カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 年間第六主日

2009年02月14日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

立春が過ぎても寒気はまだ厳しいのですが、良い天気が続くと、日あたりの良いところで他の花に先がけて梅がちらほらと咲き始めます。この頃、春一番が吹きます。春一番は、立春以後最初に吹く強い南風で、戦後に新聞などで使われ始め定着した気象用語です。もともと海に生きた人々が使った風の名ですが、熊本では春一番により木々の芽がほころび始め、春二番が吹く頃に桜の開花となります。
この時期になると詩編・103編15節を思い出します。「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風が通り過ぎると跡もなく・・・」 キリスト信者の思いとしては、イエス様と教会のことを人々に告げ知らせ、それが世に広がることは重要な課題になっています。だから、宣伝や、イベントなどの方に走ることが教会のことをより多くの人に知らせることのように思いがちです。しかし、実際には教会の心はそのようには広がらないと思います。神の国は不思議な力で広がります。イエス様自身が自らのみ言葉を、人の心に神秘的に届けます。その言葉は権威と力のある言葉ですから、小さな種であっても大きな実りをもたらします。このような真実に対して、キリスト信者の態度も少し調節すべきではないでしょうか。
使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)10・31~11・1.
使徒パウロは、回心によって大きな光で照らされ、新たな目で人の人生、人の生き方を見、その中に神様の栄光を読み取っています。どんな人間でも、人生の中で修業し苦労して神様の心を得るのではありません。イスラエル人であれ、異邦人であれ、神様の心に適う人生を送れば、すでに心の中で、神様が成し遂げられた技を見ることができます。使徒パウロは自分の人生の熱意の中で一つのことだけを探し求めました。自分の利益ではなく、皆の喜びです。実際に自分の人生を捧げて、人の喜び、あるいは人の救いを探し求めたのはイエス様だけです。だから使徒パウロは、熱い言葉を通してイエス様の生き方に倣うよう勧めています。そうすれば自らの人生を通して、神様の栄光を現わし、人類の救いや喜びをも求めることができます。
マルコによる福音書 1・40-45
当個所でイエス様が成し遂げた徴を深く理解するためにはまず、皮膚病について当時の考え方を知ることが大切です。当時皮膚病を患っている人は、生きていても社会に対し宗教に対し、死んだような者として見られていました。命であるイエス様は、死体のような人の中に新たな命を吹き込んでいます。イエス様が力のある言葉で「清くなれ」と言われ、信じ難い素晴らしい場面を皮膚病の人の目の前に開きました。そして、神の命に取り戻された人に、司祭のところに行くように勧めました。その時、神の命に生かされた人は、社会にも宗教の世界にも取りも戻されて生かされています。イエス様の命に生かされた病人は、自分の本来の心身の素晴らしさを再発見し、その中に神様の言葉によってあふれてきた喜びを味わい、素晴らしい経験の証しとして、自らの身に起きた事を皆に告げ知らせる者となりました。そして、イエス様が成し遂げた徴のことは、新しい葡萄酒のように四方にあふれ、皆に知らされて広がりました。            モヨリ神父
《お知らせ》
†毎月、第1と第2の木曜日午前10時から信徒会館で、
 聖書による勉強会「使徒言行録の朗読と解説」があります。ご参加お待ちしています。
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A年 四旬節第二主日 (神父)
2009-02-14 11:32:54
イエス様のことを愛される皆様へ、

寒さに日々身を縮めていても、梅があちらこちらで咲き揃ったと聞くようになって、水仙やパンジーの花も花壇や道端を飾っています。春は遠くないことをうぐいすや色々な鳥達の歌声も知らせてくれています。
四旬節の第二の日曜日にあたり、ますます復活祭への準備が進み、心の大切さも深まり、信仰の主なテーマが皆さんの心身に巡るようになっていますね。四旬節は復活祭の時に洗礼を受ける人にとって、特別な準備の時になっています。その準備の進みの中で、教会では特別な言葉が使われています。まず「光」というのは神様の存在に気づくことを示しています。それだけではなく、洗礼を受ける人にとって信仰の光は新しく人生を照らし、人生の各出来事の中に神様のみ旨によって神様の働きが強調されます。 次に洗礼を受ける方が体験することは、心の自由です。自由に生きる経験は喜びの中で生きることです。そして愛する人の為に生きる時に、特別にわたし達の心は自由の中に生きることを経験します。四旬節の間、復活祭に洗礼を受ける者達はこのような経験します。このように生きようとすれば、光の中に、神様だけを愛しながら自由に豊かに自分の人生の喜びを味わい、復活祭の時にイエス様と共に蘇えって、いつまでも神様の懐の中で生きることが出来ます。母である教会からキリスト信者に、この四旬節の間の特別な過ごし方が勧められています。それは、節制のことです、わたし達に神様が一番好む節制は、お祈りのこと、そして神様の言葉を受け入れて深めながら、それを自分の人生の中に生かすことです。
最後に四旬節の第二の日曜日の福音書のメッセージを深めましょう。イエス様はご自分の神秘的な心を現す時に、選ばれた弟子達の前でご自分の姿を変えるようにしました。そして同時に、イエス様の脇に預言者と法を象徴するモーセとエリアの姿も一緒に現れました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの前で、イエス様がご自分の姿を変えた時に弟子達は非常に喜びながら、驚き、神様を見、その出会いを経験しました。その時弟子たちは、イエス様が神の子であることを悟り、彼等にとって神様は美しいものであり、美しさそのものであることを実感しました。このような神様の姿を見て、弟子たちは大いに喜びました。永久にあのような神様の姿だけを味わって見つめていたかったのです。ペトロは「こちらで三つのテントを建てましょう、ここにいるのはわたし達にとって素晴らしいことです!」といって当時の弟子達の気持ちを現しました。よく考えてみれば、わたし達にとっても、日曜日に教会に行くと神様の姿がわたし達の目の前に現れるのです。それは聖櫃におられるイエス様のパンだけではなく、わたし達の周囲にいる共同体の者達も一つにになって祈る時に、素晴らしい神の子であるイエス様の姿を見せてくださいます。だから、日曜日に皆で一緒に集まって祈るのは本当に素晴らしいことです。ですから、弟子達と同じようにずっとそのまま居たいのです。けれども弟子達の前でイエス様の姿が消えたように、わたし達も同じように、日常生活に戻らなければならないのです。      モヨリ神父

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