言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

専守防衛について

2009-08-12 | 日記
田母神俊雄 『自らの身は顧みず』 ( p.155 )

 国際社会では相変わらず軍事力が絶対的な役割を果たしている。もし米軍を中心とする先進国の軍事力がなければ、国際社会は第二次大戦前の弱肉強食の世界に戻ってしまうことだろう。ところが日本政府は「専守防衛」を国是と言い、国内にも故意に軍事力の役割を低く見ようとする勢力が根強い。
 我が国の国是である専守防衛というのは極めて多くの防御兵器を必要とし、カネのかかる政策である。もっぱら守るだけでも負けないというのは、大人と子供のような戦力差がある時に限られる。大人と子供が相撲をすれば、大人の専守防衛は実施可能である。だから相手よりも数倍のカネをかけなければそれは成り立たない戦略であり、非効率な戦略である。専守防衛は相手にとって痛くも痒くもない。いくら日本を殴っても日本は決して殴り返さないということが分かれば、相手は自分の好きなように日本をいたぶり続けるであろう。殴れば殴り返されるかもしれないという恐怖が殴ることを思いとどまらせる。これが抑止力である。従って攻撃能力を持たずには抑止戦略は成り立たない。
 国際社会において、国家を性善説で見ていては取り返しのつかない過ちを犯すことになる。国家を構成する個人個人はいい人であっても、国家になると突然徹底的に国益を追求する。こちらからは手を出しませんとあらかじめ宣言するのが、また専守防衛である。これを言った途端に相手の対応を簡単にする。いつどこを攻撃するかは相手の自由であり、相手は十分な準備が可能である。主導権は相手に握られる。

(中略)

 このように専守防衛というのは極めて不利な戦略であるにも拘わらず、我が国はあえてそれを選択すると宣言しているのである。これも自衛隊が攻撃をしなければ戦争になることはないという誤った歴史観の上に作られている。
 飛躍するようだが、私は拉致事件についてもこの敗戦以来の呪縛、つまり間違っても先に手を出さないという国柄が関係しているのではないかと感じてきたのである。


 「専守防衛」 は不利な戦略であり、相手に主導権を握られる。「専守防衛」 で日本を守ろうとすれば、圧倒力な軍事力が必要であり、カネがかかる、と書かれています。



 田母神さんの論は、正しいと思います。



 ところで、この記述から察するに、田母神さんの説かれる歴史観は、史実を集積・整理した結果得られたものではなく、「国家防衛のため」 という目的がさきにあり、その実現手段として、歴史観の変更を主張されているのではないか、と思われます。田母神さんの歴史観に対しては、「史実と異なる」 、「自分の歴史観に都合のよい事実だけを書いている」 といった批判が存在していますが、その種の批判は、「ピントがズレている」 可能性が高い。

 この推測が正しければ、田母神歴史観に対して、いくら史実を検証して反論しても無意味であり、田母神さんは意見を変えない、部分的には変えるかもしれないが、歴史観の大枠は変えないと思われます。逆にいえば、「国家防衛に有利な歴史観が他にあれば、田母神さんはあっさり歴史観を変えるだろう」 ということでもあります。

 私は以前、田母神さんの歴史観についても考える、と書きましたが、やめることにします。田母神さんにとって重要でないなら、考察する意味がありません。



 さて、私は日本にも非があった、という一般的な歴史観のもと、「過去の非を認めつつ、いまの日本はちがいます」 と伝え、すこしずつ信頼を積み重ねたうえで 「普通の国」 になる戦略こそが日本の国益にかなう、と思いますので、いましばらく ( 日本は ) いまの路線でよいのではないか、と思います。

 「専守防衛」 を捨てれば、「日本は外国を攻撃することもあり得ます」 ということになり、いままでの努力が台なしになってしまうのではないか、という気もします。けれども、一定程度以上の信頼を得たならば、「専守防衛」 を放棄すべきだと思います。それでは、その 「一定程度」 とは、どの程度なのか。それが重要になってきますが、それはよくわかりません。衆院選で ( 確実に ) 勝てる程度、国連常任理事国 ( 国際連合安全保障理事会常任理事国 ) 入り後、というのがひとつの目安になるかとは思いますが、もうすこし考えたいと思います ( 私は以前、専守防衛は放棄すべきである、と考えていましたが、上記のとおり、意見を変えました ) 。



 なお、「専守防衛」 にはカネがかかる、圧倒的な軍事力が必要になる、ということをもって、日本の防衛に不利だとは言い切れないのではないか、と思います。それなら、軍事費を多めに支出し、軍事力を強化すればよいのであり、かえって有利に作用するかもしれない、とも思います。



■追記
 ときどき私は意見を変えますが、進歩のあかし、と受け取っていただければうれしいです。私はここを 「考える場」 と捉えており、私なりの言論を 「形成すること」 を目指しています、とブログ名のところに書いています。

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