ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

イデオロギーの手垢に塗れた「慰霊」は要らない

2010年08月10日 | 倫理・道徳関係
「何で来ないの」「失礼だ」=米国、平和式典欠席で―長崎の被爆者(時事通信) - goo ニュース

 長崎原爆忌の9日、米政府代表が広島市の平和式典には出席したものの、長崎市の式典には欠席したことについて、長崎の被爆者からは怒りと落胆の声が相次いだ。
 16歳の時、爆心地から約1.8キロの地点で被爆した佐賀県の馬場和敏さん(81)は「何で来ないの。2発目の原爆を落とした長崎にも来て、被爆の実相を直接目にしないと。米国は一番来ないといけない国だ」とまくしたてた。
 同様に式典に参加した正林邦子さん(68)も、15歳の時から原爆症とみられる症状で苦しんできた。「広島に比べて、長崎を下に見ていると考えてしまう。しゃくに障りますよね」と憤った。
 長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄会長(81)は「米国は失礼だと思う。原爆を投下した国は責任を負わなければならない。長崎に来て謝罪してほしかった」と肩を落とした。
 長崎原爆遺族会の正林克記会長(71)は「広島に来たことは評価できる。ただ、広島と長崎の被爆者は一体であることを理解してほしい」と、やり切れない表情で話した。
 米国大使館の報道担当者は「招待状は受け取ったが、スケジュールの関係で行けないと返答した」としている。



 またしてもこの日がやってきた。今日から15日まで、いつもの「バカ騒ぎ」が連日報道されると思うと、いい加減気持ちが悪くなってくる。いつになったら日本に静かなお盆は戻ってくるのだろうか。

 私の慰霊についての考えはさきのエントリーにおいて述べたので、これ以外の点について、今回は書いてみたい。


 まず、勘違いされるのも心外なので一応述べておくが、私は慰霊それ自体には全く異論はない。悲惨な戦争で亡くなった人を弔うことは、当たり前のことである。戦争指導者と一般人の区別をすることなくだ。



 しかしながら、広島・長崎の「慰霊」を見ていると、もはや純粋に戦没者を弔うものではなく、二つの惨事をサヨクが自分たちのイデオロギーを垂れ流すために利用していると思えて仕方がない。


 そもそも、どうして「広島」「長崎」といったれっきとした漢字表記があるのに、わざわざ「ヒロシマ」「ナガサキ」などとカタカナ表記にする必要があるのか(苦笑)

 また、慰霊祭には子供も多く出席しているが、子供をダシに使っているようにしか見えない。

 これら慰霊祭を見ていると、「ああなるほど、こうやって思想教育が行われるのか」と、いささか怖いものを感じる。



 こうした風潮というのは、年月が経てば経つほど顕著になっていっていると思う。

 年月が経過するほど、戦没者を慰霊することよりも、「核兵器廃絶」や「護憲運動」などといった、サヨクのお好きなイデオロギーの充填・拡散のほうに、行動の軸足がシフトし、ベクトルもそちらに向いて行っていると思う。

 だいたい、戦没者を弔うことと、憲法9条・非核三原則の維持とは、本来関係のないことだろう。(同様に、憲法9条の改正と核武装と、靖国神社参拝とも関係のないことである)

 私には、こういったことを主張したいがために、慰霊という、本来ならば静かに死者を弔う行為を、利用しているように思えてならないのである。



 イデオロギーの手垢に塗れた慰霊では、死者も落ち着いて安らかに眠ることはできないだろう。

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