カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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 王であるキリストの祝日

2016年11月14日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 七五三、勤労の感謝の月に、王であるキリストの祝日を迎えます。つまり、イエス様自身、王であると宣言します。実はそれをされたのはピラトの前でした。ちょうど大きな苦しみを迎えた時です。十字架の上部に書いてある通り「INRI」ラテン語で「IESUS・NAZARENUM・REX.・IUDEORUM」(訳):「イエス様はユダヤ人の王です」。謙虚なイエス様が「私は王です」と言っていますが、それを聞いてわたし達は驚きます。けれどそのイエス様の言葉を少し深く考えてみると、真実の愛の素晴らしさを示してくださいます。この世の王様達のことを考えてみましょう。王様とは自国の民の人生の中心であり、すべてを自分から出し、全てが自分に戻ってきます。王様は王国の中心であり、愛の勝利を示しています。国民を愛して一人一人の為に命をささげて、皆を見守っているものです。同時に国民達は王様の姿を見つめながら、その思いの下に生きています。そのように王であるイエス様と神の国の一員である私達も、普遍的で欠かせない大きな愛に結びついています。
「ルカによる福音書 23・35-43」
 使徒パウロによると「王であるキリスト」の意味は、神様の子であるキリストを通して、わたし達は皆、罪を赦されて救われているということです。さて、当福音書は三つの部分に分けることが出来ます。第一、イエス様に対する民衆の侮辱、第二、イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人との対話、第三、イエス様と犯罪人一人との対話です。何人かの者たちが人類を愛する為に十字架に付けられたイエス様を侮辱しながら、イエス様がメシアと王様であることを認めず拒否しています。イエス様が神様とその愛について話した時に、よく神の国、あるいは天の国という表現を使っていました。その表現の中に含まれたメッセージは、イエス様は神の国の始まり、その国の中心であり、神の国の目標でもあるということです。キリスト信者にとって、イエス様は教会の頭であり、最後に復活されるものたちの欠かせない命ですから、皆の王様なのです。王であるイエス様によって、全人類が救われています。イエス様が人類の救いを望まれる神様の心を果たす為に、自分の人生を十字架上で全うされたから皆の王様であるのです。最後に反省した犯罪人の一人は、イエス様の心に呼びかけながら、イエス様を包む真実を強調します。イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人は正義による死刑を受けるのですが、イエス様は悪いことを一つもせず十字架に掛けられています。犯罪人の一人は、イエス様が本当に王であることを信じ、人々の救い主であると認めています。それでイエス様に向かって自分の救いも求めて願っています。宇宙万物の王であるイエス様は「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」と約束されました。
                              モヨリ神父
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C年 第32主日

2016年11月03日 | 神父様からメッセージ(C年)

「だれでも死を考えるとその後に何があるのだろうかと思います。つまりどんな人間にとっても、どんな時代でも、人間が「死の後」について悩み、あちらこちらとその悩みの答えを探し求めました。無神論者の答えは、イエス様の時代のサドカイ派と同じように、死んだら全てが終わり、何もないと思っていました。しかしどんな宗教でも、信仰をもつ者にとっても、死の後は神秘的な世界に入り、永遠に生きることを理解し認めています。キリスト信者にとっても、死の後は神秘的な方法で永遠に生きることです。生きるだけではなく、イエス様の約束によって、イエス様が皆の為に天国で準備してくださり、皆を待ち、受け入れようとしています。ご自分のふところの中に皆が集まるように、一人も滅びないように希望しながら、永遠に大きな喜びを供えてくださいます
「ルカによる福音書 20・27-38」
 使徒パウロは、死後についてこう話しています。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために天国で住む場所を準備された」コリント(1)2―9。ヨハネ3―2も同じようなことを強調しています。使徒たちが強調するのは、人間が死後に素晴らしい真実を迎えるということです。その時にイエス様に従った者たちは、イエス様のいとしい者になるのです。当時のサドカイ派は、社会的に優秀な者で、司祭の一部も属していました。彼らの考えでは、人間の復活を否定していました。それでイエス様に、7人の夫を亡くした女性は死後だれの妻になれるのかと、イエス様を驚かし試す意図で尋ねました。その無防備な質問に対して、イエス様は優しく死後のあり様を、心から理解するように指導します。死後のこと、未来も、頭で理解するのではなく信仰の世界に属しているので、直感で感じる現実となります。イエス様は上記のように具体的な出来事から、聞き手を考えさせて、死後のあり様が現在のあり様と根本的に違っているとわからせようとします。イエス様はお父さんが子供に話すように死後のことを説明するよりも、ヒントを通して分からせようとします。キリストに従った者たちは、死ぬ時に素晴らしい天使のようになり、イエス様と一緒に復活して神の子のように永久に生きることになります。イエス様はサドカイ派の人が分かりやすいポイントを、もう一つ上げています。死は汚れの世界に属していますが神様は清いもので、聖人達から証されました。神様は死によって汚れるものではありません。神様は命の神であり、永遠に生きています。だから生きておられる神様のところに行く者、そして生きておられる神様に属する者は、神様と共に永遠に生きています。このようにイエス様に従う者は死後、未来に向かい何も恐れることなく、大きな希望と喜びに抱かれることになるのです。                                     
                                    モヨリ神父
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C年 第31主日

2016年10月27日 | 神父様からメッセージ(C年)

「期待する、待つこと」はキリスト信者の日常生活が置かれた状況です。待つ人は自分の平凡な人生の状況を認めて、より大きな喜び、助け、大きな愛情で包まれることを期待しています。キリスト信者は神に愛された方との出会いを待っています。その出会いを憧れて、望んで、そのために心の準備をします。それだけではなく、自分の人生全体を整えて準備します。皆を大切にされた方はイエス様であり、再び迎えに来られる、その到来を待っています。キリスト信者にとって、現在生きる世界は仮に神様から任せられている居場所ですが、喜びの中でずっと、神様と共に生きる時期をも持っています。
「ルカによる福音書19・1-10」
 神様は命を愛し、好まれ、それを欲されたので、この宇宙万物を創造されました。当福音書のエピソードは、生きておられる愛で満ち溢れたイエス様の心を示しています。罪人は神様から愛されて、神様の命によって喜びの中で生きるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」                             
                        (ヨハネによる福音書3・16)
 また、ザアカイのエピソードは、素朴でありながら、生き生きとした感動的で素晴らしい背景を描いています。従順な人から歓迎される人に、歓迎される人から救われた人に変わります。登場する人物はザアカイで、徴税人であるだけではなく、その役目の頭の任務もしていた者です。最初にザアカイがイエス様を見ようとする目的は、なんとか利益が得られるかもしれないと期待したのです。確かに友情が目的ではなかったのです。しかしザアカイとイエス様が間近になった時に、イエス様がザアカイの方に目を注がれています。その時だけではなく、イエス様がいつも最初に愛する者に目を向けています。弟子になりたかった若者の時も同じだったのですが、その若者が金持だったのでイエス様の誘いを受け入れられなかったのです。反対にザアカイはイエス様の視線に打たれて、イエス様の愛で満ちた誘いの言葉を受け入れています。ザアカイの心はイエス様の温かい眼差しによって変身しています。ザアカイは放蕩息子のたとえ話に出てくる父親と同じように、大きな喜びでイエス様を受け入れています。欠かせない感動的なところは愛で満ちた出会いでした。ザアカイの場合、回心の火(芯)はイエス様との出会いでした。その後、ザアカイは自分の新しい人生の計画を宣べます。(人に…返します)自分の財産を人に施すようになります。イエス様と出会える道は沢山あります。いつもどんな時でも、イエス様がわたし達を探し求めています。わたし達の方も、謙虚に心を開いてイエス様を受け入れることにすれば、イエス様の力でわたし達の人生を素晴らしい出来ごとや大きな喜びで満たすことができるのです。
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C年 第30主日

2016年10月18日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 自分について話すとき自分ができたことについて自慢する人は、だれにも好まれないと思いますが、そのような態度を持つ人は聖書の中でも神様でさえ好まれないのです。人間が上手く色々できても自分の力でできたことではなく、不思議な神様の支えでできたことですから、それに対して自慢するのは愚かではないでしょうか。だからイエス様は時によって隠れたところで祈るように、断食するように、施しをするように勧めています。隠れたところでなんでも見ておられる神様は、それを評価して報いてくださいます。神様は表面的なことよりも、心の中にある思いや行いを見ておられて、それを特別に好まれます。キリスト信者は自分の人生の中で、数知れない良い行いも成し遂げますが、そのために自慢せず、神様から頂いた恵みに対して努力し、神様に恩返しをしながら生きています。キリスト信者は自分の弱さを認め、神様の赦しを絶えず願い、自分が成し得た僅かなことに対して自慢せず、神様を誉めたたえます。
 「ルカによる福音書18・9-14」
 当福音書ではイエス様が相手を裁かない、戒めない(特にルカ6―42)と伝えながら他の話につないで、兄弟の欠点を強調しないように注意しています。イエス様は言葉じりを捉えるのではなく、いつも自分の聞き手に向かって、はっきり明言した話し方をしていました。また、イエス様の言葉の中には、秘められた悲しみも含まれています。さて、福音書が語っているエピソードで、イエス様がファリザイ派の人との根本的に違った考え方を示しています。すでに旧約聖書でも、神様の前で自分の正義を自慢し、間違っている他人を見下して批判したファリザイ派の人たちが忘れていた注意でした。いくつかのところで(ヨブ記、詩編などで)自分を自慢しないように勧めながら、人間は神様に対して自慢できるものはなく、欠点をこそ持っているものだと教えられています。同時に旧約聖書では、隣人を軽蔑しないように強く注意します。そのような心を持った人は神様から離れ去り、愚かな考えをもち、罪を犯しています。イエス様が語られたエピソードの中に登場するファリザイ派の人は、イエス様の言葉から離れて、大きな自己満足と間違ったプライドをもっているので、それに気付きません。反対にファリザイ派の人と一緒に祈る為に神殿に上がった罪人は、神様に対して自分が欠点だらけのものだと認識しています。自分の具体的な有り様を実感しないと、自分のことを自慢して人を見下してしまいます。反対に罪人は自分のことを神様にゆだねています。罪人は深く自分の罪を認識して、神様の心に届く祈りを祈っています。旧約聖書の中の、ダビデ王と同じ祈りです。だからイエス様が語られたたとえ話は、キリスト信者にとって、具体的な日常の公教要理になっています。初代キリスト信者の共同体から近代に至るまで、わたしたちキリスト信者は、このようなイエス様のたとえ話を参考にして、お互いに赦し合い慈しみの中で支え合っているのです。
                                    モヨリ神父

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C 第29主日 

2016年10月10日 | 神父様からメッセージ(C年)


 本来ひとにしつこくものを頼むのは失礼なことなのですが、しかし時によって一生懸命に願うことはその必要性、その欠かせない希望、願うことに対する愛着を示しています。このような思いの中でキリスト信者の祈り方を考えたいと思います。イエス様に従うもの達は、いつも祈るようにイエス様に勧められています。祈りの内容とその方法もイエス様に指導されています。しつこく頼めば神様が叶えてくださることよりも、まずイエス様はお父さんのようにわたし達を愛してくださる神様の姿を見せてくださいます。わたし達には必要なこと、良いことを何でも知っておられる神様が、いつもそれを願う前に与えてくださいます。「主の祈り」はわたし達に祈りの完全な内容を教えてくださいます。イエス様は子供として神様のものですから、いつでも神様に向かって絶えず祈るように勧めてくださいます。確かに神様はその祈りを聞いてくださり、いつもそれを叶えてくださいます。わたし達の思い通りではなく、いつもわたし達のための良い方を叶えて、むしろわたし達の心や思いに欠かせない指導をされる聖霊を与えてくださいます。
「ルカによる福音書18・1-8」
 当福音書で注目すべきところは二つあります。まず不正な裁判官と父である神様のやり方の比較です。次にイエス様に従うもの達の絶えず一所懸命に祈る方法とその目的です。日曜日に福音書を読む時に、いつも必要なのは二つの観点です。イエス様が生きておられた時のエピソードとその出来事が、初代キリスト信者の共同体にどのように受けとめられて解釈されたのかです。昔のイスラエルの社会の中で一番身分の低いものは未亡人、孤児と異邦人でした。旧約聖書では神様がこのようなもの達を特別に大切にします。そして良いイスラエル人もこのようなもの達を大切にし、収穫の時にも田圃に収穫の一部をこの弱いもの達の為に残していました。そして貧しい人に対して、未亡人に対しても法律によるよりも特別な扱い方が勧められています。しかし福音書の中に登場する裁判官はこのような心を持たず、未亡人からしつこく願われています。キリス信者は不正な裁判官ではなく、いつも皆に心を掛けてくださる父である神様に向かって、絶えず一所懸命に祈るようにします。絶えず願うことによって、不正な裁判官でさえ、応えることが出来ました。それよりも、一人一人を大切にしてくださる慈しみ深く憐れみ深い神様が、心から願えば必ず応えてくださいます。一所懸命に願う人に神様が特別に救いを与えてくださいます。絶えず願い続けなければなりません。イエス様も最後までそれを頼み願う人がいるかどうか大きな希望を表しています。キリスト信者もあらゆる願い事のために祈っています。しかし、一番大切なのは自分の最終的な救いです、または人生に一番欠かせない事の為に願うことです。それを人は忘れてしまうことがあります。
                            モヨリ神父

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C年 年間第28主日

2016年10月03日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 
 キリスト信者はいつも欠かせない大きな感謝の心を味わいながら過ごしています。神様に対して、また神様の姿を示す周囲にいる人に対してもいつも大きな感謝をもっています。それを表す方法は様々で、感謝の心はいくつもの理由から発生します。まず神様からいただいた命、この心と体、そして大きな喜びのため、それは神秘的に洗礼の儀式に認められた信仰を下さったことのためです。このような贈り物によってキリスト信者の人生は豊になって大きな感謝の心を持っています。それに従って、その感謝の心は大きな喜び、心の平和で明確にされています。神様にどのような恩返しをすればよいかキリスト信者が考えるよりもまず、大きな贈り物を与えてくださった方に賛美を、そしてその贈り物を受け入れながら大切にし、自分の身を小さくして深く頭を垂れるしかありません。そしてキリスト信者は自分の毎日の務め、良い行いを重ねることによっても神様に普遍的な感謝の心を表します。
 
「ルカによる福音書17・11-19」
 人間にとって神様に感謝の心を表すのは大変限られた経験です。たとえば聖書の詩編の中でも、嘆きの詩編、願いの詩編は感謝を表す詩編より多いのです。だから当日曜日の典礼が強調しているのは神様が今の命と普遍的な命の泉であり、わたし達のありのままの与え主であるということです。当福音書では皮膚病を患って癒していただいた十人の中で、一人だけが感謝を表しに戻ってきましたが、他の九人は定められた法律によって癒されたと思い、イエス様に感謝の心を表しませんでした。当福音書の物語の形を良く見てみると、まず大きな背景から=サマリアとガリラヤを出発し、その後、ある村の中で、次に皮膚病を患っている十人、最後にその中の一人が感謝を表したサマリア人です=だから当福音書は決意をもって自分の使命を果たそうとエルサレムに進んでいるイエス様が、このような感謝を表すサマリア人を伴っています。ギリシャ語では(救い)も(癒し)も同じ単語で表現されています。だからイエス様が人類の救いにエルサレムへ向かおうとしているのも具体的にそのためで、癒されたサマリア人がその救いの為に感謝を表しています。イエス様の勧めを通して祭司たちの所に行った他の九人の病人も癒されました。実は苦痛や病気も人を平等にします。しかし、その中でイエス様の時代にサマリア人は明らかに差別を受けた者で、皮膚病によって汚れた者、死に定められた者でした。イエス様がその病人を祭司のところに行かせて癒すことによって命を与え蘇らせています。そのサマリア人の中の一人だけがイエス様の元の救いであり、イエス様の言葉と働きによって癒されて信じた一人だけが、イエス様の力、その心を信じた一人だけが、大きな喜びの中で感謝し、その喜びを表しました。
                                 モヨリ神父
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C年 年間第27主日

2016年09月27日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 
 キリスト信者も自分の人生の間に良いことをするように努めていますが、それによって救いが得られるわけではありません。良いことをし、一所懸命に生き、立派な行ないをしながら、輝いている自分の役割を果たす目標は、まず神様に感謝するためです。神様からいただい命、恵み、喜びは数知れないほどありますから、それに感謝の心をもって、いろんな方法で恩を返すように生きています。そして神様の僕(しもべ)として、神様から任せられた役目を積極的に果たすように努めています。キリスト信者はその目標を果たす為に一所懸命に生きるのです。それでキリスト信者は良いことを沢山したからと言って、神様から特別な、評価、報い、名誉などが得られるのではなく、忠実な僕として自分に任せられた義務を果たさなければならないと思い、神様に人生の一瞬々をささげているのです。そしてその後に、イエス様が勧められたように「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うのです。
「ルカによる福音書 17・5-10」
 当福音書は人の信仰に注目しています。イエス様は自分の言葉を実行するために信仰を持って生きるように勧めます。ほんの少しの信仰さえあれば、根の生えた木さえ海に行かせることができるとイエス様が強調します。それに従ってイエス様がこのように行いよりも信仰に注目されます。イエス様から語られた例えは比較的な話で、聞き手は自分の心の中で結論をひきだすように勧められています。僕らしく生きてきた僕は、自分がしなければならないことをしたのですから、特別な賞を得られるはずはありません。むしろ自分らしく生きてきたといって満足するべきだとイエス様がおっしゃいます。僕にとってまず自分の主人を信じて、それに忠実にするのは一番ですが、次にその役目の通りに生きるのは当たり前なのだと考えています。キリスト信者は神様に対して同じような心をもっています。良い、忠実な僕のように感謝の心で、神様に昼も夜も使えています。その後「取るに足りない僕だ」という表現は、上記のような心を示しています。信仰を持った人は神様を主人のように愛し忠実に生き、しなければならないことを果たして、謙虚に努めています。自分の行いの善さを通して神様の報いを得るのではなく、神様に対する愛や忠実な生き方で、神様の報いが得られます。神様ご自身がわたし達のことを思い、大きな愛情で包んでくださり、願ったこと以上に報いてくださいます。良い僕は給料を得るためではなく、主人を喜ばせるために努めています。キリスト信者は同じように神様の心を信じて神様の思い通りに、神様に心をあわせて忠実に生きています。
                                   モヨリ神父
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C年 年間第26主日

2016年09月19日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 キリスト信者の心には欠かせない特徴があります。それは聞く心です。自分の心、自分の体全体を耳にすることです。耳を傾けて神様が話される声を聞いています。有名な神学者もキリスト信者を「み言葉を聞く人」とよんでいます。神様はそよ風の中で話してくださり、嵐の中でも預言者の時代のように話されます。モーセに茨のやぶの中から話されました。サムエルは夜中に夢の中で神様から呼ばれました。聖書の中に神様がしばしば雲の中から話される場面があります。神様は人の心の沈黙の中でも話されています。イエス様が神様の言葉になって、山から話しかけられたり、小さい船からでも群衆に話されていました。洗礼者ヨハネは声として言葉であるイエス様に耳を傾けるように、自分の命を掛けて勧めました。小さいものたち、貧しいものたち、病者の中に宿るイエス様が、このような人々を通しても話してくださいます。キリスト信者はこのような不思議な、神秘的な言葉に一生耳を傾けています。その中に人生の喜び、幸せ、救いが含まれているからです。
「ルカによる福音書 16・19-31」
 聖書によると富はむしろ人の心を縛る枷であり、人の目も暗くして、神様のこと、他人のことも見えなくします。また神様の言葉も聞こえなくなるのです。このような心を持った人は貧しい人、弱い人を差別し、神様から見捨てられています。富にとらわれた人は心がかたくなで慈しみと憐れみのない人になります。預言者の言葉を通して、富のためだけしか生きていない人達を、神様が厳しく裁かれていることで明らかです。当ルカの福音書の例え話で注目するところは、貧しい人には名前があります、金持ちには名前はありません。貧しい人はできものだらけのけがれた者で、犬がそのできものをなめています。しかし例え話の中心になるのは死後に起こることです。隣人のことを完全に見えなくなった金持ちは地獄に落ちて、貧しい人はアブラハムのふところに受け入れられています。当福音書はあくまでも例え話です。死後、正確に何が起こるか誰も知りません、しかし例え話は死後、生きていた通りに報われることになると言っています。とうとう金持ちは自分の兄弟について心配しはじめます。アブラハムの答えは、ラザロは助けに行けないが預言者を通して宣べられた神様のみ言葉を聞くべきだと告げています。最後に例え話が強調するのは、神様のみ言葉を聞き、心を変える、その言葉の力を受け入れる人だけが神様を見、神様に従う、隣人を愛するということです。自分の心が縛られることなく富から自由になることによって、素晴らし天上の音楽を聞くことになります。それはわたし達の救いの歴史の歌です。
                               モヨリ神父
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C年 年間第25主日 

2016年09月16日 | 神父様からメッセージ(C年)


 昭和26年、老人の福祉と敬老について啓蒙することを歌い文句に「老人の日」が設けられ、週間行事も行われてきた。現在は九月の第三月曜が国民の祝日の「敬老の日」として、公私を問わずその趣旨に沿うべく、各地で多彩なイベントなどが催されています。人生はそれぞれの季節によって、辛いことがあり嬉しい時もあります。老年に入ることは、人生の一番辛い時ではないと思います。年寄りになっても幸せな生活を送ることが出来ます。まず、自分の人生を振り返ってみると、神様からいただいた恵みを沢山見ることが出来ます。感謝の心が深くなり、それは自分の人生に全部及んでいきます。自分の言葉の重さによって人を指導し、素晴らしい真理を紹介し、自分の心も大きな喜びで満たされていきます。そうしてこのような思いに満ちた心の高齢者は、大きな平和を味わい、まだ若い人たちにも限りない人生の価値を伝えることができます。イエス様の言葉をも自分の人生に結びつけて見、神様から任せられた人生を上手に使うことができれば、神様が大きな報いを与えてくださいます。神様のみ旨の通り生きたものたちは素晴らしい心の平和を味わえます。
「ルカ福音書 16・1-13」
 神様は人間に自分が父であることを示し、愛と赦しで満ちた人生を任せ、ご自分の永遠の命、普遍的な喜びを供えてくださいます。それに対して人間は、この世の持ち物を通して豊かさ、名誉、栄光を探し求めています。自分の人生で何を選択するかによって、自分の人生の価値観のもとに、人と神様との関わりの中で、どれかを選ぶとすれば、選んだことに対して他を拒否しなければなりません。当主日の集会祈願は共同体の声になって、このように神様に願っています:「貧しさに徹して生きる道を示してください。まことの豊かさを知ることが出来ますように。」また第一朗読によると、富にとらわれた人は現実を見失い、富に縛られて、相手を物理的なもので犠牲にします。福音書の課題は正義に生きるように勧めますが、わたし達の思いは神様の思いに従って富の為ではなく人の為、むしろ他人に富を分かちあって生きるように勧めています。イエス様が語られた例え話を通して、豊かに生きる為にいくつかの教えを勧めてくださいます。まず、思いがけない不幸な目にあっても、あきらめないでそれを肯定的な行動で乗り越えなければなりません。主人に不正な管理人が誉められたのは、厳しい時があっても賢く、徹底的に働いたからです。イエス様の弟子でも、どんな時でも、このように行わなければなりません。次に富の使い方についても教えがあります。富に対して人間は中立になることができません。心が富にとらわれた場合、富の力に口説かれる場合が多く、冷静に神様に忠実に生きることはできません。どうしても不正な道の方に引っ張られて、その下り坂をたどるようになります。どんな場合でも現世的なものに元づいて考えれば、人生を乱します。正儀と不正義を同時に生きることはできませんから、イエス様の弟子は常に目覚めているべきです。そして神様の恵みによって迷わず正義の道を選ぶべきです。                        
                            モヨリ神父 


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C年 年間第24主日 

2016年09月05日 | 神父様からメッセージ(C年)


 キリストに従う者達でも誰でも、同じように希望を持って探し求めるものがあります。キリスト信者は不満や寂しさからだけで探し求めるのではありません、まず感謝の心をもって生き、希望をもって探し求めています、それは神様の心です。どんなことが起こっても、キリスト信者はその中に神様の愛を見出します。現在の大切な一瞬一瞬を生きるとき、神様と一緒に生きていることを味わっています。未来の方に目を向けると、神様の思いやその救いの計画を神様のみ言葉と出来ごとの中に探し求めながら、神様の心を果たすことができると思っています。イエス様に従いたい者たちは、いろんな人の心の中に、神様の姿を探していて、それを大切にします。最後にイエス様ご自身が言われているように「探しなさい!求めなさい!」その中に含まれているのは確かに良いこと、人の喜びと幸せ、それに失った小さくても大切なものもあります。小さなものでも全て神様のものですから、キリスト信者は神様の心を映しながら、良い牧者のように、母親のように、放蕩息子の父親のように、弱い者、罪人、それら全てを探し求めて大きな愛で包んでしまいます。
「ルカによる福音書 15・1-32」
 イエス様の時代、罪人は神様に嫌がられて、よい人から離れるべきものだと考えられていました。残念ながらこのような考え方はまだ現在でも残っています。それにしたがって、赦しは自分の罪を認めた人だけに与えるべきだと思われます。イエス様はそのような考えを乗り越えて、罪人は神様に大切にされるもので、罪人が神様に受け入れられ、神様のもとに戻る時の喜びを強調されています。赦しを与える方も赦しをいただく方も共に大いに喜んでいます。イエス様が例え話を通して、福音書の目的を見せています。赦す時に、赦された時により大きな愛の体験になります。その時に救いを見出しますから、喜び祝うことは当たり前ではないでしょうか。当福音書でイエス様が語られた例え話は二つのパターンにつながっています。一つ目は「失ったもの、探し求めたもの、大喜び」。二番目は「出発し、戻る、祝うこと」。これらのイエス様の例え話を読むと三つの慈しみの例え話、つまり失った羊を見つけた時の例え話、見失った銀貨を見つけた時の例え話、放蕩息子が帰った例え話に大きな喜びで結びついています。上記のイエス様の例え話が罪人に対する神様の心の有り様を語っています。さて、物語の大詰めは、神様と人間とが大きなものを分かち合った喜びです。この例え話を、憐れみの例え話と言いますが、イエス様は自分の心と同時に神様の心を開いて見せています。ルカ福音記者は信仰を持つに至る異邦人の為に福音書を書いていますから、新しい神様のイメージをそれらの人々の為に徐々に作ろうとしています。ギリシャ人にとって神様は不動であり、厳しい姿を見せながら、失敗した人(罪人)は適切に罰せられるものとして知られています。しかし、イエス様が教えられる神様の心は、相手の事情によって慈しみの心に変わるもので、失敗した人、失った人を非常に愛して、その人と出会って、その人が改心した場合、共に大いに喜んでいます。イエス様の例え話を朗読する人は、素晴らしい優しいキリスト教の神様の姿に導かれていきます。            
                                       モヨリ神父
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C年 年間第23主日

2016年08月30日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 ヨーロッパの伝統的な思想では、人の心の中に価値観の階段を作るように目指します。つまり何より大事なことは皆の心の中に欠かせないものがあって、まずそれを探し求めるように勧められています。たとえば、階段の最上階に立つのが愛だとすれば、家族の愛、友人の愛が優先され、その後社会的な義務、次に仕事などと続きます。それとは違って豊かな心をもった日本人にとって、このような価値観は築きにくいと思います。なぜなら、日本人の心の中には何が一番大切だと決めて求めるよりも、宇宙のような心の中に沢山の素晴らしいことの順番を並べるよりも、素晴らしい出来ごと、社会の平和、家族と集落の行事、大自然の現象、美の調和等を全て組み合わせて探し求めています。日本のキリスト信者にとって、いらないものは一つもありません。全て組み合わせて、心の豊かさを示しながら神様の素晴らしさを表します。このような心を持ったキリスト信者も、イエス様に出会って、イエス様に従う方法をより深く考えていきます。
 「ルカによる福音書14・25-33」
 イエス様を信じて従う事は、神様の大きな贈り物です。その贈り物をいただく心が必要です。その受け入れる心がまえには形があります。身内より神様を愛する心、イエス様と一緒に十字架を背負うのを怖れない人、自分の持ち物より神様を大切する人です。確かにキリスト信者でも、完全に完璧にイエス様のおっしゃる言葉を受け入れてもなお、その通りに生きることは出来ません。しかし欠点のあるままで、あいまいな思いのままでも、イエス様がおっしゃる言葉を理想にしてそれを目指していきましょう。
 今日の典礼の中でもイエス様に従う為に、特に人間にとって実現しにくいことが記されています。それは、自分にとって一番大切なものを拒否すること、自分の持ち物を横に残すこと、自分のアイデンティティを最後まで保つことです。当福音書にはイエス様が大変厳しい言葉で、自分に従いたい者たちに、当時の表現を用いながら厳しい選択を(身内を憎むことまで)迫っています。実際にイエス様が何をおっしゃっているのかを少し深めてみましょう。イエス様は、どんな人間観関係の中でも神様との関係を優先すれば、全ての調和である神様の愛の中に、人間の愛と人間関係を包んでくださるということなのです。イエス様の十字架をイエス様と一緒に運ぶのは、イエス様のご受難の苦しみを一緒に背負うことになり、その苦難を乗り越えることです。場合によっては信仰の厳しさを運び続けることです。最後に人間は素晴らしい神様の作品ですから、この世の物理的なものにとらわれてはいけません。イエス様を信じる者たちは、いつも自由な心をもって何ものにも縛られることのないようにして、イエス様にいつでもどこででも、従うのです。
                                     モヨリ神父
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C年 第22主日

2016年08月24日 | 神父様からメッセージ(C年)

 厳しい残暑のなかで、もう少し耐えなければなりません。この時期のように「耐える」あるいは「忍耐する」は、独特な宗教的な言葉に聞こえますが、それだけではないと思います。確かに日常生活でそれらの事は大きな課題になりますが、イエス様が勧めているのは忍耐より、他人により大きな愛を見せることです。愛なしでは人生も光と色のない日々になり、苦しさに耐えるだけの無味乾燥なものになります。愛で満たされている心があれば、日常生活の苦しい時でも色彩豊かな人生になります。苦しい時に愛を持って人に向かうことにすれば、相手にとっても素晴らしいことです。その時は人々により大きな愛を示す良い機会なのです。お産の時を考えてみてください、お母さんが苦痛を耐えることよりも、それを通して自分の子を産む、素晴らしい命を自分の愛から生み出すことが出来るということ。それは大きな苦痛でも、乗り越えたその後に、ほほ笑むことが出来ます。
「ルカによる福音書14・1、7-14」
 イエス様の言葉によると、謙虚な心を持った人は、具体的に真実につながるものであり、人の心も理解しやすい人です。謙虚な心を持った人は奉仕と施しをする人に変わりやすくなります。イエス様が勧められる謙虚、謙遜な心は単なる社会的なマナーの心構えではなく、イエス様は「わたしは謙遜なものだから、わたしに学びなさい。」との言葉で自分の心を手本にして、自分のように生きるように勧めてくださいました。当福音書のテーマは謙虚さの価値観についてのイエス様の話です。正義を無視して隣人を見下し、一番になりたい人がなぜイエス様から戒められるのか、イエス様が明らかにしてくださいます。まず、当個所は二つの部分に分けられています。一つはイエス様のたとえ話、もう一つはファリザイ派の人々に教わったことです。注目するところは、イエス様がファリザイ派の人の所に食事に行かれた時の事です。ファリザイ派の人々も皆が悪い者だけではありません、そして話の背景は宴会(食事中)のところです。言い換えれば、キリスト信者の共同体のあり様を示しています。上に記されたように、イエス様は宴会のしきたりを教えるつもりではなく、むしろ神様の心と思いを理解させたかったのです。罪人とファリザイ派の人が神殿で祈った時のように、神様は自己自慢する人を見下し、謙遜な人を高めています。当福音書の第二部では、後の人が先になるのは自らの働きではなく、高めるのは神様の寛大な心です。徹底的に利益を求める現在の社会と違って、イエス様が当時、自分に従う人に無償の心を勧めています。自由な心で行うものたちは(タラントンのたとえ話が参考に)神様にたくさん報われています。イエス様自身、自分を全て無償で、死ぬまで人々に尽くしました。イエス様の心に見習っている弟子たちも、自分の日常生活では自分を捨てて、自分のことを忘れて、無償で隣人に使え相手の喜びだけを求めています。
                                   モヨリ神父
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C年 第21主日 

2016年08月16日 | 神父様からメッセージ(C年)

 
 イエス様が自分に従った者達、疲れた者、病気の者、いろんな苦しみに抱かれた者へ暖かい眼差しを向けられ深く憐れまれて、「わたしのところに来なさい、休ませてあげよう」と言われています。その誘いを受け入れるようにしましょう。人間はいろんな時、いろんな理由で心を乱して疲れています。自分の居場所が見当たらない時、愛されていないと感じる時、自己中心的な生活を送る時、過去の失敗を思い悩む時、理想的な未来だけを望む時、自分自身だけで人生の問題を解決したい時、このような時イエス様のところに行きましょう。イエス様が休ませてくださいます。「道、真理、命」であるイエス様が、わたし達の心を照らし、暖かく養い休ませてくださいます。わたし達の心の中に新たな力を吹き込んでくださいます。そのように支えられて、わたし達は人生の素晴らしさを味わい歩み続けることができます。新たな力で蘇ることができます。

「ルカによる福音13・22-30」
 ある人がイエス様に救われる方法を教えてくださいと頼み、また救われる人は少ないのかどうか尋ねました。イエス様が答えて救いの道を教えようとしました。イエス様は「狭い戸口から入るように努めなさい」と言う答えで救いの道をすべての人に教えてくださいます。その狭い戸口は確かに信仰の厳しさ、神様の共同体に尽くすこと、人生の中で愛の為に生きることなどの救いの道を示してくださいます。このような生き方はイエス様の十字架の愛を理想にし、復活の喜びを目指しています。初代キリスト信者の間にも、救いの話、そして神の国で一番になる人の課題は少なくなかったので、イエス様が人々の心に応えようとしています。まず救いに関しては意味のない事柄を強調されています、「ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、またわたし達の広場でお教えを受けたのです。」このようなことは救いを得られる資格にはなりません。聖霊によって神様のみ旨を行うこと、また神様のみ言葉に従うことによって、イエス様が話してくださった救いを得られることになります。狭い戸口に関してイエス様の発言は少しずつ明らかにされています。この神様まで導かれる戸口はいつも開いています。どうしても入ろうとすれば確かに神様の喜びに達することができます。イエス様を信じて、イエス様と一緒に十字架を背負い、人と神様を愛することは人間にとって簡単なことではありません、厳しい時も辛い時もあります、それはまさに狭い戸口に立つようなことですが、イエス様がおっしゃったように、どうしても入ろうとすれば神様に導かれて救いの喜びを得ることができます。イエス様はわたし達の救い主、イエス様が救いの道を教えてくださいます。自分の人生の中でイエス様を受け入れることによって心の救いを得られます。
                           モヨリ神父
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C年 第20主日 

2016年08月09日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 キリスト信者はお盆に、つまり8月15日を迎えると聖母被昇天を祝い、天におられるマリア様、聖人達、皆のそれぞれの先祖を思って祈ります。このような天国はわたし達の心にまで及んでおり、わたし達もその天国に属しています。実は天国がわたし達の人生の目標になっています。その天国とは神様が住んでおられるところであり、神様に愛された者も住んでおり、神様を愛する人も永遠に住んで生きています。そして、そこに住む皆が大きな喜びに満たされています。皆が身近に兄弟姉妹のように生き、その中に神様に上げられたマリア様と聖人達もわたし達を愛情で包み、見守っていてくださいます。天国に神様から上げられたマリア様がわたし達の希望、理想と一緒にわたし達の苦しみと悲しみも、神様の前で、それを大きな喜びに変えてくださいます。さてある時、聖ヨハネ、マリア、ビアネイ司祭がフランスの小道を歩いていると少年に会いました。「ちょっと、すみませんがアルス市に行く道を教えてくれませんか」と司祭は頼みました。「はい!」と喜んで少年が答えました。それで、司祭も同じ情熱と喜びで「さあ、わたしが恩返しに天国に行ける道を教えてあげますよう!」と言いました。今日、聖母の被昇天にあたり、マリア様が同じ道をわたし達に教えてくださいます。
「ルカによる福音書1・39-56」 
 当福音書の個所は神様が小さなものを通して素晴らしいことを成し遂げられたことを語っています。人間の救いの為に神様がなさったことを、身近に見られたマリア様が感謝と喜びで満ちた歌を歌います。マリア様が自分のいとこエリサベットを訪ねた時に神様の思いを確認することが出来ました。つまり、神様が人間の弱さを通してご自分の心の通り、偉大な思いと行いを見事に成し遂げ、清い心を持った人に表しているのです。神様の存在と働きは小さなしるしを通して皆の人生の中に起こります。それに気づき、天使の声によって確認されたマリア様と同じように、わたし達の大きな喜びのもとになっています。神様が皆の人生に関わっています。聖母被昇天のミサの典礼では、イエス様の教会もマリア様と同じように神様の働きに気付き、それを確認し感謝と喜びの歌をささげます。マリア様は日常の出来事を深く読み取って、その中に神様の働きのしるしを見出し、それを理解して大きな喜びで抱かれていました。福音書の中で記録されたマリア様の歌は、マリア様ご自身と教会の皆の喜びに満ちた感謝が豊かに表現されています。マリア様と同じように教会も現在の世界の中で、神様の存在とその救いの働きを人に示す役割を持っています。またキリスト信者を通して、神様が人類の為に神秘的な救いの計画を気付かせて確認させる任務を与えています。それを受け取って、気付く、理解する人々はマリア様と同じように喜びと感謝で、弱い自分の人生を神様に高められて歌うことが出来ます。
                             モヨり神父
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C年 第19主日

2016年08月02日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 今週に「平和の旬間」もはじまります。誰でも心の平和、人生の平和、社会の平和を望んで求めています。よく考えてみれば「平和」は復活されたイエス様の貴重な贈り物です。それは神様の思いのように生きると言う意味です。さてそのような平和を実現するために、キリスト信者は全世界の人々と一緒にこの旬間を大切にし、お祈りします。力が衰えてくる夏の間、体は涼しい木陰や健康を支えてくれる飲み物や、食べ物を欲しがっていますが、実は心も同じような時を迎えています。その時、それを支えて、満たしているのはイエス様です。キリスト信者はイエス様の言葉を受け入れて、イエス様の体にパンとして支えられて、苦しい時でも力強く人生を歩み続けています。イエス様が弟子たちを支えながら彼らに目覚めているように勧め、いつも、どんな時でも心の用意を持つように教えました。その教えに従う者は大きな喜びを迎えられるのです。
「ルカによる福音書 12・32-48」
 当福音書に題名をつけようとすれば、「準備しながら期待すること」。期待するのは時間の流れが大切だし、その時間をどのように過ごしているのかが欠かせない思いになっています。待つ心は以前された約束から生まれてきます。だから期待するのは約束とそれを実現することが結びついています。むしろその熱い期待によって、約束されたこととその実現する期間を短縮します。約束から、その実現の間の日にちは神様から与えられたチャンスであり、大きな贈り物です。上手にそれを利用すれば、約束の実現する時までにふさわしい準備ができます。だからキリスト信者にとって期待する期間は大切であり、使徒パウロにも上手に使うように勧めています。待つ人は信頼を持って期待していますと言っています。さて、当福音書は三つの名言で分けられています。一番目は「あなたがたの富のあるところに、あなた方の心もあるのだ。」二番目は「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕達は幸いだ」三番目は「全て多く与えられた者は、多く求められ、多く任せられた者は、更に多く要求される」。一番目の言葉によってイエス様がご自分の聞き手に安心を与えています。重要なことは神の国ですから、それに皆が属しています。それを信じない人、また神の国に属していない人は空しく、この世の財産を握って大切にします。二番目は普通にはありえないようなことが語られています。僕のように忠実に生きてきたキリスト信者は神様から呼ばれた時、また出会った時に、寛大な心である神様に大切に給仕してもらえることになっています。最後に三番目は神様の憐れみと慈しみは、イエス様に一所懸命従ったものたちに豊かに与えられることになっています。結論として、神様からいただいた贈り物を上手に、感謝の心を持って使用した者たちは豊かに恵まれます。
             
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