那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

日蓮聖人の和歌

2013年03月06日 | 芸術・表現
腱鞘炎でパソコンはなるべくやらないようにと言われているので簡単に。
以下は日蓮の歌。


おのづから
よこしまに降る
雨はあらじ
風こそ夜の
窓をうつらめ

ちりしはな
をちしこのみも
さきむすぶ
いかにこ人の
返らざるらむ
 
こぞもうく
ことしもつらき
月日かな
おもひはいつも
はれぬものゆへ


なにか適当な解説があれば貼り付けてお仕舞いにしようと思ったが、創価学会のものしか出て来ず、仕方が無いので解説する。解説する、と言ってもこれらの歌が出来た背景や遺文集は一切無視して、素朴な感想文に留める。

日蓮の和歌は非常に少ない。私の知っている限りはこの3首のみで、簡単に検索した結果でも他には出てこなかった。その理由を少し考えてみたい。

一番上の歌は、所謂「道歌」と呼ばれるもの。本覚思想(凡夫即仏)に基づいている。直訳すると、「雨は放っておけば真っ直ぐ降るものです。風のために雨が斜めに降って夜の窓を打つのです」となり、意訳すれば、人間は本来仏ですが、悪い縁に触れて心が曲がってしまうのでしょう(それを法華経の力でいい縁に変えましょう)というところだろう。     依正不ニ、つまり主体とそれを取り巻く環境は切っても切れない、という考え方にも基づいている。ここを突き詰めていくと一念三千論に至る。

その下の二つは、多分、夫か子供を無くした女性信徒の感情を酌みながら自分の心情を重ねたものだったように思う。二首とも非常に悲しい歌で無常観に溢れている。現代語に訳するまでもない、文字通りの歌だ。


最初の歌には技巧が少し見えるが、3首ともごく真面目な歌で、「日蓮文学」と言われるほど文学的素養も教養もあった日蓮にしては全く意外な感がする。当然日蓮は膨大な和歌を知っているので、もっと多数の多彩な歌が詠めるはずだが、まるで歌には興味がないかのようだ。
 これは想像に過ぎないが日蓮の場合は朝から晩まで読経、説法、書簡に費やす生活だったために、敢えて和歌に思いを込める意義が無かったのかもしれない。
 一見して、推敲を重ねず一気に読んだ歌だと感じる。

かなり前に、書体から人物の性格を読む書道家がテレビに出て、日蓮の書の筆使いを実際に真似て写しながら「情の人」と断定したのを覚えている。実際の日蓮は遺文を読めば分かるように学僧としても天才的(というか天才そのもの)で、兄弟子さえ自分の信徒にするほどの人物だった。同時に単なる学者と異なり、利他(人の幸せを願う菩薩の精神)の側面が非常に強く、知性、喜怒哀楽、大胆さと精妙さ、あらゆる面で桁違いの人物だった。

日蓮聖人の和歌をとりあえず「芸術・表現」のジャンルに入れたが、R・ブレッソンの映画を単なる技術論やテマティック批評で読んでも意味が無いように、日蓮の歌には全く別の入社角度が必要になるだろう。

夜中を過ぎたのでこれで失礼します。




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