那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

芸術と批評を巡って:俳句少年の思い出

2012年12月07日 | 芸術・表現

以下は9年ほど前(平成3年)に作っていたHP「那田尚史の部屋」に投稿したものだ。個人名など出てくるのでそういうところは削除して、ここに書き残しておくことにする。
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私が俳句に熱中し、そして辞めたいきさつについて語ってみる。

私は愛媛に生まれた。父親が大好きで、いつも夜は父と添い寝した。蒲団の中でいろんなおしゃべりをしたものだが、短歌や俳句の作り方も、父の寝物語に聞いて習った。
 中学は創立されたばかりの東京の中学に入った。地方からの出身者が大半を占めていたので、寮が完備していた。生徒の7割以上が寮生だったと思う。
 それで、寮のイベントとして「寮内俳句大会」が月に一度あった。
私は父から俳句のイロハを習っていたし、中村憲吉の書いた「現代俳句」という文庫本をボロボロになるまで読んで、名句といわれるものはほとんど覚えていた。
 寮内俳句大会は数百人の寮生が俳句を出し、天賞、地賞、人賞の三賞が発表されるというものだったが、私は毎回のように入賞していた。
 
ある日、創立者と中高の代表者50名が「句会」をする催しがあった。私はその一人に選ばれた。
 そのときに詠んだ俳句は、表紙が布地の美しい一冊の本になって出版された。
そこに載せてある私の俳句は次の二句である。

  片隅に浜木綿枯れし無人駅

  寒椿蕾に紅の冬やさし


中学1,2年生の読んだ俳句としては、マアマアだが、今見れば、最初の句は「付き過ぎ」ている。
「片隅」「枯れし」「無人駅」と、全て寂しい風景が畳み込まれ、寂しさの強調になってはいるが、奥行きがなくて心象風景が平板すぎる。
 二つ目の句は、あえて「二重季語」(寒椿と冬)を読み込んだのだが、全て言い終えてしまい、説明的だ。どうも頭で考えすぎた句であり、やはり当時から私は批評者には向いているが、創作者としては大したことはない。

ところで、同級生のFという男が次のような俳句を詠んだ。

  カンナ見に寄るガラス戸の暖かさ

この句を読んで、私はぶっとんだ。なんて凄い俳句なんだ、と思った。
 作者はカンナを見にガラス戸に顔を近づけている。「カンナ見に寄る」という非凡な歌い出しに、女性的な妖しい色気があり、まるで映画の一場面のようだ。初夏の熱い空気がガラス戸を通して緩和され鼻を撫でる。目に見えるのは南米原産の強烈な色彩を持つカンナの花。視覚と皮膚感覚が手を携えて襲ってくる。庭のカンナとガラス戸のある家、という設定も美しい。また、作者はカンナだけを見ているのではない。ガラス戸に写った自分の顔も同時に見ているのだ。この俳句に漂うのは、少年のナルシシズムの匂いである。この感覚が素晴らしくいい。確かに、夏の季語「カンナ」を使いながら、「暖かさ」という中途半端な感覚で締めるのは、普通に考えると間抜けである。しかし、この「暖かさ」は気温の実感であるよりも、カンナと自分の顔が二重写しになった場面を目にした心の状態を示している。カンナを見ている自分自身への絶対的な信頼から生まれた「暖かさ」なのである。

実はこのFという男は、飛びぬけた美少年だった。彼には二人の取り巻きがいた。一人はゴリラのような大男、もう一人はカッパのような顔をした痩せ男である。男子校は同性愛の生まれる世界であり、Fは喧嘩が強いわけでもなく、頭がいいわけでもなかったが、非常な美少年であるために、いわばスター的な存在となって、常にこの二人の取り巻きをボディガードのように連れて歩いていた。この美少年がこんな傑作を作ったわけである。
 私はつくづく、人間の才能というものには勝てないと悟った。こういう俳句は、自分の美しさと美意識に酔っている人間でないと作れない。ナルシストであるがゆえに作れる堂々とした美の世界である。私のように、神経質で、自己呵責が強い人間には逆立ちしても作れない。

このFの俳句を目にして以来、私はキッパリと俳句を作るのをやめたわけである。

Fという男は神戸出身で、母親がスナックを経営してた。いかにもお水の家に育ったらしい小生意気でツンとした、しかし不幸の影の漂う、女よりも綺麗な男だった。
 どんな中年になっていることだろう。少し、気にかかる。

追記:このエッセイを読まれた読者の方が、ある掲示板に次のような感想を載せてくれた。ありがたいのでここに転載させていただく。さすが現役の俳人だけあって適切な言葉に満ちている。
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俳句雑感

那田さんの「私と俳句」、拝読いたしました。

那田さんが、早熟な「俳句少年」であり、その手だれぶりと、
異常に鋭い感受性をお持ちだったことに驚嘆と感銘を覚えました。
愛媛(松山)には、那田さんのお父様のような方がたくさんおられ、
幼少時から師弟に俳句の語法やつぼを教える環境があるので、
たくさんの優秀な俳人が育つのかも知れんなあ、
と改めて「芸術と風土性」についても考えさせられました。

エッセイの中で、最も感銘したのは、
那田さんのF少年の作った

  カンナ見に寄るガラス戸の暖かさ

という句についての受け止め方です。
私も多少俳句をやるので、わかるのですが、
本当の意味で「選」または「鑑賞」が出来る人は、
いい俳句が作れる人同様、とてもまれだと思います。

中学生の那田さんが、この句を読んで

>この句を読んで、私はぶっとんだ。なんて凄い俳句なんだ、と思った。
>作者はカンナを見にガラス戸に顔を近づけている
>初夏の熱い空気がガラス戸を通して緩和され鼻を撫でる。
>目に見えるのは南米原産の強烈な色彩を持つカンナの花。
>視覚と皮膚感覚が手を携えて襲ってくる。
>庭のカンナとガラス戸のある家、という設定も美しい。
>また、作者はカンナだけを見ているのではない。
>ガラス戸に写った自分の顔も同時に見ているのだ。
>この俳句に漂うのは、少年のナルシシズムの匂いである。
>この感覚が素晴らしくいい。確かに、夏の季語「カンナ」を使いながら、
>「暖かさ」という中途半端な感覚で締めるのは、普通に考えると間抜けである。
>しかし、この「暖かさ」は気温の実感であるよりも、
>カンナと自分の顔が二重写しになった場面を目にした心の状態を示している。
>カンナを見ている自分自身への絶対的な信頼から生まれた「暖かさ」なのである。

と感じた感受性は尋常なものではないと思います。
まあ、ちょっと素晴らしい鑑賞文に水をさすようで
申し訳ないのですが、いちおう「カンナ」は秋の季語になっているので、
僕が思うに、F少年は「秋冷のなかに咲くカンナ」を詠ったのかも知れず、
そうすると「温かさ」という結句は、わりと素直な収め方になり、
那田さんご指摘の何かとても隠微なナルシシズム感が薄らぐように思いますが、
那田さんの「誤読」にせよ、絶世の美少年の「季語の無視」にせよ、
中学生の句会を通じて、そのような濃密で奥深い
文学的な場面が生じていたことは、とても驚きです。

しかも那田さんは、この俳句を読み、
自己の文学的才能を見限り、「筆を折る」という自己認識がすごい。

>私はつくづく、人間の才能というものには勝てないと悟った。
>こういう俳句は、自分の美しさと美意識に酔っている人間でないと作れない。
>ナルシストであるがゆえに作れる堂々とした美の世界である。
>私のように、神経質で、自己呵責が強い人間には逆立ちしても作れない。

は、世界の中での自分の位置付けや役割を、怜悧に見つめる
客観性(批評性)がないと、とても吐けない言葉で、
ゴミのような駄作を性懲りもなく撒き散らしている
僕のようなおめでたいおじさん趣味俳人とは
最初からとてもレベルが違うなあ、と恥ずかしくなった次第。
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この友人は後日、私が最初の見性体験をしたときにも遠くから駆けつけてくれた。京都から来た操体の施術者を含めて6人が八王子の我が家に集まった。その様子は当時中学生の娘がビデオ撮影して今でもどこかに残っているはずだ。禅や唯識論のレジュメを配って理論的な説明をした後、取り合えず数息観を試してみたが、娘が簡単に数息観を突破したのには驚いた。

なお、季語の問題に関しての私の勘違いは、私は愛媛で育ったため、カンナは真夏に咲いて初秋まで真っ赤やオレンジ色の強烈な色彩を残す「美人の寿命の長い花」という印象があったためである。今調べたら

「カンナ(かんな)《季 秋》
カンナ[(ラテン) Canna]カンナ科の多年草。観賞用として栽培される。茎は肥厚した根茎から出て、高さ約1.5メートル、バショウにやや似た葉を数個つける。夏から秋にかけ花茎を出し、大きな花を次々と開く。花の色は鮮やかな赤・黄・絞りなどで、品種が多い。(三省堂「大辞林 第二版」より)」

とあり、実際真夏の似合う花なのだが、季語は独特の文化的背景があるので、私もFもそういうことを無視していたのだろう。

それにしても感動するのは、こういう雅で知的なヤリトリを普通にしていた9年前の精神的風土である。あの頃は私も元気一杯だったので様々な面で活発に活動していたから、こういう芸術好きな人からカルトストーカーまでがHPに集まって大賑わいだった。ゆとり教育だの愚民化政策を受けなかった世代ならではの濃密な交流である(ストーカーは別ですよw)。

尚、後日、不思議なきっかけで五行歌の会を主催する草壁先生と出会い、私は現在八王子五行歌会の代表を務めている。俳句はやめたが5行自由律の歌を今も詠んでいるわけだ。五行歌は芸術であると同時にアンチ芸術的な側面もあり、自由なところがいい。興味のあるかたは左下のブックマークから入って、是非「八王子五行歌会」の掲示板に投稿してください。私の歌は大抵ヘトヘトになって作っているので下手ですが常連の方の作品は素晴らしいです。
 それにしても、雀百まで踊り忘れず、というのは本当だなぁ、と思う昨今です。