えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・歳末が年初へかわる

2014年12月31日 | コラム
公団の通り道へ植えられたか細い紅梅に花が一つ二つ咲いていた。首を傾けて梅を見上げる目線をそのままに団地から地続きの緑地へ目をやると、渦を巻いて空から枯葉が降ってきた。多様に向きを変えつつくるくると回る幾つもの葉を、木々は落とし残しのないように振るい落とそうとしているように見えた。これから夜にかけての雨を支度するかのように薄く雲の幕を張って茫洋とした青空が二〇一四年の歳末の空だった。

明日になればひとめぐりした一月が呼びもしないの「やってくる」という感覚。十二月は過ぎるものではなく終わるもので、一月は呼ばれるものではなくやってくるもので、十二月を収めるように一月は白と赤の有無を言わせないめでたさという浮かれ気分を引っ提げて「明けまして」「おめでとうございます」という言葉を誰彼となく与えてゆく。過ごす一日の日付そのものに価値がつけられていることを、終わることと始まることが表裏一体尊いものであることを、「明ける」一年を拓く一月一日と「終わる」一年を閉じる十二月三十一日は頭の奥を揺さぶって感覚を起こしてくれる。

十二月が一年の終わりであることと、一月が一年の始まりであることは、この先もう少し考え方が「実情に際して」年度というもう一つの切り替わりと統合――今現在の四月が一月とされ、三月を十二月としようとしない限り、おかしなほど十二月は十二月、一月は一月の役割を持ち続けている。何かの組織に属しようが属しまいが、身辺は三月を区切りとし四月を始まりとして一年を仕組むようになってしまっている。仕事納めの日に仕事を来年に持ち越すというひとの心中、少なくとも仕事における年越しは三月三十一日であり年初めは四月一日なのだ。

それでも冬の只中に年を改める感覚は不思議と残っている。瀬や末という漢字が三月の明らかに温かい風よりもほんのわずか緩んだ冬の終わりの始まりの、冴えた風が似合う気がする。買い続けて読み終えられなかった本達からの圧力と掃除の忙しさから逃げ出して飛び込んだ駅前の喫茶店でこれを書きなぐる姿のみっともなさも、冬ならばまだ背筋がしゃんとしているようで恰好がつくように思うのだ。

――
二〇一四年はあと数時間。
本年は「定期的に書く」ことを課しなんとか書き続けることの出来た一年でした。
いつも拙文を読んでいただいている方、そうでない方、一年ありがとうございました。
来年もまた少しずつかたちを変えながら良い年といえるものになる日々を作ることができますように。
それでは皆様、「よいお年を」。
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