カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 復活節第六主日

2011年05月26日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「人々から尊敬されていなくても、安心していなさい。
すくなくとも、その時あなたはだまされてはいないからです。」聖 フランシスコ・サレシオ

木々の若葉が萌え立ち、葉桜の色も日々濃くなっていくころ、そこはかとない暑さが感じられる。それを「薄暑」(はくしょ)といいます。この時期になると衣変えもおおかた整い、すっきりとした軽装となり、身も心も軽やかに野や山へくり出す。また颯爽(さっそう)として賑わう街の人ともなります。夕暮れの散歩路は汗ばむほどではないが、吹きくる風の涼しさが嬉しい薄暑のころです。
キリスト信者は、単独で自分の信仰を守って生きることはしないものです。イエス様に従う者たちは、共同体の中で祈り活動し、信仰を守り信仰を生かすことになります。なぜならイエス様自身が、ご自分のそのような弟子のあり様が欲しかったからです。自分の愛する共同体の中に、キリスト信者が神様の欠かせない愛を受けて、経験し、神様の愛を生かし、神様の愛に応えることが出来るためです。キリスト信者はルールを守る、知識的な概念を詰め込むよりも、自分の心の中でイエス様から受けけた暖かい愛を生かし、その愛で神様の愛に応えて、自分の周囲に神様の姿を示してくださる姉妹、兄弟を愛します。助け合って支え合う、一緒に喜び、一緒に悲しむことはイエス様の共同体の欠かせない素晴らしい特徴です。
ヨハネによる福音書 14・15-21
復活節の第六主日の福音書は、もう間近になった大きな祝い、主の昇天の主日と聖霊降臨祭、三位一体の主日、主の聖体の主日のため心の準備をしてくれています。イエス様の話しに、強調された言葉の一つがあります、それは「愛」のことです。普遍的に神様に愛される私たちが、どのようにその愛に応えることが出来るのか、キリスト信者にとって基本的な思いだと思います。イエス様ご自身が次のような行いを勧めてくださいます。「私を愛しているならば、わたしの掟を守る」確かに掟というのは日本の字で表すように厳しいものです。しかし聖書の中では、その言葉のとりかたは少し違います。旧約聖書によると、十戒、そしてそれぞれの神様が教えてくれた掟は、神様との愛の約束のしるしとして扱われています。イスラエル人たちは、神様の愛に応えるために、神様の掟を約束として厳しく守るように決めていました。ヨハネ福音紀者は、掟と言う単語をイエス様の言葉として示しています。だからイエス様の愛に応えるために、愛された人はまず、イエス様の言葉を聞いて受け入れます。そしてその言葉を大切にし、その通りに生かすことです。その言葉を大切にすることによって、私たちはイエス様の愛に応えることが出来ます。イエス様を愛する人にイエス様は大きな愛情の中で、ご自分の姿を現されます。実はイエス様の言葉の深さを理解させるのは、イエス様から送られた聖霊です。その霊は私たちと一緒にずっとおられて、犯罪人を守る弁護士のように、私たちを保護されています。そしてヨハネの福音書によると、私たちの耳に不思議に聞こえて、心にしみ込むイエス様の表現がもう一つがあります。それは「父の内にいること」「イエス様が私たちの内にいて」「私たちがイエス様の内にいます。」というような言葉です。これは愛の用語としてだけで理解できます。この「内」と言う単語はイエス様ご自身の愛を示しながら、ご自分の思いを全て私たちに示すことです。嫁に行く人の場合、00家に入ると、それからその嫁にとって自分の家族、自分の思い、自分の理想は愛の内に入った家庭が全てになります。イエス様の表現は同じようにとらえられるべきです。イエス様が愛の用語を使いながら、どのように私たちの人生の内に生きておられるか、またどのように私たちがその愛に応えるべきかが、優しく語られています。                             モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞)より一部
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毎週の一言 A年 復活節第五主日

2011年05月20日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「あらゆるものが風化しているときでも、神の愛はけして私たちに欠けていないと信じなさい。」
聖フランシス・サレジオ
若葉の薄いみどりが、全ての木々を染めつくしています。このような美しい景色がさらにカラフルな花々で飾られてきて、穏やかな春の到来と共に大自然が神様を自分の美しさで賛美しています。すべてのものが心の中に平和を感じながら神様に感謝しています。
さて、陰暦四月を卯の花月、または卯月というのは、このころに卯の花が咲くからで、その卯の花を腐らせるかのように、しとしと降る雨を「卯の花腐し」といいます。卯の花は白色から紅色へと花が変化するものや咲き分け種など種類がおおいが、そんないろんな花が雨に打たれて山路を染めている様はとても風情があります。この時期、全体にしっとりと濡れそぼった暗さの中にも新緑の葉先がきらりと光を含んでいたりして、自然の趣が一段と深みを増します。
キリスト信者には復活節の間、欠かせない目で見えるしるしの深さを勧められています。その一つはパンのこと、(私は命のパン)です。もう一つは良い牧者であるイエス様の世界のことです。この背景の中にイエス様が場合によって、いけにえとして捧げられた羊になったり、囲いの門になったり、良い牧者の姿にもなられます。この優しい例えによって、神様のこころを語りし続けています。
ヨハネによる福音書 14・1-12
復活節の第五主日のメッセージは、どこへ行くかを知らない私たちにとって、大きな慰めの言葉になっています。まずヨハネの福音記者の思いによりますと、イエス様が失望しないように励まされています。イエス様はこの発言がされた時に、ご自分の受難の直前でしたが、当時に弟子たちの心を見抜いて、自分との別れによって、心をさわがせたりしないように、悩まないで、悲しまないように慰めようとします。例えば私たちも、神様がありのままに弱い私たちを受け入れられるか、愛されているかどうか、信じたい希望をもっていても、それに不安や不満をもって悩んでいる時があります。特別に思い通りに良く行わない時に、または自分の生き方についてよいかどうか判断しにくい時、神様の憐れみに不安と不満を持っています。けれどもイエス様が「心を騒がせるな」と言ってご自分の限りない愛を示しながら、神様の約束された慰めの言葉に信頼をおくように勧められています。さてイエス様は私たち一人一人のために住める場所、永遠にいる場所を準備してくださるとおっしゃっています。その場所の特徴は、神様の家であり、皆が集まる場所です。そしてイエス様がおられるところと私たちが神様に誘われて、行くべきところもまったく同じです。イエス様自身がご自分の死によって準備してくださった場所で、そこで私たちと一緒に永遠に生きるために待っておられます。イエス様自身が私たちを迎えにきて、ご自分がおられるところに、つまり神様の懐で私たちのことを大切にしてくださいます。では神様の家、イエス様が準備されるところへ行くために、どうしたらいいでしょうか。まず、そこにつながる道はイエス様自身です。イエス様自身が「私は道である」とおっしゃってくださいます。イエス様に従うことにすれば、神様自身を見つめることが出来ます。イエス様のことは深く知ることにすれば、神様の心を知ることが出来ます。そのようにイエス様は私たちの「道」です。人間はどんな時代でも、自分の元の姿、自分の本来の姿を探し求めました。それは神様だけです。人間は自分自身を神様の姿に(神道の鏡の意味を参考にして)自分を写す事によって、自らの素晴らしさを知ることができます。それを人類に教えたのは自らの大きな愛によって人生を捧げたイエス様です。イエス様は人間でありながら神様の姿を写してくださいます。神様として普通の人間の姿、つまり貧しい人、小さい人、弱い者の心を通して自分の姿を見せてくださいます。そのように神様へ導く道であるイエス様は、私たちがあこがれている真理、私たちの日常生活の命です。
                                        モヨリ神父
※「新 くまも歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞)より一部引用
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毎週の一言 A年 復活節第四主日 

2011年05月12日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「この世のいろいろな困難においても、平静な心を失わないようにすれば、
いつも気持ちよく生きられます。」 聖フランシスコ・サレジオ
芍薬はアシア大陸東北部の各地に自生します。日本の栽培の記録は「仙伝抄」(せんでんしょう)にみられ、江戸時代には園芸植物に発達しました。熊本では宝暦年間、薬用として蕃滋園に植えられ、その一部が「花連」の人々の品種改良により、観賞用として肥後好みの芍薬が生み出されました。さて、このような美しい花や緑のあふれる季節になると、わたし達の若い頃の遊びを時々思い出します。すると、今でもわたしの唇に微笑みが浮んできます。その遊びの中でとっても気に入っていたのは、想像力をつかって、自分の姿を変身させて、さまざまな動物の姿を真似たり、人間の色々な職業とそれぞれの仕事の独特なやり方を真似たりして遊ぶことでした。皆にとって大きな楽しみでした。そのような遊びは仏様でも好んだような気がします。皆さんが十三仏のことを思い出して下さい。仏様も色んな姿に自分を変えて人間の救いを求めていたことがわかります。人類を守る不動明王の姿、阿弥陀如来、女性の姿にさえになった観世音菩薩、病気を治す薬師如来、弥勒菩薩・・・等々、このように仏様が自分の姿を変えながら、人類の救済を求めています。 同じように、姿を変えたイエス様のたとえ話もあります。イエス様が私たちに身近な姿に変わって、ご自分の憐れみのある心を見せてくださいます。
ヨハネによる福音書 6・22-29
さて、何度読んでも感動させられるヨハネの福音書による、イエス様の中心的なたとえ話を見てみましょう。復活節の第四主日の福音書によると、イエス様は自分の姿を良い羊飼いに変身させて、自分の羊との関わりとつながりについて語ってくださいます。まず、羊飼いは羊に対して大きな慈しみと愛を示しています。一人一人の顔、気性を知っています、皆の声をわきまえています。一人一人を大きな愛情で包んでいます。同時に羊は自分を愛する、見守る羊飼いを知って愛して従っています。良い羊飼いは、いつも後ろから自分に属する羊を見守っています。それだけではなく、同時にイエス様はわたし達に羊飼いの姿を示しながら、ご自分の姿を羊の囲いの門にも変えています。このようなイエス様の姿もわたし達にとって欠かせない姿になっています。イエス様がわたし達を導いてくださる良い羊飼いと言うだけではなく、囲いの門であるイエス様が神様のありのままの姿を紹介し、神様の方に本当のつながりを開いてくださいます。だから私たちはイエス様の門を通して神様に出会い、神様を知ることが出来ます。そのような門が、もうひとつの門を例えてくださいます。それは教会の門です。だからイエス様が教会に入る唯一正しい門であり、正門です。教会に入ろうとしている私たちの目標はイエス様だけです。教会はイエス様の霊によって実現され、イエス様の門を通すとイエス様の姿である共同体に会うことが出来ます。羊の囲いである教会は皆がイエス様の霊によって生き、動き、お互いに支えあう場です。教会は一つの門だけをもっています。それは私たち一人一人を大切にする、愛し慈しんでくださるイエス様の心です。それを通さないで教会に入って関わると、イエス様の言葉に適わないことになり、心の悲しみにもつながることになってしまいます。                           モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞)より一部引用
(菊池教会の堅信式)
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毎週の一言 A年 復活節第三主日

2011年05月06日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「どんな時でも、今、死んでも悔いがないように、常に心の準備をしていなければなりません。」
聖フランシスコ・サレジオ

菊池神社や教会の周囲に美しく咲いていた桜も、もう散ってしまいました。この世の美しさはこんなに早く消えてしまうなんて、誰にとっても大きな驚きですね。 実は「桜」の字は辞書によると「女の美しさを飾る木」の意味となっています。しかし、目で見える美しさよりも、心の美しさを求めるイエス様に従う人にとっては、簡単に消えるのではなく、いつもわたし達の心の中で輝いているもの、それは神様のイメージ、神様の存在です。神様の顔はこの世の美しさの中で、より輝いています。神様は美しさそのものです。
さて、復活祭が過ぎてからキリスト信者は、その実りを収穫します。復活祭の実りはまず、心の平和、神様のものであること、神様に属することを実感することです。そして神様の命の中で生きるのです。最後に皆さんの心の中にしみ込んだものは、大きな喜びです。その喜びは聖霊が宿るところであり、人生を満たす賜物です
ルカの福音書 24・13-35
さて、今日の福音書のメッセージに耳を傾けましょう。キリスト信者の場合、誰でも「エマオに行く人の弟子」の物語をよく知っていて、むしろ何回も読んだかあるいは聞いたことがあると思います。けれども誰でも、いつもそれを聞く時、新しい発見が伴うと思います。何回もその物語を読んだ私にとってもそうです。だから同じように、だれにとってもそうなると思っています。その理由は、神様の言葉である聖書のどんな個所でも、生きている言葉であり、読む人の心に触れると又、その人の心に入り込み、その人の心の中で新しい思い、新しい気持ちを呼び起こして、その人の人生と生き方まで、新しく変えることがあるからです。
では、もう一度上記の物語に沿って、この復活節の第三の主日に神様が何を教えておられるかを見つめましょう。まずイエス様は、わたし達と一緒に「同行二人」をしています。つまり、わたし達の人生の旅路をいつも、ずっと共に歩いてくださっているのです。でも、わたし達はその存在にたまにだけしか気づきません。イエス様はエマオへ行く弟子達と同じように、わたし達の辛い時期に、わたし達と一緒に歩かれていて、聖書の言葉を通してわたし達の辛い出来事を理解してくださっています。常にそばを歩いていてくださるイエス様が「私だ、恐れることはない」とわたし達の心に語りかけてくださいます。エマオ行きの二人の弟子は、復活されたイエス様とずっと一緒に歩いていたことに気づいた時、どんなに大きな喜びを味わったことでしょう。道中に消えそうだった希望は素晴らしく蘇えりました。だから、イエス様の言葉を通して味わったわずかな喜びでも、イエス様がわたし達のすぐそばにおられる証拠であり、失望の中に生きるわたし達のその失望をも、大きな希望に変えてくださいます。美しさは神様の姿です。喜びはわたし達と一緒に歩く復活されたイエス様の証拠です。 わたし達のふさがれた目を開いてくださるのは、大きな力を持つ二つの印です。それは聖書、神様の言葉、そしてパンを裂いていたイエス様の姿です。
                                   
モヨリ神父

※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)
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