カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 C年 復活祭

2010年03月31日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

  ご復活、おめでとうございます!!
 桜花の熟が皆の頬にあります,このような心もち、このような表現は復活祭を迎えるキリスト信者にもあてはまります。復活されたイエス様の光は日光のように私たちの暗い心を刺し貫いて、私たちの中に輝いています。この時、聖霊の存在によって心からあふれ出るのは復活祭の大きな喜びです。私たちの新しい服はイエス様です。洗礼の時に着せかけられた白い布は、私たちの新しい服であり、キリストのことを示しています。そして、私たちを拡げた腕で迎えてくださる御父は神様です。さて、このように熱く燃える心で復活祭を迎えたキリスト信者は、より大きな深い喜びを味わっています。この時、目を覚ましていれば、イエス様の死と復活による神様の偉大な働きを見ることができます。罪の中に居た私たちは、神様の赦しと憐みをいただくことになりました。病気の中にも、神様は人生の意味を教えてくださいました。悲しみの中に、神様に支えられる喜びを発見しました。死の中に普遍的な神様の命が輝くようになりました。さて復活されたイエス様が、色々なところに先におられて私たちと会うために待っていてくださいます。
 今日のお祝いは、言葉にできないほど大きな栄光のあるお祝いです。祈りの時、心の中で、静かな場所で、自分たちのことを一旦忘れて、神様の偉大な素晴らしさだけを見つめましょう。そうすることによって、私たちが変わる、私たちの人生も変わる、私たちの心も変わる、私たちの周囲にいる者たちも変わる、私たちの目も変わります。イエス様がご復活された真実を大いに味わいましょう。「わたしの主が生きておられる、わたしの主に会いました!! わたしの主を見ました!! 」 
Alleluya・ Alleluya,・Alleluya !!


 皆さんに感謝の心を込めて、ご復活おめでとうございます!!
 喜びましょう、大いに喜びましょう!!
                         モヨリ神父
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

毎週の一言 C年 枝の主日

2010年03月25日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

春分の日。この日、昼と夜の長さはほぼ等しくなり、以後次第に昼が長くなります。春のお彼岸で、祖先の墓参りや法要をします。「暑さ寒さも彼岸まで」ということわざもあります。春の「彼岸の中日」が「春分の日」で「自然をたたえ生物をいつくしむ」国民の祝日となりました。ところで「菊」を増やすには根分けか挿し芽をします。「菊根分け」は春芽が出始めたころ株を分けて植えることを言い、四月半ば頃におこないます。秋に立派な花を咲かせるため、この日から気の抜けない毎日が続きます。同じようにキリスト信者は自分の人生の中で、イエス様の言葉を咲かせる為にずっと気が抜けません。枝の祝日の日曜日を迎えると、キリスト信者は一年間の心の有り様、信仰の淵の一番深い所、叉希望の頂点に触れることになっています。それは復活祭の方へ誘導する聖周間です。この日曜日は伝承によってソテツかオリーブの枝を配り、皆が持つことになっているので「枝の主日」と言います。実はイエス様が人類を愛することを覚悟して、エルサレムの都に入城された祝日です。イエス様がエルサレムに入ることによって、当時の社会の中心であった都で、皆のための限りない神様の愛を見せて自分を献身しました。理想のために献身する人は皆に尊敬され、大きく評価されます。弱く、罪人である私たちへの愛のために献身されたイエス様は、人生の欠かせない命、希望、喜びとなりました。さて、イエス様の人生の最後はキリスト信者にとって手本になり、キリスト信者が読み取る人生の心で、永遠に生かされる愛の物語です。
ルカによる福音書 22・14-23、56
「枝の主日」にはイエス様の人生の二つの重要な出来事を記念し朗読します。イエス様のエルサレムの入城とご受難です。イエス様の死は私たちが罪の中に生きる現実の立場を示し、人類の欠かせない運命なのです。けれどもイエス様が人類と一緒に苦しんで私たちの代わりに処刑され、最高の苦しみから脱出する道を示してくださいました。イエス様の受難の物語は、あくまでも典礼の時に朗読されるための書かれた物語であって、観想するための物語として、人を祈りに導いています。イエス様の受難の物語は典礼的な目標を二つ勧めています。一つは、誰にとってもイエス様の受難は手本であり、もう一つは、イエス様が苦しみに耐えながら愛の意味を教えてくださいます。イエス様が受難の「時」(神様の存在に満ちた神秘的な時)自分の心の中の大きな決断を迎えました。つまり神様から示された使命を全うされた時でした。そして同時に御父である神様との深いつながり、親子のつながりを示しました:「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます!」。ルカ福音記者がイエス様の受難を語りながら、使えるために来られたイエス様の姿を紹介します。誰でも皆、弱い者、貧しい者、病気の人、罪人に使えるため、イエス様が耐えられないほどの苦しみを受けて、十字架上で自分の人生を全うしました。苦痛、寂しさ、侮辱などの中でイエス様は神様のみ旨を行うことだけを思っていました。神様の愛の大きさを知らせるためです。イエス様が悪いことを良いことに還し、限りない勇気でご自分の理想と思い、愛を証しました。ご自身を神の子であると疑わず宣言しながら、皆を寛大な心で赦し続けました。限りない大きな信頼の中で、イエス様がご自身全てを、十字架上で御父である神様に委ねました。
                         モヨリ神父
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

毎週の一言 C年 四旬節第五主日

2010年03月18日 | メッセージ(その他)
イエス様を愛される皆様へ

この日曜日に春分の日を迎えることになりました。昼と夜の長さがほぼ等しくなり、次第に昼が長くなります。春の彼岸で、祖先の墓参りや法要をします。「春の鳥」といえば一般に鳴禽類を示し春禽(しゅんきん)とも呼びます。陽気が増すにつれ、彼らは繁殖期に入り活発に動きまわり声にも張りが出てさえずりだします。また冬羽から新しい換え羽をします。人家近くや野山でその声を聞いたり、姿を見かけると思わず心が弾み楽しくなってきます。また、あちこちの野原にはタンポポが咲き始めました。タンポポはキク科の多年草です。全国どこにでも見られ、約十種が自生します。春先から10センチほど茎が伸び、黄色や白色の頭状花をつけます。花が終わると頂に傘状に白色の冠毛をつけ、これを風に飛ばします。さて、聖周間及び一年間中でキリスト信者には信仰の頂点であるお祝いが近ついて来ました、新たな思いでそれを迎えるようにしましょう。イエス様のエルサレムの入城、イエス様の最後の晩餐、イエス様のご受難、イエス様のご復活を記念し、それを祝いながらイエス様の死と復活によって、それぞれ自分が神秘的に神様の愛に救われたことを思い起こしましょう。大自然も春の登場と共に、桜も開花しこのような大きな喜びに参加しているようです。イエス様が私たちの代わりに自分の命をささげ、私たちに神様の赦しと神様の愛を授けられました。その命によって、赦しの命、愛の命で人間が生きています。復活祭に向かうキリスト信者は、春に新しい水が湧き出るように、神様からだけ流れ出る新鮮な生き生きとした命をくんで、新たな力、新たな喜びで人生を進んでいきます。
ヨハネによる福音書8・1-11
神様はいつも新しいことを成し遂げて、行きづまりになった人間の人生、死に向かう人間を新しく完全に生まれ変わらせています。このように神様の慈しみは限りがありません。神様は無条件で皆を愛し、赦しています。当福音書の中に出てくる罪を犯した女は、イエス様の赦しによって命を得ました。神様は愛によって、女の犯した罪を全て赦され命に変えられています。現在、この世では教会がこのイエス様の赦しの権威と心を受け継いで、それを寛大な心で慈しみ深く人々に授けています。当福音書のエピソードは、あくまでもヨハネ福音記者に属している個所ですから、象徴的に読むと豊かな内容が表れてきます。この段階でイエス様とファリザイ派の人々の間の対立は、ますます悪化して、イエス様の寛大な慈しみを批判するファリザイ派の人々が、イスラエルの法を尊敬せず守らないイエス様を厳しく訴えようとしています。イエス様の言葉と行動も神様の心をみせるようにしています。人間から裁かれても神様は大きな愛情、命の愛情で包んでくださいます。神様の正義は不正に思われるほど罪人を愛し、罪人を探し求めて自分のふところに止めています。より深く当エピソードを見てみれば、罪の現場で見つけた女なのに相手のことについて何も記されてありません、なぜなら罪を犯した女は教会のことを示し、イエス様はその裏切られた花婿であり、罪は裏切った相手のことを表しています。このような見方で、人類から裏切られたイエス様は、限りない普遍的な憐れみと慈しみを示しています。教会の人々には何も定められていません。罪によって死に定められた人類は、イエス様の赦しによって命と喜びに取りもどされ解放されています。イエス様の教会の人々は、このような寛大な神様の心で包まれて、全ての罪を赦され大きな喜びを持って復活祭の方へ歩んでいきます。
                          モヨリ神父
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

毎週の一言 C年 四旬節第四主日

2010年03月12日 | メッセージ(その他)
イエス様を愛する皆様へ

春先は三日ほど寒くて四日ほど温かいという気温変化を繰り返すことが多いため、「三寒四温」という言葉が使われます。しかし最近の気温変化はそれより長く、一週間程度寒くて一週間程度温かいというペースです。いわば「七寒七温」と言える状態になっています。熊本で冬の最後の雪が降る平年日が2月23日、そろそろ雪の季節も終わりが近いです。今年の冬、熊本市で降った最後の雪は1月15日でした。12月後半、1月前半にかけて次々と寒波に見舞われ、雪が降ることが多かったのが1月後半からはぱったりと雪が降らなくなってしまいました。一方熊本の予想開花日は3日発表の一回目と変わらず3月21日、平年より3日早いです。桜の開花予想は過去の開花日や気温の統計を基に、開花日の予測式を作成します。それに前年の秋からの気温と春にかけての予測を入れて計算します。桜は秋から冬にかけての寒さに開花への準備を始めるため、この時季の気温も重要な要素となります。さて、四旬節が進み前半を超えるようになりました。皆さん、いろんな小さな犠牲を積み重ねながら、復活祭への準備が進んでいますか。四旬節の特徴は、洗礼志願者の勉強であり、自分の人生を振り返り、よりイエス様の思いに近づいて日々を送る時季であることです。そして怠ったことのため出来なかったかこと、間違ったことのために神様からお赦しをいただくことです。寛大な心で人を赦すこと、叉自分も赦されるのは四旬節の中心的なメッセージです。赦しは赦す者と赦された者の心の癒しになります。自分を赦し、神様も赦して、親や身内の者たちも皆赦せば、心は体験したことのない平和に満たされます。神様はみんな、どんな時でも、どんなことがあったとしても、いつも赦しています。つまり赤心で皆を癒して大きな愛情で包んでいます。それはキリスト信者の模範です。
ルカによる福音書 15・1-32
当福音書のテーマは人間に対する神様の暖かい赦しです。つまり再び命を与えることです。昔、神様がイスラエル人をエジプトから救い出し、奴隷制から解放して救いの道を教えたように、イエス様は罪の束縛から私たちを解放し、神様に深い愛情で結びつかせてくださいました。神様はイエス様のあがないによって、遠去かってしまった人類を再び赦して大きな愛情でご自分のふところに入れてくださいました。当祝日は「Dominica laetare」と呼ばれています。福音書の中で参考になる言葉は「……祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」です。なぜなら神様から何度も赦された者、救われた者は大きな喜びを味わいます。放蕩息子のたとえ話の背景は、福音書に導入されたように神様の心を見せます:「罪人を招いて、かれらと共にお祝いする。」放蕩息子のたとえ話の構成は、登場する人物を特別に強調します。自分の命より子供を愛するお父さんのこと、お父さんの愛を無駄に使いはたした弟とお父さんの愛の広さを理解しなかった兄です。放蕩息子のたとえ話は罪人に対するイエス様の愛を高めています。たとえ話の欠かせないポイントは「心に受け入れる」ことです。たとえ話に登場する父親の態度は罪人や間違っている人に対して参考と手本になっています。まず、息子が離れてから、父親はずっと絶えず待っています。過去のことを完全に忘れて、過去を掘り起こさないようにし、むしろ、反省し赦しを願って戻った息子を喜び、大きな祝いに迎え入れています。受け入れる人は受け入れられた人と赦しの愛を分かち合うことによって、大きな喜びを得る事ができます。このようにイエス様がいつも罪人とかかわっています。兄の受け入れる態度はイエス様から批判され、もっと寛大な心で人を受け入れるべきだと、そして喜んで祝い、素晴らしい経験で人生を飾るようにと勧められています。               モヨリ神父
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

毎週の一言 C年 四旬節第三主日

2010年03月06日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

春の光の強まりと共に、鳥たちがさえずり始めます。うぐいすはおなじみの「ホーホケッキョ」とさえずります。冬にうぐいすは「チッチッ」という目立たない声で鳴きます。これを地鳴きといいます。春になると高らかな声でさえずるのは求愛や縄張りの主張のためと考えられています。また「啓蟄」とは24節季の一つで3月6日ごろにあたります。この頃になると風の硬さが日一日と和らぎ、大地も日差しを浴びてどこか膨らんでくるように感じられます。冬眠していた虫、地虫 蛙、とかげ、ヘビなども眠りから覚め地上に現れ始めます。「春泥」は春のぬかるみのことです。現在の舗装道路と異なり、以前は裾をからげて春泥を渡る女性の姿などなまめかしい風情も感じられました。さて、復活祭の方へ私たちの歩みも進みます。四旬節の間イエス様と一緒に、イエス様の言葉を受け入れながら、砂漠を歩いたり、あるいは泥の道を歩いたりして、けれども振り向いてみると、イエス様が身近にご自分の輝いている姿を見せてくださいます。それに支えられ、慰められてイエス様と共に生きるキリスト信者は、この世で輝いています。キリスト信者は寛大な心で、慈しみと憐れみの心で輝いています。全てを赦し、全てを愛するものですからこの世の中でイエス様と一緒に輝いています。私たちの歩みを進めさせるのは復活の光です。苦しい歩みがあったとしてもキリスト信者はより大きな復活の喜びを目指しています。
ルカによる福音書13・1-9
キリスト信者にとって自分の行いの基準は神様の言葉です。その言葉は無条件で人生の歩みの基本的な導きになります。当福音書では、皆が神様の言葉に回心するように呼びかけています。神様はいつも人間の歴史におられます。しかしその中に「悪」も存在し、それは神様から発生したことではなく、神様はいつも人間を大切にして良い者、悪い者の上にも太陽を上らせて下さいます。皆大きな慈しみの中で抱かれています。人間にとって回心を求め神様の方に向かうのは、自分の人生の基準的な態度になります。さて、当福音書は二つの場面に分けられて同じメッセージを勧めています。一つ目はイエス様が当時の究極的な出来ごと(死亡事件)に対する人の驚きを利用して、心を回心する重要さを強調しています。二つ目は実らないイチジクの例え話です。その例えによって、イエス様が人類のために神様へ回心する、つまり神様の方へ戻る普遍的な期間が得られたことを示しています。イスラエルの歴史の中で、人が神様から遠去かったことは何回もありましたが神様はいつも大きな慈しみを示し、自分の方に戻るように人類に絶えず呼びかけていました。このような神様と人類との関係は当時だけではなくイエス様の時代、現在まで同じように続けられています。「回」という字は まわるという動作を示しています。さて、この世の中で手近な喜び、物理的な執着から私たちの心はより素晴らしい、精神性を高める世界の方へイエス様に回るように強く言われています。この世から神様の方へ心を回わすと本当の回心が行われることになります。良い人でも、悪い人でも、苦しみに向かう場合があります、それは神様の罰ではありませんが、それを通しても、神様はいつでもどんな時でも皆、絶えず回心するように、つまり自分の方に来るように呼びかけています。実りを持たなかったイチジクにも神様が回心を絶え間なく呼びかけながら待っておられます。罪人にとって、神様を忘れて遠去かった人にとって、いつでも神様のほうへ戻れる、帰れる機会を与えられているのです。
                          モヨリ神父
コメント
この記事をはてなブックマークに追加