カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年キリストの聖体の主日 

2013年05月29日 | 神父様からメッセージ(C年)
麦の収穫の時期が近づいてきました。麦秋の景色を眺めながらイエス様の例え話の中の、いくつかの感動的な麦畑が登場する場面を見てみましょう。「収穫が多いが働き手が少ない」と言う言葉でイエス様が自分の心の大きな願いを示しています。毒麦と良い麦の例えでは、イエス様が神様の慈しみと憐れみについて話してくださいます。また麦の種が土に落ちて、死ななければ実らないと、イエス様がご自分の愛、ご自分の人生をたとえています。そして良い土に落ちた種は60倍、80倍、100倍にも実ることになっています。このようにイエス様が神様の言葉をたとえられています。それを受け入れる人は、今頃の麦の穂のように豊かに実るのです。けれど麦をすりつぶし、粉にしてパンを造ることで、イエス様がご自分の体、ご自分自身、ご自分の心と存在を示しています。地中海付近では昔から、麦で造られたパンは特別な顕示台で、行列して麦畑の間を通って運ばれ、イエス様の聖なる体として讃えられました。その時にイエス様の体を祝いながら、その小さな麦の種は、人間の労働の実りと共に、神様の神秘的な体となり、人間の救いの心を示していました。
「ルカによる福音書」 9・11b-17
 初代教会からイエス様の体、聖体は教会の一致のしるしであり、教会を養育する食物だと考えられています。聖体は復活祭の記念であり、歩き続けるキリスト信者を支える食べ物で、永遠の命の希望であり、教会全体の宝です。イエス様がパンと魚を増やしたことによって、聖体の意味を弟子たちから私たちに至るまで伝えました。貧しく、困っている群衆にご自分がなさったように、弟子たちにも自分が食べ物になって食べさせるように勧めています。それはイエス様がパンと魚を増やした時に、最後の晩餐と同じ動作と言葉を行ないました。つまりパンと魚を祝福して、弟子たちに与えました。当時の第一の奇跡は小さなものから、つまり五つのパンと二匹の魚を分かち合ったことによって、五千人が食べ満腹できたことです。その時、自分に従った者に対して、特に弟子たちに対してイエス様がご自分の心を示しています。イエス様が自分に従う貧しい人、人里離れたところまでもイエス様を追ってきた人を大切にし、見守りながら、パンと魚を食べさせることによって養い育てています。聖体を祝う時に教会は、イエス様の死と復活を、イエス様が再び帰って来られるまでを宣言します。それによって罪を犯した人は赦されます。そしてご自分がされたように弟子たちに自分自身、自分のことを人々に食べさせるように勧めています。実はこれは愛の究極の姿です。イエス様が自分自身を食べ物にして、人と全て分かち合って皆を支える食べ物となりました。それは神様の最高の愛のしるしであり、それが聖体の祝いの意味なのです。
                                               モヨリ神父

C年 三位一体の主日 

2013年05月23日 | 神父様からメッセージ(C年)
 20013・5・26
神様について、皆に温かい心で話したくてたまりませんが、それについて語ろうとしたとき、うまく伝えるのはなんと難しいことかと深く感じています。 三位一体とは神様の自己紹介です。ちょっと哲学的、神学的な表現ですから説明しても、神様のイメージはすぐには身近に理解出来ないと思います。けれどもお祈りの中で、神様の神秘を黙想しながら理解できるように、神様について感動的な心が燃える話を心に留めるようにしたいと思います。神様はだれも見たことがありません。しかし、イエス様が身近にその心、その姿を語ってくださいます。神様に向って、お祈りさえ知らなかった弟子達に、イエス様は次の言葉を教えて神様の姿を見せました。「天におられる父よ」神様は私たちのお父さんであり、私たちといつも共におられます。皆のお父さんであり、皆を大きな愛情で包んでくださいます。このようにイエス様が神様の心を語ってくださいます。「み名が聖とされますように」神様は私たちのお父さんであり、素晴らしい唯一の方です。私たちの心を大きな喜びで満たしてくださいます。そして、全てのものよりも偉大であり、全てのものよりも一番大切で欠かせないものです。このように神様の名前は高められています。「み国がきますように」神様の国は小さいもの、弱いものの国であり、愛の国です。そしてその「国」はイエス様自身です。神の国はもうすでにあなたたちの間にあるとイエス様がおっしゃっています。その時、イエス様は神の国は自分自身であることを示しています。この国はどんなことよりも価値があって、小さくても宝物のようなものです。大きな力を持ち、どんな人をも含んで大きな木のように成長し、遠くまで心の枝を伸ばしています。次に「み心が天に行われる通り地にも行われますように」神様の神秘的な心は聖霊です。つまり聖霊は御父とイエス様の心を結びながら、神様が愛で燃える心を示しています。その愛の中に私たちのことも含まれています。聖霊は私たちと一緒に歩みながら、私たちを見守り導き、私たちの人生の計画を組み合わせています。私たちの過ちを、いつも大きな心で赦してくださいます。

C年 主の昇天  

2013年05月09日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 主の昇天   2013・5・14
ルカによる福音書 24・46-53
使徒たちの宣教による主の昇天の物語とルカの福音書の主の昇天の物語は、同じ著者で書かれているのに微妙な違いがあります。使徒たちの宣教には歴史の流れに注目しながら、イエス様が復活されてから四十日後、弟子たちの目の前で天に昇られました、一方ルカの福音書によるとイエス様が復活された後、すぐにその晩、天国に上げられました。このような違いがあり矛盾することもありますが、神様の目には時間のことは一瞬でも、何日後かであっても人間との出会い、人間とのかかわりはいつも時間的なことは論外に見られています。さて現在の時代に復活されたイエス様は皆の目の前から消えてしまわれても、私たちの間におられて時間が霊的に流れることのない時代が始まりました。私たちの救いと喜びと栄光の時代です。イエス様の教会の成長に注目する使徒たちの宣教は歴史の中で歩み続ける出来事を語り、時間の中で神様の働きを述べています。実際に新しい教会を生み出した人たちは復活されたイエス様の神秘を理解するため、完全に受け入れる為に時間がかかりました。イスラエルの古典では、「先生の教えを覚えるために弟子は四十日間かかります」と。イエス様の死と復活の神秘を覚えるため、その心を受け入れる為にこのようにしばらくの時が必要でした。聖書の物語によると、確かに初代教会にとって、旧約聖書の流れに入るため、イエス様の言葉、イエス様の神秘的な存在を受け入れるのは簡単なことではなかったのです。その時、初代教会は成長の苦しさを感じながら、厳しい時間のながれを体験しました。上記のような矛盾を理解しながら、イエス様の発言に関して、もうひとつ、理解をもとめる矛盾的な言葉があります。イエス様が「これからずっとあなた方と共にいる」と約束しながら、天に昇って弟子たちの目の前から消えられたことです。しかし、イエス様はご自分の人間的な姿が消えても、ご自分の言葉、共同体、秘跡、貧しい人、の中にいつも別の形で私たちと一緒におられるのです。
                                 
モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」68

2013年05月02日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 復活の第六主日 2013・5・5
 
「信仰の具体的な形」
信仰とはキリスト信者にとっても、具体的に信じるのはまず、自分の貴重な財産を安全な所、頼る所に預けることです。キリスト信者がもっている財産は命、自分の人生の目標、愛の事、平和な心です。その貴重なものはどんなところよりも、もっとも頼る神様に預け委ねます。そのような貴重なものは命である神様が確実に永遠に大切にしてくださいます。
信仰はしるしの中に、ある象徴的な深い意味を見いだします。つまり、秘跡のしるしを考えてみれば、洗礼の水、聖体のパンとブドウ酒、堅信式の油にそれを通してしるしの奥の意味をみるようになれば、より素晴らしいことを見いだせます。たとえば水は神様の命を例えたり、パンとブドウ酒がイエス様の体だったり、油の中に聖霊の力を見いだせます。秘跡のしるしと同じように、イエス様をしるしとして見れば神様の姿を見られます、命の神秘を見て神様の顔、そのみ旨を身近に見られるのです。人生の歩みには暗い所に信仰の目によって大きな光をも見いだせます。それに信じるのは頼れるもの中にお一人を選ぶことです。確かに完全に信用できるものはただお一人だけです。それはキリスト信者にとって神様だけです。そして信じるとはかならず何かを約束された人に頼ることです。確かに約束されるものは何人かいますが、しかし命をかけて十字架上で人の為に死んで、より大きな愛を示した方はただお一人だけです。それはイエス様です。そのイエス様がされたいくつかの約束は信じるべきではありませんか。その中で人の為に準備してくださった場所は天国にあるのです。だから信じるとは、約束されて行くべき場所が必ずあると思うことで、そしてその場所にまだ行かない内にも、そこにいつか必ず行けることを思うことです。信じるとは頼る人の言葉に耳を傾けて、受け入れて、おっしゃることも素直に実行することです。信仰を持つと言うのはいつも人間の自由を含んでいますから、否定的な答えも見通しています。だから信じるのは強制的なことではなく、最終的に人間の心の自由によって決めることが出来ます。確かに選ばれた信仰によってその通り生きるのは前提であり、信じたことの通りを行うべきだと思います。信じた通りに生きるように決めるのは欠かせないことです。

モヨリ神父


先月のできたこと(2013年4月)

2013年05月01日 | 先月のできごと




" border="0">先月のできごと(2013年4月)

・4月 26日(金)

菊池市内で桜とつつじの名所にもなっている菊池公園の一角に菊池教会の墓地はあります。墓地内の桜の木が大きくなり過ぎましたので、この日、有志で枝の伐採を行い墓地の周りがすっきりなりました。

・4月 28日(日)

菊池教会のトイレは教会入口近くの敷地内にあります。長年の懸案でありました「車いすで直接利用できるトイレ」を皆さんの総意で、お御堂に隣接してある倉庫内に新設することになりました。工事に当たって、皆さんで倉庫内の片づけを行いました。新しいトイレの完成は5月下旬です。


・敷地内は春のお花が満開です!!

黙々と手入れされたバラ、パンジー、アネモネなど一いっせいに咲きだしました。

・月曜日は馬が!!

晴天の月曜日、神父様は時間を作って時々、乗馬をされています。