「木下黄太のブログ」 ジャーナリストで著述家、木下黄太のブログ。

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続報「1号機の原子炉格納容器の放射能急上昇について」

2011-04-08 21:36:17 | 福島第一原発と放射能

吉岡先生と話しましたが、格納容器が破損していて、窒素を注入して、圧力が高まったことがおきている事象とすると、もちろん圧力を高めないと格納容器の損傷はさらに進む可能性がありますから、やむをえない措置ではあるものの、元々容器が一部壊れているのだから、放射能が三十シーベルトから100シーベルトに上がるのはある程度想定内の上昇と吉岡先生は見立てているそうです。割れているところで、圧力が高まって、放射能が漏れるのは必然。むしろ、こもったら、さらに危なくなるだけだと。専門家からすれば想定内の危険の話と言うことです。高濃度の放射能が窒素注入で出るのも当たり前。ただ、その現実を、東電が格納容器の破損をどう説明するのかが微妙な中で、説明の言い方がおかしくなるのではないかというのが吉岡先生の解釈。計測器の故障と言う東電の説明をどう考えるのかということでしょう。とりあえず、報告しておきます。

 


1号機の原子炉格納容器の放射能急上昇について

2011-04-08 20:07:49 | 福島第一原発と放射能

今朝の段階で、100シーベルトになっています。前日の三倍で急上昇です。窒素注入による影響にしても本当に急上昇で、前日の三倍くらいです。僕の友人の技術者は、「ちょっと高いなあ。でも、高い理由がよくわからない」注入は一昨日の夜からですから、きのう急上昇せずに、本日の測定であがっている理由がわかりません。東電は計測器の故障と推測しています。本当にそうなら、ほっとしますが。もし、この数値の急上昇が正しければ、想定よりも核分裂が進んでいることかもしれません。いずれにしても、警戒を続ける必要があるとは思います。続報があれば、さらに更新します。


地震発生当時、福島第一原発にいた作業員の告白

2011-04-08 00:18:47 | 福島第一原発と放射能

 避難をするかどうかの目安を考えるときに年間20ミリシーベルトを超えないという話を原子力安全委員会が示し始めました。ICRPの緊急時の基準に基づくものですが、まあ長期化することを前提にしたプランが始まったと思います。モニタリングポストの外部線量だけで、年間の被曝線量を累積だけで考えてみましょう(内部被爆も考慮に入れず計算だけです)。20ミリシーベルト=2万マイクロシーベルト。これを365日で割り、さらに24時間で割ると時間ごとの外部線量がいくらかという概数が出ます。毎時2.28マイクロシーベルトと簡単な計算で出ます。外部被ばくという概念のみでの、単純計算で考えると、このマイクロシーベルトがモニタリングポストで出ているところは、避難検討をすぐに始めなければならないかもしれません。さらに、内部被爆を(今回は放射性物質の降下が一番の問題になっているのですから、放射線よりも重要であると考えますが)換算に入れると、数値はもっとシビアになります。僕の何回か使っている推計式で考えます。外部被ばくが建物の外にいる時間を一日八時間程度と考えます。この八時間の外部被ばくの四倍程度を一日の内部被爆と考えます(もちろん全部仮定です)。そうすると一時間あたりモニタリングポストに1.37マイクロシーベルトの値が出た場合、この線量が継続して出続けていると、年間のすべての被曝線量は20ミリシーベルトを超える可能性があります。こんな地域は福島県内にいったい何箇所あるのでしょうか?線量はもちろん、家数軒違いとかの距離や地形などでも、大きく異なってくるものですから、一概には言えませんが、こういう感覚で言うと、福島市や郡山市ではいまだに毎時2マイクロをこえていますし、飯館村は当然、さらに高いです。避難ということ自体は実際はいろいろ難しいものなのですが、政府側が今、口にしている数字を確認するたびに、逆になぜ早期に避難指示をさせていないのか、やはり不思議に思います。避難と言うのは原発事故発生当時にはやく決断しておくと、まず早期が最も線量が高くなるのは常識で、避難も早ければ早いほど、意味も大きくなります。まあ、とにかく目安を出してきたのですから、その目安を正当に使って、的確な避難を広げることを期待はしておきます。

原発避難地域の見直し本格検討 放射線量の新基準設定へ(朝日新聞) - goo ニュース

 先ほど地震発生当時、福島第一原発で働いていて、現在県内に避難している作業員の方と電話でお話をしました。この方は、地震発生当時は五号機のタービン建屋で作業をされていたそうです。

 私は1F(福島第一原発)にいて働いていました。BⅡ区域とよばれるエリアで線量的には中間くらいで作業は危険も有るのですが、放射能関連としては強い線量を浴びるところではありませんよ。仕事は去年から今年の三月までだったのですが、以前も柏崎や東海村で派遣として働いていたんです。ケーブル引きや足場組み立てなどね。作業は三号機から六号機、さらに一号機と移り変わっていき、直近は五号機での作業だったんです。どの号機でも、それぞれの建屋のなかで実は同じような場所で、同じような作業をしていましたよ。順繰りに同じことをするんです。地震発生当時、元々ある戻しの作業をしていたところ、看板が大きくゆれ始めました。「そうだ、地震だ」と声が飛び交います。ゴゴーっというものすごい地鳴りがしたんですよ、びっくりしました。そして、次の瞬間の激しい揺れ。「これは、大きいぞ」みんなで喋り始め、現場監督が「足場から降りて降りて」と怒声が飛び交います。あわてて降りると、みな不安げです。一回目の大きい時は電気が消えなかったのですが、二回目の時にはトーンと。電気が消えて、いきなり非常ベルが鳴り響きます。照明はほとんど消えても、ただ、最低限の非常灯だけは点いていたので、なんとかまわりは見える状態。揺れは長く続きました。「建屋が壊れるかな。この建物が壊れると俺も終わりかなあ」と思いながら、揺れが収まるのを待ち続けます。そして、揺れがおさまります。「助かってよかった」とほっとしながらいると、「至急退避してください、退避してください」という緊急放送が流れてきます。とにかく出ましょう出ましょう。地下からあがってきたところで、出口にでました。原発の中で、出口のところは、くつとヘルメットでぐちゃぐちゃ。みんな脱ぎっぱなしで慌てて出て行った感じでした。ロッカーのあたりも、散乱していて、本当にぐちゃぐちゃ。でもとにかく退避しないといけないと思って急ぎました。退避するまでは津波がこなかったし、僕は今回の肝心要の津波と言うのが、よくわかっていないんですよ。とにかく、外に出て退避です。原子力発電所は、敷地内に高台があるんです。原子力発電所はどこも海に近いから、必ず高台があるのでしょうかね。まあ、そこに退避した訳です。とにかく、俺らの作業員グループのメンバーは全員いました。みんな無事だねと言いながら、様子を伺っていました。しばらく落ち着いてくると、東芝の現場の監督が「とりあえず事務所に帰っていい」と言われました。事務所は近いんですが、原発の敷地の外にあるので、みなで事務所まで歩いていきました。いつもいる所長が対応のためでしょうか、事務所にはいなくて、指示があったのは「きょうは帰っていいよ、連絡は後でする」とのことでした。とりあえず寮に戻ったんですが、不安なこともあり、近くの中学校が避難所になっていたので、そこまで行って自分は避難していました。一日いて、荷物も気になったので、寮に戻ったんですよ。そしたら、もう寮にはほとんど人がいない。四人しか人がいないんですよ。そしたら今度は「避難退避放送」。発電所で異変がおきたようなんです。寮は直線では五キロくらい離れているので、何が起きているかはよくわからない。電気もとまっていますから、情報もはいらない。私は東北だけど、全く別のところの出身で、福島のこのあたりに土地勘がまるでないんですよ。どっちにいげばいいのか全くわからない。でも車は持っていたから、車で逃げようとしたんです。まあ、もともとこの車がエンジンのかかりにくい車で、逃げようとしてエンジンをかけても全くかからない。何回試してもダメなんですよ。しょうがないからもう一度部屋に戻りました。まだ荷物があったんでその整理を続けたり。人間て、不思議なものですね。追い詰められている時の行動は。そうしている内に、車のとおりもどんどん減ってくるんです。「異変が起きている」判らないけどそう思いましたよ。駅までそのあと行きましたが、何にもなくて人もいなくて、しょうがないから戻ってきて寮にいました。車のエンジンは相変わらずかかりませんでした。びっくりされるかもしれませんが、今月二日まで、先週まで寮かその近くにいたんですよ。富岡町のあたりです。携帯は充電が切れてつながらない、電気はきていませんでした。寮にあった食料は少なくて、カップラーメン六個とお菓子が三袋くらいしかめぼしいものがない。ラーメンは二日に一個位でなんとか飢えを凌いでいました。でも、二週間くらいしかもたないなあと青ざめましたよ。発電所までは直線で5、6キロ。道路が曲がりくねって行かないとダメなので、歩いていくと時間がかかります。それに、爆発の時の凄い音だけは聞こえていましたから、「とんでもないことが起きているから、戻るわけにはいかない」とだけは強く思いましたよ。ワンセグで情報が取れたのは初日だけ。電源が無かったんです。車のバッテリーもかかんないしね。後は、毎日寮から出て、散歩です。遠くには行けないですよ。お腹がすいている。時々、どういう車かわからないけど、車が通るんですよ。関係車両か逃げる車両か。とにかく、手をあげてとまってくれと、ジェスチャーし続けましたよ。でも、止まってくれない。本当に止まってくれない。何日たってもどの車も止まらないで駆け抜けていくんです。何の悪夢かと思いましたよ。「車は止まらないものだ」と完全に思いました。このままいけば終わりかなと、先週土曜日も散歩したんです。散歩というと語弊があるけど。生きるためのトライアル。そうしたら、自販機があって、ここには電気がきていたんです。しめたと思いましたよ。とにかく充電。携帯を充電して、ようやくワンセグが見られたんです。そこで、1F(福島第一原発)の本当の状況がはじめてわかりました。あの音だから、何が起きたんだろうとはおもっていましたが、二週間以上過ぎてから、こんな事だったのだなと、はじめてわかりました。でも、わかってよかった気がしたんです。よいことは重なるものです。そのうちに、私を見つけてある車が止まってくれました。同じ日です。車も止まるものなんですね。おかげで、避難することができて、乗せてくれた方にはほんとに感謝していますよ。

 私がしていた仕事は安全度は高くないんですよ。ただし線量は高いレベルでないです。APDで計っていて、帰りがけに測定値が毎日何マイクロシーベルトってでるんですよ。ほとんど出ないレベルですよ。「ああ、きょうは低かったな」とか「珍しくそこそこでている」とか。でも、こんな事故まで、おきるとは夢にも思わなかった。地震のときは建屋が壊れたらおしまいとおびえたけど、まさか地震でくずれなかった建屋があんなことになるなんて。あんだけの事故がおきるとは思わなかった。地震も津波も、もちろん天災なんですけど、原発は人が建てたものですから、その意味では人災にあてはまるのではと思うんです。俺には人災と思えますよ。原発の仕事これからやるかって?もうやらない。今まで何箇所かやってきたけど、もうやらない。こういう事態になればまた一緒でしょ。違う仕事を探したいですよ。今まで、地元で職がなくて、原発関連は確実に仕事があるのでやってきたこともあるけど、もう職を変えなければどうにもならない。今の時点でF1で仕事をしているのは大変だとは思いますよ。僕らとは別系統の人達だから、飯も僕らは事務所で食べるし、他のグループの人達と接触も無いけど。まあ、どっちにしても後手後手に回っていると思いますよね。一つ何かがわかれば、また一つ出てくるでしょう。早く判って対応すれば早く収束できるのに。原発が終われば早く仕事ができるのにと思いますよ。

こういうギリギリの状態の方が、原発周りにいた事をダイレクトに伺うと今回の事故というものの実相がさらにみえてきた感覚も強くあります。とにかく、僕らが待ち望む収束がいつになるかは、まるで見えていない中で、僕には祈るほかはありません。

 さらに、先ほどの地震の強い余震がどう影響するかも心配です。さらなるダメージが無いか心配です。女川原発の外部電源が三系統のうち二系統が使えなくなっていて、残る一系統で冷やしているそうです。六ヶ所村の再処理施設もディーゼル発電になっているようです。これも、大丈夫でしょうか?

福島第一原発のある双葉町は震度5弱(読売新聞) - goo ニュース