。

子どもによっては「ばか」とか「きらい」とか「死ね」といったかつて自分に投げかけられて傷ついた言葉を他人に向かって攻撃的にアウトプットする形で、SOS信号を出す子もいます。

 

言葉だけに反応して、しつけよう教えようとする前に、子どもが発していることの本質的なものを素直に受け取るよう努めると、かたくなっていた子どもの態度がほぐれてくるかもしれません。


ゲームに夢中になったあとで、急にできるようになっていること

2016-11-20 17:57:37 | 通常レッスン

子どもがボードゲームやカードゲームに夢中になったあとで、それまでできなかったことが、急にできるようになる姿をよくみかけます。

今年のユースでも、モノポリーやラミィキューブに熱中していたと思ったら、算数がとても得意になっていたという報告をいただいています。

 

小学1年生のAちゃん、Bちゃん、2年生のCちゃん、Dちゃんのレッスンでのこと。

最近、ブロックスというゲームにはまっているCちゃんが、面積や体積の学習で、線や面を読み取るのがとても上手になっているのに驚きました。

 

写真は、ブロックスを使ってゲームをしながら面積を学んでいるところです。

 

石の体積を求める問題を出すと、みんなで協力して答えをだすことができました。

石を投入した後、水面が3mmしか上がらなかったので、

底面積はmmになおして計算しました。

 

工作タイム。4人とも、違うものを作りたがりました。

 

Dちゃんのミニカー用道路マップ。2歳の弟へのプレゼントだそうです。

 

これまで何度か弟へのプレゼントを作った結果、コンパスを使うのが上手になってきました。

カーブする道路は、90度の扇形をかいて作ります。

 

Aちゃんの作ったレーシング場。

 車のレースがさせたいというAちゃんとどんな力を使ってレースをさせるか話しあいました。

候補は、ゴムの力、磁石の力、風の力、ビー玉の転がる力です。

最終的に風の力を利用してレースさせることにして大成功。

レース場を疾走するカーレースを見ることができました。

 

Cちゃんは石田三成の衣装(紙で作る予定)をかける豪華絢爛ハンガー。

Cちゃんは真田丸の大ファンです。

 

Bちゃんは地下迷路のような遺跡を作りました。

Bちゃんはこれまで化粧道具やドレッサー、財布などを作ってきました。

今回、Bちゃんが遺跡の図鑑んを見て、目を輝かせて、「きれい!作りたい!」と言うのを聞いて、興味の広がりを感じました。


世界の遺跡は子どもの心を大きく揺さぶる

2016-11-19 20:30:04 | 工作 ワークショップ

 

小学1年生のAくん、Bくん、Cくんのレッスンで。

3人とも工作上手で自分でどんどん作っていく子たちですが、これまで作るものはたいてい決まっていました。

Aくんは、白頭ワシか刀か野生動物。Bくんは、映画館か車か線路や駅か恐竜。

Cくんは水族館か日本のお城か海賊船。

それが、今回は、「工作がしたい!」と言いながらも、何が作りたいのか決まらなくてぐずぐずしていました。

教室の最近のブームはぷかぷか浮かぶ乗り物や磁石や風の力を使った

科学工作です。見本を見せて誘うものの、どれも気が乗らないようでした。

 

そこで、『世界遺産ふしぎ探検大図鑑』を出してきて「こんなすてきな遺跡があるのよ」と何ページか見せていると、みんなの視線が、トルコのカッパドキアの岩窟群の絵にくぎ付けになりました。

まるで蟻の巣のなかのような地下都市。

 

「これ作りたい!」「作る!」とBくんとCくんが言いました。

Aくんは「天空のお城が作りたい」と言っていましたが、海の上のピラミッドと言われる

モン・サン・ミシェルが自分のイメージの天空のお城だったようで、そちらを作ることにしました。

 

Aくんがあっという間に作った白頭ワシ。モン・サン・ミシェルの上を飛ばすことに。

 

城壁をめぐらせ、お城をたくさん作ってすてきなモン・サン・ミシェルが完成したのですが、

完成作品の写真を撮りそびれました。残念。

 

Bくんのカッパドキアの岩窟群。

 

地下水をくみあげるところや学校など、細部も凝った作りです。

 

Cくんのカッパドキアの岩窟群。

箱の形と通路の形を作るうちに、この作り方で大好きな戦国時代のジオラマが作りたくなったCくん。目がきらきら輝いていました。

 

算数タイムの様子です。Aくん作の針がまわる時計で、「3時の10分後は?」「4時5分の20分後は?」といった問題を考えています。

 

算数工場のお仕事中。

500は10のボトルが何個分か手で確かめて考えています。


愛情をかけて可愛がって育てているのに困った言動が増えてくる時 (ユースホステルのレッスンから) 6

2016-11-19 16:54:49 | 日々思うこと 雑感

言葉だけに注目すれば、口を開けば「イヤ」ばかり言っている◎ちゃんの荒れが、きちんとお母さんに対して「イヤ」が言えていないことに原因のひとつがある、なんて奇妙に聞こえたかもしれませんね。

なぜそんなことを感じたのかというと、◎ちゃんのお母さんが◎ちゃんの前に置いた朝食の量にしろ、食べるようにうながしている物の量にしても、どう見ても食欲がない◎ちゃんの表情とあまりに対照的だったからです。

 

「◎ちゃんの食欲」や「どれくらい食べられそうか」という現実は無視して、とにかく「少しでもたくさん栄養のあるものを食べてもらいたい」というお母さんの思いばかりが、迫ってくるような食事風景ではあったのです。

◎ちゃんの食の細さを思えば、見るだけでげんなりするほどの量を手前に置かずに、◎ちゃん用の取り皿に一口か二口で食べられそうな量を盛るので十分なのかもしれません。

そして◎ちゃんの「おいしい」「これもっとちょうだい」という意思表示に合わせて、「いっぱい食べてえらいね」「もう全部食べちゃったの?えっ、そんなに食べられるの?すごいね」と食に対するイメージを高めるような声かけをしながら、おかわりさせてあげるくらいでちょうどいいのでしょう。

また「お母さん食べさせて」と言いながらかんしゃくを起こして、わがまま放題に振舞うようなら、その時は、「一食くらい抜いても死にはしないから」と覚悟して、

機嫌を取ったり、大人が口に運んだりしてでも、食べさせよう食べさせようと躍起になるのはやめた方がいいように思いました。

 

◎ちゃんのお母さんは、3食ともバランスよく栄養が取れるように、毎朝5時起きで、◎ちゃん用の食事を用意しているというお話でした。

そうしておけば、外出することがあっても、お昼をフランチャイズですませるようなことはありませんから。

 

確かにバランスのいい食事は大事です。

でも栄養がいくら足りても、◎ちゃんには食事を「楽しい!おいしい!」と感じる気持ちが不足しているのです。

 

もう少し手抜きをして、たまの朝昼には「おにぎりだけ、パンだけ」「今日は外食」なんて日があってもいいから、食事時間を『親子の苦行』にしてしまってはいけないと感じました。

 

◎ちゃんのお母さんは、◎ちゃんが可愛くてたまりません。

四六時中、◎ちゃんのことを考え、◎ちゃんのために奔走しています。

 

◎ちゃんは1歳の頃からバイオリンを習っているそうです。

幼児に対しても厳しい先生で、毎日、必ず2~3時間の練習時間を持つように、朝食が終わったらハミガキをするようにバイオリンの弦を手にするように指導されているそうです。

バイオリンの先生から出る宿題の量があまりに多いので、◎ちゃんのお母さんもお父さんもお祖母ちゃんも、心を鬼にして厳しく訓練を施しているそうです。

◎ちゃんはバイオリン教室でこそ「弾かない」とがんばっているそうですが、お家ではバイオリンを演奏するのを喜んでいるようで、音楽が好きなことがよくわかるそうです。

◎ちゃんは絵も習っていて、教室では勝手に振舞っているようですが、絵の具に触れるのを喜んではいるようです。

 

◎ちゃんのバイオリンの話をうかがって、わたしはちょっとショックを受けてしまいました。

1歳から楽器に触れさせるのが良いか悪いかは別にして、◎ちゃんという「人に対する警戒心や不信感が強くて、お母さんへの愛着も4歳の今になってようやく少しずつついてきたかなと思われる子」と

「まだオムツをしているような年齢の子らにも毎日2,3時間の楽器の練習を強要するような音楽教師」が合うわけがないことは、考えてみるまでもなく明らかでしたから。

 

食欲がない◎ちゃんの前にドンと置かれた山盛りの朝食と同じように、まだ何が好きか、何をしたいのかもわからない◎ちゃん、

同い年のお友だちに近づくことすら怯えている◎ちゃんという小さな子の前に、大人たちの期待や願望が、てんこ盛りによそわれている様子が目に浮かびました。

 

大人の目から見て、「問題だな」「困ったな」という態度を示す子への見方が、この数年の間にわたしのなかでずいぶん変化してきました。

 

そうした子らをよく観察していると、周囲から「悪い子」「困った子」と思われている子ほど、当然のように自分を主張してもいい場面で我慢を重ねていたり、「イヤ」と言ってもいい時に「イヤ」と言えてなかったりするのです。

 

たいてい「困ったちゃん」として扱われている子は、困ったちゃんモードが全開となって、周囲を辟易させるような場面でだけ

周りの注目を集めていて、そうでない時にはあまり関心を払われていないことがよくあります。

 

そこで困った言動をアウトプットしているシーンにフォーカスするのをやめてその子が何も問題を起こしていないシーンに注目してみると、「こういう子」と思われているその子像とは真逆の一面が見えてきます。

 

それが先に書いた

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 当然のように自分を主張してもいい場面で我慢を重ねていたり、

「イヤ」と言ってもいい時に「イヤ」と言えてなかったりする

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ということなのですが、それにこちらが気づいて、ネガティブなことも含めて、自分の気持ちを素直に表現してもそれを評価されたり、否定されたりしないで、そのまんまありのままで受け入れてもらえるような体験を積むと、「そんなことで?」と驚くほどウソのように問題行動が消えていくことはよくあるのです。

完全に消えることはなくても、目立たないものにはなっていきます。

 

変な例ですが小さな弱い犬ほど、ギャンギャン吠えるのを知っていますよね。

 

小型犬が攻撃性をむき出しにして吠えるのと同様に、自分を守る術のない、弱い立場にある子ほど横柄な態度で毒づいたり、攻撃的な態度を示したり、相手を無視してかかったりしがちなのです。

 

以前、「口答えが多く、することなすこと反抗的で、何ひとつ言う事はきかないし、わがままで自己中心的で勉強しない困った子です」と親御さんが語彙を強めておっしゃる中学生の男の子と、小学校高学年の女の子に、それぞれ別の日に会ったことがあります。

 

その子らが教室に親御さんといっしょに入ってきた時点で、年のわりにずいぶん従順な子だな、と驚いてしまいました。

なぜなら、うちの子らがそのくらいの年齢だったときには、どんなにうまいこと誘おうと、厳しく言おうと、「いい、行かない」とさっぱりと宣言して親に付いてくるとは到底考えられなかったからです。

 

親御さんに連れてこられた子たちは、どちらもムスッとして横柄な態度を取っていましたが、そうした態度で自分の身を守らずにはおれないような、素直すぎたり従順すぎたりする面がちらほら顔を覗かせていました。

 

「素直すぎ従順すぎ」という事場は適切ではないかもしれません。

 

自分に降りかかってくる「しつけたいことや教育したいこと」という親や外の世界に反発していても、身体が求める要求世界である「自我」が強いわけではなく、それもあいまいで希薄なのです。

 

自分が何を求めていて、どうしたいのか、どうありたいのか、何がいやなのか、そういう自分の根っこの部分への親御さんの侵入を簡単に許してしまうようなところが感じられたのです。