徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

走れ、熱いなら/「デビッド100コラム」

2011-03-21 12:58:14 | Osamu Hashimoto
<時は、『おしん』が流行していた頃である。私は、あれが当たるのは当たり前だと思っていた。昔の日本人は貧乏だったし辛かったし、そのことをくぐり抜けて来た大多数の日本人は、そのことを今現在役に立たせることが出来にくくなっている。だから、それを公然と表明してくれる人間がいたら、熱烈なる親近感を抱くこと当たり前なのである。「何故今『おしん』が?」などという発想は、カマトトのジャーナリストしかしないのである。日本人はみんな、圧倒的に“原日本人”なのである。
 というようなことを、私は当時コメントしたのである。
 と同時に、次のようなことも言ったのである――。
 どうして『おしん』の男版て、誰もやらないんだろう? 絶対受けるに決まってるのに。絶対、そっちのが面白いのに決まってるのに、と。
 それは、こんな物語である――。
 時は昭和二十年。戦争が終わり、焼け野原と化した東京には、実に多くの浮浪児がいた。(中略)だからしてヒーローは子供である、大人にこの時代を演じさせると、妙にイデオロギッシュになって、話が暗くなる。七歳になる、目許だけは妙に澄んだ意志的な男の子がダブダブのチェックの吊りズボンとハンチングをかぶって、咥え煙草で焼け跡を跳びはねるのである。最も健康的なアナーキズムは、こんなにもショッキングな形で飛び出して来るのである。
 勿論“子供の咥え煙草”は大論争をまきおこすであろう。が、しかし、そんなものは、「あの当時、そういう子は一杯いた」という別の“国民”が肩代わりしてくれる。新聞のテレビ欄の片隅で、国民同士がそういう論争をしている暇に、主人公は既にもう煙草を吸わなくなっているという、よくあるドラマの進展を見ればよいのである。即ち仲間と焼け跡をほっつき歩いていたケン太は、ある晩、ギャング団同士の抗争に巻き込まれて負傷した“特攻くずれ”の成年・木島とめぐり合ってしまえばよいのである。
 二十歳を過ぎたばかりのクセにニヒルになってしまった元大学生と、焼け跡の孤児は、“奇妙な友情”を育てて行って、育てながら物語は、一種血腥い昭和史のエピソードを縦横無尽に綴って行くのである。>
(橋本治『デビッド100コラム』冬樹社1985/「走れ熱いなら」より)

デビッド100コラム

登録情報
単行本:299ページ
出版社:冬樹社 (1985/06)
ASIN:B000J6SM82
発売日:1985/06

デビッド100(ヒャッ)コラム (河出文庫)
<有頂天の都会派コラム全盛の現代に橋本治が投げかけた“純粋色物宣言”。200本のタイトルから100本を選び出し、一気呵成に書き下ろしたコラム100篇。―スーパーのチラシやオムレツの中味についての意想外の指摘から、村上春樹、小林秀雄についての批判的短文、さらには「オレたちひょうきん族」がイスラム圏でうけるかどうか、まで、コラムの常識を破った最初で最後の痛快。>

登録情報
文庫:303ページ
出版社:河出書房新社 (1991/03)
ISBN-10:4309403034
ISBN-13:978-4309403038
発売日:1991/03
商品の寸法:14.6x10.8x1.4cm