「島津亜矢」に魅せられて

大ファンの島津亜矢さんのことを中心に、日頃思うことなどを

「決闘 高田馬場」~国の越後の空を見る

2005-12-28 21:54:45 | Weblog
 ♪ 江戸は夕焼け 灯ともし頃に
   夢を求めて みなし子が
    国の越後の 空を見る
     顔も赤鞘 安兵衛が
      いつか覚えた 酒の味
      
 ♪ 喧嘩するなら 相手になろうか
   俺は天下の 素浪人
   
中山安兵衛武庸(たけつね)は越後の国新発田の生まれ、しかし父が失脚・自害し、お家取り潰しとなり、息子中山安兵衛は、江戸や京都に流れて波乱な人生を送った。14,5歳の頃というからみなし子というほど小さくないようだが、江戸に親類縁者はいなかった様だ。中山家のお家再興を夢見る浪人である。

江戸の貧しい人々の住む街に住み、街の人々の喧嘩があるとそれを止めて仲直りをさせ、喧嘩していた両方から金をせびって酒を飲むというような無頼な暮らしをしていた。それで喧嘩安とか呑んべ安と呼ばれていた。また関の孫六の鞘が赤かったところから赤鞘安とも呼ばれていたという。
酔っ払ったうえに夕焼け空、夕映えでいよいよ赤くなった飲んべえの顔を指して人は「安っさん、お前さんの顔も腰の孫六の赤鞘のように真っ赤だよ」と冷やかしたのだろうか。少々荒れた生活ぶりが垣間見える。

その日も安兵衛は、街で喧嘩の仲裁をして金を稼ぎ、酔っぱらって家に帰ってくる。するとそこに、彼の伯父(菅野六郎左衛門)の手紙が置いてある。酔っ払っている安兵衛に向かって隣に住むのり屋のばあさんがその手紙を差し出す。伯父は悪い侍たちからあらぬ遺恨をもたれ、決闘をいどまれてこれからその決闘の場所に指定された高田馬場へ行くところなのである。敵は多数。安兵衛はすぐ酔いからさめ、刀を掴んで駆け出そうとする。赤鞘の関の孫六である。「ばあさん、水だ、水をくれーーッ!」

相手は村上三郎右衛門とその一味。剣士中津川祐見(村上の妹の夫、つまり義弟)もいます。
♪「おりしも伯父の背後から 薙刀持って祐見が・・・」の人物です。

高田馬場の決闘が行われたのは元禄7年(1694)2月11日というから

 ♪ 剣がきらめく 高田の馬場に
    桜吹雪が 舞いかかる
    
のはいくら旧暦で換算し直すとはいえ少し脚色が過ぎるかも。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りの7年前の出来事。この時の決闘が彼の運命を変えることになる。安兵衛はその決闘で一躍人気を博し、そしてその活躍ぶりを見ていた赤穂藩の堀部弥兵衛の目に止まり、くどかれて養子となり「堀部安兵衛」が誕生するのである。「中山家」の再興はこの時点で諦めた。

先日のBS宇都宮ではこの最初(2コーラス)と最後(1コーラス)の歌の部分で沢山の観客の手拍子が響いていた。私もコンサートでは必ずここは手拍子を打つのだが、全体にイマイチ「ノリ」が悪いように思っていたところである。宇都宮の観客の皆さんの反応が良くて嬉しかった。手拍子の皆さん、思いっきり「モミ手」だったのでしょうか。

今この記事を、ご本家である三波春夫さんの歌で「決闘 高田馬場」を聞きながら書いている。ご本家の曲は亜矢ちゃんのものより少しスローテンポである。そして当然のことながら、浪曲や語りの部分はさすがに本物の浪曲調である。しかし耳の入り口までは確かに三波春夫さんの声が届いているのに、頭の中では亜矢ちゃんの「決闘 高田馬場」がこだましている。なんとも不思議な気分である。

情炎シリーズコンサートの締めくくりとして各地で一年間歌い続けられ、そして先日のBS宇都宮でテレビ初公開された歌謡浪曲「決闘 高田馬場」。私もこれを今年の締めくくりのテーマとして当ブログの筆(?)を収めることにしよう。

それにしても今度いつ亜矢ちゃんのナマ歌で「決闘 高田馬場」が聞けるのだろうか。当分の間はその機会がないかもしれない。

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4 コメント

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赤鞘安兵衛 (帖佐太郎)
2016-05-19 21:42:10
みずは様

 赤鞘安兵衛と、YOUTUBEで調べていたら、みずは様のブログにたどり着きました。いろいろ広範囲に渡り調べられておられ、参考になります。ありがとうございます。
 予想はしていましたが、関の孫六の鞘が赤いということが赤鞘安兵衛のいわれということが確認できました。しかし、中山安兵衛は酒は強くなく、景気づけに糊屋のばあさん宅で、酒を飲んだという逸話は眉つばだそうですね。決闘高田馬場にあるように、「ばあさん、水だ、水をくれ~」が正しいようですね。
 しかし一方、当初から菅野に決闘を打ち明けられた時点で助立ちとして高田馬場に一緒に向かったとの話もあるようですね。

 もともと歴史好きですが、亜矢さんによって歌の背景をより詳しく知りたくなりいろいろ調べております。困ったものです。
 
 幡随院長兵衛についても別途記述がありますが、読ませていただきました。私は亜矢さんファンになる前に明石散人という作家でこの幡随院長兵衛を知りましたが、水野十郎左衛門との死を賭けた男の意地を張りあうこの話が亜矢さんのおかげで蘇ってきました。

それでは、また。失礼します。
返信する
のり屋のばあさん (みづは)
2016-05-20 13:01:25
帖佐太郎様、こんにちは。
よくぞ10年も前の書き込みを見つけて下さいました。有難うございます。
書いた本人も内容はほとんど忘れておりました。(*^。^*)
私の書き込みは亜矢ちゃんの歌の内容に沿ってあちこちのHPから
拾い集めたものを都合よく並べただけのいい加減なものでして、
とても参考にしていただけるほど価値のあるものではございません。
まあ自己満足で楽しく書きなぐっております。

この歌を聞いて最初に印象的だったのがあの「のり屋のばあさん」でした。
「のり屋」?
今もってよく分かりませんが、その当時はそのようなことも商売に
なっていたのでしょうか?
京都太秦の映画村にも長屋の軒先に「のりや」の札が下がっています。
安兵衛とばあさんが飛び出てきそうな気になります。
返信する
のりやとは (帖佐太郎)
2016-08-22 14:29:38
久しぶりです。

今年は明治座に行きましたので、これで十分です。
CDやDVDや他のファンの方のブログで我慢します。
ファンの集い行きたかったのですが止めました。
「のりや」の婆さんの件、非常に遅くなって気の抜けた時期に返答するのは恐縮ですが、

海苔屋ではなく糊屋が正しいようです。当時、糊は日常茶飯事に使われていたようで特に障子を張る際、傘を作る際、着物の型崩れを防ぐため等、広範囲に使われていたようです。海苔屋となると海産物問屋が扱うような金のある商人が取り扱っていたのではないでしょうか?糊屋の方がちょっと庶民的な商売だったようですね。
こちらはお盆過ぎても暑いです。それではまた。
返信する
のり屋 (みづは)
2016-08-23 11:33:29
帖佐太郎様、お久しぶりです。
コメントありがとうございます。

「のり屋」は仰る通り「糊屋」が正解のようです。
先回のコメントに書きました京都太秦映画村の長屋の風景の写真がありましたので本文記事にのりで貼り付けました。 (^^♪
ちょっぴりこざっぱりした長屋の風景で雰囲気が少し違うかもしれませんが、まあこんな感じだったのでしょうか。

当方ちょっとした事情があってブログの更新を怠ったままになっておりますが、落ち着いてきましたらまた駄文の書きなぐりを復活したいと思っています。

今後ともよろしくお願いいたします。
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