カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

B年 待降節 第3主日

2017年12月13日 | 神父様からメッセージ(B年)




 キリスト信者は日に日に心躍らせながら、救い主の到来を待ち望んでいます。来られるイエス様は私たちの心の鈍さと体の弱さを癒し、私たちの過ちを赦してくださいます。そして私たちの間に、すでに神の国が存在することに目を覚まさせてくださいます。真冬の間、昼が短く暗い時間が多くなり、人間は光に憧れています。イエス様は私たちの人生の暗闇に来られる救いの光です、だから今日、私たちの心は大きな喜びで満たされます。キリスト信者の望みは素晴らしい光に満たされ、大きな喜びを味わっています。
「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(Ⅰ)5・16-24」
 使徒パウロはテサロニケの信者に、大きな情熱で神様の望みを伝えています。祈るように、喜ぶように勧めています。感謝の心で生きることです。聖霊で照らされた私たちの人生を、いつも良い事で、肯定的な思いで満たさねばなりません。そのようにすることで神様の心を現わせます。聖霊がイエス様に従った者たちの中に宿っていますから、使徒パウロは彼らに対してご自分の書簡に於いて大きな尊敬を現わし、聖なる者、聖人、神に選ばれた者などと呼んでいます。そして使徒パウロは神様に招かれた者たちに、いつもイエス様に反する思いや行いをしないように願い、いつも神様の思いのままに生きるように勧めています。そうすることによって、来られる光である救い主は私たちの人生を豊かに満たしてくださいます。
「ヨハネによる福音書 1・6-8、19-28」
 ヨハネの福音書の当節は洗礼者ヨハネの姿を描きながら、実はキリスト信者の姿を紹介します。洗礼者ヨハネは「証し」とよばれていますが、ラテン語でこの言葉は「マルチレス」と訳されています。キリストにつながった者はイエス様の光の証であり、イエス様自身の姿を現わしています。そして当個所では洗礼者ヨハネに向けられた質問に特に注目してください、イエス様に従った私たちにも同じ質問が向けられています。洗礼者ヨハネと共に答えるようにしましょう。「あなたはどなたですか」と聞かれた時に洗礼者ヨハネと一緒にキリスト信者も、自分はメシアではなく、予言者でもなく、素朴な立場に立ってイエス様が来られる道を準備している者だと答えます。この世に洗礼者ヨハネと同じように、キリスト信者も神様に遣わされて、神様が宣べる言葉の声になり、神様の方に導く道をまっすぐにする役割を持っています。ヨハネから洗礼を授かるのは、キリスト信者にとって意味深いしるしになっています。イエス様に従った者たちは洗礼によって聖霊で満たされて、この世のどんな人にも来られるイエス様の、心の証人になっています。                  モヨリ神父     
 
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今月の祝日・行事予定(2017年12月)

2017年12月07日 | 今月の行事予定
            

         <お御堂内も待降節を迎える準備が整いました!!>

    ◎2017年12月
        
  
  12月 1日(金) 初金曜日            
                                           
  12月 3日(日) 待降節第1主日 12月の定例会議
                    菊池教会女性の会集い(ミサ後)
                 
  12月 8日(金) 無原罪のマリア               

  12月10日(日)         聖ヨゼフ会館クリスマス
                     バザー  12:30~
                     コンサート14:00~
                    クリスマス飾りつけ

  12月17日(日)         全体清掃(ミサ後)


  12月24日(日)         夜半のミサ(19:00 セシリアホール)
                     ミサ後、小パーティ
           
  12月25日(月) 主の降誕    クリスマスミサ(8:30)
                 

  12月31日(日) 聖家族     夫婦の祝福

               
        
  1月・・・・・⇒ ⇒

   1月 1日(月) 神の母聖マリア 元旦のミサ(10:00)   
                     車の祝福  茶話会

   1月 7日(日) 主の公現    1月の定例会議
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B年 待降節 第2主日 

2017年12月03日 | お知らせ


 教会の典礼により降誕祭の準備も進み、イエス様の到来を期待しながら、私たちと一緒に偉大なものたちも歩んでいきます。12月3日お祝いされた聖フランシスコ・ザビエルと、12月8日お祝いされる日本の保護者である無原罪の聖母です。聖フランシスコ・ザビエルの姿は日本人にとって、日本人の信者にとってかかせない情熱的な模範になっていますが、マリア様はどんな人物よりも、どんな女性よりもイエス様の誕生を期待された方ですから、私たちの降誕祭への準備を支え、導いてくれる方です。このような大きな力で支えられる取次によって、心を変え、目を覚ましていましょう、そしてこの世に来られた神様の愛の鏡であるイエス様を迎えるようにしましょう。
「使徒ペトロの手紙(Ⅱ)3・8-」14」
 いつもと違って今週は降誕祭のための準備として、ペトロの手紙が朗読されました。ペトロは確かに忘れてほしくない重要なことを述べています。それは「この世の存在は永久なものではありません、その終わりの時をふさわしく迎える為に目を覚ましていなければならない」とおっしゃっています。そしていくつかの心の態度が必要です。その時は誰にも知られていません。けれども神様に直接、出会う時になっています。聖ペトロがその時を迎えるために心の準備として勧めていることは信心深い生活を送ること、そして神様の約束に従って待ち望むこと、最後に忍耐をもって神様に認めていただけるように励みながら、平和の中に過ごすことです。
「マルコによる福音書 1・1-8」
 マルコ福音記者はその福音書の入門のところに「キリストの福音」という言葉を使っています。この音はだれにとっても愛(め)でたい音であり、福をもたらす言葉です。祝福を述べる言葉ですから、それを受け入れられる心だけが幸せを感じています。さて預言者のように洗礼者ヨハネは砂漠で叫ぶ声として、直接私たちの心に向かって、ふさわしい心で神様の言葉を受け入れるように勧めています。洗礼者ヨハネはイエス様の先駆者であり、イエス様の到来の準備をしています。これから降誕祭に向かって、花婿であるイエス様が花嫁である人類を迎えようとしています。だから洗礼者ヨハネは花婿の靴の紐をとく値打ちのない花婿の友人として、イエス様の世への入場のための準備をしています。洗礼者ヨハネに「私は道である」と言われたイエス様は、神様に出会う場として私たちの人生唯一の道です。その道は整えられると、イエス様と全く同じような歩みを歩まなければなりません。その道は目標までまっすぐに導くのですから、価値のないものに捕らわれてはいけません。その道の目標は人類の救いで、神様の慈しみから罪を赦されて、イエス様がなさったように、人に苦しみを通してより大きな愛をみせることです。さて私たちが受けた洗礼は、この道であるイエス様との歩みの出発点であり、神秘的な力である聖霊の導きでイエス様と同じ目標までたどることになっています。         
                              モヨリ神父
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B年 待降節 第1主日

2017年11月28日 | 神父様からメッセージ(B年)
 

「使徒パウロのコリントの教会への手紙(Ⅰ)1・3-9」
 今日、朗読される使徒パウロの第一コリントの教会への手紙の始まりは、もうすでに何度も、耳にされたのではないでしょうか。このような表現はミサ、つまり感謝の祭儀の始まりの挨拶として使われています。さて、使徒パウロにとって、人間の人生でさえも典礼的な行動になっています。私たちの生き方は、神様から頂いた恵みによって、感謝の祭儀にそったもののようになっています。それだけではなく、イエス様に信仰によって結ばれている私たちが、イエス様と一緒に神様に対する捧げものになっています。このようにイエス様に愛されて、支えられている私たちが、生きている間に再びイエス様との出会いを待っています。その出会いはいろんな方法で行われています。この世の終わりの時、また私たちの人生が閉じられる時、そして各々の人生の多くの出来事の中でもイエス様に会うことができます。私たちは、使徒パウロの言葉によってイエス様に誘われ従ったのですから、私たちの人生は神様の賜物で満たされています。ですから、神の子となり神様との再開を期待しながら積極的に生きていきましょう。

「マルコによる福音書 13・33-37」
 マルコ福音記者の福音の個所は待降節の雰囲気へと皆を導いています。待降節の欠かせない課題はいくつかありますが、それはマルコの福音書に取り上げられています。まず、いつも目を覚ましているように誘われています。このような誘いは4回も繰り返されています。マルコ福音記者はこの場合だけではなく、イエス様が、ご受難の直前にゲッセマネに弟子たちと一緒におられたとき、居眠りをする弟子たちに目を覚ましているように勧められたと記しています。つまり、気をつける、試練の中で自分の身を守る、真実を理解することです。なぜなら神様が私たちの喜びを求めながら働いています。だからどんな時でも、どんな出来事においても神様と会える場となります。イエス様が語られるたとえ話の主人が、いつ帰ってくるか知らなくても、僕にとって恐ろしいことではありません。むしろ希望と楽しみで満ちた期待となっています。だから、常に信じるこころで祈りながら、再び会える、帰ってくる神様を期待しましょう。            
                                         
                                bモヨリ神
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A年 王であるキリストの祝日

2017年11月22日 | 神父様からメッセージ(A年)


 王である主の日を迎えるキリスト信者は命を讃える日を祝い、共同体の宴会を催す日でもあり、神様は喜びであふれる豊かな時の準備をされています。その中に勤労の感謝の祭日にもあたって、私たちの労働の実りは自分のものになるだけではなく、貧しい人と分かち合う神様の贈り物です。「使徒パウロのコリントの教会への手紙(-)15・20-28」で、使徒パウロはいろんな話題が全てキリストから発進して、キリストに戻ると述べています。言い換えれば使徒パウロにとってイエス・キリストはすべての王であるのです。イエス様は私たち一人一人の永遠の喜びを求めながら、皆が神様の心によって生きるように願っておられます。使徒パウロによるとイエス様が来られたのは死者が命を得るためです。使徒パウロが思う死者とは肉体が死んだ者だけではなく、罪によって神様から離れた者、神様のことを信じない者も死者なのです。しかし復活されて、死に打ち勝ったイエス様は上記のような死者に命を取り戻すためにこの世に来られました。皆を神様の方に取り戻すためなのです。宇宙万物と人類が神様に戻るのはイエス様の目標であり、神様の本願です。だから神様の懐に戻るのは確かに使徒パウロが述べたように順があります。言い換えれば行きやすい順番があります。最初にご自分の命を捧げられたイエス様です、次はイエス様に従った者たち、そしてその他の者全て、最後にどんなことでも神様のところにもどります。このようなことが宇宙万物の王であるイエス・キリストの大きな望みと目標です。そしてイエス様が人間を悩ませる敵も、その中の死にも打勝ち、皆をもともとあったように神様のふところにすべて永久に取り戻したいのです.

「マタイによる福音書 25・31-46」
 ローマのバチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井には、ミケランジェロにより、マタイによって語られる最後の審判が力強く見事に描かれています。(ちなみに、日本の芸術家によって修復された大作でもある)けれどもマタイが福音書に書かれる物語は、あくまでもたとえ話のような話ですから、その中に解説のようなフレームの部分を見分けて、大切なポイントだけを見出さなければなりません。だから、いつもたとえ話を分析するときのように、イメージから少し離れて、メッセージの中身を深めるようにしましょう。大事なことはその中にいくつかあると思いますが、絶対欠かせないのは私たちのすぐそばにいるのはイエス様ご自身であり、その姿を示してくださるのです。そして周囲の困っている者たち、苦しんでいる人に何かしてあげた時、イエス様ご自身にしたことになります。実際にこの思いの中で、そうすることによって人間は最後の喜びを得られるのです。             モヨリ神父
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A年 年間第33主日

2017年11月13日 | 神父様からメッセージ(A年)


 日曜日のミサは、感謝の祭儀でありながら、各一瞬の欠かせない命に対して神様に感謝の心を捧げるべきです。この年間の33主日で典礼による一年のしめくくりを迎えることになりました。それに従って使徒パウロと福音書の内容も、この世と生命の創造としめくくりの時について話してくださいます。命に対する神様に対する大きな感謝の心を持ちながら、神様のみ言葉のメッセージに耳と心を傾けたいと思います。使徒パウロの「テサロニケの教会への手紙(-) 5・1-6」この世の終末について誤った考えに陥って、イエス様の到来を身近に思い起こすことになって悩んだテサロニケの信徒たちに、使徒パウロは励ましの言葉を書きながら、死の時、そしてその後についての考え方を訂正することにします。使徒パウロは世の終わりは「その時とその時期」と呼んでいますが、実はその表現の中に使徒パウロが思いを込めていることは、それぞれの個人の死、あるいはそれぞれの心の中での神様との出会いのことです。このような出来事は未来を知らない私たちにとって、予想の出来ない時です。だから使徒パウロは、その突然の、予想できない時を盗人がくる時のようにたとえています。それに従って使徒パウロは、その時をふさわしい心で迎えるために目を覚ましているように、またいつでも身を慎んで心の準備をしながら生きるように心のこもった言葉で勧めています。使徒パウロが言うようにイエス様に従った者は光の子で、明るいところで生きる者ですから、「その時、その時期」つまり突然、どんな形で神様に出会うことになっても恐れることはありません。
「マタイによる福音書 25・14―30」
 典礼の今年の最後の日曜日に向けて、イエス様はとても綺麗なたとえ話を語ってくださいます。たとえ話を語るイエス様が求めているのは、その聞き手との出会いです。その心を開き、その目を覚めさせるのです。この予言的なたとえによる、旅行に出て再び戻ってくる主人はイエス様ご自身です。さて、再びこの世にこられるイエス様との新たな出会いを求める私たちは、その出会いをどのような心構えで迎えることがふさわしいのか、それがイエス様の今度のたとえ話の目標だと思います。確かに神様は皆に大きな信頼をもって、いくつかの贈り物でそれぞれの人生を満たし飾ります。しかし、それに気付いた人、またその賜物を生かした人だけをイエス様が誉められています。再び帰ってこられるイエス様を大きな希望を持って、努力して、積極的に迎える人になれば、心の大きな報いを得られます。私たちが神様からいただいた賜物は信仰です。それをいただいた私たちが小さなことにも忠実な僕として、信仰に基づいた生き方を送ることができれば、喜んで下さる神様が、さらに大きな報いを準備してくださいます。
                                    モヨリ神父
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A年 年間第32主日

2017年11月11日 | 神父様からメッセージ(A年)


枯葉の上に落ちた霜のように、人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命はとても短いものです。諸聖人の祝日と死者の日を迎える私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。天の方に目を向ければ私たちの人生も豊かになり、神様の思い通りに日々を送ることが出来ます。秋に木の枝にぶら下がっている枯葉のように、私たちの人生は神様の手に大切にされています。

「マタイ福音書 25・1-13」
当福音書の例えを通してイエス様が神様と人間との出会いを語られています。この出会いはお互い知らない者の出会いではなく、お互いによく知る人の出会いです。神様が盛大な祭りに人間を誘われて、人間はその誘いを受け取りました。神様に誘われた人は心を開き、授けられた知恵を通して目を覚まして、神様の存在や思いや働きに注意深くなり気付き、生きています。福音書の中に出てくる灯火用の油は心の知恵、そして心の期待感を例えています。この頃の典礼全体もイエス様が再び来られることとその時に人間との再会に注目されています。このような背景の中で、イエス様が語られた例えばなしを読みとらなければなりません。初代キリスト信者の共同体では、イエス様の再臨を心から期待していましたが、しかし使徒パウロは「2テサロニケの人々への手紙2・1-2」の中で、イエス様がすぐに来られるのではなく、今はふさわしくお会いする為に心の準備をして期待するのが欠かせないことだと述べています。一所懸命期待するのは大切であり、その期待は簡単なことではありません。だからペトロでも、キリスト信者と支え合いながらイエス様が来られるのを期待するように勧めています。なぜなら、期待する間は神様の慈しみと憐れみを受ける時です。つまり、救いの時です。その時にキリスト信者は回心ができる期間を実感しながら、自分の生き方を改善します。福音書の中に出て来る乙女たちは、おそらく普通に誘われた若い女性ですが、実際にはマタイの福音記者がこの例え話を書く時に、乙女たちことは象徴的な姿にして、当時の共同体のことを示しています。使徒パウロは当時コリントの共同体を「清い乙女」とよんでいます。だから、福音書に出てくる乙女たちはキ
リスト信者の共同体であり、彼女らが持っている灯火は信仰から生まれた良い行いです。花婿はイエス様です。
                          モヨリ神父  
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A年 年間第31主日

2017年10月30日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 霜のように人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命もとても短いです。諸聖人の祝日と死者の日を迎えた私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。このような悲しい思いに抱かれても、イエス様に従う者たちは、目を上げて光と喜びのある世界を見つめて、大きな希望をもって過ごしています。人生はどんな時でも神様の贈り物であり、どんなことよりも大切にされて、それを神様に自らの能力によって豊かにすることが、神様への恩返しになります。
「マタイによる福音書3・1-12」
 この福音書のなかに、マタイ福音記者にイエス様がおっしゃったいくつかの表現が集められています。目的はまず、だれにも神様の栄光、神様の権威を奪い取ることはできないと強調しています。次に私たちは唯一の師の弟子であることを明確にします。イエス様はファリザイ派の人々の行いを真似しないように勧めてから、このような人物のプライドと自慢とに注意されます。それに対してイエス様が皆に唯一父である神様のことを注目させながら、皆の唯一の師として神様のことを紹介します。イエス様の時代にファリザイ派の人々は主な神学的な考えの代表でした。同時にファリザイ派の人々だけではなく、新しく生まれてくるイエス様の共同体の指導者も言い伝えることと行いが異なっていました。「第一ペトロの手紙5・1-4」が同じような思いを伝えています。あの者たちの行いは、神様の思い通りではなかったのです。イエス様は結局一番偉くなりたい弟子たちに、基本として自分がされたようにお互いに仕える者になるように勧めています。実際に上席を選ぶのではなく、聖句の小箱を大きくしたりでもなく、広場で挨拶されて「先生」などと呼ばれることでもなく、人の僕、人に仕える者になることを勧められています。イエス様に従う者にとって唯一の先生はイエス様だけです。ほかの人たちは皆、兄弟です。イエス様がおっしゃったことを受け入れないのなら、むしろその代わりに自分自身で立つことにすれば、イエス様の弟子として違反することもないのです。イエス様の弟子の義務は自分の方にではなく、人をイエス様の方に呼び寄せて導くことです。使徒パウロもコリントの信徒たちに、だれにもイエス様だけが救い主であり、イエス様だけが私たちの先生であり、イエス様だけに皆が指導される、それだけを真似しなければなりませんと強調されています。
                             モヨリ神父
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A年 年間第30主日

2017年10月23日 | お知らせ
 
 
 先週全世界の宣教の日を祝った私たちが、どれほど皆にこのような神様の愛を告げ知らせることができるか、大きな課題です。そして再び主の日を迎えることができました。イエス様が色々な活動で疲れてきた弟子たちに、休むように静かな所に誘われました。今日は主の日、同じように色々なことで疲れてきた私たちも、イエス様の所で御言葉に支えられて休むように誘われています。「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・5―10」の中で、聖パウロはイエス様の福音を宣べ伝えるために新しい共同体を作り、ときによっては選ばれた召使と手紙を通して、少しずつその共同体の中にイエス様の姿を刻み深めるようにしていました。この時まず、聖パウロはテサロニケの教会のために自分の働きについて話しながら、積極的に苦しみの中で御言葉を受け入れたテサロニケの信者たちを誉めています。聖パウロは神様の言葉を宣べながら、その言葉の活発な働きと成果に気づき喜んでいます。その満足感もテサロニケの信徒たちに伝えています。様々な偶像崇拝から離れて、神様だけに仕え、聖霊に導かれて働くようになり、イエス様が最後に来ることに期待するテサロニケの信徒たちを、聖パウロは再び誉めています。聖パウロが強調するのは自分の中でも皆の心の中でも、復活されたイエス様こそ全人類の救い主であるということです。
「マタイによる福音書 22・34―40 」
 法律だけが人間を救うものではありませんが、当時のイスラエル人の考えでは、どんな法律でも神様の愛に対する人間の方からの答えでした。だからすでに旧約聖書の時代にも神様に対する、また弱い人に対する、愛する掟を勧められていました。今日の福音書では、すでにイエス様から永遠の命について戒められたサドカイ派の人々の事を聞いたファリサイ派の人々が、再びねじれた質問によって一番重要な掟についてイエス様に答を求めました。ファリザイ派にとって、どんな掟でも(600以上)同じ価値を持ち、違う答えは普通の教えに反する発言になりやすいので、イエス様の答えは皆に注目されました。試されたイエス様はイスラエル人の宗教的な派閥を超えて、愛の掟は一番重要な掟であることを宣言し、愛の根は神様への祈りの中にあると、旧約聖書の個所を示しながら教えていました。「 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」実は神様に対して、隣人の愛の泉は最後の晩餐の時に、イエス様ご自身の言葉に明らかにされています。「私が愛したように愛し合いなさい」とイエス様がご自分の心の愛を皆に模範として勧められました。
                                  モヨリ神父
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A年 年間第29主日

2017年10月16日 | お知らせ
 
 
 イエス様に従ったものたちはいつもどんな時でもそれを覚悟して、イエス様から頂いた「福をもたらす音」、福音を言い広めています「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・1–5」によると私たちの手紙の書き出しに比べて、羨ましくなるほど素晴らしい最初の挨拶が、テサロニケの信者のために記されています。このような聖パウロの手紙の挨拶は、キリスト信者のための手本になっています。この挨拶は大いに聖パウロの心を現わしながら、同時に聖パウロのテサロニケの信者への深い思い、やむにやまれないメッセージを含んでいます。キリストに結ばれた者は神様の恵み、心の平和の中で生きています。信者である私たちも、人に何かを差し出そうとした場合、上記のような神様の贈り物が一番素晴らしいものです。聖パウロはテサロニケの信者たちに心をかけながら、キリストの信仰によって自分の兄弟として思い、信仰のために働き、愛のために労働していることを誉めます。テサロニケの信者たちは、信仰と愛の中で生きることによって父である神の心の中に留められて、神様に特に愛されているのです。聖パウロは私たちのためにも参考になることをもう一言伝えています。それは福音を宣べ伝える時に、言葉だけではそれが人の心に残らないことがあります、ですから聖パウロがやったように私たちも力や聖霊の光によって、福音的な生き方によって、キリストの心を伝えるならテサロニケの信者と同じように、誰でも神様の心を見出すことができます。
「マタイによる福音書 22・15-21」
 イエス様の言葉を信じることになった私たちは、その言葉によって気づくことが沢山ありました。今日はイエス様が、普段気づかない真実に眼が覚めるように仕向けてくださいます。宗教の世界、社会の世界は私たちにとってどのように見えているのでしょうか、対立し区別されているのでしょうか、宗教と社会、信仰と政治、心の中身と物理的な世界の区別と判断を、イエス様の言葉に基づいて考えてみましょう。まず、イエス様がおっしゃる通り、まず税金を皇帝に返すことを考えましょう。イエス様がおっしゃる通り、だれにとっても社会的な義務、役割、責任があります、それは果たすべきです。それによって、社会の平和と調和を求められます。宗教的な世界は社会的な世界に対立してはいませんが、むしろ神様の光で照らされた人間はどこでも、どんな時でも一番いい方法を探し求め、それは暮らしの原動力になっています。神様は私たち一人一人を心から愛されて私たちを神様の似姿に造られていますから、私たち自身、そしてこの世界も美しく神様が作られたままに返さなければなりません。イエス様の心と一致することによって、神様に私たちの素晴らしい人生を返すことが出来、神様の栄光となるのです。                            モヨリ神父


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A年 年間第28主日

2017年10月12日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 「収穫は多いが働き手が少ない」イエス様が蒔かれた言葉は豊かに実りましたが、それを受け入れる人、それを愛する人、それを実行する人はまだ少ない。しかし人手が増えるような理想的な目標は、私たちの心のなかにずっと永久に希望となって宿ります。
 使徒パウロの「フィリピの教会への手紙4・12-20」の中で聖パウロは、何にも囚われていない心、つまり完全に自由な心を示しています。富や持ち物であれ、食べ物であれ、イエス様の心と思いとに一致すれば、他に希望することはありません。そして聖パウロはフィリピの教会の信者たちに対して、感謝の心を持ちながら、彼らの支えのお陰で自由な心を持つことができ、共に苦しみを背負う事になったことは大きな慰めとなったと書いています。実は聖パウロを支え、慰め、心を自由にしてくださったのはイエス様を通した神様ご自身でした。どこでもどんなできごとでも神様の栄光「存在、働き、心と慈しみ」を見出すことができれば自分の心は満たされます。神様は私たちの父としてこの世のどこででも、ご自分の栄光を表されます。私たちがそのことに気づくことができれば満足できるのです。最後に聖パウロは翻訳することができない言葉を付け加えています。それは「アーメン」です。その言葉によって聖パウロは、上記のことをその通りと強調し、他に真実はないと力強く伝えて下さいます。
「マタイによる福音書 22・1-14」
 聖書ではこの世の出来事や私たちの経験を超える世界、または神様の心について話す時に、独特な方法が使われています。新約聖書でも旧約聖書でも、催された婚宴のイメージが良く使われています。イエス様は罪人と一緒に食事をし、最後の晩餐の中で、ご自分の体を愛のしるしとして食べ物の形で弟子たちに残しました。イエス様は弟子たちと一緒に食事を取りながら、聖霊について話したこともありました。聖書の言葉使いでは、婚宴は食卓に招かれた全人類を象徴し、普遍的な命を示し、神様の知恵、神様の恵みの食卓に誘われた全人類のことを表します。当マタイによる福音書のたとえ話では、再び神様の招きが強調されています。神様はいつでもどんなときでも、色んな方法で色んな人を通して(召命)ご自分の心に人類を呼び寄せています。神様の心は喜びとやすらぎのある所で人間の心を満たす所です。イエス様のたとえ話は聞き手を驚かせながら新しい真実を告げ知らせています。人間の喜びを求めるのは神様です。自己中心的な考え方で神様の誘いを断るのは人間だけです。しかし神様の誘いに応えるには、参加のための礼服が必要です。その礼服は私たちの洗礼式の時に着せられた白い服か、あるいはベールのようなものですが、それは大きな喜びと感謝の心を示現していて、実は神様の命、神様の恵み、私たちの心の完全な改心を通して神様の愛を受け入れられた心を示しています。
                                    モヨリ神父  
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A年 年間第27主日  

2017年10月02日 | 神父様からメッセージ(A年)

 
 私たちのあっというまの人生のために日曜日の神様との出会いは素晴らし出来事であり、欠かせない喜びの機会になっています。「使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・6–9」は、物心両面での支援を惜しまなかったフィリピの共同体の信者たちに感謝しながら、聖パウロは当手紙の中で深い友情の関係で結びついていることを示しています。その背景の中、心の平和を探し求める人に、どのようにすればそれを得られるかを聖パウロが教えてくれています。まずイエス様に従うものであれば、煩ってはいけません。なぜなら、神様との係わりは何でも感謝しなければならないし、神様は願うことがあればいつでも私たちのそばにいて、かなえてくださいます。そう思うと私たちはイエス様と心や考えも一つになります。そして聖パウロはいつもご自分の兄弟のようにフィリピの共同体のキリスト信者に、真実の中に、正し心、清い心、愛する心をもって生きるように勧めています、なぜなら、そうすることによってイエス様とのつながりが実現し、本当の心の平和を味わうことができるからです。
「マタイによる福音書 21・33-43」
 いつもたとえ話を語るイエス様が私たちの心の反応を求めています。この場合、まず知らせてくださるのは、神様は私たちに救いの計画のすべてを備えられているということです。それはたとえ話しの中のぶどう園のことです。私たちの場合、人生のこと、信仰のこと、周囲にいる者たちのことで、それはすべて神様が私たちのために供えられたもので、大きな信頼の中でまかせられています。さて、ぶどう園のたとえ話のように、神様の賜物を預けられた私たちはどのようにそれを受け入れて大切にしたか、また神様の望みや導きを表現されている愛にどのように応えたか、それが私たちの心の反応を期待しているイエス様のたとえ話の目的になっています。まず私たちのために神様が供えてくださったことを検討してみると、この世の素晴らしさだけではなく、人類の運命、そしてもっとも大切なのは神の国です。それは神様が準備してくださったもので、私たちの弱い手に預けられています。私たちは神様が送ってくださったいろんな良い知らせ、生きた言葉、励ましの言葉、赦しの言葉をどのように受け入れたでしょうか、それが今日の朗読の重大なテーマになっています。その神様の愛を現わす言葉は、実はイエス様自身です。その言葉を受け入れて、大切にしたものだけが自分の人生、自分の住まいを親石の上に建てることにし、神様の大きな愛の計画を受け入れます。    
                            モヨリ神父
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A年 年間第26主日 

2017年09月29日 | お知らせ
 
 
 イエス様は普通の農民の文化にそって、自分のことを麦の初穂であることを示し、皆のために主食になりました。私たちも一粒の麦として集められた時に聖別のパンになり、イエス様の体になります。日曜日にイエス様の体をいただく時に私たちはイエス様の死を思い、復活を讃えるのです。このような祝いは、秋の祭りだけではなく、永遠の命の神聖な祭りになっています。使徒パウロの「フィリピの教会への手紙 2・1–11」によると、エフェソの牢獄で苦しんでいた聖パウロは、フィリピの共同体に心をこめた手紙を書き、そこにイエス様に従う共同体の姿を描くようにしています。まず聖パウロはフィリピの共同体の者たちとの友情や親しみを強調し、彼らの信仰による生き方を喜んでいます。そしてどのようにイエス様に大切にされているかを語ります。どれだけ大いなるイエス様の励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみと憐みの心で包まれているかを知らせます。このように愛の中で生きる共同体はイエス様の姿を映すことになり、聖パウロにとって一番素晴らしい喜びとなっています。イエス様に従う共同体にとってイエス様の心が手本になります。イエス様はまず、自分が神でありながら皆に仕えるものになりました。神様の御旨を自分の人生の目標にし、十字架上に死ぬほどの神様の愛、人の愛を示しました。それによってイエス様は人類の理想になり、神様の心を皆に示しました。このような思いの中で生きるイエス様の共同体は、利己心を乗り越えて聖パウロが言うように、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして生きています。このような共同体の中にこそ、復活されたイエス様の姿が高く、中心に輝いているのです。
「マタイによる福音書 21・28-32」
 今日はイエス様が語られるたとえ話を通して、私たちの信仰の質を確かめるように勧められています。私たちの信仰が言葉の音にすぎないのなら、私たちも父親に「はい、はい」とだけ答えた兄に似ています。実は「はい」と言っても父親の心を行わなかった兄は、父親の愛に対して感謝の心をあらわしませんでした。私たちの人生を振り返って、どのように神様の愛に応えているのか確かめてみましょう。当時のイエス様の聞き手であった偉い者たちはイエス様の言葉を聞いて、イエス様の言うことを誉めたり、評価したりしましたが、それは自分の生き方までには及んでいなかったのです。日本の表現を借りれば、彼らの反応は建て前にすぎなかったのです。イエス様の言葉を聞いても、心が改心せず、自分の思い通り、利己心で生き続けました。つまりこの、子にかけられた言葉は愛に充ちた父親の、心からあふれ出た言葉であったことに気付かず、自分の人生の中で具体的にその愛に対して応えと感謝までいたらなかったのです。しかしイエス様のたとえ話では、父親の愛に気付いた弟は言葉の音ではなく、行動で父の心に応えるようにしました。どうして罪人、悩む人、貧しい人は神様の目に幸いでしょうか。今日イエス様のたとえ話の中に再びその答えがありました。寛大な心で愛されて赦された者、慈しまれた者だけが、その限りない愛に気付き、自分の人生で感謝を現わし、自分の人生の生き方で応えることができるのです。
                       
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A年 年間第25主日 

2017年09月19日 | 神父様からメッセージ(A年)


 お彼岸は仏事でありながら、イエス様の信者である私たちにも亡くなった方を思い、この人生のみじめさを思い、いつか太陽のように神様の姿を見出すことを思い起こさせてくれます。日曜日、主の日は体と心を休ませる日ですから、この時こそ本当の安らぎを求めて神様への思いだけで心を満たしましょう。いつも神様の言葉は、ともし火のように私たちの歩みを照らしています。使徒パウロの「フィリピの教会への手紙 1・20 –27」によると誰でも死を恐れて命を握りしめるようにしています。しかし、聖パウロにとって生と死、どちらもあこがれで両方とも望ましい目標になっています、なぜなら生きても死んでも、イエス様と一緒ならばイエス様の姿を見せることになります。聖パウロはイエス様のように生きることも大きな希望ですが、死んでも神様の懐に戻れるから、それも夢のような大きな希望となっています。それで聖パウロにとって、死ぬか、生きるか、どちらも難しい選択になっています。一方ではイエス様のように、生きる間にイエス様の心を見せて、人を救いの道に導くことができます、他方死んだ場合・完全に神様の心に戻ることになります。勿論、このような思いはキリスト信者にとって大いに参考になっています。
「マタイによる福音書 20・1-16」 
 今日もイエス様が驚くべきたとえ話を通して、私たちとの出会いを求めています。イエス様が語られたたとえ話の中で、不正な役割を通して、神様の考え、神様の義を教えてくださいます。まず神様の心、神様の思いは、社会的な計算高い人間の思いのようではありません。人間はいつも自分の働きや行いの利益をもとめています。しかし人間と違ってイエス様は、不正な主人の考えを通して、自分の愛、{諺通り・愛は盲目}自分の限りない慈しみを見せながら、私たちの心の計算を超えた義を示してくださいます。人間は自分の行いの結果において救われるものではなく、神様の慈しみと愛に満たされた義によって救われています。この福音書の箇所は、ペトロがイエス様に報いを求める対話の前に執筆されています。だからこのたとえ話をその神様の報いの背景の中に読むことにすれば、神様はいつも、どんな時でも、人間に呼びかけて誘っておられること、約束されたことを守っておられることがわかります。それに、頼りない私たちに対して、ご自分の慈しみと愛によって、ご自分の心の義を示して私たちの救いを求められています。確かにこのたとえ話を通しても、イエス様が私たちの心に出会われて、神様がいつも求めるのは人間の欠かせない喜びであることを、再び教えてくださいます。
                                  モヨリ神父
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A年 第24主日

2017年09月11日 | 神父様からメッセージ(A年)


 今日、この時に欠かせない思いは、年輩の方々に対しての感謝の気持ちだと思います。まず、彼等のたゆまぬ努力と労働によって、私たちの世界、人生、環境までもが楽になって綺麗になりました。次にお年寄りからいくつもの教えや知恵を授かる事ができ、それを受け継ぎながら信仰の尊さまでも覚えることができました。このように感謝の気持ちを持ちながら、先輩の方々と一緒に神様に向かい、この人生のため、またそれに伴った恵みにも感謝を捧げるべきだと思います。先輩方が一所懸命守った信仰は私にとって大きな贈り物になり、新たな義務になります。
「マタイによる福音書 18・21-25」」
 キリスト信者にとって赦すことは欠かせない心の態度です。隣人を赦すことによって自分の罪も神様から赦されます。主の祈りの中でも自分の方から人を赦し、自分も神様に赦されるように祈っています。さて、当福音書を通して、イエス様が赦しについてペトロに対する返事で、そして感動的なたとえ話を通しても簡単に教えを伝えてくださいます。イエス様が語られたたとえ話の中に登場する僕がいて、主人に対して莫大な借金をもっていました。自分の家族の者たちを奴隷として全て売っても、自分の持ち物を全て売っても、持っている借金に対して半分以下も納めることが出来ませんでした。けれども莫大な借金を持った僕は主人の足もとにひれふして、借金を帳消しにしてもらえるように一所懸命に願いました。その願いの仕方は長年、教会のミサの典礼の中に「kirie eleison」という言葉で表現されていました。「kirie eleison」(キリエ エレイソン)ギリシャ語で、心のこもった深い願いを示し、大きな愛で包んでくださいと言う願いの意味をも含んでいます。その願いを聞き入れた主人は、僕の借金を全て帳消しにして赦しました。さてイエス様に望まれた共同体も、お互いの赦しの元に作られています。その赦しがなければ、イエス様の共同体も消えてしまいます。そして私たちがいつか、人に対する赦しや寛大な心によって、同じように神様に裁かれます。神様の大きな赦しを体験した人だけが赦すことが出来ます。赦す人はまず、自分の負った傷を治してから、赦しを与えることが出来ます。けれどどうしても赦せなかったことが赦せるようになるには、長い歩みが必要です。その時、祈りの中で神様の支えは欠かせない力になります。
                                     モヨリ神父
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