カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 四旬節第五主日

2011年04月07日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「自分の愛情の動きを警戒しなさい。ほとんどの人は自分の好みで愛し、理性と神様の望みに従ってはいないのです。何かの善業の機会があれば、すみやかに広い心で行うように努めなさい。」
聖フランシスコ・サレジオ

満開になった桜、忙しい小鳥達、春がとっても身近に感じられます。復活祭の命を讃える祭日も、もう手が届くくらい間近かになりました。しかし冬は完全には立ちち去っていません。阿蘇の方ではまだ、雪の中で牛や馬が草を探し、飼い主達が置いてやった餌を食べています。
今週の日曜日が聖週間の直前の最後の日曜日となっています。洗礼を受ける人達の為に欠かせない課題に踏み入ることになりました。それはわたし達の命、復活であるイエス様のことを心で、体で、全ての思いでえらばれることです。信じるとは頭で決めることではなく、全身全霊で生きることです。イエス様ご自身がこの時の福音書の中で次のことを宣言してくださいます。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。命のこと、生きることは、わたし達にとって神様からの最高の賜物です。又人間にとって、生きることは神様との最も堅密な結びになっています。わたし達は神様の息吹で生きているではありませんか。だから人間にとって命とは、もっとも大切な宝物であるはずです。しかしわたし達の弱い手に置かれたこの偉大な宝物は、簡単に失いやすいものであり、いつも十分に評価されていないようです。実は人は大切なものに気付くこと、また宝物を手にもっていることはそれを失うと言う悲しい経験によって知ることが多いのです。
ヨハネによる福音11・1-45
イエス様は今日の福音書の中で命の尊さを教えてくださいます。ベタ二アのユダヤの町にイエス様の最も大事な友人がいました。それはマリアとマルタとラザロでした。 突然ラザロが亡くなって、イエス様がそれを知らされた時、珍しく、泣くほど大きな悲しみを感じられました。イエス様は人間であることによって、人間の苦しみに対して、人間の死に対しても心をかけておられ、深くその痛みを分ち合って自分の生涯全体で、自分の身に背負うようになさいました。 けれどもイエス様は神の子であり、神のいとしい命で生きるものでありながら、人間の苦しみ、人間の死、どんなに辛いことでも、神様と出会う場に変更されました。イエス様が使徒パウロの言葉を通して次ぎのことを教えてくださいました。「わたしと苦しんで死ぬ者はわたしと生きる、永遠に生きる」(パウロのローマ人への手紙6・5)。イエス様が、亡くなった親友ラザロの死を悲しんで、御父である神様に祈り、ラザロの命を取り戻しました。そのしるし(奇跡)によって、イエス様は自分を信じる人に、復活であり命であることを示されたのです。わたし達の生きた経験では、実際にどのようにイエス様が復活と命であることを理解できるのでしょうか。その答えは、キリスト者にとって信仰の核になっています。各々の苦しみの中で、わたし達はイエス様とひとつであることを信じて実感すれば、そして神様もわたし達と同じ苦しみを背負ってくださったのだと理解すれば、わたし達は決して寂しい一人ぼっちではないことを、神様がご自分の存在と命の尊さを通して教えてくださいます。イエス様がわたし達の希望と喜びの道であり、目標であると受け止め、わたし達は神様の愛に包まれて、神様と同じ命で生き、その中で永遠に生きることを知らされます。              モヨリ神父

※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用


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