カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

A年 年間第4主日

2017年01月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
 
 人間の心を良く知っておられたイエス様は、人間が自分の人生の間に、幸せになることだけを捜し求めていることを受け止められました。イエス様は山上からその道を、新しい指導者としてモーセのようにお話しになり、わたし達にも幸せになる方法を教えてくださいました。幸せになるために一所懸命頑張るという行動ではなく、目が覚めて、つまり気付いて、イエス様の言葉を信じることによって、わたし達はほんとうはすでにもう幸せであることに気付くのです。貧しい時、泣く時、平和を求める時、そして皆に疎外される時に、寂しい時にも、わたし達はその時々に幸せです。その時こそ、神様が慰めてくださるからです。その時に特別に神様をみることができます。その時に神様が大きな報いを準備してくださいます。イエス様が述べ伝えてくださる幸せは、辛い時に自分の心の中に湧き上がり、それを自分の人生の中に見出すことができれば、幸せであることを実感することが出来ます。山上からイエス様は弟子達に、幸せになる道を力強く教え、弱っている大勢の群集に救いの道を述べ伝えました。幸せになりたくてたまらないわたし達にとって、このようなイエス様の話は、人生の参考に、いえむしろ人生の土台になるのではないでしょうか。
「マタイによる福音書 5・1-12」
旧約聖書では、幸せな人は神様によって解放された者です。奴隷から開放された者だけではなく、神様の掟を守ることによっても悪から解放されています。知恵によって暗闇から解放された者も示されています。 新約聖書では、永遠の命を希望するキリスト信者は幸いな者だと定められています。実は、本当の幸せな人はイエス様と一致した者です。なぜならイエス様自身が貧しい人、悲しむ人、柔和な人、憐れみ深い人だからです。生きている間に、キリスト信者が苦しい状況の中に置かれていたとしても、同時に、神様から未来を約束され、永遠の喜びを味わうことができます。このようなイエス様の幸いの話を理解するために、み言葉を鏡に写すように見てみれば、その深さを発見することが出来ます。最初4行の文章は次の4行の文章を反映しています。又、第1の2行は第5の2行と相対し、第2は第6に相対してその後も同じように続きます、このようにして、大いに深い意味も浮かび上がって来ます。山上の話を通してイエス様が、新しい福音を告げ知らせています。イエス様が教えられる救いは、積極的に信仰を守るところから始まります。心の貧しい人と慈しみのある人とのつながりは深いのです。むしろ、貧しい人は慈しみの心をもっています。同じように人生の中で苦しんだ人は清い心の人になり、自分の人生の中で神様を見ることができます。確かに平和を求める人は柔和な心をもっています。正義のために苦しんだ人だけがそれを強く求めています。イエス様が山上の話の時に、人を自分に従うだけではなく、自分のように生きるように、自分といつでも同じ様になるように勧めています。だからキリスト信者はイエス様のように、貧しく、イエス様のように苦しみ、イエス様のように清い心で、柔和で、正義を探し求めています。それに、イエス様のようにイエス様の名によって迫害されることもあります。                      モヨリ神父


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。