カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 四旬節第三主日

2011年03月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「隣人に対して愛徳を尽くすこと、神のみ旨を果たす決意をすること、単純、謙虚な心で神に信頼すること、自分の不完全さを忍耐することは、神に従うことです。」 聖・フランシスコ・サレジオ

「辛夷」白く香りのある大きな6弁の花です。葉に先駆けて一斉に咲いている様子は、春を喜ぶ妖精たちの群舞のようで、木全体が一つの花のように見えます。「花辛夷」ともいい、「こぶし」の名はつぼみの形が赤子のこぶしに似ているからといいます。モクレン科の落葉高木で、庭木にも多く山に自生しているものは高さ15メートル以上になるものもあります。
さて、四旬節第三の日曜日にあたり、主日の喜びは洗礼志願者の存在でも飾られています。洗礼の準備のために、四旬節は年間中もっともふさわしい時期ですが、毎週典礼から勧められた福音書も、洗礼式の神秘的な内容と価値を紹介してくれています。キリスト信者は四旬節の間精神を高め、人生を見直します。特別に共同体の中で赦し合うことと心くばりを大切にして、神様の慈しみを伝えることです。そして謙虚な心も欠かせないことです。私達の主はイエス様だけです。キリスト信者はイエス様の真似をしながら、何も自慢せずイエス様の姿を先にして世界に示しています。それだけではなく、いつも仕える者になるのです。
ヨハネによる福音書 4・5-42
当日曜日の福音書は、イエス様がサマリアの井戸で出会った婦人との対話を語ってくれています。暑い日中のお昼ごろ、喉が渇いたイエス様がサマリアにあるシカーの井戸に近寄った時に、信仰へ導く話をある婦人に仕掛けました。その対話の結果、婦人はイエス様に対する信仰だけではなく、自らの人生を見つめてそれを見直すようになりました。実は心の中でイエス様に出会う人が、イエス様を信じることによって、自らの人生を見つめ、自分自身をさえ再発見することが出来ます。そこから自分の人生も見直すことが出来ます。サマリ人の女との出会いが語られる聖ヨハネの福音書が、とても象徴的な話しで細かく書かれているのは、洗礼を受ける人のための重要な手段であり、同時に一般のキリスト信者の為には信仰に達する道しるべです。まずイエス様はメシアであること、そして丁寧に自分のことを紹介して、救い主であることを公に明らかにします。サマリア人の女の信仰への歩みを語りながら、三つのテーマが強調されています、第一「水のシンボル(象徴)」、第二「どこで、、どのように神様を拝むか」、第三「メシアはどのようなものなのか」と。それに加えられたのはいろんな役割を果たしたサマリア人達のこととイ、エス様の弟子たちの反応についての話しです。聖書によるとユダヤ人にとって、水は法の中に含まれた智恵を象徴していました、だからいつも法の中から智恵を汲むことが出来ました。イエス様にとって水は、聖霊の命を象徴しています。だからわたし達が汲むべき井戸は、智恵と霊で満たされているイエス様自身のことです。それからサマリア人の女も、わたし達にもその井戸の中から普遍的な「水」を汲むように勧められています。イエス様の井戸からわたし達が汲むのは、聖霊の力、人生を導く智恵です。だから聖霊と智恵に導かれているわたし達の行いは、法に縛られている行いではなく、愛の霊と智恵に満たされた自由な行いです。同じように、このような井戸に水を汲むことによって、神殿でだけではなく、どこででも自由に自分の日常生活の中で、自分のよい行いを通して、神様を拝むことが出来ます。わたし達の人生を満たされるのは、欠かすことの出来ない唯一のメシアであるイエス様です、それが分かったサマリア人の女、それに従ったサマリア人達、イエス様の弟子達も、救い主であるイエス様の福音を多くの人達に告げ知らる事になりました。        モヨリ神父

※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞)より一部引用

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毎週の一言 A年 四旬節第二主日

2011年03月18日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「神様に仕えることを楽しく感じなくても、神様はそれを喜んで受け入れています。」
聖フランシスコ・サレジオ
寒さがまだ残りますが、梅があちらこちらで満開になり、水仙の花も建物の周りや道端を飾っています。春が遠くないことを鳥達の歌声も知らせてくれています
さて、四旬節の第二の日曜日にあたり、ますます復活祭への準備を進めながら心の大切さも深まり、信仰の主なテーマを皆さんも思い巡らししていると思います。四旬節は復活祭に洗礼を受ける者にとって、特別な準備の時になっています。その準備の進みの中で、教会では独特な言葉が使われています。まず「光」というのは神様の存在を示しています。それだけではなく、洗礼を受ける者にとって信仰の光は新しく人生を照らし、人生の色々な出来事の中に神様のみ旨を見出し、神様の働きを身近に感じるように導かれています。
次に洗礼を受ける者が体験することは、心の自由です。自由に生きる経験は、喜びの中で生きることです。そして愛する人の為に生きる時に特別にわたし達の心は自由の中に生きることを経験します。四旬節の間に復活祭に洗礼を受ける者達はこのような経験をします。このように生きようとすれば、つまり光の中に、神様だけを愛しながら自由に、豊かに自分の人生の喜びを味わい、復活祭の時にイエス様と共に蘇えり、いつまでも神様の懐の中で生きることが出来ます。母である教会からキリスト信者に、この四旬節の間に特別な過ごし方を勧められています。それは少しでも節制することです。けれども、特別に神様が一番好む節制は、祈ること、そして神様の言葉を受け入れ深めながら、それを自分の人生の中に生かすことです。
マタイによる福音書 17・1-9
四旬節の第二の日曜日の福音書のメッセージを、もう少し深めてみたいと思います。イエス様がご自分の神秘的な心を現す時、選ばれた弟子達の前でご自分の姿を変えました。そして同時にイエス様の傍にいた預言者エリアと立法を象徴するモーセの姿も一緒に現れました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの前でイエス様が、ご自分の姿を変えた時に弟子達が非常に喜びながら、驚き、神様を見、身近に神様との出会いの経験をしました。その時、弟子たちはイエス様が神の子であることを悟りながら、神様は美しいものであり、美しさそのものが神様であることを実感しました。このような神様の姿を見て、弟子たちは大いに喜びました。永久にあのような神様の姿だけを味わい見つめていたかったのです。ペトロは「こちらで三つのテントを建てましょう、ここに居ていただくのはわたし達にとって素晴らしいことです」と言い、当時の弟子達の気持ちを現しましたが、神様に出会うキリスト信者も同じようなことを感じています。よく考えてみれば、わたし達にとっても、日曜日に教会に行くと神様の姿がわたし達の目の前に現れて見えるのです。辛い現実も素晴らしい姿に変わります。それだけではなく、聖櫃におられるイエス様のパンやわたし達の周囲にいる共同体の者達も、一つにになって祈る時に、すばらしい神の子であるイエス様の変わられた姿を見つめることができます。だから、日曜日に皆で一緒に集まって祈るのは、本当に素晴らしいことです。ずっと永久に居たい所です。弟子達と同じようにずっとあのようにいいたいのです。けれども弟子達の前でイエス様の姿が消えたように、わたし達も同じように、日常生活に戻らなければなりません。戻る時に、平安を得た心に大きな喜びをもって、日常の役割を神様の思い通り果たすことが出来ます。
                                   モヨリ神父
※「くまもと 歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)  より一部引用        
 

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毎週の一言 A年 四旬節第一主日

2011年03月10日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「自分の心をからっぽにしなさい。
そうすれば落ち着いて神様と自分の問題を話し合うことができます。」聖フランシスコ・サレジオ

「啓蟄」三月五日ごろ、長い間土の中で冬ごもりしていた虫達が、穴を啓(あ)けて地上に這い出してくると言う意味です。この頃になると風の硬さが日一日と和らぎ、大地も日差しを浴びてどこか膨らんでくるように感じられます。又、雲雀の初鳴きを人々は楽しみにし、平年より早かったとか、遅かったとか言います。山焼きや野焼きが終わると、阿蘇はすぐ雲雀野となります。
さて、岩の上に置かれたキリスト信者の人生は、毎年灰の水曜日で四旬節に入り、復活祭への準備が始まります。四旬節は心の準備の時季であり、初代教会のときから、教会の伝統によって、勧められた方法があります。まず、自分の心の中の人の目がない所で、神様との出会いを求め、神様の言葉に耳を傾けることです。次にしるしのような行動を三つ勧められています。断食、施し、そして祈りです。このような修業をすることによって救われる、神様の愛を得られるということではありませんが、このようなしるしによって神様の心を深く理解し、それを自分の人生の中で受けとめられるようになります。断食するのは感謝の心が育つ方法であり、より深い霊的な世界を見出すことが出来ます。施しをすることによって、神様の愛にたいして恩返しをすることになります。キリスト信者は自分が神様に愛されたように人を、特別に弱い者を心を込めて愛します。また祈りは神様の心とふれあう場となります。神様の言葉に耳を傾けながら、自分の人生を開いて神様の愛の計画を取り入れましょう。 
マタイによる福音書 4・1-11
四旬節の第一日曜日の福音書の内容に注目しましょう。それはイエス様が砂漠で受けた誘惑の物語です。根本的に弱い人間は、人生の様々な時にこそ誘惑に襲いかかられるものです。その時人間は、悪の魅力に捕らわれ、簡単に様々な権力を獲得するように悪魔から勧められます。しかし、イエス様は神様のことだけを選択するように呼びかけられています。誘惑が襲いかかる時に、わたし達は神様の力に支えられて、神様のみ心の通りに行うようにイエス様から教えられています。イエス様はまず、苦しい状況(砂漠)の中でより簡単に自分の人生の行き先を求め、また自分の名誉だけを望むように悪魔からすすめられました。しかし神秘的な力によって、イエス様は神様のみ心だけにご自分の人生を捧げるように選択して、悪魔を追い払いました。普通誰でも、神様に祈る時に神様の意思を自分の意思に合わせるようにしがちです。しかしそれは、人の人生にとって陥り安い誘惑です。イエス様がそれを拒否するように教えながら、神様だけを選び、自分に従った者たちに大きな力を与えてくださいます。神様は人間が耐えられない誘惑は与えられないのです。誘惑にあった時に耐えられる人は神様に祝福されています。イエス様は砂漠で歩いていたイスラエル人が誘惑を受けたように試練を受けられました。神様に愛されたイスラエル人はその誘惑に負けて、神様から離れてしまいました、しかし神の子であるイエス様は、その同じ誘惑を退け、神様の心を誉め讃えながら、最後まで神様のみ旨に忠実に従われました。
                                    モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞)より、一部引用

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毎週の一言 A年 年間第九主日

2011年03月04日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様を愛する皆様へ
「天国で互いに愛することになっています。今こそ、愛することを学びましょう!」 
聖 フランシスコ・サレジオ

春になると物種を蒔いたり苗を植えたりします。その前に田畑を耕して軟らかな土にします。「耕し」「畑打ち」「田打ち」などとい言います。昔は耕馬、耕牛などもいましたが、今は広い田畑は耕運機で土壌を鋤き(すき)起こします。人が一鍬一鍬(くわ)を振り下ろし耕している姿に出会うと心が動きます。
この頃、大自然の美しさは皆の目を驚かせ、その時、心が大きな喜びで満たされます。この時こそ、キリスト信者の思いは神様の所に飛んでいきます。誉めたたえる思い、感謝の思い、喜びの思いの中でキリスト信者の人生と神様の命とが一つになっていきます。人間も神様と一緒にこの世の創造主になるのです。この世の美しさを観想しながら、キリスト信者は神様の思いの通りに生き、働き、心の平和の中で大きな喜びを味わいます。このように生きるのは「永遠の命」と言います。永遠の命とは、死後始まる命だけではなく、今もいつも、神様と一緒に神様のみ旨の通りに生きることです。そして同時に皆の為に神様によって神の国の中に準備された喜びの宴を期待することです。永遠の命とは人間にとって夜の暗闇を溶かし、ずっと、輝く素晴らしい光のある普遍的な一日になります。それはイエス様が自分に従った者たちに、自分の名によって苦しんだ者たちに約束された報いです。
マタイによる福音書 7・21-27
イエス様が書かれた書物は一つもありません。弟子たちも派遣されてすぐに福音を述べ伝える為に努めました。それらが初代教会によって書かれたのは、永い時を経た後の事でした。けれどもイエス様が残された言葉は生きた言葉、聖霊に生かされ生き生きした言葉でした。反対にヘブライ人のかたくなな伝統のこだわりの中での神様の言葉は固定されて、奇跡的なことだけを求めていました。当福音書はイエス様の山上の話の最後の部分を映しています。4つのテーマに分けられています。一番目は狭い入口に入る難しさの話。二番目は偽預言者の実り。三番目は「主よ、主よ」と言うだけの人たちの審判。四番目は、イエス様の言葉を聞くこととそれを実行することです。神の国に入る為にキリスト信者は神様の思い通りに行わなければなりません。しかし悪霊を追い出した人、預言をし、奇跡さえも行った人でも、入ろうとする時に神様のみ旨に従わなければ、ドアは閉められたままです。キリスト信者にとって欠かせないことは、どのようにして神様の思いに一致することができるかということです。いろんなカリスマは共同体の成長の為に聖霊からそれぞれの人に送られています。キリスト信者にとって絶対欠かせないのは神様の心に一致することなのです。神様が好む良いことや、神様に反する悪いことを区別するために、イエス様の言葉に耳を傾けなければなりません。キリスト信者がそれを心に受け入れて、自分の心と人生にしみ込ませ、そしてそれを実行するのです。岩の上に立てられた家と沙の上に立てられた家のイエス様の例えは、はっきりとイエス様の言葉を聞くか聞かないかによって、その結果を例えて考えさせるようになっています。イエス様の言葉を聞くことは皆にとって、人生の支え、心の安定と平和、絶対に崩せない確実なものを得ることです。
                                       モヨリ神父
※「くまもと 歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞)より一部引用


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