虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 1 <見る>

2016-04-30 08:16:05 | 幼児教育の基本
「うちの子あまり考えません~」と親御さんが嘆く子に会ってみると、考えるために必要ないくつかのことが身についていないのがわかります。

上手に「考える」ことができるようになるには、
その前にできるようになっておくといいステップがあります。

ひとつは、上手に「見る」ことです。

よく見る
ていねいに見る
よく似ているものを思い浮かべたり、違いを考えながら見る
見て不思議に気づく
見て好奇心が刺激され、調べたいと思う
動きのあるものを見る
考えながら見る
人の表情をよく見る 目を見る

というように「見る」ことを極めていけば、必ず「よく考える」ことにつながっていきます。

1歳代の子とお散歩に行くと、歩く先々で「じっくり見る」と面白いものにぶつかります。
小学校の校庭をのぞくのも好きですし、水たまり、花のおしべめしべ、
ポストの投入口の中、ありの行列、はとたちの日向ぼっこ、
日光が当たっている部分と影になっているところ、
お風呂屋さんのえんとつなどなど……きりがありません。
幼い子ほど、そうしたものに感動し、よりていねいに
じっくり見ようとします。
葉っぱに毛虫がいれば、何度でも何度でも見たがります。

合理的に効率的に目的地に直行!
ではなく、歩いて、子どものペースでさまざまなものを見て、
見たときの思いや発見を話し合って共感しあうことが、
「見る」能力を高めて、
「考える」力のベースになります。

幼児にしても、小学生にしても、「よく考えない」ということの裏に、
「よく見ていない」ということがあります。
算数の問題も、国語の問題も
「よく見る」だけで解けるものは多いのです。

でもいったん「見ない」癖がついてしまった子には、
どうすればいいのでしょう?

子どもがぼんやりしているように見えるとき、
「ぼんやりしている」と思うのでなくて、「何を見ているのかな?」
と視線の先を見ると、
何かに気を取られていることがよくあります。
そうした子どもが見ているものについて、いっしょにおしゃべりして
楽しむようにすると、見方が変わってきます。
また、「よく見ない」子には、忙しく動き回るという子もいます。
外で、子どもが発見したものを報告してもらって「すごいね~!
どこどこ?」と感動していると、
さらに面白いものを見つけようとするはずですよ。

やりたいことを やりたいように たっぷり

2016-04-29 18:22:39 | 算数が得意?苦手?の分かれ目

新1年生のAくん、Bくん、Cくんのレッスンで。

3人とも、自分のやりたいことを自分流に何度も何度もやりたい

マイペースくんたちです。教室でも家でも好きなことをとことんする毎日。

小学生になってまだ一月足らずの3人ですが、

物を作る技術的な力、イメージし、計画し、取り組む力。考える力や表現力、

算数の問題を考える力などが、劇的に伸びてきたのを感じました。

 

3人がそれぞれ身につけてきた力のひとつひとつは、

ごくごくシンプルで基本的ですが、

好きでたまらない気持ちで何度も何度も取り組んできたことで、

子どもたちが自在に使える確かな力となりつつあるようです。

 

数年前から船を作り続けているAくん。初めは、「作って」が多かったのですが、

「紙を折って、曲線に切り、セロテープで貼ってから広げる」という簡単な

船の作り方をマスターしてから、自分の頭で「こうな風にしたい」と抱いたイメージを

立体にしていく力を身につけてきました。

 

「画用紙を丸めると棒ができる」という技術は、Aくんの十八番。

たいがいの難所はこれで乗り切ります。帆をつけると、かっこいい船ができます。


「ダンボールに絵を描いて切り抜く」という平面の作品を同じものばかり1年以上、

作り続けていたBくん。最近になって、さまざまな立体作品を作るようになってきました。

動物図鑑の内容をほとんど記憶しているほど動物好きなので、今回は、

教室にあるフィギアの『ハクトウワシ』を作りたいと言っていました。

でも、どうやったら鳥の身体の形が作れるのか悩んでいました。


そこで、いつも船を作っているAくんの船の作り方を見るようにうながしました。

折って二枚合わせに曲線に切ってテープで貼るだけ。

これならできそうと感じたBくんは、船より丸い形で曲線を描いて

作っていきました。羽根をつける位置を工夫して、

羽根を広げたり閉じたりできるようにしていました。


顔をつけると、立派なハクトウワシです。

 

Cくんが映画や劇を演出するのが大好きな子です。

今回も大掛かりな人形劇用の劇場作りをしてからカモを作っていました。

下の写真はCくん作の清掃車。

 

 今回は1学年と2学年の範囲(3年範囲も少し)の時計の問題を解きました。

何時間後、何時間前の問題や、

「1時間に3枚ずつ絵を描く時、午前9時から午後1時までに

何枚絵を描くことになりますか」といった問題もよくできていました。

3人ともとても意欲的に取り組んでいました。 


感情が優れている子 と お勉強  続きの続き

2016-04-29 13:18:15 | 算数が得意?苦手?の分かれ目

私が子どもたちの学習を見ていてしみじみ感じるのは、

それぞれの性格タイプによって「やる気のもと」となるものは異なるし、

「勉強嫌いの原因となるもの」もずいぶん違うということです。

十把ひとからげに「子どもは競争を好むもの」とか、

「子どもは褒められればがんばる」といった捉え方をしている場合には、

性格タイプによる勉強との付き合い方の違いを知ると、

少し考え方の幅が広がるかもしれません。

 

それでは、算数の学習について、それぞれの性格タイプの「やる気のもと」と、

「勉強嫌いにさせないコツ」について私の考えを書かせていただきますね。

 

感覚タイプの子は、コツコツと几帳面に作業をこなしはじめると、

そうした作業そのものにモチベーションを感じることが多いです。

幼い頃、パズルをしたり、モンテッソーリの教具のようなもので遊びだすと

ひとりで何度も繰り返す時の達成感が、そのまま学習の動機となりやすいです。

 

感覚タイプの子は同じペースで持続していくことは好きだけれど、

直観的なひらめきを求められる頭脳パズルのような問題は、

慣れないと嫌がることもあります。

感覚タイプの子を勉強好きにしようと思えば、毎日自然に繰り返したくなるような

スローステップの良質の教材を与え、手で触れる教具で五感から学ばせ、

このタイプの子を不安にさせる無理な負荷をかけないことだと思います。

黙々と同じことを繰り返す期間が長いので、進歩していないように感じるかも

しれませんが、そうした易しい作業を通して、単にそれができるようになるだけでなく、

多い少ないや増減の感覚を自分の内面に発達させていきます。

すると、「この子、天才?」と驚くような数学的なセンスを発揮するようになる子が

多いです。

感覚タイプはお金の計算をするのも大好きなので、

おこずかいを与えることも算数好きにするポイントです。

 

思考タイプの子は、

思考を必要とする「考える」問題を与えことが強い学習意欲につながります。

思考タイプは圧倒的に男の子が多いようです。

(ユング派の心理学者の秋山さと子さんが、「女性の思考タイプはほとんどいない」と

書いているのを読んだことがあります)

すでにできている漢字を何回も書かされたり、作業的な学習が続くと

勉強を嫌がることもあります。

放っておいても高学年くらいからは成績が伸びてくるはずです。

 

直観タイプは、好奇心を刺激される算数クイズのような問題や、

ボードゲームやカードゲームで頭脳を使うようにしていると、勉強好きになっていきます。

当てずっぽうで解いているように見えるときもあるので、調子よく学習しているときも、

答えを出すまでの道筋を言葉にするのを手伝っていると、思考が発達してきます。

このタイプに易しい問題ばかり解かせると、考えずに勘で言い当てることが勉強だと

思い込むので、そこそこ骨のある問題を絵を描いて解かせるなどの工夫が必要です。

また、漢字練習や計算練習などの地味な作業を極端に嫌い、

かなり思考力のある子に限って、作業の量が多すぎると、

深刻な勉強嫌いに陥るかもしれないので注意が必要です。

 

感情タイプは、人から褒められることや認められること、みんなの注目を集めること、

友だちといっしょにわいわい活動することが学習のモチベーションとなります。

人と関わるのが好きで要領もいいので、言語能力や記憶力が高い子が多いです。

(言語能力や記憶力があまりよくない感情タイプの子は劣等感を抱きやすく、

非常に繊細で、言葉を介さない面では、大人並みに人を観察していて、

人が自分をどのように評価しているかなどに敏感なため、

特別に気をつけて育てる必要があると思います)

感情タイプの子は、

場の空気を読むのがうまくタイミングよく物事をこなすのが得意ですが、

ひとりで、「考える作業に集中する」ことを極端に嫌います。

感情タイプの子は、感覚が補助機能でもあるので、コツコツする作業もそれほど

苦手ではないので、記憶力がよい子の場合、「先に解き方と答えを覚えてしまって、

さっと答えを出して、即座に周囲からの注目や賞賛を浴びる」というスタイルで、

ある時期までは、たった1分間すら考える作業を持続できないまま優等生として

過ごしていることもよくあります。

でも、感情タイプの子は抽象的な思考を毛嫌いすることが多く、

いつも満点を取っているような子でも、ほんの少しの時間でも「考えを練る」ことが

耐えられない……熟考なんてとんでもない……という子もよくありますから、

小学校高学年以降の学習でつまずきがちなのです。

 

特に、親御さんも感情タイプの方だった場合、一度つまずくと、

なかなか持ち直せないときがあります。

というのも、感情タイプの親御さんは、子どもが幼児期や小学校中学年くらいまでの

期間に、効率的に「できるようになること」や「よい成績を取ること」だけに注目して、

自分で工夫したり、遠回りでも自分で考えたりすることを、時間の無駄だと捉えて

子育てしていることがよくあるのです。

生活の場面でもそうした傾向は強いです。

親御さんのそうした合理的に効率的に良い結果を出そうとする態度は伝染して、

もともと「学習内容への興味は薄いけれど、そこから得る結果には強い関心がある

感情タイプの子」に対して、

「華々しい結果を出せないなら、全く何もしない方がまし。でも、考えることは嫌」

「自分の勉強ができないのは、

先生の教え方が下手だから。塾や家庭教師を変えるといい成績が取れるはず。

でも自分で考えるのは嫌。自分が変わるのは嫌」という考え方をするように

仕向けてしまうことが多々あるのです。

順調に物事が進んでいるときにも、親が自分の性格タイプの長所と弱点を

把握しておくことが大事だと思っています。

 

人の心から影響を受けやすい感情タイプの子らは、

堅実でぶれない大人の考え方の下では、着実に苦手な面を克服していって、

人を惹きつける魅力ある性質に磨きをかけていきます。

感情タイプの子の多くは、「あんな風になりたい」というあこがれの人を見つけて、

努力します。良い出会い、良い人間関係が大事です。

でもせっかくあこがれるような人と出会っても、それまでに強い劣等感を抱くように

なっていて、嫉妬や憎しみしか感じられないようになっていては、

せっかくの感情タイプの子の長所が発揮できません。

感情タイプの子は、憧れの対象を見つけると、火事場の底力のようなしごいパワーを

みなぎらせてがんばりだすことがあるのです。このタイプの子はたいてい、

「思考ができない」のではなくて、「思考が嫌い」なのです。

食わず嫌いみたいなものなのです。

『ユングのタイプ論』に次のような一文があります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

感情タイプが思考できないと考えるのもまた、大きな間違いである。

彼らはとてもよく考えるし、深くて素晴らしい本物の思考や非凡な思考すすることも

非常に多い。

しかし彼らは気まぐれなのだ。たとえば、感情タイプにとって試験の間に適切な

種類の思考を引っぱりだすことは難しい。

 『ユングのタイプ論』M.L.フォン・フランツ J.ヒルマン 創元社P 27より

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

親はこのタイプの子の自己肯定感を高めるために、

勉強の成績とか、特技とか、態度といったものと関係なく

子どもが存在するだけで、その子の存在を丸抱えにあるがままで愛して認めることが、

他のどのタイプより大切なのでしょう。

 

次には、劣等感のために学習困難に陥っている感情タイプの子への対応法を書きますね。 


基礎的な発見 11 <一方が下がるともう一方が上がる>

2016-04-28 23:15:19 | 子どもたちの発見

カップ(ひもの取っ手をつけています)とカップをひもをつないだだけの

シンプルなエレベーター。

「一方に重りになるものを入れると、もう一方のエレベーターが上に上がる」

という単純な作りです。

すぐ作れるので、教室の遊びのあらゆる場面で活躍しています。

 

今回は、水遊びの小道具としてこのエレベーターが使われています。

 

水でっぽうの水で、機関車を動かして落とします。

うまくカップの中に落ちると、もう一方のエレベーターが上がります。

大成功です♪

 

新年中のAくん。

「青いスーパーボールは100点で……それから……。」と考え込みながら、

「あのさ、玉がたくさんあるやつが、小さい得点になるようにするんだよ。

1とか!」と言っていました。

納得!でも、どれが一番たくさんか、判断しずらいですね。


感情が優れている子 と お勉強  つづき

2016-04-28 19:47:05 | 子どもの個性と学習タイプ

通い始めた塾で

「算数がとてもよくできる子」という評価を得るようになった●ちゃんは、

自分で考えて解こうとする意気込みも、私の解説を聞いて学ぼうとする熱意も

これまで見たことがないほど強いものになりました。

 

何でも虹色教室で習ったことが塾のテストで出て高得点が取れたのだそうです。

「◇さん(私を●ちゃんはこう呼びます)のおかげで、すごくいい点が取れました」と、

自分の努力や能力より先に、こちらを持ちあげるような言葉が小学生の口から

無意識に出てくるあたりが、感情型の子だな~としみじみ感じます。

 

●ちゃんは、これまでずっと勉強を嫌がりはしないけれど、それ自体を楽しむような

考えることを愛するようなところは薄いように見える子でした。

それで、これまで●ちゃんのモチベーションとなっていたのは

虹色教室のアットホームな雰囲気やそこでいっしょに過ごすお友だちとの交流や

家族や学校の先生に対する義務感のようなものでした。

 

それが、通い始めた塾で周囲から一目置かれていることや、

高い評価を受けたことなどは、これまで見たことがないほど

●ちゃんの気持ちを高揚させ、努力に向かわせる動機となるようでした。

内向的感情型と思われるうちの娘もこうした人との関わりから得る動機が、

勉強のモチベーションにつながる子です。

この●ちゃんの快挙を知った○ちゃんは、自分も塾に通いたいと言い出しました。

○ちゃんも虹色教室に通い始めた当初は算数が苦手な子で、

簡単な計算ルールを理解するのに、他の子の何倍もかかっていたのですが、

次第に算数が好きになり最近では受験向けの凝った問題も解けるようになった子です。

すると、●ちゃんはすかさず、

「ここで(虹色教室)で問題が全部解けるようになってから、

塾に入った方が絶対いいよ。そうしたら、最初から一番になれるし、

塾で習うときにどれも簡単なんだから」と○ちゃんに言って諭していました。

そういうことを私に媚びようとしているのでなく

自然に内側から溢れてくるように言うところは、直観や思考や感覚タイプの子では

まず考えられないけれど、感情タイプの子たちはよくあります。

「お母さんのおかげで……お父さんのおかげで……先生のおかげで……」といった考えが

自然と浮かぶようなのです。

ある対象に「好き」か「嫌い」かで評価を下すのは「感情」の仕事です。

あらゆる知識をインプットしてある高性能のロボットも、人間のように

何かに対して自分がそれを「好き」か「嫌い」か評価する力はないはずです。

「感情」というのは意外な感じがするのですが、理性の法則によって与えられる

合理的な機能なのだそうです。

これも意外なのですが、裁判官による法律の適用は感情の働きなのだとか。

裁判って、よく考えてみると確かに科学的な判断で裁くわけじゃないですね。

難しい人間の問題を評価し、人間の関心事を公平に扱うためのものですから。

 

感情タイプは、外向的感情タイプと内向的感情タイプに分けられます。

『ユングのタイプ論』 (M.L.フォン・フランツ J.ヒルマン 創元社)に

書かれている説明を私流に易しい言葉に変えて簡単に説明させてくださいね。

 

外向的感情タイプは、

外の世界や感覚を通して知ることができるいろいろなものを評価したり、

それと適切な関係を結んだりして適応していきます。

すぐに友だちを作り、相手の良いところも悪いところも的確に把握しつつ、

うまくつきあいます。要領よく生きて、自分が欲しいものは相手の人が自分から

差し出してくれるように仕向けることができます。

フォン・フランツによると、外向的感情タイプが毛嫌いするのは

哲学的原理や抽象概念や生にまつわる根本的問題に関する思考といった内向的思考です。

 

内向的感情タイプも、感情機能を用いて生活に順応するけれど、

「内向的」という点で少し違います。

内向的感情タイプは、「これこそ本物だ」と自分が感じるもの、

本当に重要な要素が何かを内的に見て取ります。

内向的すぎて黙っているのに、

内向的感情タイプの倫理的価値基準があまりにも正しいため、

周囲の人は知らないうちにこのタイプの価値基準にそうように振舞っていることが

あるそうです。内向的感情タイプの考える上での弱点は、

「数少ない概念で、無数の資料の中をせわしなく動き回る」ことで、

それが強みとなったときには、「簡明で明晰でわかりやすい」という良い面とも

なります。

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 感情タイプというのは、感情的に振舞う人とはずいぶん異なります。場所に応じて

タイミングよく適切な感情で振舞える人なんですね。

 

といっても、

F.G.ウィックスによると、感情タイプの子どもを精神的に追い詰めると、

感情タイプの良い面が正反対の困った面に反転するようです。

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感情が抑圧され、無意識的になると、明らかに反対の質を帯びる。

抑圧された愛は、わけのわからない憎しみになり、未分化な情動としてうっ積する。

この抑圧された感情が暴発すると、子どもは残酷になり「感情のない小暴君」になる。

自然にあらわれるはずの生来の感情だから、その力は思考やその他の劣等機能に

逃げ込むこともできない。自分にはできない知的なことで、

他の子が愛や賞賛を受けるのを見たり、無理に

頭で考えさせられたり、問題の解決に直観を使うこともできないまま、

ただ本来の豊かな感情が無視され、求められない場合には、子どもは劣等感をつのらせ、

無力感や怒りが残酷な行為にはけ口を見出す。

(『子ども時代の内的世界』 F.G.ウィックス 海鳴社 より)

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感情タイプの子に学習させるとき、このタイプの子の美点を正しく理解して尊ぶことと、

十分な愛情をかけること、

それから心地いい学習環境を作りながら根気よく付き合っていくことが

他のどのタイプよりも必要だと感じています。


見えないものが見えるように 触れられるように  おしまいです

2016-04-28 12:49:56 | 日々思うこと 雑感

(星雲を作っています♪)

 

わたし 「『見えないものを見えるように手助けする』のも、

ずっと続けていると、見えない理由はいろいろで、

見えるようにするにはどうすればいいのか……

それに相手の子の頭や心がちゃんと乗っかるようにするってことへの答えが、

『見えるようにさせていく過程』では『外からはほとんど見えない』ってものも

出てくるの。正しい答えというより、経験からくるお母さんの勘が答えだと

つかんでいるものの話だけど。

 

自閉圏の子たちと関わる時には、

特にそういうややこしい『見えなさ』を相手にすることになるわ。

共同注意が難しい子と体験を共有するには、

いっしょに同じものを見るようにする工夫だけじゃ足りないから。

 

共同注意っていうのは、『わたしはこれを見てます!』ってことを相手にわからせて、

自分が見ているものに対して取ってる態度を相手と共有することよ。

『わたしはこれに注目している!』ということを相手が理解して、

それへの態度を共有するってことでもある。

自閉症スペクトラムの子たちは、程度の差はあるけど、それがすごく難しいのよ。

頭がとてもいい子であっても。

 

だから、お母さんは、ただ見るのではなく、

自分の目に見えたものがこちらにも見えているのか確認するような気持ちが

生じるようなシーンを作ったり、見えているものを、その子も『先生も見てるな』って

気づいた上で、お母さんがそれをどう思っているのかを

参照にしたくなる場面をごっこや人形劇や工作のプロセスで作ろうとしているの。

 難しいようで、あらゆる活動で、そこにフォーカスすることで、

たいてい成功しているわ。

どのような活動がそうした状況を生むのか、経験を蓄積しているし、

お母さんには、いつもその際が見えてもいる。

 

でも、さっき言った『見えるようにさせていく過程』で、

何に働きかけているのか、何が起こっているのかは、

『外からはほとんど見えない』ということが、足かせになって、

上手くいかないことがけっこうあるの。

 すると、お母さんの仕事のほとんどは、子どもに対してどうする、というより、

見えない時期に親御さんの辛抱をどうやって保ってもらうかになってくるわ。

というのも、共同注意が難しい子のお母さんは共同注意が難しい方もいて、

子どもの姿を共有するのが大変なケースも多いから。

 

だから、あれこれ経て、子どもの困り感が激減した時、

何をしたからよかったとかいうことより、

子どものお母さん(親御さん)の『見えなさ』に寄り沿い続ける根気の良さというか、

ただただ歩き続ける姿勢のようなものへの尊敬の念だけが自分の中に余韻のように

残っている気がするの。

わたしの言うことやすることをずっと信じてくれた……

というんじゃなくて、ただただいっしょに、ひとりの子、

ひとりの人間に近づこうとして、寄り沿い続けてきたという事実が響いている

感じがあるのよ」

 

息子 「見えないものを見えるようにする作業は、ほんと、いろいろだよね。

話が変わるけど、『虚数』ってあるじゃん。

負の数の平方根なんて、架空の現実の世界じゃ意味を持たないもの、

役に立たない想像上の数って思われがちだし、実際、ぼくもそう感じていたんだけどさ。

でも、このところ、電気系統をあれこれいじってると、回路では虚数が役立っている

ところが見えるというか……

虚数が可視化できているわけじゃないし、

虚数計算した値が目に見えているとは言い難いんだけど、

虚数を使って実態のあるものの動作の現象を目にできることに感動したんだ。

実際には、1、2、3……と見て確かめられると信じられている数にしても、

数自体が目に見えているわけじゃないから、数学と現実の見える世界の関係は面白いよ」

 

息子とわたしの会話は、その後も話題を変えながら、正月休みの間中、

続いていたのですが、これくらいに……。

 

河合隼雄先生と大江健三郎先生の対談で、

大江先生が、こんなことをおっしゃっていました。

「小説家のイマジネーションというものは、いわば不思議なもので、

読者とわれわれ書き手とが断絶しているところと、

その上でこちらで起こったイマジネーションの作用が

向こうでむしろこちらより深いような共鳴現象を起こしているということを

感じ取る場合がありますよね。(省略)」

 

『見えないものが見えるように 触れられるように』は家でのおしゃべりを

記事にしたもので、小説家の文章とは違うけれど、

この記事にいただいたコメントを読んで、この大江先生の言葉が浮かびました。

この記事の締めくくりにいただいたコメントを紹介しますね。

(非公開のコメントには、コメント主さんの親としての

視線の確かさがうかがえてすばらしいものがいろいろあったのですが、

残念ながら非公開なので紹介できませんでした。)


感情が優れている子 と お勉強

2016-04-27 18:54:22 | 子どもの個性と学習タイプ
 

 

今日のレッスンにはユースホステルでの8月のレッスンに参加してくれていた

年長さんと小学2年生の女の子の

弟くんが参加してくれていたので、それぞれの親御さんから

とてもうれしい事後報告をいただきました。

年長さんのお姉ちゃんは神経過敏で不安が強い子で、

ほぼ全員が楽しく活動していた工作のワークショップでもひとりだけ活動していなかったり、

お勉強っぽい活動は強く拒絶するところがあって、

育てやすい弟くんに比べて非常に手がかかるという点でお母さんから相談を受けていました。

それがユースホステルでのレッスンで、1つ年上のしっかりした女の子たちに親しくしてもらって、

ゲームをしたり、工作したり、お勉強したりして過ごした後で、

お母さんが驚くほど意欲的になって、「私もお姉ちゃんたちみたいにお勉強できるのよ。もっと練習したら。

だから1年生の算数の問題集を買って!(トップクラス問題集です)」と頼んだり、

自分から進んでどんどん工作をするようになったそうなのです。

私は、ユースホステルから帰る電車でこの女の子といっしょだったのですが、

そういえば、いつもはちょっと口をとがらせてネガティブな言葉をつぶやくことが多い子だったのに、

目をキラキラさせて自分への自信がみなぎっている様子に驚いたのを思い出しました。

もうひとつうれしい報告は小学2年生の女の子です。この子は女の子の算数クラブのメンバーのひとりで、

頭の回転が速く、手先も器用でしっかりした子なのですが、何をするのもおっくうそうに取り組むところを気にかけていました。

特に「勉強は大嫌い」と断言して、たいてい解けるのに、ぐずぐずと取り組みがちでした。

それが今回のユースホステルのレッスンで、小学4,5年生の子らと

中学入試の問題にチャレンジしたことをきっかけに、「勉強面白い!あそこで解いた問題集買って!」と

お母さんにねだり、高いモチベーションで学ぶようになったそうなのです。

それだけでなく、これまで苦手に感じていたお友だちについて別の視点から見直して

とても好きになったようなのです。

 

最初の★ちゃんは、おそらく内向的感覚型の子なのですが、

後で紹介した年長さんも小学2年生の女の子もどちらも内向的感情型と思われる子たちです。

実は、ユースホステルのレッスンの後で、友だちや年上の子らの影響で

勉強に強い興味を示すようになったという報告を受けている子のほとんどが

感情が優れていると思われる子らなのです。

感情が優れている子たちは

どのような体験を経て、勉強に興味を抱くようになるのか、そこにヒントが隠れているように

感じています。

先日、外向的感情型感覚寄りと思われる5年生の●ちゃんのお母さんと

内向的感情型直観寄りと思われる○ちゃんのお母さんとゆっくりお話する機会がありました。

●ちゃんは小学校に就学する前から虹色教室に通ってくれている女の子です。

言語能力が高く、素直で物覚えが良い子ですが、

じっくり考えたり、工夫したり、推理したりすることは苦手で

レッスン開始時は、強い算数嫌いに陥っていました。

 

●ちゃんが幼い頃、言葉の発達が早くて人と関わりながら学ぶことが大好きな●ちゃんに、

親御さんだけでなくおじいちゃんおばあちゃんまであれもこれもと教えようとしていました。

が、言葉も英語もすんなり覚える●ちゃんが、数に関することだけはなかなか習得しませんでした。

それで、つい本人を委縮させるほど、足し算やお金の読み方について問うことを繰り返してしまったのです。

 

虹色教室に通うようになって、●ちゃんの算数嫌いは徐々に解消していきましたが、

教えられたことを理解したり、記憶したりするのは得意だけれど、

自分で直観的に気付いたり、自分で考えたり、自分で推測したり工夫したりすることは

苦手な様子でした。

 

●ちゃんは与えられた課題をきちんとこなすまじめな子ですから

公立小学校の勉強につまずくことはないのですが、

小学校中学年頃から「私立中学を受験したい」と本人が希望し、おまけに志望校が女の子の行く学校としては

トップクラスの偏差値の学校だったため、

もう少し自分で思考を深めていく力が必要だと思われました。

 

そのため、ただ「できるようにさせる」のではなくて、どんな問題にも応用していけるような

課題の本質的な部分だけを教えて自分で答えを導きだすようにする時間を設けるようにしてきました。

 

解き方の公式を教えてもらって、短時間ですぐにできるようになりたい●ちゃんは

1年近く、考えようともせずに「わからない、わからない、教えて!」と言っては、それに抵抗していました。

しかし、ゆっくりですが確かな実力がついてきて、考えることを持続することができるように

なってきました。

 

高学年になった●ちゃんは、中学入試のために塾に通い始めました。(虹色教室は週1回、1時間ほど学習するだけですから)

すると、いきなりその塾で算数では誰にも負けないという好成績だったため、

友だちにも先生にも認められ、「私は算数が得意!」「算数が大好き!」と言うようになり、

意欲的に勉強に励むようになりました。

今、虹色教室には国語の入試問題を学ぶために通っているのですが、

いっしょに通っている○ちゃんがつまづいた算数の入試問題だけ、

●ちゃんもいっしょに考える時間を設けています。(○ちゃんも中学入試を考えている子です)


見えないものが見えるように 触れられるように  続きの続き

2016-04-27 07:27:26 | 日々思うこと 雑感

(ひと押しで、一番下の段まで宝が落ちる仕掛け作りに知恵を絞る)

 

わたしの話を聞いて、しばらく考え込んでいた息子は、こんな言葉を返しました。

 

息子 「もっともっと上を目指して、知識を増やして、技能をマスターして……

という形で、『単純なものから複雑なものへ』と進歩していくイメージばかり

重要視されがちだよね。

子ども向けにパッケージ化された体験はどれも、単純なものをひたすら

足し合わせていって、より複雑なものを構成していく価値観でできているようにみえる。

 

でも、実際には、それとは逆方向に

『複雑なものが単純なものに書き換えられていく』ってプロセスも、

大事なんじゃないかな。

難しいものを簡単な言葉で言いかえることや情報のダイエットをするって

意味じゃないよ。

 

ほら、ブレークスルーが起こると、

それまで苦労して大量の情報を使っても上手くいかなかったことが、

シンプルな新しいやり方であっさり片付くようになるよね。

それまでの膨大な情報を必要としていたことが、

一瞬にして少ない情報で行われるようになるってこと。

 

そんな風に複雑なものが単純化されることって、

ひとりひとりの頭の中では、よく起こることだと思うよ。

単純なものを複雑化していくのなら、努力次第で、

誰がやっても同じプロセスを踏んで行くよね。

でも、複雑なものを単純化する時には、何に着目して、それをどう捉えたか、

どう認識したか、どう意味づけたかが関わってくるから、

人それぞれ違ってくるはず。

複雑なものをどう単純化するかは、ただ知っているのか、

理解しているのかを分けるポイントにもなると思うよ」

 

わたし 「複雑なものの単純化……。今まであまり考えたことがなかったけれど、

確かに教室の子どもたちにしても、無秩序なものから秩序を見つけ出したり、

ただ『できる』だったものを、応用のきく『わかる』の形にコンパクトに

書き換える時があるわ。

自分で意味を作りだす力を使って。

複雑なものを単純化するプロセスでは、それぞれの子の

資質や個性がはっきり出やすい気がするわ」

 

息子 「同じものを見ていても、それをどう解釈するかは人それぞれだから。」

 

わたし 「そういえば、遊びにしろ、工作にしろ、算数にしろ、ひとりひとりの子が

強く意味を感じる部分の違いは見ていて面白い。

今ある環境ですぐに評価されるものもあれば、最終的にはその子の一番大事な

力となるはずなのに、今は無駄に見えるか、良い成果を出すのを

邪魔しているものもある。

お母さんがそういう力を活かしてあげられることもあるし、

この子はこういう能力があるんだな、と心にとどめておくしかできないこともあるわ。

★(息子)は、幼稚園時代から、サイコロやチップやトランプを

さんざん散らかした後で、その並べ方や出し方の中に潜在している

秩序に気づいたり、不思議を感じる点を見つけ出したりするのが得意だったわよね。

教室にも、着眼点や秩序の見いだし方は違うけれど、

そうしたランダムに見えるものから

応用のきくシンプルな気づきを得る子らはたくさんいるわ。

遊びの世界で、子どもがそうやって自分らしい資質を使うのを見るのはうれしい瞬間よ。

考えてみたら、子ども時代、お母さんが

複雑なものを単純化する対象は、いつも目に見えているものの

目には見えない部分だったわ。

★のように見えないルールというものではないんだけど。

お母さんにも、子どもの頃のお母さん独特の『複雑なものを単純化』する

感性のようなものがあった、あった。

団地のぐるりにピラカンサっていうオレンジ色の小さな実を大量につける

木が植えられていたのをしょっちゅう眺めていたのよ。

どんな葉の形でいつごろ実がなるか、なんて、植物図鑑的な興味は

微塵も持たないまま何年も過ぎたのに、飽きもせずに眺めていたのは、こんなことを

考えていたからなのよね。

このオレンジ色の実のひとつひとつが顔で、それに一つひとつ心が宿っていたとしても、

お互いに同じ根っこでつながっているなんて気づかないはず。

知らないからけんかして、相手が枯れてしまったら、

結局自分も枯れてしまうなんてことはあるのかな……といったこと。

ピラカンサを見ながら、人間の場合、地球上を移動はしているけれど、移動しながらも

地球の一部としてひっついているってことはあるのかな、とか、

星の光は長い時間をかけて地球に届いて、

ずっと昔の姿を今目の前で見ることができると

聞いたけど、心は、光と同じような性質かな、とか考えていたわ。

団地の壁に貼りついている蛾を眺める時も、蛾の模様が偶然の産物には見えなくて、

進化の過程にどうやって、意味を持った画像が取り込まれていくのか、

誰のどんな目に映ったものが、

何世代もかけて美しい模様を作っていくんだろう、とかね。

受験に役立ったわけじゃないけど、それを思い出すと、自由でのびのびした幸せな

心地になるから、教室で接する子たちには、そういうその子ならではの

頭や心の使い方の自由を守ってあげたいと思う。」

 

わたし 「お母さんは今やっている仕事が好きだし、自分にあっていると思う。

それに、小さい教室で自由がきくからこそできることがあるって感じてる。

算数や工作を教える時には、経験からくる慣れや自信を持ってもいるわ。

 でもね……。

 

このところ時間がなくて休みがちだけど……

教室でやったことや気づいたことをブログに記録しているでしょ。

飽き性でコツコツ続けるのが苦手だから、持続しているってものが見える形で残る

だけで満足というのもある。

それに何より、ブログをコミュニュケーションツールにして、

アイデアを伝えたり、いっしょに疑問を共有したり、意見を交換したりできるしね。

 

……そんな風に、いいことばっかり並べながら、なんかぐちぐちと言いたいような

煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、

今日話していたような情報が増えすぎて、

全体像が見えないものになってるだろうなってことなのよ。

だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と一目でわかる

形にまとめてアピールするとなると、

活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。

 

ただ、このまま放っておくわけにいかないって焦ってもいるのは、

パッケージ化された体験がどんどんあたり前になりつつある、という事情もあるの。

お母さんの教室も、

『活動とそれをしたらどんないい結果を得られるか、先々どう役立つか』という視点で、

どんなパッケージを提供してくれるんですか、と暗にたずねられているように

感じることが増えてる。

それに対して、相手が満足するような答えを返すことはできるし、

たいてい、相手に満足する結果を手にしてもらうこともできはする。

教えることは得意だし、工夫しながら微調節を繰り返してきた仕事でもあるから。

 それが、さっき、いい面も悪い面も、外にあるものとしても、

教室内の課題としてもパッケージ化された体験を意識しながら仕事をした、と言った理由。

 

最近は、赤ちゃんからスタートするプリント学習の教室とか、

3年保育といわずもっと幼い時期からの集団保育も珍しくないから、

家庭での体験の先に集団生活があるんじゃなくて、

集団生活のために家庭が待機場所としてあるように見える子もめずらしくないの。

だから、お母さんは、教室といったって、家庭や近所の大人や友だちとの関わりや

会話や活動に近いものを目指したいのよ。

 

でも、それは自分のしていることの質を考えないことではないの。

外から見ると、行き当たりばったりで、漠然と時間を過ごしているように見える時も、

その状況で追える最善を考えてはいるから。

 ある面、質を高めるほど、気づくことが増えるほど、

自分が扱えるものの種類が増えるほど、

こういうことをしています、とひとことで表しにくいところがある。

その一方で、細かいことに配慮するほど、相手が気づきにくいものを

提供しているわけで、わかりやすい説明が必要になってくるのにね」

 

 わたしの自分でも整理のついていない愚痴もどきを聞いた息子は、

「あーお母さんが教室でしているのは、何かのメソッドって感じじゃないからなぁ」

と言って笑いました。

 

息子 「ほら、何かをマスターさせるための教授法じゃないよね。

それに、朝食を食べると授業に集中できる、とか、自然と触れ合うべき、

外遊びは頭にいい、とかいった正しいと思う考えを実践していくのともちがうよ。

 じゃあ、何をしているのかというと、相手に見えなかったものを見えるようにしたり、

感じられるようにしたり、触れられるようにすることじゃないかな。

 

算数の表とか、まわりの長さとか、旅人算は何を計算しているのか、とか

マス目の入った数字の羅列やプリントに印刷された線や公式という名前の

暗記物にしか見えなかったものを、

日常の感覚で直観的に把握できる形に変えることとか。

工作にしても、おもちゃとか身の回りにあるものの内部の動きを

可視化させて、子どもが自分の考えを目で追えるようにすることが

目的になっているしさ。

お母さんたちの相談に乗るとしても、

カウンセリング的な役割を果たしているのではなくて、

子どもについて見えなかった面が見えるように手助けしているんだと思うよ。

子どもを知るためのパラメーターの種類がやたら少ない人がいるから」

 

わたし 「パラメーターの種類が少ないってどういう意味?」

 

息子 「能力値を体力10、集中力8 みたいに表したらって例えだけど、

○○ができる能力とか、スポーツ教室の級みたいに、すごく少ないカテゴリーでしか

自分の子どもを把握していない人がいるってことだよ」

 

わたし 「ああ、わかったわ。

それと、★の話を聞いて、自分が教室でしていることをひとことで表すと、

確かに、見えないものが見えるように、触れられるように……ってことだなということも。

でも、それを自分のしていることとして、ひとこととして説明するのは無理そうだけどね」

 


算数が得意?苦手?の分かれ目 4 <いくつか別の面から物を捉える>

2016-04-26 14:17:47 | 算数が得意?苦手?の分かれ目

『はりがり』というカードゲームの終了後、

みんなで取ったカードの枚数を数えていた時の出来事です。

新1年生のAちゃんが、

「カードの枚数で言うと、5枚だったけど、

くだものの数で言うと、13個だったよ」と言いました。

 

こんな風に、目にしているものについて、いくつか別の面から物を捉える

習慣がある子がいます。

そういう子は、大きくなるにつれて算数が得意になっていく子が多いです。

 

幼い子たちはおしゃべりする時、

物を別の面から捉えなおしたり、言いなおしたりする

ととても喜びます。

「コップの中のお茶がからっぽになったね。全部なくなったね。

Aちゃんのお腹の中はおちゃでいっぱいになったね。」とか、

手で作った双眼鏡をのぞく真似をして、

「Aちゃんのところから見ると、うさぎさんは遠くにいるけど、

先生のところから見ると、こんなに近くに見えるよ。びっくりした!!」

「足が痛い痛いね。でも、手は……?」「手は痛くないね。目も痛くないね。

頭も痛くないね。足だけが痛いね」

駅に向かっている時、「お家からだいぶ遠くなったね。遠くなったね。

駅に近くなったね。近くなったね。どうして遠くなったのに、近くなったのかな?」

など。

 

そんな風にイメージと言葉の世界でたくさん遊ぶと

物の捉え方が多面的になってきますよ。


見えないものが見えるように 触れられるように つづきです

2016-04-26 08:02:22 | 算数が得意?苦手?の分かれ目

 

(「100ってどんな数?」)

 

わたし 「パッケージ化された体験?

そういえば、去年はいろいろな意味で……いい面も悪い面も、外にあるものとしても、

教室内の課題としても……それを意識しながら仕事をした1年だったわ。

 

事前に山にカブトムシやクワガタを放しておく『夏休みの虫とりイベント』みたいに

わざとらしいものから、フランチャイズ化している習い事にしろ、

消費者のニーズを盛り込む幼稚園にしろ、

情報網の中で先回りがあたり前となっている子育て環境にしろ、

いろいろな場が、それ自体で完結しているパッケージ化されたものになりつつあるわよね。

どれも悪いものじゃないし、商品としての質を約束しようとしているだけでも

あるんだけど、なら何が問題なのかといえば、参加している子が、

あれこれ得ることはできても、人や環境と直に会話していくことができない、

ということにつきるんでしょうね。

 

自分の反応で環境が変化するということがないし、

自分の考えが、結果を別の方向に持っていくこともないでしょ」

 

息子 「パッケージ化された体験は、未来がある程度固定されちゃうし、

他の体験の代わりにならないところがやっかいなんだろうな。」

 

わたし 「他の体験の代わりにならないって、どういう意味?」

 

息子 「子どもの時に、野球とか将棋に夢中になっても、そのまま

野球選手や棋士を目指す人は稀だよね。

たいてい、夢中になっていた時にした体験は、新たに興味を持った体験の中で

更新されていくよ。

パッケージ化されて他人から与えられた体験じゃなくて、

本当に自分が関わっていた体験の場合だけど。

次のもっと自分にぴったりくる体験をした時には、

前にやっていたことが別の形で活きてくるし、自分にとっての意味もわかってくる。

 ぼくは、子どもの時に必要な体験って、

それが別の体験と代替え可能なものかどうかが、先々役立つかより

ずっと大事なことだと思うよ」

 

わたし 「そうよね。お母さんも子どもたちと接していると、いつもそれを感じるわ。

子どもってひとりひとり個性的だから、同じ体験をしていても、

その体験の何がその子に響くのか、何がその子に残っていくのかは千差万別なのよ。

 たとえば工作していると、「これこれこういう風にしたいんだ」

「ここはこうでこうで」とやたら注釈が多いけれど、

不器用さのせいで仕上がりがいまいちって子がいるのよ。

それでも本人が楽しんでいるなら、工作をしながらおしゃべりしていた体験が、

理科や算数の図を見ながら分析していくのを楽しいって思う感性につながって

いくことがあるの。

一方で、作るものはこちらの模倣で作り方も大雑把なんだけど、

できたものを使って遊ぶのが大好きだった子が、それを劇遊びに発展させて、

最終的に、絵本や物語を作るのがその子の日々の楽しみになっている子もいるわ。

他の子が工作する間、ドールハウスにミニチュアを並べる遊びを繰り返していた子が、

最近になって、動画を撮影するのに興味を持ちだしたってこともある。

そんな姿を見ていると、

工作だったら、工作をいかに見栄えのいい作品を作らせていくか、

ピアノならどうやって短期間に上達させていくか、

スポーツなら競技でいい成績をあげるかっていう世界だけで、

どんどん追い立てていくのはどうかと思うのよ。

もちろん、そうした系統的な学びができるように整った環境が大事な場合もあるのは

よくわかるの。

ただ、何もかもが、そうなってしまうことが気になるのかな」

 

(立体迷路)

 

わたし 「何もかもが、そうなってしまうことが気になる……

なんて歯切れの悪い言い方になってしまうけど、

自分でも自分の思っていることを整理して捉えられていない状態なのよね。

 

話が脱線するけど……子どもの頃住んでいた団地の敷地にある土で、

お母さんたち当時の子どもはよく遊んでいたの。

棒を拾って、お姫様や絵描き歌のコックさんを描いたり、ケンケンパや

陣取りゲームの線を描いたり、水で周囲を囲った島を作って

蟻の世界を作ったりもした。掘ると粘土が出てくるのが面白くて、

半日かけて土を削ってみたり、

泥だんごには向かない土なのに、大量のどろだんごをこしらえて、

1階のベランダの下にある隙間に隠しておいて、何日もかけて磨いてた。

当時の子の目には、土は遊び道具のひとつとして映っていて、

さっき★が言っていた『単体で存在しているねじ』のように、

途方もないくらいいろいろな種類の可能性のイメージを重ねることができたのよ。

 

でも、今、砂場以外で、土があっても気づかない子も多いわ。そんなものに

自分の想像力や思考力を重ねていってもいいんだ、と思ったこともないはず。

わたしが子ども時代の情景を思い返すのは、昔はよかったとノスタルジーに

浸りたいわけでも、

昔の子はおもちゃもなしに上手に遊んでいたと自慢したいわけでもないのよね。

正論を振りかざしたいわけでも、自分のやっていることは正しいって

再認識したいわけでもない。

 

たぶん、今の幼い子や小学生たちと接していると窮屈そうに感じる自分がいて、

どうして自分がそう感じるのか正確な理由をつきとめたいんだと思う。

昔も今も、雨も降れば星も月も太陽も空にあるのに、不思議を感じて、

どうして?なぜ?と周囲や自分自身に問いかける子は少数派になりつつあるわ。

目に映るものに、自分の頭や心を使えるんだ、使っていいんだ、って

気づいていないの。

 お母さんが教室で教えたいのは、やっている内容がごっこ遊びであれ、

物作りであれ、実験であれ、

算数の問題であれ、それに自分の頭や心を使えるし、使ってもいいんだよ、

ということにつきるんだと思う。

 

ただ、実際、教室という形を取って教え始めると、

他人から評価されるようなアウトプットやどんなすばらしい体験をしたのか、

新しく何を吸収したのかという点だけが注目されて、それぞれの子がどんなものに対して

自分の頭や心を使っていいと認識しているかを気にかける人はあまりいないんだけどね。」