那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

蜂の巣の子供たち

2011年11月05日 | 書評、映像批評
『蜂の巣の子供たち』(清水宏、1948年、白黒)


{あらすじ}

戦後まもない下関駅。復員兵の青年が駅に降り立つと、何人かの戦災孤児がやってくる。食べ物をやると、片足の男(孤児たちの親分)に取り上げられる。
 また、故郷が戦災に会い、帰るところのなくなった女性もここで思案にふけっている。
復員兵と、片足の男と、孤児たちは、トラックに載せてもらって旅をする。
 途中で子供たちは片足の男から逃げて、復員兵と一緒に行動し始める。彼らは塩田に行って働く。
働いて食べる食事は美味しいと、と復員兵は子供たちに教える。
 一番小さい子供のヨシ坊は、たまたまめぐり合った、帰るところのなくなった女性と一緒に、彼女の親戚のある島に渡る。
 いつまでも、親戚の家にいるわけにもいかず、女性とヨシ坊は島を去り、たまたま復員兵たちと出会う。復員兵はヨシ坊を引き取り、一緒に四国に渡って、森林伐採の仕事に就く。
 ヨシ坊は大病に罹る。彼はサイパンから離れるときに、母親を海で亡くした経験がある。それで、海を見たら病気が治るので、山の頂上まで負ぶってくれ、と仲間の孤児に頼む。孤児はヨシ坊のための牛乳を一杯をもらうことを交換条件に、その仕事を引き受ける。
 傾斜の急な山を孤児は必死にヨシ坊を背負って登る。とうとう海の見える頂上につくが、そのときヨシ坊は死んでしまっていた。子供たちと復員兵はヨシ坊を海の見える山の頂上に埋めて、四国を去る。
 神戸に渡ると、孤児たちを仕切っていた片足の男が、故郷を失った例の女性に売春婦の仕事をさせようとしていた。復員兵は片足の男を殴りつける。
 復員兵は自分の育った感化院に、孤児たち、片足の男、女性を連れて行く。感化院の教師と子供たちは、彼らを大歓迎して迎える。


{批評}

ストーリーの主な部分は上記した通りだが、清水監督の真骨頂は、全編オールロケーションで、室内場面がほとんどない風景の中、子供たちが実に自然な演技を繰り広げることだ。
 この映画も戦後間もない都会の焼け跡や、塩田、森林などを「実写精神」で、堂々と明るく描いている。
ストーリーを追いかける、のではなく、その場その場のシーンのリアルな空気を吸う楽しさ、これが清水映画の本当の味わい方だろう。
 戦後、世界の映画界に強烈な影響を与えたものに「ネオリアリズム」がある。この作風は高名な映画批評家のアンドレ・バザンにより、「中心のない構図」あるいは「映画よりも現実を信じる」というキャッチフレーズで有名になった。しかし、私はネオリアリズムの作品を見るたびに、キャッチフレーズの割には、構図は綺麗で人物中心だし、物語主義で、ハリウッド映画と大差ないのが不満だった。
 むしろ清水宏のこの映画こそネオリアリズムの精神にふさわしいと思う。自然の中の点景として人物が置かれ、子供たちや登場人物は、ほとんど「棒読み」のような台詞回しだが、それがまさにリアリズムを生み出している。
 特に見せ場は、孤児の一人が、ヨシ坊を背負って山の頂上に上る場面。ほとんど省略せずに、延々とよじ登る。その様子を、隣の山にカメラを置いて望遠で撮影する。力技の、胸に迫る演出である。また、ヨシ坊が死んだのを復員兵に知らせるために孤児が山を駆け下りるシーンは、ワンショットで捉える。このカメラワークのこだわりによって、山の空間性が体感できる。
 この映画は、イタリアのネオリアリズムが生まれる前に作られたが、ネオリアリズムの美点の全てを備え、さらにそれを超えていると私は断言する。

 ちなみに、文献を読むと、この映画に出てくる8人の孤児たちは「本当の孤児」で、さらに、清水宏は彼らを自分の家で育てていたのである。そういえば、この映画の冒頭に「この子たちに見覚えはありませんか」というタイトルが現れる。だから、この映画は、戦災孤児の里親や親戚を探すための映画でもあるわけだ。
 こうなると、もうこの作品はフィクションとは言いがたい。ネオリアリズムを超えている、というのは演出や撮影だけのことでなく、その背景にある事実性においても言えるわけである。
 この逸話、清水監督の人間性を良く表している・・・・・・・・・といっても、彼が素晴らしい人間であった、というわけでもない。文献を読むと、彼は自信過剰で小心で、ホラ吹きで、あまり評判のいい人物ではなかったようだ。一例を挙げれば、小津安二郎が癌で「イタイイタイ」と苦しみながら死に、清水宏がポックリ往生を遂げたのを知った映画関係者の一人は「これだから神も仏もない」と嘆いたそうだ。それぐらい、あくの強い、一筋縄ではいかない人物であったようである。そのような人徳の欠如が、彼の作品がそのレベルの高さの割りに、これまで評価が低かった原因の一部でもあることは確かである。
 いずれにせよ清水宏の映画は冴えている。こんなすごい監督が、世界的に知られていないというのは、日本文化にとってもったいない。是非、海外で回顧上映し、日本映画の底の厚さを知らしめたいものだ。



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