えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・『配膳さんという仕事 なぜ京都はもてなし上手なのか』 雑感

2020年05月26日 | コラム
 地元で長く店を続けている喫茶店の店主から「昔と比べて世知辛くなった」「バスに乗れない」「日本人がさっぱり来なくなった」といった、外国人観光客の増加に比例して増えるどちらかといえば負の方向が多い変化をここ十年で京都は急速に遂げている。『配膳さんという仕事 なぜ京都はもてなし上手なのか』をめくっていると、一九九六年の本に加筆修正した内容とはわかっていてもことばとまちの落差に慄然とする。「配膳さん」という、京都だけに育まれた接客業務全般のプロ集団は、彼らの髪の毛の先まで凝らした細かいサービスを感受できる客無しでは成り立たない。そういう客は、京都の表面である観光業へ徐々に押されて影が薄くなりつつあるのだろうか。

 山鉾巡行など大きな行事から個々人の宴会まで、「配膳さん」が面倒を見る現場は京都の文化の多岐に渡る。紋付袴で客の前に現れ「行き届く」という言葉が生ぬるいほどの、無粋な関東人の目から見れば過剰な気遣いで初めから終わりまでが滞りなく済む。たとえば名前通り客の前へお膳を配ったり、客の食事を見守り厨房へ料理の出すタイミングを伝えたり、茶会に使う窯の湯加減を見続けたり、儀式の衣装を子供に着つけたり、と状況に応じて自在に活躍する。雑駁に言うと雑用の専門家だ。ただし、その「雑用」は「京都人の中華思想」に裏打ちされた高度な教養や繊細過ぎる文化が求める「雑」である。徹底的に内心を薄紙で何重にも押し隠すような「気遣い」における「雑」が、関東人の考える「雑」であるわけはない。当然ながら本書には安易な考えで茶の湯の礼儀を取り入れたしつけを仲居に施して失敗した料亭などが比較対象として用意されている。無粋な関東人としてはせせら笑われているような指先を常に紙の裏から読書の間感じていた。

 彼らの関わる仕事の舞台は粋で優雅だ。料亭の中でも政府高官が接待に利用するような高級に位置するところや能舞台、大徳寺や建仁寺等々古刹と並みの人間ならば息が止まりそうな現場の、最も気難しい人たちを彼らは「もてなす」。もちろんそのサービスには心の温かみを覚える気遣いや人格は存在しているのだろうが、どちらかといえば「あしらう」「手玉に取る」という、ライン作業のように機械的で正確な手さばきのほうが相応しいように思う。もちろんそれではならないのだと書かれてはいるものの、それをされて打ち寛げる人物やそれに得心して悦に入る人間を行間に想像することはそこそこ難しい。

 その感性の乏しさが「配膳さん」という仕事が継承されない理由ではなかろうかと自虐的になるのは、この本に対して間違った態度ではないと思う。大正生まれの吉崎潤治郎のいた平成三年から令和にかけて、「配膳さん」が役割として働く場はあまりにも少なく、独立した仕事はばらばらに解体されて時代に溶けているようだった。

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