カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A年 年間第18主日 

2014年07月29日 | 神父様からメッセージ(A年)
キリスト信者は主の日を迎えると心と体が普通より大きく変わり、大きな喜び、信仰の祭りを迎えるために整ってきます。私たちは主の日に普段着を着替えて、綺麗な服を着て、心の中にある希望と喜びを外面的にも表すことにします。このごろミサの朗読では、パウロの「ローマの教会への手紙」を連続で読もうとしています。今日の箇所では私たちの心を強く窺っている言葉が一つあります。それは「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょうか」 さて、イエス様が十字架に死ぬほど、愛された者は誰でも、自分の心の中でこのような質問に答えることができます。この答えはとても個人的で、だれも私たちの代わりに答えることができません。聖パウロは私たちのために参考になる答えを見出します。自分の人生による事情を図ってから一つしかない答えを出しました:「私たちはイエス様から引き離されることがないのです」つまり、イエス様ご自身は、私たちの命、私たちの道、私たちの喜びです。キリスト信者は自分の中に生きておられるイエス様と一緒に生き、対話し、模範と理想として人を愛します。
「マタイによる福音書」 14・13-21
 当福音書では何かしようとしているイエス様がとても大切です。その出来事は第一の朗読によると心と体で注目するように呼びかけられています。私たちは耳だけではなく心でも神様の言葉を聞いて受け入れるのです。そうです、イエス様はとても重要なことを行おうとしています。それは、洗礼者ヨハネがすでに死んだ時でした。けれどもその時、洗礼者ヨハネの予言した言葉は実現しようとしていました。「後に来るのは私が靴のひもを解く値打ちもないほど、私より大きな力を持つ方だ」と教えました。それに従ってイエス様が病気で悩んでいる民衆に対して、憐み深い心をもって公にモーセと同じように、新しい民族の指導者として力強く大きな愛を示そうとしています。その時、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、つまりエルサレムの方へ行く巡例者のために定められた食べもので、五千人以上の疲れきった人たちを食べさせ満足させました。その時イエス様は、まず弟子たちに向って「あなたがたがこの人達に食べさせなさい」と誘いました。その言葉に含まれた意味はまず、弟子たちに自分自身、自分の人生、自分を全て、悩んでいる人に捧げなさいと、イエス様ご自がなさったように弟子たちに勧めた愛の形でした。そしてイエス様はパンを手にとってから、「それを祝福し、割って、人に与えました。」このようにイエス様がパンと魚を増やして、群衆の心と体を満足させました。このようなしるしによって確かにイエス様が人を食べさせて、力と希望を与えましたが実際にそのしるしによって、もっと重大な出来事の意味を示したかったのです。人がイエス様のパンを、つまりイエス様の体を食べると、弱い時支えられ、失望の時に大きな希望に抱かれて、病気の時に癒され、死んでも生きる命を得ています。つまり人間がイエスさまの愛によって大きな喜びで満されています.
                                  モヨリ神父



A年 年間第17主日

2014年07月23日 | 神父様からメッセージ(A年)
初代キリスト信者にとって、復活されたイエス様のイメージは登る太陽の姿に結びついていました。イエス様の降誕祭の祝いでも、ローマ帝国の年末の太陽の俗的な祝いの代わりに、この世の太陽の光りであるイエス様を祝うようになりました。それで日曜日は太陽の日として、イエス様の日となっています。アッシジの聖フランシスコにとって太陽は兄弟のようなものでした。お日様はこの世を暖かい光で照らし、冷えているところを温めます。イエス様のみ心も同じではないでしょうか。イエス様の光に照らされて、より深い真実を見つめましょう。イエス様の篤い愛に抱かれて、人生の冷たさに生きる者たちを温めるようにしましょう。イエス様のことを語ってくださる「しるし」は太陽だけではなく、心の目が覚めれば、どんな小さなことでも、どんな小さい出来ごとでもイエス様の素晴らしさを語っていることに気づくでしょう。
「マタイによる福音書」13・44-52
 今日もイエス様は綺麗なたとえ話を三つ語ってくださいます。田圃で発見された宝のたとえ話、素晴らしい真珠を探し求めた商人のたとえ話、網に掛かった魚がとりわけられたたとえ話です。このようなたとえ話は私たちにとって知恵の箱のようなもので、神の国のあり様がより深く語られます。まず、神の国はどんな人にとっても本当の宝です。その宝はどんなことよりも、この世のすべての財産よりも貴重なものです。神の国はこの世の財産よりも貴重だとわかる人だけが、アシジの聖フランシスコのように全てを捨てて田圃に隠された宝、つまり神の国を手に入れることができます。同じように一番素晴らしい真珠を探し求める商人も一番綺麗な真珠を手に入れる時に、すべて他の輝きのない真珠を売り払うことにします。イエス様に従う私たちにとって、神の国は全くそのようなものです。私たちの価値観の中で、神の国は本当に一番貴重な宝です、本当に一番、世界一素晴らしい真珠のようなものです。さて、そのように思う私たちの日常生活の行動を、周囲の人に見せるべきではありませんか。最後に神の国は網のようなものです、つまり、良い麦と一緒に毒麦を蒔いた畑のたとえ話に似ています。つまり良いこと、また悪いことも一緒に成長していますが必ず神様は良いものだけをより分けて評価し、悪いことを投げ捨ててしまいます。このような世界に生きるキリスト信者は、神様の心を持ちながら、悪い禍にも辛抱して、悪い誘惑も拒否しながら、良いことを選んで成長させていきます。
 では、今日もパウロの「ローマの教会への手紙」の言葉に注目しましょう。神様は私たち一人ひとりに、一緒に働くように呼びかけています。神様は呼ばれた者たちにご自分の計画として、この世でイエス様の姿を複写するように勧めています。だから、神様の計画は、イエス様に従った者たちがこの世でイエス様の姿を見せるのです。このように神様の秘められた計画は明らかにされています。それに従って神様は、人間を自分のところまで呼び集めて、ご自分「儀(慈しみと愛)」に包まれ、生かされ、ひとり一人に大きな報いの喜びを与えるのです。このパウロから教えられた神様のご計画は私たちに、大きな生る希望を与えてくださるのではないでしょうか。                モヨリ神父    


A年 年間第十六主日

2014年07月18日 | 神父様からメッセージ(A年)
 イエス様が現在でもたとえ話を語り続けています。そのたとえ話はイエス様に従った人たちだけが理解出来ます。つまり、そのたとえ話はキリスト信者の日常生活の中で起こる出来ごとです。イエス様のたとえ話はイエス様と出会う場になり、その中でいつもイエス様が主役であることに気付きます。
「マタイによる福音書 」13・24-43
 今日の主日もイエス様がたとえ話を通して語りつづけて、私たちの心を窺っています。イエス様はたとえ話を通して、神の国の素晴らしさを私たちに告げ知らせてくださいます。神様はこの世のこと、また私たちひとり一人を大切にしてくださいます。そのため、皆の喜びを求めておられます。その喜びの根は神の国にあります。神の国は何であるかと言うと、イエス様自身であり、イエス様から明らかにされています。神の国の始まりはとても小さくて素朴です。毒麦の間にも成長するし、からし種のようにとても小さいのです。パン種にも似ています。けれども神の国を通して神様が皆を大切にされ、確実に皆の心の中に大きな喜びを実らせるまで導いてくださいます。確かに神様の国では悪が滅ぼされて、良いことを大切にします。良いことは小さくても成長し実り、素晴らしい影響をいたる所に及ぼします。良いことは大きな力を持っています。パン種のように人の心や環境まで全部、改善し変えることができます。イエス様がたとえ話を用いて、自分の聞き手を教育され、神の国の神秘的な存在を見出すように教えました。このようなイエス様の話はとてもやさしくて簡単で、だれにでも神様を見出す能力を与えました。神の国はいつも神秘的な状態の中に隠されてあり、とても小さな存在です。だからそれを見出すために特別な、イエス様の目のような能力が必要です。なぜなら神の国はすでにこの世にあり、この世の中に溶け込んでおり、だれでも受け入れることが出来ます。では、聖パウロの手紙の中にある思いを深めるようにしましょう。ご存じのように今日の旧約聖書の第一の朗読と福音書のテーマは大体同じで、旧約聖書の言葉と新約聖書の言葉も一緒に並行して学ぶことを示されています。新約聖書からの第二朗読は独特な課題をとり上げて、使徒たちの書簡か使徒の言行録から取っています。今回聖パウロはローマの教会への手紙で「霊」という神秘的な神様の存在を語っています。弱い私たちは「霊」によって強くなります。祈りのできない私たちでも「霊」によって神様に話しをすることができます。「霊」によって神様の心に届くようになります。私たちの心の中にあることを何でも知っているのは「霊」です。同じ霊は、聖パウロが語る通り私たちの中にもおられて、このように私たちは神の国の真ん中に生きていることを実感することができます。
                                 モヨリ神父

先月のできごと(2014年6月)

2014年07月09日 | 先月のできごと
<6月8日(日)・・堅信式>


・・・菊池教会(6月のできごと)・・・

・6月8日(日)

 この日は午前10時30分から、山鹿教会と合同ミサの中で堅信式が行われました。福岡教区の宮原司教様が司式され、9名の皆さんが堅信の誓いをされました。
また、堅信式後、信徒会館ホールで9名の皆さんを囲んで、宮原司教様、モヨリ神父様、多くの信者が参加して楽しく、賑やかなパーティが開催されました。



<教会正面マリア像前で集合>




<司教様を囲んでの歓談>


・6月29日(日)

 信徒会館ホールで6月22日から開催されていますイコン展には、県内の教会から多く信者さんが観覧にこられました。このイコン展に併せて、この日、ミニ・コンサートが行われました。



<イコン展とミニ・コンサート>

A年 年間第十五主日 

2014年07月09日 | 神父様からメッセージ(A年)
心を整えることによって身も整えられます。神様から与えられた時間の神殿である日曜日は、心によって体を育む機会となっています。私たちの体も神様の懐に戻って行き一体となります。つまり「贖(あがな)われます」イエス様のご復活によって、私たちの心は神様の心の中に溶け込み、私たちの体も神様のものになります。
「マタイによる福音書 」13・1-23
 今日の福音書の箇所は神様のみ言葉の生命力が注目されています。み言葉は種のように人間の弱い心に落ちています。そのみ言葉は人間の心、人間の人生の中で豊かに働いて人間の中で成長し、祈りによって豊かな収穫として神様の方に戻っていきます。しかし、そのみ言葉は人間からいつも、子供のような心で受け入れられているとは限りません、だからみ言葉の生命力が場合によって無効になります。しかし、いい土のようにみ言葉を受け入れる心があれば豊かに実ります。その実りは信じられないほど大きく、働き手が足りないほど豊かな収穫をもたらします。 
そしてイエス様ご自身が種まく人のたとえ話を説明してくださっていますが、多分、初代教会の共同体が当時の自らの思いを付け加えて、イエス様のたとえ話の解説を私たちに伝えていると思われます。神様のみ言葉に抵抗すること、あるいは実らせない原因はいくつかあります。たとえば、み言葉自体を理解しないこと、又み言葉の意味はいつも簡単ではないので、その理解が明確ではなく、その中身も場合によって失うことがあります。そして抵抗するのは言葉のメッセージにずっと忠実に従わないことです。最後にみ言葉の成長を抑えるのは、いろんなこの世の心配事、雑念、などです。けれども、それらの小さな種の中に含まれた生命力は、いつも芽生えの準備をしています。
 次に第二朗読の聖パウロの「ローマの信徒への手紙」の二つの単語に注目しましょう。まず、「期待する」という言葉です。私たちは生きている間に神様との出会い、またその栄光とその喜びを期待しています。その時、人間にとって考えられないほど素晴らしい喜びに向かっています。しかしその喜びが完全に得られるまで、この世で人生の間に待たなければなりません。しかしよく考えてみれば、私たちにとって待つ時間はとても短いものです。耐える苦しみもわずかな間のことですから、アッという間に苦労したことは過ぎ去って、期待する喜びがやって来ます。もう一つの言葉は「贖(あがな)われる」という、神様の救いの計画です。「贖う」というのは身代金を支払って、自分の失ったものを再び得ることです。ラテン語で「redemptio」といいます。つまりイエス様の死によって、人類が失った自由、その中に生きる喜びも再び得られたことになりました。さて私たちの心の中にある隠れた宝であるイエス様のみ言葉と、そこからパウロの実らせた言葉も、生きている間に大切に受け入れて大事にされるべきではないでしょうか。その中に人間の救いも絡んでいます。                     モヨリ神父

A年 年間第十四主日

2014年07月02日 | 神父様からメッセージ(A年)
主の日に向かっているキリスト信者の心は希望と大きな喜びで満たされています。主の日、光の日、お日様の日は私たちに復活されたイエス様の姿を示しながら、大きな喜びをもたらしています。今日の第2朗読で聖パウロはローマの共同体に手紙を書いています。このような共同体はパウロの時代の前に、イエス様のことを述べ伝えてきた無名の者たちによって作られた共同体でした。ペトロとパウロの訪問に育てられて少しつつ大きな共同体になり、現代キリスト教会の礎となっています。このように成長してきた共同体にパウロは手紙の中に貴重な話を取り上げています。パウロの書簡を理解する為に、少しずつ、パウロの専門用語に親しみをもちたいと思います。それは「霊と肉」、また「命と死」「使徒パウロのローマの教会への手紙」の9章11節から13節まで」、 霊という4回も出てくる単語に注目しましょう。まずパウロにとって神様の霊は命と力であることを示し、私たちの内に宿っています。むしろ私たちの心を肉のくびきである死から自由にされる命です。パウロは最後に私たちに一つの義務だけしか勧めておりません、それは神様の霊によって永久に生きることです。
「マタイによる福音書 」11・25-30
 当福音書ではイエス様が自分自身を柔和なもの、謙遜なものとして紹介してくださいます。イエス様は積極的に弱い人の側を選んで、権力を振るう人を拒んでいます。これからイエス様は御父である神様に向かって祈ります。同時に、神様のことを深く理解して自分のように祈れる小さい者たち、つまり子供やそして子供のように純粋な心を持った人を高めて誉めています。聖書によると小さい者たちは、天から賜物として知恵を受けて、神様に祈ります。反対に子供のような心を持たない人は神様のことを理解せず、素直に信じられないものです。今日の福音書の個所は三つの部分に分けられます。一番目はイエス様の祝福の言葉と神様との暖かい対話。二番目はイエス様の自己紹介です。三番目は弟子たちに自分に従うようにとの呼びかけです。イエス様が法律のことで詳しい人に対比して子供の素朴な心をもった人を特別に好んでいます。法律に縛られた者、生活の中でその重さを運んできて生きる者はイエス様の言葉から解放されます。自己紹介の中でイエス様が神様のことを深く知るのは自分自身だとおっしゃいます。だから神様についてイエス様の話は確かであり真実なのです。イエス様だけが神様の心を知り、人間に告げ知らせる唯一の方なのです。この素晴らしいお告が対象になるのは、どんな人間でも一人も残らずイエス様の愛の目標なのです。イエス様は神様の心を私たちに理解させるために、たとえ話を通して話してくださいます。その話を受け入れて分かるのは子供たちや子供のような心を持った人だけです。この世の知恵をもった者たちはイエス様の言葉、神様の心も理解できません。イエス様に従うように呼ばれた者だけが、このイエス様の素晴らしい世界を知り身近に味わうことが出来ます。        モヨリ神父