カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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菊池市紫光書道会の作品

2010年08月27日 | メッセージ(その他)
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毎週の一言 C年 年間第二十二主日

2010年08月27日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「わたし達を永遠の幸福に導いてくれさえすれば、この短い生涯ももっともすぐれた生涯になります。」
                                  聖フランシスコ・サレシオ
今朝教会のゲートを開けた時に、今年初めての鈴虫の歌声を聞きました。だれでも虫の声を好みます。その虫の声の代表格が鈴虫です。バッタ目スズムシ科の昆虫で、八月ごろ現れ、雄が鈴を振るようにリーンリーンと鳴きます。別名は月齢子で、古い名では松虫が鈴虫でした。姿も声もかわいいので、大人も子供も興味をもちます。それと伴に「ヒグラシ」はセミで今頃の日暮れ時によく鳴くので「日を暮れさせる」ことから名付けられました。またその鳴き声から一般に「かなかな」とも呼ばれます。
変わって、葡萄と言えばその実を言います。西アシジア原産で聖書にも見えるほど古い歴史があり、世界で最も多く知られている果実だと言われています。さて、厳しい残暑のなかでもう少し耐えなければなりません。この時期のように「耐える」あるいは「忍耐する」は独特な宗教的な言葉に聞こえますが、それだけではないと思います。確かに日常生活でそれらの事は大きな課題になりますが、イエス様が勧めているのは忍耐より、他人により大きな愛を見せることです。愛なしでは人生も光と色のない日々になり、苦しさに耐えるだけの無味乾燥なものになります。愛で満たされている心があれば、日常生活の苦しい時でも色彩豊かな人生になります。苦しい時に愛を持って人に向かうことにすれば、相手にとっても素晴らしいことです。その時は人々により大きな愛を示す良い機会なのです。お産の時を考えてみてください、お母さんが苦痛を耐えることよりもそれを通して自分の子を産む、素晴らしい命を自分の愛から生み出すことが出来るということ。それは大きな苦痛でも、乗り越えたその後に、ほほ笑むことが出来ます。
ルカによる福音書14・1、7-14
イエス様の言葉によると、謙虚な心を持った人は具体的に真実につながるものであり、人の心も理解しやすい人です。謙虚な心を持った人は奉仕と施しをする人に変わりやすくなります。イエス様が勧められる謙虚、謙遜な心は単なる社会的なマナーの心構えではなく、イエス様は「わたしは謙遜なものだから、わたしに学びなさい。」との言葉で自分の心を手本にして、自分のように生きるように勧めてくださいました。当福音書のテーマは謙虚さの価値観についてのイエス様の話です。正義を無視して隣人を見下し、一番になりたい人がなぜイエス様から戒められるのか、イエス様が明らかにしてくださいます。まず、当個所は二つの部分に分けられています。一つはイエス様のたとえ話、もう一つはファリザイ派の人々に教わったことです。注目するところは、イエス様がファリザイ派の人の所に食事に行かれた時の事です。ファリザイ派の人々も皆が悪い者だけではありません、そして話の背景は宴会(食事中)のところです。言い換えれば、キリスト信者の共同体のあり様を示しています。上に記されたように、イエス様は宴会のしきたりを教えるつもりではなく、むしろ神様の心と思いを理解させたかったのです。罪人とファリザイ派の人が神殿で祈った時のように、神様は自己自慢する人を見下し、謙遜な人を高めています。当福音書の第二部では、後の人が先になるのは自らの働きではなく、高めるのは神様の寛大な心です。徹底的に利益を求める現在の社会と違って、イエス様が当時、自分に従う人に無償の心を勧めています。自由な心で行うものたちは(タラントンのたとえ話が参考に)神様にたくさん報われています。イエス様自身、自分を全て無償で、死ぬまで人々に尽くしました。イエス様の心に見習っている弟子たちも、自分の日常生活では自分を捨てて、自分のことを忘れて、無償で隣人に使え相手の喜びだけを求めています。
                                   モヨリ神父
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菊池市紫光書道会の作品

2010年08月19日 | メッセージ(その他)
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毎週の一言 C年 年間第二十一主日

2010年08月19日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛する皆様へ
「人は何よりも愛を望みます。愛のない生涯はぬけがらの人生です。」聖フランシスコ・サレシオ

日本が戦争に敗れた時、人々はそれぞれの形で心の傷を負い、悲痛な体験をしました。そこから、皆一人一人の復活への道が始まりました。今はお盆、終戦記念を思い、徐々に日常生活にもどりつつあります。まだ厳しい暑さが残りますが二十三日に二十四節季の「処暑」を迎えます、これは暑さがやむ意味で、涼風が吹き、暑さも少しずつ収まります。穀物が実り始め、収穫も目前の季節です。
さて、イエス様が自分に従った者達、疲れた者、病気の者、いろんな苦しみに抱かれた者へ暖かい眼差しを向けられ深く憐れまれて、「わたしのところに来なさい、休ませてあげよう」と言われています。その誘いを受け入れるようにしましょう。人間はいろんな時、いろんな理由で心を乱して疲れています。自分の居場所が見当たらない時、愛されていないと感じる時、自己中心的な生活を送る時、過去の失敗を思い悩む時、理想的な未来だけを望む時、自分自身だけで人生の問題を解決したい時、このような時イエス様のところに行きましょう。イエス様が休ませてくださいます。「道、真理、命」であるイエス様が、わたし達の心を照らし、暖かく養い休ませてくださいます。わたし達の心の中に新たな力を吹き込んでくださいます。そのように支えられて、わたし達は人生の素晴らしさを味わい歩み続けることができます。新たな力で蘇ることができます。
ルカによる福音13・22-30
ある人がイエス様に救われる方法を教えてくださいと頼み、また救われる人は少ないのかどうか尋ねました。イエス様が答えて救いの道を教えようとしました。イエス様は「狭い戸口から入るように努めなさい」と言う答えで救いの道をすべての人に教えてくださいます。その狭い戸口は確かに信仰の厳しさ、神様の共同体に尽くすこと、人生の中で愛の為に生きることなどの救いの道を示してくださいます。このような生き方はイエス様の十字架の愛を理想にし、復活の喜びを目指しています。初代キリスト信者の間にも、救いの話、そして神の国で一番になる人の課題は少なくなかったので、イエス様が人々の心に答えようとしています。まず救いに関しては意味のない事柄を強調されています、「ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、またわたし達の広場でお教えを受けたのです。」このようなことは救いを得られる資格にはなりません。聖霊によって神様のみ旨を行うこと、また神様のみ言葉に従うことによって、イエス様が話してくださった救いを得られることになります。狭い戸口に関してイエス様の発言は少しずつ明らかにされています。この神様まで導かれる戸口はいつも開いています。どうしても入ろうとすれば確かに神様の喜びに達することができます。イエス様を信じて、イエス様と一緒に十字架を背負い、人と神様を愛することは人間にとって簡単なことではありません、厳しい時も辛い時もあります、それはまさに狭い戸口に立つようなことですが、イエス様がおっしゃったように、どうしても入ろうとすれば神様に導かれて救いの喜びを得ることができます。イエス様はわたし達の救い主、イエス様が救いの道を教えてくださいます。自分の人生の中でイエス様を受け入れることによって心の救いを得られます。
モヨリ神父
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2010年08月13日 | メッセージ(その他)
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毎週の一言 C年 年間二十主日 聖母の被昇天の祭日

2010年08月13日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「永遠のものにあこがれているのに、心はなぜこの世の富に重きをおくのでしょうか。」
聖フランシスコ・サレシオ
空へ放つ打上げ花火、揚花火や装置をして見せる仕掛け花火など、どれもみな豪華に夜を彩ります。打ち上げ花火は音も大きく色彩も華やかだが、遠くに上がる遠花火には深い思いがこもります。古来、盂蘭盆行事と共にあったため秋の季題とされたが、最近、盆行事も新暦が増えると、花火も夏と感じられるようになりました。また流灯とは盂蘭盆会の終わる15日、または16日、精霊(しょうりょう)送りと送り火を兼ねた形で行われる盆の行事で、点火した灯篭を川や海に流すのである。キリスト信者はお盆に、つまり8月15日を迎えると聖母被昇天を祝い、天におられるマリア様、聖人達、皆のそれぞれの先祖を思って祈ります。このような天国はわたし達の心にまで及んでおり、わたし達もその天国に属しています。実は天国がわたし達の人生の目標になっています。その天国とは神様が住んでおられるところであり、神様に愛された者も住んでおり、神様を愛する人も永遠に住んで生きています。そして、そこに住む皆が大きな喜びに満たされています。皆が身近に兄弟姉妹のように生き、その中に神様に上げられたマリア様と聖人達もわたし達を愛情で包み、見守っていてくださいます。天国に神様から上げられたマリア様がわたし達の希望、理想と一緒にわたし達の苦しみと悲しみも、神様の前で、それを大きな喜びに変えてくださいます。さてある時、聖ヨハネ、マリア、ビアネイ司祭がフランスの小道を歩いていると少年に会いました。「ちょっと、すみませんがアルス市に行く道を教えてくれませんか」と司祭は頼みました。「はい!」と喜んで少年が答えました。それで、司祭も同じ情熱と喜びで「さあ、わたしが恩返しに天国に行ける道を教えてあげますよう!」と言いました。今日、聖母の被昇天にあたり、マリア様が同じ道をわたし達に教えてくださいます。
ルカによる福音書1・39-56 
当福音書の個所は神様が小さなものを通して素晴らしいことを成し遂げられたことを語っています。人間の救いの為に神様がなさったことを、身近に見られたマリア様が感謝と喜びで満ちた歌を歌います。マリア様が自分のいとこエリサベットを訪ねた時に神様の思いを確認することが出来ました。つまり、神様が人間の弱さを通してご自分の心の通り、偉大な思いと行いを見事に成し遂げ、清い心を持った人に表しているのです。神様の存在と働きは小さなしるしを通して皆の人生の中に起こります。それに気づき、天使の声によって確認されたマリア様と同じように、わたし達の大きな喜びのもとになっています。神様が皆の人生に関わっています。聖母被昇天のミサの典礼では、イエス様の教会もマリア様と同じように神様の働きに気付き、それを確認し感謝と喜びの歌をささげます。マリア様は日常の出来事を深く読み取って、その中に神様の働きのしるしを見出し、それを理解して大きな喜びで抱かれていました。福音書の中で記録されたマリア様の歌は、マリア様ご自身と教会の皆の喜びに満ちた感謝が豊かに表現されています。マリア様と同じように教会も現在の世界の中で、神様の存在とその救いの働きを人に示す役割を持っています。またキリスト信者を通して、神様が人類の為に神秘的な救いの計画を気付かせて確認させる任務を与えています。それを受け取って、気付く、理解する人々はマリア様と同じように喜びと感謝で、弱い自分の人生を神様に高められて歌うことが出来ます。
                             モヨリ神父



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2010年08月05日 | 神父様からメッセージ(A年)
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毎週の一言 C年 年間第十九主日

2010年08月05日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ

「心からへりくだるようにしなさい。末席に着こうとする時には、心からそれを望むようにしなさい。」
      聖フランシスコ・サレシオ  

立秋―8月8日ごろ、暦の上では秋に入り、風のそよぎや雲の色や形などに秋の気配が漂い始めます。このころの暑さは一段と厳しいようですが、言葉として立秋と聞いただけでなんとなく涼しさを感じるのです。「百日紅」は暑さの厳しい熊本の夏の代表的な花木であり、公園や庭でよく見かけます。紅い花が百日間も咲き続けるので「百日紅」とも言い、木の肌がすべすべして猿も滑ることから「さるすべり」とも言われます。花の色は紅色だけではなく、白、薄紫色もあります。
さて、今週に「平和の旬間」もはじまります。誰でも心の平和、人生の平和、社会の平和を望んで求めています。よく考えてみれば「平和」は復活されたイエス様の貴重な贈り物です。それは神様の思いのように生きると言う意味です。さてそのような平和を実現するために、キリスト信者は全世界の人々と一緒にこの旬間を大切にし、お祈りします。力が衰えてくる夏の間、体は涼しい木陰や健康を支えてくれる飲み物や、食べ物を欲しがっていますが、実は心も同じような時を迎えています。その時、それを支えて、満たしているのはイエス様です。キリスト信者はイエス様の言葉を受け入れて、イエス様の体にパンとして支えられて、苦しい時でも力強く人生を歩み続けています。イエス様が弟子たちを支えながら彼らに目覚めているように勧め、いつも、どんな時でも心の用意を持つように教えました。その教えに従う者は大きな喜びを迎えられるのです。
ルカの福音書 12・32-48
当福音書に題名をつけようとすれば、「準備しながら期待すること」。期待するのは時間の流れが大切だし、その時間をどのように過ごしているのかが欠かせない思いになっています。待つ心は以前された約束から生まれてきます。だから期待するのは約束とそれを実現することが結びついています。むしろその熱い期待によって、約束されたこととその実現する期間を短縮します。約束から、その実現の間の日にちは神様から与えられたチャンスであり、大きな贈り物です。上手にそれを利用すれば、約束の実現する時までにふさわしい準備ができます。だからキリスト信者にとって期待する期間は大切であり、使徒パウロにも上手に使うように勧めています。待つ人は信頼を持って期待していますと言っています。さて、当福音書は三つの名言で分けられています。一番目は「あなたがたの富のあるところに、あなた方の心もあるのだ。」二番目は「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕達は幸いだ」三番目は「全て多く与えられた者は、多く求められ、多く任せられた者は、更に多く要求される」。一番目の言葉によってイエス様がご自分の聞き手に安心を与えています。重要なことは神の国ですから、それに皆が属しています。それを信じない人、また神の国に属していない人は空しくこの世の財産を握って大切にします。二番目は普通にありえないようなことが語られています。僕のように忠実に生きてきたキリスト信者は神様から呼ばれた時、また出会った時に寛大な心である神様に大切に給仕してもらえることになっています。最後に三番目は神様の憐れみと慈しみは、イエス様に一所懸命従ったものたちに豊かに与えられることになっています。結論として神様からいただいた贈り物を上手に、感謝の心を持って使用したものたちは豊かに恵まれます。
             
                                モヨリ神父
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