カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

A年 年間第八主日

2017年02月22日 | 神父様からメッセージ(A年)



 聖書の言葉は神様の言葉、み言葉とも言われていますが、私たちの心の中にしみ込んで永く残ります。香りのある花で部屋を飾つたとき、花がなくなってもその香りが残ることがあり、美味しい料理を食べたあとで、その香り、その味が口の中、又周囲に残ることもあります。では神様の言葉のことですが、それを耳にした時、それを心に受け入れて、自分の思いにしみ込んで身につけてしまえたら、簡単に忘れることは出来なくなると思います。永く、いつまでもそれは自分の中に残ります。さて、先週の日曜日にイエス様が愛について話してくださった所も、心から簡単に消し去ることは出来ないと思います。神様は皆を愛しておられます。神様のことを知らない人でさえも愛しておられます。それで私たちに、敵までも愛するように勧められます。愛すること、愛されることは人生の一番素晴らしい目標だと思います。それは人生を満たします。愛によって人は幸せになります。愛は人間の心の欠かせない喜びです。このような素晴らしいメッセージを語ってくださるそのみ言葉は、簡単に心から消え去ることは出来ません。是非、神様の言葉を心の中に残し、留め、味わって生きて欲しいと思います。
「マタイによる福音書 6・24-34」
 預言者イザヤの書では、神様が人類を産んだ母親のように描かれています。主に見捨てられたと感じる時もこの神様への信仰をもって生きるべきです。人は一所懸命に働く時に、神様と一緒にこの世を創造し続けて、神様から与えられた役割を果たせるようになります。だから当福音書の中に、イエス様が強調されたのは、この世の物理的なものに心を奪われないようにということです。人間にはまず心の自由、神の国の正義のような言葉より、大切なことが沢山あります。典礼の祈りの中で、教会は神様に向かって、自己中心的な行動と思いから解放されるように願っています。同じようなことが当福音書にも願われています。人は普通、いろんなことを心配しています。心配し過ぎると不信仰を表し、人生の不適切な考え方も起きてきます。特に財産を貯め込んだり、未来についてまた、現在の日常生活についても無事に過ごせるかどうかと無駄に心配することです。キリスト信者は未来について、又日常生活、財産などについて心配し思い悩むことはありません。自分に必要なことは神様が全て備えてくださいます。神様は大自然の花、空の鳥も大切にして、それを養っておられます、まして人間を大事になさらないことがあるでしょうか。今日の福音書の中心になる言葉は、心配しないように、と同時に一所懸命努力して神様の協力者として生きるようにとの教えてす。イエス様の時代に奴隷は、同時に二人の主人に属する場合もありました。しかし、それによっていくつかの問題が生じていたことも事実でした。イエス様がその制度に例えて、富と主人とに同時に仕えることは出来ないと教えられています。富は人間の心を奪い、絶対的な存在になりがちで、それだけが人間の人生の目標になってしまうこともあります。神様に造られた人間は神様に属するものですから、富は身を縛る鎖になるばかりなので、神様から奪い取られるのです。神様を選んだキリスト信者はなにも心配せず、心の平和を味わいながら、神様と一緒に働き、自分のことも、隣人のことも大切にすべきです。

                                 モヨリ神父             

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A年 年間第7主日 

2017年02月13日 | 神父様からメッセージ(A年)


 主の祈りをよく唱えるキリスト信者たちは、主の祈りの様々な文書の意味を理解しにくい時もあります。たとえば「み名が聖とされますように」と祈ると、実際にどのようなことを願うことになるのか、すぐには言いにくいと思います。まず、聖書と祈祷文の中で、文章が受身形になる時に主役になるのは、神様自身です。だから神様自身が自分の名前を聖なるものとします。神様の名前とはオリーブ山でモーセに教えられた名前でした。それは「わたしはある」と言う表現で、神様は自分が人々の日常生活の中に溶け込んで、働いて、人間と一緒に喜び、悲しんでおられると言うことを伝えたかったのです。そして「聖とされる」と言うのは生き生きとする、躍動する、燃え立たせることを示しています。だから、祈りの言葉を一つ一つ分析してまとめれば、祈りの内容が豊かに現れてきます。「神様、人間である私たちの間に、というよりむしろ、私たちの心の中に神様を生き生きとした存在にしながら、私たちを支え、豊かなあなたの命と力を与え、命の尊さをたっぷり味わわせてください」と言う内容になります。是非このような思いの中で、主の祈りを唱え、命である神様の心に向かい、大きな信頼を持って神様の助けと安らぎを求め、得られますように。
「マタイによる福音書5・38-48(黄金の法)」
 イエス様は新しく、人生の過ごし方を考える方法を勧めてこられました。場合によっては正直な考えよりも、革命的な行動と思いも勧め、そのように自分の弟子にも生きるように教えました。イエス様はいつも自分の思いや話に父である神様の姿を基本にして話しました。それでイエス様は、弟子にも「神様が完全であるように、あなたがたも完全な者になりなさい」と呼びかけられました。当福音書では、イエス様が山上の話を続けています。特別に隣人の愛によって仕返しの法を廃止して、その古い考え方を乗り越えるように教えています。それを乗り越える為に欠かせない理由があります。「神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるからである。」つまり、神様が皆を大きな慈しみと愛で包んでいます。イエス様の時代に「目には目を」「歯には歯を」と言う原始的な法律がありましたが、しかし、イエス様は完全にこの法をも廃止し、それを乗り越えようとします。実際にイエス様の時代、頬を人が打つことはとても屈辱的な行動でした、それを帳消しにするためには多大な金額が必要でした。しかしイエス様がおっしゃるのは、右の頬を打たれた弟子は仕返しを求めず、左の頬も見せなければなりません。イエス様自身もカイファの裁判所の兵士に打たれた時にとても優しく、憐れみ深く、反感を持たず答えました。そして、当時、敵を憎むこと、敵と戦うことは当たり前のことでした、なぜなら、イスラエルの敵は神様の敵だと考えられているからです。しかしイエス様は、当時の法律ではなく、模範として神様の思いとやり方(完全な)に基づいて、それに従って真似をするように勧めています。イエス様に従った弟子は、人の中にイエス様の姿をみいだし、イエス様と同じように考え、同じように行い、心から人や敵を愛します。これがキリスト教の「黄金の法」です。                                                                     
                                     モヨリ神父
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今月の祝日・行事予定(2017年2月)

2017年02月12日 | 今月の行事予定
               
                    


    ◎2017年2月

 
 2月 2日(木)  主の奉献
                

 2月 5日(日)  年間第5主日
                2月の定例会議               

 2月11日(土)  ルルドの聖母
                世界病者の日
 
 2月12日(日)  年間第6主日
                マリア様の前で聖歌、花の奉納
                病者の塗油
         
 2月19日(日)  年間第7主日
                ミサ:ピアッツィニ神父様司式
 
  
 2月22日(水)  聖ペトロの使徒座        
 
 2月26日(日)  年間第8主日
                今村信徒発見150周年記念ミサ(今村教会:10:00)

                 
       
 3月・・・・・

 3月 1日(水)  灰の水曜日   
                ミサ 菊池8:30 山鹿10:30
          
 3月 5日(日)  四旬節第1主日 
                許しの秘跡
                ミサ後、十字架の道行(~4月2日)
                3月の定例会議                 
                    
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A年 年間第6主日 

2017年02月06日 | 神父様からメッセージ(A年)

 
 わたし達の目の前によくあらわれる文字があります。しかし、それが完全な意味を発揮するのは難しい時がすくなくありません。それは「聖」です。読み方もさまざまで「ひじり、せい、しょう.・・・」などです。どんな宗教の中でも使われているし、特別にキリスト教では専門用語になっています。聖書には聖と言う字は8〇〇回以上記されています。聖書によると聖なるものはまず、神様です。神様がおられる場所、山、祭壇、聖堂。神様に関係するもの、神様とかかわる人間も、聖と言われます。たとえば、聖堂、聖書、聖人…などです。しかしこの文字の意味を聖書を通して分析すると、「命」と意味づけられます。さて、具体的にそれを確かめてみましょう。「聖」の反対語は汚れと俗です。旧約の時代、汚れた者は重い皮膚病を患っている人でした。イエス様の時代の初めにも、死んだ者として扱われていました。しかし、イエス様の奇跡的な力によって、清い者とされて生きるようになりました。命を与えるのは神様だけです。つまり神様から命をいただく者は神様の前で聖なる者になるのです。聖なる者はまず、生ける神です。命を与える神、永久に生きる神なのです。死に勝って、復活されたイエス様は、いと高き聖なるものです。イエス様の為に命を捧げた殉教者も聖なる者として永遠に生きるのです。イエス様と同じように生きた者、イエス様と一緒に死んで復活された者は聖人として、命を与える者になります。このように生き生きとした者の命が、神様を誉めたたえています。
「マタイによる福音 5・17-37」
 イエス様は旧約聖書から受け継がれた大切なところを評価されて、それを乗り越えて、場合によって廃止する時もあります。イエス様だけが、旧約聖書の言葉を信仰の深みで理解することが出来ました。しかし「私が言う」という表現に、イエス様の新しい心のメッセージや教えの権威もすべて含まれています。イエス様はファリザイ派の人たちと違って、言葉の数に頼らず、自分自身の中に権威を定められたことを示しました。実際に皆がイエス様の権威のある教えに対して驚きました。なぜなら、旧約聖書で教えられたことを遥かに超えていたからです。当福音書では四つのテーマ(殺意,姦淫、離婚、誓い)について旧約聖書の細かい教えを述べながら、「しかし私が言う」とそれを乗り越えた新しく素晴らしいメッセージを述べています。イエス様は、預言と法律を完成する為にこの世に来られたことを宣言しました。「完成」の具体的な意味は、完全に守ること、完成すること、実現することだと示しています、しかしよく見てみれば完全に守ることは、おそらく、イエス様の思いに含まれていないことでした。実際に福音書では、イエス様が安息日の法を守らない時があったり、弟子たちと断食を守らないで、弟子たちにもそうするように教えたり、清めのしきたりをも守らないようにしました。だから旧約聖書を完成するには、イエス様にとって、言葉通り完全に守ることではなく、イエス様の心の教えの通り、その言葉を新たにみられるようにするのです。イエス様がこの世に来られたのは、預言者たちが希望したことを満たすためです。つまり、それは愛の法を教えながら、新しい法、石の上に書いたものではなく、神様につながる法であり、人間の心の中に置かれた法なのです。                      
                                  モヨリ神父
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A年 年間第Ⅴ主日

2017年02月02日 | 神父様からメッセージ(A年)


 さて、12日の日曜日のミサの中で、ルルドの聖母の出現を思い起こし、マリア様にみんなで心から深い愛情を示しながら、マリア様への祈りを捧げたいと思います。そして、ひとりひとりが小さな一輪の花を持って来て、マリア様の祝日を祝いたいと思います。また当日は、「世界病者の日」にもあたっていますから、洗礼を受けられた皆さんに病者の秘蹟を授けたいと思います。心だけではなく、体の健康も願って、力強くイエス様に従うものになりたいと思います。イエス様がおっしゃっていることは「わたしに従いたいものは自分の十字架を背負って私に従いなさい」、このような丈夫な体、元気な心で、復活祭までイエス様を身近に感じながら従うようにしましょう。
「マタイによる福音書 5・13-1」
 当福音書はイエス様の宣教や活動に巻き込まれていく弟子たちのあり様とその目標を語っています。イエス様はやさしく、理解しやすいイメージである塩と光を通して、弟子たちに自らの立場や役割も発揮させることにします。最後にイエス様は自分の話を完成するにあたり、弟子たちに向かって「あなた達はこの世のパン種」と宣言しています。つまりこの世を変える、照らす、味をつける力を持っていると述べています。塩、光、パン種と言うのは小さなものですが三つとも共通する特徴があります。それは自分より大きな現実と関わる能力をもっているということです。三つともイエス様が言いたいことを力強く例えています。わずかな塩のひとつまみで多量の料理に味をつけられます。わずかなともし火の光でも部屋中を照らします。ほんの少しのパン種が多量の粉を膨らせて、香りのある大きなパンを焼くことができます。このイメージの中に偉大なメッセージが含まれています。キリスト信者の信仰は、自分の得になったり利益を生むためではなく、むしろキリスト信者の生きた信仰はだれにでも影響を与え、喜びを与え、人を照らし、人を満足させ、欠かせない人生の彩りになります。この話をイエス様は、弟子たちだけではなく全世界の人に向けてしています。イエス様はこのような例えを通して、一つの教えを伝えたいのです。この例えによってイエス様がキリスト信者の信仰の重要さを強調しています。信仰はキリスト信者の人生をまきこんで、キリスト信者の心にしみ込んでいき、思いの基準となり、欠かせない人生の選択の基礎になっています。キリスト信者は自分の力によって、塩、光、パン種になれるのではなく、むしろイエス様の光や力でそうなるのです。弟子がイエス様に従うこと、一致することによってこの世の光になり、人生の意味深い味になっています。イエス様の光の下で歩む人だけがこの世の味になり、この世を照らすことができるのです。
                                    モヨリ神父
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A年 年間第4主日

2017年01月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
 
 人間の心を良く知っておられたイエス様は、人間が自分の人生の間に、幸せになることだけを捜し求めていることを受け止められました。イエス様は山上からその道を、新しい指導者としてモーセのようにお話しになり、わたし達にも幸せになる方法を教えてくださいました。幸せになるために一所懸命頑張るという行動ではなく、目が覚めて、つまり気付いて、イエス様の言葉を信じることによって、わたし達はほんとうはすでにもう幸せであることに気付くのです。貧しい時、泣く時、平和を求める時、そして皆に疎外される時に、寂しい時にも、わたし達はその時々に幸せです。その時こそ、神様が慰めてくださるからです。その時に特別に神様をみることができます。その時に神様が大きな報いを準備してくださいます。イエス様が述べ伝えてくださる幸せは、辛い時に自分の心の中に湧き上がり、それを自分の人生の中に見出すことができれば、幸せであることを実感することが出来ます。山上からイエス様は弟子達に、幸せになる道を力強く教え、弱っている大勢の群集に救いの道を述べ伝えました。幸せになりたくてたまらないわたし達にとって、このようなイエス様の話は、人生の参考に、いえむしろ人生の土台になるのではないでしょうか。
「マタイによる福音書 5・1-12」
旧約聖書では、幸せな人は神様によって解放された者です。奴隷から開放された者だけではなく、神様の掟を守ることによっても悪から解放されています。知恵によって暗闇から解放された者も示されています。 新約聖書では、永遠の命を希望するキリスト信者は幸いな者だと定められています。実は、本当の幸せな人はイエス様と一致した者です。なぜならイエス様自身が貧しい人、悲しむ人、柔和な人、憐れみ深い人だからです。生きている間に、キリスト信者が苦しい状況の中に置かれていたとしても、同時に、神様から未来を約束され、永遠の喜びを味わうことができます。このようなイエス様の幸いの話を理解するために、み言葉を鏡に写すように見てみれば、その深さを発見することが出来ます。最初4行の文章は次の4行の文章を反映しています。又、第1の2行は第5の2行と相対し、第2は第6に相対してその後も同じように続きます、このようにして、大いに深い意味も浮かび上がって来ます。山上の話を通してイエス様が、新しい福音を告げ知らせています。イエス様が教えられる救いは、積極的に信仰を守るところから始まります。心の貧しい人と慈しみのある人とのつながりは深いのです。むしろ、貧しい人は慈しみの心をもっています。同じように人生の中で苦しんだ人は清い心の人になり、自分の人生の中で神様を見ることができます。確かに平和を求める人は柔和な心をもっています。正義のために苦しんだ人だけがそれを強く求めています。イエス様が山上の話の時に、人を自分に従うだけではなく、自分のように生きるように、自分といつでも同じ様になるように勧めています。だからキリスト信者はイエス様のように、貧しく、イエス様のように苦しみ、イエス様のように清い心で、柔和で、正義を探し求めています。それに、イエス様のようにイエス様の名によって迫害されることもあります。                      モヨリ神父

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A年 年間第3主日

2017年01月19日 | 神父様からメッセージ(A年)

        
 今週は教会の伝統により、キリスト教一致祈祷週間にあたり、全世界のキリスト信者の宗派が一つになるように祈ります。イエス様は一つの教会を望んでおられたのに、現在でもイエス様に従うものの中で分裂があったり、いくつもの宗派に分かれています。できるだけこの一週間は大きな夢を持ってイエス様が希望された唯一の教会のために祈りたいと思います。確かに歴史の中のいろんな面や出来事によって、教会の罪、教会の欠点があり、キリスト信者の間の分裂のもとになりました。けれども憐れみの心をもったイエス様を見習って、神様に赦されたように赦し合いながら、キリスト信者はいつでもイエス様が望まれた教会を創るように努めましょう。

「マタイによる福音書4章12-23」
 ミサを立てる時、一年中いつもイエス様の神秘をお祝いし、記念することになっています。典礼には、これからイエス様の公生活が始まる物語が朗読されています。実際に降誕祭の時に宣言された出来事が「暗闇の中で大きな光が現れた」と実現しています。イエス様が始められる公活動は、都であったエルサレムからではなく、そこからはずれで貧しいところであるガリラヤからです。預言者が告げた通りに、イエス様はこのような素朴なところから自分の活動を始められます。そのような暗いところにイエス様が光として来られ、暗闇の中におかれていた庶民が照らされています。イエス様が最初に洗礼者ヨハネと同じように、人生の心構えとして人々に回心するように呼びかけています。その回心の内容は、少しつつ自分の中にイエス様の姿、イエス様の心と思いをしみ込ませることです。その後、弟子たちの呼びかけは歴史的な出来事でありながら、象徴的な召し出しをも示しています。イエス様がご自分の弟子たちのように皆、どんな人にも自分に従うように呼びかけています。普通の日常生活から呼び出されて、いつも日常生活の歩みの中でイエス様に従うように勧められています。イエス様の人への呼びかけの目的は、自分と一緒に協力者として、人類の救いの為にいつも、どこでも努める者となることです。最後に、イエス様が苦しんでいる人類を癒しています。この時こそ、イエス様は弟子の手本になります。イエス様の弟子の目的は先生の希望を完成するまで勤めることです。イエス様の希望は人間一人一人の、心身の悪からの解放、根本的な救いです。
                               モヨリ神父
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A年 年間第2主日

2017年01月09日 | 神父様からメッセージ(A年)

        
 この頃カトリック典礼の色は緑になり、年間の時季にもどります。この季節は、より大切な他の典礼的な季節の準備になります。「準備中」と言いかえればおかしくないと思います。だから、この時季をも大切にしながら、キリスト信者は大きな希望の中で、より重要な時の準備として過ごすべきだと思います。

「ヨハネによる福音書 1・29-34」
 当主日の福音書は、再び洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けることについて語っています。短い個所の中に「見る」と言う単語が5回ほど登場します。中心的なところは、洗礼者ヨハネがこの世で降待祭の時に生まれてきた、メシアであるイエス様を紹介することです。
 実はイエス様の真の姿をヨハネに知らされるのは聖霊です。洗礼者ヨハネは、二回ほどイエス様のことを知らないと言います、なぜなら、イエス様を知らせるのは聖霊の独特な贈り物だからです。神様であるイエス様が僕として神様の栄光を表すもので、洗礼者ヨハネにとって初めて知りえたことです。洗礼者ヨハネが受け入れた光、イエス様を知ることも洗礼を授けることも、神様から命じられたこと、与えられた賜物です。イエス様を知ることは洗礼者ヨハネにとって人間同士の経験だけではなく、イエス様が神様であることも知ることによって、人間が神様の世界に属するものであることも知らされたのです。洗礼者ヨハネのイエス様の紹介の方法によって、洗礼者ヨハネがどのようにイエス様のことを知るようになったかが明らかにされています。神様でありながら、人間としてこの世に来られたイエス様を紹介する表現は次の通りです。「神の羊」「世の罪を取り除く」「私の後から一人の人が来られる」「その方がわたしにまさる」「わたしより先におられた方」「聖霊がこの方の上に留まる」「聖霊によって聖霊を授ける」「神の子」です。このような言葉でイエス様が洗礼者ヨハネに初めて紹介されています。だからイエス様は皆の魅力ある神の羊であり、この世の人類の救い主です。イエス様を通して、神様はこの世の罪を無償で全て赦します。イエス様は人間でありながら神様であり、神様に全て結びついて、この世の根本的な弱さをとりのぞく方なのです 
                               モヨリ神父                                     
           
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A年 主の公現の主日

2017年01月02日 | 神父様からメッセージ(A年)

                   
 初詣とは、年の初めに産土神(うぶすなかみ・氏神)や恵方(えほう)に当たる神社仏閣に参詣することで、寺社によっては除夜詣での人が除夜の鐘の鳴り終わるのを境内で待ち、そのままで初詣を済ませているのをみることがあります。
 キリスト信者も神様のみ顔の光に照らされて、世界の平和を願って新年の歩みが始まります。特別にこの時、欠かせない真実を思い起こすべきだと思います。それはみ摂理です。このような言葉は神様の心を現わし、人類のための神様の慈しみを示しています。さてこの年の始まりに、私たちの夢、計画、望みなどを神様のみ摂理にゆだねるようにしましょう。空の鳥を養う神様、田畑の作物を豊かに実らせる神様が、今年も私たちの心の喜びや幸せを求めて導いてくださいます。今日、主の公現の主日を迎えます。イエス様は、全世界の人々に又、神様から遠くいる人々に救いの光として自分が生まれたことを示します。
「使徒パウロのエフェソの教会への手紙3・2-6」
 エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロのまとまった教えを幅広く紹介しながらイエス様と教会との関係について語っています。教会は建物ですが、イエス様の体、イエス様の花嫁とも言われる象徴ですから、キリスト信者になって教会に属す者たちは、それにふさわしい生活を送らなければなりません。当個所で使徒パウロは、自分の使命を強調してエフェソの信徒たちに神様のみ恵みの働きについて語っています。神様の心に秘められた計画が啓示によって明らかにされました。そしてその計画、つまり人類を救う方法はイエス様を通して聖霊の働きで知られました。イスラエル人であれ異邦人であれ、聖霊の力で神様の愛で満ちた計画を知るようになり、その救いの計画の対象になりました。つまり、イエス様によって神様のご計画を知るようになった人は皆一体となり、神様が約束された報いの対象になっています。
「マタイによる福音 2・1-12」
 マタイ福音記者がイエス様の誕生の物語を語りつづけています。どのような心構えで、あるいはどの観点からそれを受け取れば良いのかが大切なポイントだと思います。誕生の物語にはヘロデ王が登場し、そしてその関連の出来事もイエス様の誕生とそれに対する反応が歴史的なところですが、それだけではなく、メシアとしてのイエス様の誕生がどのように預言を満たしていたかが明らかにされています。そして最後にそれを聞く人の心がいつも問われる福音書は、自分の人生と心を巻き込んだ答えを求めています。幼子誕生の物語の心は、イエス様が預言者の言葉によって、この世の小さな町に生まれられ、救いを待ち望んだ人類の希望が全て満たされたとされたことです。そして福音書の中に出てくる星や東方からやってきた占星術の学者たちの贈り物も象徴的です。その中に全人類の希望が含まれています。もちろん私たちの個人的な希望も、それぞれを全て満たされるのは、イエス様の誕生を通してこの世に現れた神様の愛にほかなりません。
                                   モヨリ神父
     
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神の聖母マリア

2016年12月28日 | 神父様からメッセージ(A年)
  

 皆さんのこの一年のために、大きな感謝を表しながら皆さんとご家族のために、新年の始まりに祈り、祝福したいと思います。この時、イエス様に従う者にとって、社会的な行事とお祝いだけではなく、霊的にも重要な時になっています。元旦は神の母の祝日です。マリア様はイエス様のお母さんであり、わたし達の間にずっと住みに来られた神様のお母さんです。その事実によって、マリア様はわたし達に神様を顕示し、神様の方に導きながら、わたし達の心の中に優しく神秘的に神様の存在を感じさせるのです。イコネ(ご絵)のようなマリア様は、わたし達にとって天国の方へ開いた窓になっています。マリア様を通して、素晴らしい世界を観想することが出来ます。また、教皇様の意向で、元旦は平和の日に定められています。この日わたし達は、世界の方に目を向けながら、平和を祈ります。同時に、教皇様は全人類のために平和を願うメッセージを「平和の道として信教の自由」に向けられています。今年は1月2日に、主の公現の祭日を迎えることになりました。この祭日によって、教会は全人類に向けてイエス様が救い主であることをお祝いします。実はイエス様が公に自分の真の姿を現すのは、三つエピソードでなされています。一つ目は占星術の博士達がイエス様が生まれた所を訪れたこと、もう一つはイエス様が洗礼者ヨハネによって洗礼を受けたこと、またカナという地で結婚式の祝いの途中、水を美味しいワインに変えたことでした。このようなエピソ-ドは現在、三つの祭日に分けられていますが、公には、イエス様の真の姿を現す目的で束ねられています。
「マタイによる福音書 1・1-12」
 1月2日にキリスト信者は、博士達のエピソードによって、イエス様が全人類に向けて、自分が救い主であることを現し、また、全ての人間にとってイエス様は希望であることをお祝いします。このようなお祝いは教会の歴史と伝統によって、面白く細かいことで飾られています。例えば聖書には複数の占星術師を書いてあるのに、キリスト信者の伝統によると占星術の博士達は3人になりました。それに、王様であることにもなってしまいました。けれども、わたし達にとって東から、星に導かれてユダヤ人の王を捜し求める人たちのことは、全人類の望みを示すことになりました。このエピソードの中でポイントになるのは、当時の王ヘロデに対峙するのは、わたし達のために生まれて神様に定められたユダヤ人の王であるイエス様です。そこで、どのようにイエス様が全人類の救い主であるのか、まず人間の心の有様を見てみるようにしたいと思います。人間がまず探し求めるのは、神様とのつながりです。だれでもこの神様からいただいた人生を豊かに送れるように願っています。そして、どんな人間でも、この人生が終わったとしても、その後も永久に生き続けることを願っています。上記の人類の希望は、占星術の博士達のエピソードの、イエス様の所に捧げた贈り物で象徴されています。それは乳香、黄金、没薬を通して例えられています。このような根本的な人間の心の希望に、どのようにイエス様が応えられるのかと言うことが、今日の祝いの中心的なメッセージです。命、真理、道である馬小屋に生まれたイエス様は、わたし達の心の中に、つまり人間の心の中に神様の命、神様の愛、神様の存在、神様の恵みがあることを実感させて下さいます、このようにイエス様が人類の心の希望を満たされるものとなって、どんな人間にとっても救い主であることを公に明らかにされています。
                              モヨリ神父  
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聖ラファエルの栄光を称えるチャプレット

2016年12月22日 | メッセージ(その他)
聖ラファエルの栄光を称えるチャプレット

神よ私を力づけ、急いで助けにきてください。
 栄唱
 聖霊への祈り
 信仰宣言

*聖ラファエル、神のつかい、美しい魂への案内人よ。あなたは人間の姿で現れました。トビアと共にラジオメディアへ旅をし彼を守りました。栄光ある大天使よ、人生における巡礼の旅に於いても、私の保護者となって下さい。私の魂を悪から引き離して下さい。私達も天の国に入り神の姿を仰ぎ、永遠に神を褒め称えることができますように。アーメン         主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、悲しみにある人の保護者よ。心から神への忠実を守ったトビに、やさしい恵みを与えられた方。ガバエルに10タラント預けるほど、商いという仕事とそれにともなう必要な恵みも与えて下さいました。私達も、いつでも神の栄光につつまれて、永遠に清い魂でいられますように。アーメン         主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、天の解放者。魂を地獄の闇から救われる方。あなたは凶悪なアスモデオから、サラを解放されました。私を悪魔の誘惑から、諸悪から守ってください。臨終のときにも、黄泉に対して勝利の恵みをお与え下さい。アーメン     主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、苦しむ魂のやさしい慰め主。娘、サラを悪魔から助け出し、家族に大きな喜びと平和を与えて下さいました。私達にも心の平和をお与え下さい。精霊の働きを受け、聖なる生活を送り、最後まで人生を全うすることができますように。アーメン          主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、より頼む人の熱心な保護者。若いトビアを襲う大魚から救われたように、私達を襲う敵からお守り下さい。また私達の敵にも、改心と正しい道に戻る救いの恵みをお与え下さい。アーメン  主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、天の忠実な医師よ。神から人につかわされた方。トビは、愛された息子と再会したことによって健康を取り戻し、大きな喜びを与えられました。私達も人生の最後まで、神のみ旨を正しく理解し実行することができますように。アーメン          主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、人々に神の尊い祝福をあらわす方。あなたはトビの一族を豊かな恵みで満たされました。私達も同じく霊的な人生の賜物が与えられ、永遠の生命に達する恵みをお与え下さい。アーメン   主の祈り・天使祝詞・栄唱    
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降誕祭 2016年

2016年12月18日 | 神父様からメッセージ(A年)
ローマ帝国の時代に、キリスト教がまだ知られていない時のある年末のあたりに、すでに人々は太陽を祀っていました。それから、人間にとって神様が自分の心と体に、あるいは自分の人生の中に入りこんでいることに気づいた時、自分が透明なステンドガラスのように光で貫かれていると思えたのです。その時わたし達は輝いていて、周囲に素晴らしい景色、明るみも広げています。やがてわたし達の人生がいろんな色で染まってきます。自分が普遍的な光に属していることを実感し、その光によって人と世界の美しさが現れて、神秘的な調和を見るようになります。このような光によって生きる人間は、自分の素晴らしさを実感するようになります。降誕祭によって、太陽の光のような神様に貫かれた人間は、調和の中で生き、神様の見える姿になります。そのわたし達は神様の作品であり、教会の共同体の細胞です。同時にこの頃、お祝いされるイエス様のご家族は、聖ヨゼフ、マリア様、イエス様ご自身で、わたし達にとって、素晴らしい模範になっています。その模範の力に引きつけられて、わたし達も理想的な家族を造ることが出来ます。教会もわたし達の家族です、わたし達が生まれ育った家庭も小さな教会であり、神様の宿になっています。家庭は各人が重要な役割を持ちながら、神様から与えられた使命を果たす場です。
=降誕祭=
ルカによる福音書 2・1-14;ルカによる福音書 2・15-20;ヨハネみよる福音書 1・1-18
教会の共同体は、降誕祭を祝う時にイエス様の誕生だけではなく、神様が人間となった出来事、命の復活をお祝いします。教会は歴史の中に人間となった神様を祝いながら、いくつかの観点から、この神秘的な出来事を深めるように勧められ、典礼の中で伝えて来ました。このように教会は、お生まれになった赤ちゃんの姿の中に、ずっと人類と一緒に歩んでこられた神様の姿を見出すのです。また旧約聖書の時代に、神様が約束されたことを実現する出来事であると実感することができます。生まれようとする神様は、いつか大きな栄光を帯びて、再びまた来られることを予想できます。だからいつも開いた心で、来ようとする神様を心から受け入れられるようにしましょう。イエス様の系図で明らかにされたように、来られるイエス様はこの世の罪を背負って、神様の本願を果たす為に人間となって、神様の約束された救いの計画を実現しました。夜半のミサは、イエス様の光とその栄光を強調し、イエス様の誕生は、神秘的な出来事として見つめられ、だれでも天国にある喜びに参加するように誘われています。イエス様がこの世にお生まれになって、この世の小さなしるしとして人類に大きな希望を与えてくださいました。イエス様の誕生によって、人間は神様の光に満たされて、神様の世界に属するものとなりました。イエス様の誕生を受け入れる宿がなかったように、人間にとって神様の神秘性を受け入れることは簡単ではなかったけれど、その小さいしるしを受け入れることが出来た人は大きな喜びを味わうことになるのです。
★皆さん、今年も降誕祭の喜びを深く味わえるように、心から祈ります。   

モヨリ神父
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A年 待降節第Ⅳ主日

2016年12月12日 | 神父様からメッセージ(A年)
神様はご自分の思いを伝える為に、ヨゼフやザカリアやマリア様にも天使ガブリエールを送りましたが、わたし達にも日常生活の出来ごとの中で、ご自分の思いを伝えてくださいます。その天使はわたし達にも嬉しい知らせももたらましした。そのお告げは神様の思い、神様のみ旨のことですから、それを自分の心に受けとめれば、大きな喜びになるのです。天使のお告げの内容は、神様の素晴らしい計画です:わたし達の弱さを通して人を救う、癒す、喜ばせる、赦すことです。そうです、わたし達の弱さを通して、まず神様がいろんな人に不思議な救いの喜びを告げ知らせます。わたし達のために神様が送ってくださった天使は、日常生活の出来事の中でご自分の思いを伝えてくださいます。時によって色々な出来事の中でわたし達の思いと違って、神様はご自分の父の思い通りに進んでいかれます。神様の存在は弱い者に力になり、飢えた者を満たし、権力のある者を下ろし、低い者を高く上げ、憐れみをいつもお忘れになりません。そのことを天使が告知らせたのでした。神様がおっしゃることに耳を傾け、その計画に自分の身をゆだねれば何と幸なことになるのでしょう。そのために、天使がしわたし達のところにも送られて、わたし達もマリア様と同じような大きな喜びを味わう事になるのです。
マタイによる福音書1・18-24。
降誕祭はもう目の前ですが、朗読や祈りも大きな情熱を伝えます。神様が特別に人類に近づいています。イエス様は人間になった神様であり、おとめからお生まれになって、ダビデの子孫です。このような偉大な出来事に集中するように典礼が誘われ、来られる神様を受け入られるように祈ります。当福音書は三つの部分に分けられています。1番は、どのようにしてイエス様がお生まれになったのか。2番は、イエス様がどうしてエジプトまでいかれたのか。3番は、どうしてナザレ人と呼ばれたのか、です。緊迫した状態の時にヨセフに天使の出現を受けて、全て旧約聖書にある通りになり、ヨゼフは天使の命令に従います。ヨゼフはすでに身ごもっているマリア様を拒否しようとの思いを持ったところで、天使が現れて、ヨセフを安心させ、旧約聖書の預言の通りに、マリアを迎え入れることになります。マリア様は神秘的に神様によって身ごもっていたのです。それは、科学的に解明すべきできごとではありません。預言者の言葉を通して明らかにされていることなのです。ヨセフは矛盾ある出来事直面しても、天使の言葉を信じて、神様のみ旨に従います。このような神様の計画は旧約聖書に預言されたように、マリや様とヨゼフの信仰を通して実現されました。初代キリスト信者の共同体でも、福音記者を通して、おとめであるマリア様の身ごもったことの中で深い信仰をもって神様のご計画を見れるようになりました。むしろ、神様の約束を実現されたことが仰ぎみられました。それによって神様が弱いものを通して人類の救いの計画を実現されたことも解明されました。神様の言葉を理解し、受けとめて信じた者たちにとって大きな喜びの一歩の始まりでした。
  モヨリ神父
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A年 待降節第三主日

2016年12月08日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 わたし達の降誕祭への準備は、この待降節の第三主日の喜びの中で進んでいます。待降節はイエス様の到来を期待することですが、イエス様は確実にわたし達のもとを訪れてくださいます。つまり「神の国」が近づいているので皆にとって大きな喜びとなっています。 今日のミサの典礼では、その為に喜ぶように勧められています。 感謝の祭儀をたてながらわたし達は心の中に深く大きな喜びを感じ、それを祝うようになっています。典礼はキリスト信者にとって、その意味で心の中にある神秘的な思いが祈り、言葉、儀式を通して祝うことです。わたし達に大きな喜びをもたらした救いの出来事を思い起こし、記念し、その喜びで神様に感謝し、又周囲の人と共感しながら祈りの中で祝うことです。それは典礼の意味であり、わたし達はいつも教会で典祭する時にこのような素晴らしい行事を行っています。12月13日は聖ルチア殉教者の記念日です。ルチアと言う名前はラテン語でルクス「LUX」:光を意味しています。実は聖ルチアは盲目にされて、殉教されましたが、それによって光の象徴となりました。ヨーロッパでは、聖ルチアは頭にろうそくの冠を置いた姿で画かれています。さて、降誕祭へ向っているわたし達は聖ルチアの取り次ぎによって、より大きな光で心を照らしていただけるように願いましょう。光はイエス様です。今度来られるイエス様は世の光なのです。
「マタイによる福音書 11・2-11
 待降節第三主日の福音書は、イエス様を出迎える準備をする洗礼者ヨハネが、現在のように疑う心をもつ人に答えています。大きな喜びをもってメシアを期待する共同体は、もう一度救い主の姿を目の前に思い描いています。当福音の箇所は、はっきりと二つに分かれています。メシアとしてイエス様の紹介と洗礼者ヨハネの紹介です。まず、洗礼者ヨハネがイエス様のところに弟子達を送って尋ねさせます。「来るべき方はあなたでしょうか?」その時、イエス様はご自分の計画、目標、使命を明らかにされています。そしてイエス様自身が群衆に向かって「あなた方は、何を見に荒野へ行ったのか。」と、問いかけられています。イエス様がカファルナウムの会堂でも宣言されたように、神の国を予言しながら、「目の見えない人は見え、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と洗礼者ヨハネの使命を紹介して答えてくださいます。このように降誕祭の時、救い主を期待するわたし達にとって、心の中に、大きな光を見出すようになりました。救いは見えること、聞こえること、喜んで生きること、良いメッセージで支えることとされ、それは救い主であるイエス様ご自身のことです。だから喜びましょう、主が近づいておられます。わたし達の救い主は到来しています。その到来は、最終的なイエス様の到来をも示しています。その時こそ、「神の国」もわたし達の方に近ついているのです。不自由な人、迷っている心、疲れたものの為に、大きな希望の時になっています。喜びましょう。今日典礼の中で洗礼者ヨハネの姿を見つめて心の準備をすすめ、心の中に残された多くの疑いを乗り越えて、イザヤや預言者達にも勧められたように喜びましょう。このように導かれて、心の準備を整えながら降誕祭に向かって行きましょう。
                                    モヨリ神父  

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A年 待降節第二主日

2016年12月01日 | 神父様からメッセージ(A年)


 待降節の典礼では「目を覚まして…」と言う表現をよく聞きますが、実際にこのイエス様の誘いを聞いてどうすればよいのでしょうか。今、キリスト信者の目の前に、輝くまぶしい、素晴らしい光があります。それは今度クリスマスに来られるイエス様です。目を覚ますことによって、光であるイエス様を見ることが出来ます。目を覚ますことによって歩く道も見えます。神様は待つ人間と一緒に歩いています。目が覚めれば歩く道の美しさも見えるし、その道の苦しさ、その道の目的地も見えるようになります。その道はわたし達の人生です。いろんな幻、夢のような不思議な現象にとらわれている人間は、盲人のように生きていますが、時によって目を覚まして自分自身の方に目を向ければ、自分の人生を見つめて、その素晴らしさ、その居場所、その現実を見ることが出来ます。同時に危険な所も見出して目覚めたことによって避けることが出来ます。道端に、生まれつきの盲人のように佇むわたし達は、クリスマスの時に迎えようとする救い主であるイエス様に見出され、目覚めて大きな喜びの中でメシアであるイエス様に出会うことになるのです。
「マタイによる福音 3・1-12」
 当祝日の第一朗読では、預言者イザヤが神様に再び会う為に指導し続けています。第二朗読の福音書には洗礼者ヨハネも登場して、神様に会う為にふさわしい回心を呼びかけています。神の国をふさわしく受け入れる為に、つまり神の国に属する為に自らの心、思いや行いも、洗礼を受けて変えなければなりません。だから洗礼者ヨハネの誘いは力強く神の国に属したい人に改心を呼びかけています。改心とは、まず心を変えることです。その変化は外面的な変化、行動や生き方、習慣などを変えるだけでもなく、まず自分自身の心を変化させ、自分の人生の方向、またその考え方を変えるのです。神様に背く行いを取り除き、神様の思い通りに行い、心を込めて生きるのです。洗礼者ヨハネが勧めている改心は、自分の人生に、自分の心に神様を中心に据えることです。洗礼者ヨハネが求めているのは道徳的な生き方ではなく、心の完全な転換です。つまり神様は自分の心の宝、自分の人生のあり様の中心であるのです。そうすれば人間の考え方が完全に変わり、神様と同じように考え望むようになります。このような人の変化は、ヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼によって示されていました。洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、このようなしるしによって改心した者たちはより深い、より素晴らしい神秘的なしるしを見出していました。それはメシアであるイエス様がなされた聖霊による洗礼です。その洗礼による大きな愛の力によって、人間が神様と一つになって、神様に属する者になったことを悟ったのです。
                                モヨリ神父 
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