カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

先月のできたこと(2013年2月)

2013年01月26日 | 先月のできごと


先月のできごと(2013年2月)

・2月 3日

ミサの中で、キリストに従う意志を表明し、教会でいっそう深くキリストの教えを学ぶ 「第一段階」として 「入門式」 が行われました。

・2月10日

ミサの前に、2月11日「ルルドの聖母」記念日を祝い、教会内マリア像の前で
 祈りました。また、ミサの中では、世界病者の日として塗油の秘跡がありました。

・2月13日

 灰の水曜日のため、ミサの中で、灰の式がありました。神父様から一人ひとりの頭に灰を「回心して福音を信じなさい」 と降りかけていただきました。また、説教で 「回心:
かいしん」について、改新・会心と読み替えてのお話がありました。

・2月17日

この日からミサ後、信心の一つである「十字架の道行」があり、神父様の後をみなさん
で第1留から第14留まで教会内を巡礼しました。

・2月24日

ミサの中で 「求道者が神から選ばれた者であることを教会が宣言し、次の復活祭に入信
の秘蹟を受けることを承認する式」 洗礼志願式 が行われました。
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お知らせ

2013年01月26日 | お知らせ

  1 ミサの時間表

    月~金曜日 朝6:30から

    土曜日朝7:OOから 夜6:00から(英語ミサ)

    日曜日朝8:30から 昼3:00から(第四日曜日のみ、英語ミサ)

    注:山鹿教会でもミサがあります。所在地:山鹿市大字山鹿563-5(市民病院横)

  
  2 勉強会

    第1、第2木曜日  朝10:00~1 1 :30
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「今週の公教要理の錠剤」56

2013年01月25日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 年間第三主日   2013・1・27
 「カトリック教会の教え」から
「信仰生活と祭儀」
「神様と言う名前があるだけで確かに神様がおられる」、それで本当に神様がおられることになるのかと、素直に一人の女の子から聞かれた時に答えました。「神様がおられる」と言うだけで人間は神様と深いつながりを持つことになります。それに従って、皆が心の中で神様を重んじながら祈っています。つまり心からの神様への祈りと礼拝によって神様と通じるようになります。宗教によって祈り方やその所作は多いのですが、生き生きとした日常生活を通しても祈ることが出来ます。キリスト教の中のカトリック独特な祈り方と礼拝、ミサなどもあります。それは偶像礼拝と違って自分の利益、幸運だけを探し求める方法ではなく、カトリック教会は神様の礼拝、賛美を通して小さい人、苦しんでいる人の幸福を祈り求めています。偶像礼拝は口だけで祈ったり、心が遠いものです。キリスト信者は心と体、日常生活全体で祈って、神様に結びついて神様を賛美します。イエス様が「真の神」の姿を教えてくださいました。キリスト信者はイエス様を見つめながら、従いながら神様の心を理解し祈ります。キリスト信者はイエス様の後ろを歩みながら、修業として苦しみや犠牲を探し求める者ではありませんが、むしろ日常生活の中で、苦しみはそれを肯定的にみて、人の為、神様の為に愛で満ちた捧げものにして乗り越えるようにしています。犠牲は神様へのもっとも高い礼拝の方法ですが、それを自分の為、自分のプライドの為に行うことになれば意味がありません。しかし人と神様への愛の目的であれば、とても優れた礼拝になります。最後に主の日、つまり日曜日は一週間の中で神様に捧げられた日ですから、その安息日の過ごし方も神様を思いながらになれば、優れた礼拝方法になります。日曜日は聖書の中で、安息日と言う表現で、神様がこの宇宙万物を創造されてから休まれた日を示していますが、実際にその祭日をキリスト信者はイエス様の復活と喜びを記念して、仕事、労働などに捕らわれないで、心と精神を高め、神様に祈り礼拝します。同時に周囲の人に自分の大事な時間を愛の中で捧げるようにします。
                                  モヨリ神父
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「毎週の公教要理の錠剤」55

2013年01月19日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 年間第二主日  2013・1・20
 「カトリック教会の教え」から
「 信仰の自由」
「信じる」という人間の行為は神様の招きに対する人の自由な応答行為です。あらゆる信仰を持った人間は、いつでもどんな時でも神様に応える自由な行動を求めています。人間は自由に生きる為に神様から作られて、自由な良心をもって、自由に神様の方へ自由な形で帰っていきます。このような思いを土台にして、人間はどんな場所ででもどんな国ででも自分が信じる教えに従うことが出来るし、自分の信仰を示す権利を持っています。世界の歴史を見てみれば、人間が強制的に自分の信仰を廃止させられる為に圧迫され、殺された時もありました。時によって、家族から、社会から、あるいは政府からも強制的に定められた信仰に従わされました。つまり、自分が選んだ信仰の形を選び、従うことが難しかったりしました。確かに現代にこのような,強制的な制度は公には終わりました。しかし、ひそかに隠れた形で、目で見えない心理的な強制は存続しています。人類は皆それぞれの文化、教育、歴史によって自分の信仰を持っています。自分が出会った神様を拝んで祈っています。このような現実を見る人は、お互いに尊敬をもって相手の信仰を認めます。また人は教えられたように自分の信仰を保つべく、時によって、救いを探し求める人に、心の中にある思いと喜びを伝えるべきだと思います、けれども相手の意見、思い、そしてそれをまとめる宗教に対して、いつでも大きな尊敬を持つべきだと思います。そうすれば自分の信仰に対する大きな尊敬を得られると思います。キリスト信者は他の宗教の中にもイエス様から告げ知らされた神様のみ摂理の救いの計画を見出すことができるので、特別にいろんな宗教に対して、自分の宗教と同じように尊敬をもっています。同時に自分の生活の中に神様から頂いた信仰を深めつつ、聖なる生活を求めて、心の信心を育て、神様の思いの中で生きるようにしたいものです.
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「今週の公教要理の錠剤」54

2013年01月10日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 主の洗礼の祝日 2013・1・13
 「カトリック教会の教え」から
「 神の恵み」
私たちは自分で得たものではなく、他者から無償で予想しない時に「いただくもの」を感謝の心を持って受け取ります。そのような賜物を一般に「恵み」と言います。神様の恵みは物理的なものではなく、神様の自由な慈しみからいただく「喜び」「幸せ」「救い」です。このような神様の恵みはいろんな方法で頂くことになっています。場合によっては、自分が気付かない内に神様がご自分の愛を注がれて私達のこころを満たしてくださっています。それは人の人生の歩みの中で、神様が喜びの種のように蒔かれたり、人生を歩んでいく弱いわたしたちが特別に厳しい状態の時にも支えてくださる力となっています。このような神様の恵みは、特別な信仰の光で心の目が覚めるとそれを見出すこと出来ます。確かに神様にお祈りしながら大きな恵みをいただくことも出来ます。そしてイエス様が行われたように、イエス様のお母様であるマリア様もなさったように生きて行けば、私たちの心は神様の恵み、あるいは神様の愛と思いで満たされます。神様の恵みの正体は神様から時や事情にこだわらず、自由にいただいた喜びです。しかしそれだけではなく、自分の人生の中で、神様の働きを見出し信仰の目でそれを確認すれば、それは神様から頂いた恵みだと認めることが出来ます。神様の恵みは時によってイエス様により近く従うことだったり、あるいは自分の性格を変えるほどイエス様と同じように行うことによって表すことが出来ます。信仰の中で生きる人々は人生の苦しい出来ごとの時でも、罪の中でも、神様の恵みとその働きを見出すことが出来ます。なぜなら苦しい時にこそ人間はより大きな愛を理解し、より大きな愛の経験によって苦しみに直面しても、それを乗り越えることが出来ます。聖人達はいろんなところで、罪の中でさえも神様の無償の恵み(光)を見出していました。また人の罪や人生の辛さを通しても、神様はそれに大きな慈しみに変えてそれを通して人間により大きな喜びと愛を備えられます。
                                  モヨリ神父

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