カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 A年 年間第二十二主日

2011年08月25日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「この世において、忍耐は私たちの日常の糧でなければなりませんが、
特に自分自身に対して忍耐しなければなりません。」聖フランシスコ・サレシオ
昼間は残暑が厳しく、辺りはまだ夏のたたずまいのままですが、夜が次第に深くなると、どこからともなく忍びよる秋の気配がします。このような晩夏の夜の秋めいた気分を「夜の秋」と言います。ことに夏が厳しい菊池では、暑さからやっと解放された「夜の秋」にわが身を添わせておきたいひと時があります。秋の間近さを思わせる夏の言葉です。季節が変わると心の中に新たな夢と希望がわいてきます。それぞれの目標を目指して前へ目を向けましょう。そして、目標の方に目を向けた次に大事なことは、一緒に手をつないで皆でそこへ到着することです。いつでも手をつないで目標目指して歩みましょう。夏休みが終わります、それぞれの人生のすすみ具合を神様の希望にそって整えるようにしましょう。使徒パウロの「ローマの教会への手紙 12・1-2」に耳を傾けてみれば、聖パウロは、わずかな言葉で、大きな世界を目の前に開いてくださいます。神様をいつも大いに喜ばせたわたし達が、自らの生き方によっても神様を喜ばせることができます。まず自分の人生を神様に捧げ預けることです、そして神様の心に叶うように良いことを探し求めるなら、神様は大いに喜ばれます。神様の愛と憐みに包まれて、新しい心で自分の生き方を見直しましょう。この世に倣ってはいけません。聖パウロが言うように、一緒に完全な生き方を目指して、神様だけを喜ばせる生き方に倣いましょう。
マタイによる福音書 16・21-27
 フランシスコ・ザビエルがパリ大学で、社会的な考えからすれば偉くなるために勉強していた頃、他の同じ理想を持っている友達と付き合い、いくつかの思いを分かち合っていました。ある日のこと、今日の福音書の箇所に、その若者たちは心を打たれました。「わたしのために命を失うものは、それを得る。たとえ全世界を手に入れても・・・」当時の若者たち(イエズス会の初代の者達)が、このような言葉を聞いて受け入れたそのことが、その言葉の働きとイエス様のことを誰にでも知らせるような見事な結果になりました。さてイエス様が今日、わたし達にも教えてくださるのは人間による考え方ではなく、神様の考え方です。ペトロもこの時、神様によるのではなく自分らしい考えで、イエス様に十字架の道を退けるように勧めました。しかし、イエス様に厳しく戒められました。イエス様に従う者達は、一日でキリスト信者になるというわけではありません。むしろ毎日、イエス様の足跡を踏みながら、自分の十字架を負いながら少しずつイエス様と同じように生きるようになります。確かにそうすることによってイエス様と全く同じような行いをも成し遂げることができます。人間の大きな喜びを求める神様の思いは、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことです。このように思うことは、自分の命を捨てるように見えるのですが、しかし自分の日常の苦しみを受け入れ、それを通して神様とのつながりを深め、また隣人とのつながりを愛で満たすように考えることが出来れば、イエス様と一緒に復活の喜びを迎えることができます。このようにイエス様と一緒に復活した人間が自分の人生を得、大きな喜び、大きな報いを得ることができます。                  モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用   
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毎週の一言 A年 年間第二十一主日

2011年08月18日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛する皆様へ、
「真の愛は互いの精神的一致を求めます。
そこに至るには柔和と相手の考えを尊重することが一番です。」 聖フランシスコ・サレジオ

西日、西に傾く太陽のことですが、特に盛夏から晩夏にかけては強烈で印象深いので夏の季語とされています。西日が射す室内は耐え難い暑さです。熊本のように暑さの厳しい地の西日は又格別です。西日はその暑気に加えて光線が強烈なことが特徴です。さて、イエス様の言葉の意味を、毎週この解説の言葉の中に探し求める人々にとって、どうして今日の解説がこの季語で始まっているかと考えをめぐらしたかもしれません。実はイエス様の言葉は強烈な日差しのように、私たちの日常生活の中に、時によって厳しく入り込んで、私達の人生を全て照らしてくださいます。そのように照らされた私達の心は新しい、素晴らしいことをたくさん見出すことができます。パウロの文章【使徒パウロのローマの信徒への手紙 11・33-36】を読んでみると、これは理性で書いたものとは違って、感情で書いた文章だとみられています。パウロは珍しく同じように3回繰り返して自分の思いを述べています。パウロはイエス様の定め、イエス様の知恵に捕らわれ感動しました。それに従ってイエス様の心を知り、イエス様の相談相手になり、イエス様の報いを受けるだけのために生き、そして人生の中で、それだけを頼るべきだと宣言します。私たちは神様から出るもの、私たちは神様に保護されるもの、神様に向かって生きるものですから、大いに喜ぶべきでそのためだけに生きるはずなのです。パウロは、強く強くその真実を述べ伝え続けています。
マタイによる福音書 16・13-20
 今日もイエス様が弟子たちにも私たちにも質問してくださいます。「あなた方は私が何ものだというのか」その答えによって、様々に生き方は大いに異なって、または変化します。殉教者たちの答えは、イエス様は自分の命、自分の血であるということでした。修道者たちも、上記の質問には全てを捨ててイエス様を第一の宝とすることで答えました。信徒の皆さんも社会的な恥より、社会的な利益よりもイエス様を一番素晴らしい理想にして、一番欠かせない友人としてイエス様だけに従う者になりました。このような答えが自分の参考になりませんか。では使徒ペトロの答えを分析してみましょう。まず、ペトロの答えは自分の才能から発生した答えではなく、聖霊の知恵と力からでた答えです。同時にペトロは、時代を渡ってイエス様に従ったものたちの代表になりました。ペトロの答えによって、イエス様がペトロの名前を変えペトロの運命をも変え、自分の教会の土台に任命されました。二千年以上のキリスト教の歴史の中で、聖ペトロと聖パウロに設立されたローマにある教会は、キリスト教の中心でありイエス様の言葉通りにキリスト教の土台であり、全世界の信徒を指導し、イエス様の教えをと戒めを正しく勧める権利を持ってずっと守って来ました。最後に、イエス様は自分がメシアであることを言い広めないようにと弟子たちに頼んでいます。それはメシアは宣伝する対象ではなく、一人ひとりの心の内からの答えだけを望んでおられるからなのです。
                                          モヨリ神父

※「新くまもと歳時紀 編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用

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毎週の一言 A年 年間第二十主日

2011年08月11日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛する皆様へ、
「永遠のものにあこがれているのに、心はなぜこの世の富に重きをおくのでしょうか。」
聖フランシスコ・サレジオ

墓参りは年末年始、春秋彼岸、故人の忌日などにおこなわれますが、季題としては盂蘭盆会を中心とした墓参が秋季として定着しています。墓石の苔(こけ)を掃いて洗い清めるところから苔掃、(そうたい)ともいいます。墓石に水をかけるのは死後の世界の一つに「餓鬼道」があり、ここに生まれ変わった死者は常に渇きに苦しむとされているので、水は慰めのしるしの一つになっています。一方、イエス様に希望を持つ人たちにとっては、水は洗礼の時に神様から受けた命を思い起こします。また亡くなられた家族を迎える時には、彼らと一緒に時間を過ごす新たな出会いの希望になっています。
 さて、典礼暦では月曜日15日に、キリスト信者はマリア様の被昇天を祝うことになりました。次の3粒の真珠のような教えを心にとめましょう。マリア様は、天国から一人一人を見守っています。次にわたし達が行くべき場所を示してくださいます。そして天国に行く方法を教えてくださいます。だからマリア様の被昇天の祝いは、日本の死者を迎える文化や宗教観の背景の思いの中で考えても、天国の方に開いた窓になっています。毎週の主日の聖パウロの言葉を心にとめましょう。聖パウロは独特な言葉を使っています。それは異邦人です。実は神様の目からは、聖パウロが自分について言うように聖パウロ自身には権利がなく、身分の低い者で異邦人のような者です。それでパウロは異邦人の使徒であることを公言しながら、神様が特別に弱い者、身分の低い者、権利のない者、外国人のような者を愛されるのだと強調します。つまり聖パウロが言うように、死者が命を探し求めるように、神様が異邦人を探し求め、憐れみ深さをもって皆を受け入れて愛一杯で包んでくださいます。
マタイによる福音書15・21-28
マタイの福音書はイエス様の心の広さを示しながら、信仰の強さについても語ってくれています。旧約聖書によると、神様は約束通り、選ばれたイスラエル人の救いの為にメシアが使わされました。新約聖書ではイエス様が全人類の救いのためこの世に来られて、神様の普遍的な心を、ティルスとシドンの地方のできごとによってお示しになりました。マタイの福音書のイエス様とカナンの女の会話と、先週の福音書の出来事を比較してみましょう。今週は一人の異邦人のお母さんが自分の娘の為に「主よ、憐れんでください。」と強い信仰をしめして願いました。先週は溺れそうになったペトロが自分のために「主よ助けてください」と薄い信仰をしめしながらイエス様の助けを求めていました。カナンの女の信仰はイエス様に誉められ、ペトロの信仰は薄いと叱りつけられました。しかし、両者ともイエス様の限りない憐れみによって救いを得ることになりました。だから、今日教えられたことは、確かに心の信仰のあり様によってだけではなく、神様の普遍的な愛によって救いを得られるのです。神様の救いを得られる資格を考えてみれば、なにも必要ありません。罪人であれ、異邦人であれ、どんな体と心の病人であれ、女性でも男性でも、人間でさえあれば、神様の普遍的な愛の対象になります。                       モヨリ神父
           
※「くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日々新聞社)より一部引用

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毎週の一言 A年 年間第十九主日

2011年08月05日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ,
「心からへりくだるようにしなさい。末席に着こうとする時には、心からそれを望むようにしなさい。」
 聖フランシスコ・サレシオ

太陽暦では8月7日前後が立秋にあたります。「今日の秋」は立秋の日という意味の季語です。その他に、今朝の秋、秋立つ、秋に入る、秋さる、秋くるとなどがあります。この頃の暑さは一段と厳しいようですが言葉としては立秋と聞いただけで、なんとなく涼しさを感じるようになります。同時に、8月6日から平和の旬間を過ごしている私たちの心の中に「平和」という言葉が特別に響くようになっています。確かにこの頃、広島と長崎に落ちた原爆を思い起こします。そしてまだまだ平和の状態をつかむことができないこの世界を見つめることになっています。けれどもそれより、私たちは復活されたイエス様がもたらした平和を思い、願い、それに深い感謝の気持ちを覚えます。
さて、日本では夏祭りの季節ですが、キリスト信者にとっては毎週の日曜日に、神聖な祭り、感謝の祭儀を迎え、イエス様を大きな喜びをもってお祝いします。むしろその祭りは大きな喜びの日で、感謝の祭儀を通して、神様に対する、また兄弟に対しても感謝の心を現わしながら祭りを祝います。では、聖パウロの「ローマの信徒への手紙」の言葉にも注目しましょう。聖パウロはキリスト信者としてイエス様に強く結び付いていることを確信しています。それによって自分の人生、言葉、行いを通してイエス様のみ心だけを語っています。聖パウロは真実を語り、偽りは言わないとおっしゃっています。それに聖パウロが自分の心が悲しんでいることを語っています。それは、神様に選ばれた者たちがこの世に送られてイエス様のことを紹介して告げ知らせても、それに気つかず受け入れられない者も多いからです。このようなことは使徒パウロにとって非常に不幸なことなのです。
マタイによる福音書 14・22-36
当マタイの福音書は大きな励みのメッセージもたらすところです。福音書のこの場面を正確に読みとるために、象徴的な出来事として分析してみなければなりません。いつも危なそうに浮かんで、揺れている船は教会のことです。しかしその中にイエス様と弟子たちがおられるから、安全に向こう岸に渡ろうとしています。それは神様が定められた教会の歩みを例えています。イエス様にとってどんな時でも祈るのは、自分のお父さん(神様)の心と思いとのつながりの場で、それは私たちの祈りにも参考になっています。イエス様のように祈る時こそ、神様との思いと心が一つになる時です。同時にイエス様がいつもご自分の弟子たちと一緒におられます。幽霊のようなものではなく、支える力、勇気を与える存在として弟子たちと一緒におられるのです。この時にもイエス様に従った私たちのために、心に響く言葉があります。「安心しなさい、私だ、恐れることはない。」この言葉はシナイ山で神様が自分の名前を述べられたように、イエス様が、自分のことを紹介します。「私だ。」つまり「私がある。」と。イエス様がいる時、つまり私たちがペトロのようにその欠かせない存在に気付く時に幸いです。再びイエス様が私たちに呼びかけています。「来なさい、安心しなさい、恐れることはない。」この言葉を信じたペトロは、強い風に襲われてもイエス様の手を握って支えられ、救われ、無事にイエス様がおられる船に戻れました。この時こそ、このような出来事とそのメッセージは私たちの信仰のために参考になりませんか。私たちの人生も嵐の中を小さな船のように進んでいますが、ペトロの信仰さえあれば、イエス様がいつも私たちのそばにおられて、私たちの手を握って安全な所まで導いてくださいます。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」    モヨリ神父
※「くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日
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