言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

アドバイスには裏がある?

2010-03-06 | 日記
高橋洋一 『日本は財政危機ではない!』 ( p.20 )

 ところが、日本では変動相場制に移った後も、固定相場制時代の「景気には公共投資が一番」という幻想がずっと残っており、財政政策による景気対策を続けた。
 それどころか、一九七八年のボン・サミットでは、先進各国によって日本と西ドイツが先頭に立って世界の景気を牽引して欲しいという「機関車論」が唱えられ、おだてられた日本は、これに乗ってしまう。
 以来、日本政府は、一九八〇年代、一九九〇年代と底なしの公共投資を続け、内需拡大に突っ走った。景気が低迷した一九九〇年代には、公共投資を惜しみなく行い、財源捻出のために毎年、国債を乱発、一九九二年から二〇〇〇年まで、公共事業を中心に補正予算の事業規模は総額一三〇兆円を超えた。
 その結果はどうだったか。景気は一向に上向かず、国債残高が急速に膨張しただけである。
 結局、この日本の無知な経済政策を喜んだのは、諸外国だった。日本の公共投資は、先ほど述べたように、自国の輸出減、すなわち他国の輸出増につながる。
 諸外国にとっては、大きなメリットがあるので、どの国も日本に「それは間違った政策だ」などとはアドバイスしてくれない。腹のなかではバカな国だと、せせら笑いながら見ていたはずである。
 国際社会は弱肉強食だ。どの国も自国の国益を最優先に、闘っている。アメリカは同盟国のくせに、一言も忠告してくれないのはおかしいなどと憤るのはお門違いだ。経済に無知だった当時の政権が悪い。
 蛇足だが、日本で公共投資を行うと円高になるので、円建の給料をもらう外国人にとっても実質給料アップになる。外国人エコノミストから公共投資を提言されることが多いと思うのは、私の思い過ごしだろう。経済政策の過ちについて、財務省も日銀もマスコミも指摘しなかったのも問題だ。日銀は当時、独立性を確保したばかりで、金融政策には及び腰だった。
 財務省は財務省で、マスコミから「財務政策から逃げている」と非難されるのが怖かったのだろう。公共投資を要求する政治家に、積極的に間違いを正そうとはしなかった。
 こうして、本来、取るべき金融政策をやらず、無駄な財政政策に終始した挙句、借金だけが積み重なり、景気は一向に回復しないという最悪の状態が続いてしまったのだ。
 景気を回復させ、経済成長を促し、しかも財政再建をしたいのなら金融政策しかない。ほとんど無意味ともいえる公共投資のバラ撒きは、百害あって一利なし。今後も極力、歳出カットに努めるべきである。


 どこの国も自国の国益を最優先に考えている。したがって、他の国が、本当に「日本のために」アドバイスをすることはない。「腹のなかではバカな国だと、せせら笑いながら見ていた」りするのが国際社会であり、「同盟国のくせに、一言も忠告してくれないのはおかしいなどと憤るのはお門違い」である、と書かれています。
 また、外国人エコノミストも、自分の利益を最優先に考えている、外国人エコノミストのアドバイスには「裏がある」、と暗示されています。



 経済学の分野については、
  • 「景気には公共投資が一番」だ、
  • いや、「それは間違った政策だ」。効き目があるのは金融政策だ、
  • 公共投資も金融政策も効かない。構造改革が必要だ。

などと意見が分かれており、まさに、「どれが本当かわからない」状況になっているのではないかと思います。学者・論者によって、意見が分かれているのが現状だと思われます。



 したがって国民(読者)としては、どれを信用してよいのかわからない、ということになるのですが、なんらかの「権威」を信用するのではなく、「自分で」考えれば、それでよいのではないかと思います。つまり、

   「誰が言っているか」ではなく、「何を言っているか」で判断すればよい

と思います。



 他国や他人が、「日本のために」アドバイスをすることはなく、「腹のなかではバカな国だと、せせら笑いながら見ていた」りするのかどうか、それは、私にはわかりませんが、たとえ「裏がある」としても、「誰が言っているかではなく、何を言っているか」で判断するなら、

   そんなことは、どうでもよい

のではないか、と思います。相手を信用するかしないか、これは、とても難しい問題ですが、「誰が言っているかではなく、何を言っているか」を「自分で」判断するなら、それでよいのではないかと思います。



 したがって、「同盟国のくせに、一言も忠告してくれないのはおかしいなどと憤るのはお門違い」であるのは当然だとは思いますが、「同盟国のくせに、一言も忠告してくれないのはおかしいなどと憤る」人が、本当にいるのでしょうか?

 もしいるとすれば、その人は、「甘えている」のでしょう。



 さて、私は上記のように考えますが、

 アドバイスを求めてもいないのに、「勝手に」「トンチンカンな」「アドバイス」をして、こちらがその「アドバイス(?)」に従わないと、

   「アドバイスしてやってるんだ!!」

と怒鳴る人がいるのが、困ります。これはおそらく、アドバイスを「装って」、「自分に有利な状況にしようとしている」のではないかと思われるのですが、すくなくとも、このような人は「アドバイスを装って、自分に有利な状況にしようとしている」と疑われても、「やむを得ない」でしょう。これが弁護士さんなのですから、国民としては、困ってしまいます。また、この弁護士さんは、こちらが「求めている」問いには、まったく答えようとしない、というのも、奇妙です。ますます、「アドバイスを装って、自分に有利な状況にしようとしている」のではないか、と「疑って」しまいます。



 この弁護士さんとのやりとりについては、ときおり、書き記しておりますが、こんな「アドバイス」をされたりもしました。私(筆者)が「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」ので、その弁護士さんとの「会話」等の

   経緯・内容等について、「誰にも言わないほうがいいと思う」

と、私が「アドバイスを求めていないにもかかわらず」「勝手に」アドバイスをされたりもしたのですが、私が、「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」のであれば、私は警察に自首するなどして、「罪をつぐなうべき」ではないか、と思います。
  • なぜ、この弁護士さんは、「隠せ」というアドバイスをされたのか、
  • また、弁護士ともあろう者が、「隠せ」というアドバイスをしてもよいのか、問題はないのか、

などと考えてしまいます。とくに後者については、法的・倫理的な問題はないのか、とても気になります。

 前者については、「それなら警察に行って自首しようと思いますが、警察に行ってもかまいませんか?」と私が尋ねた際、「なぜ、警察に行く必要があるのか」「警察に行く必要はない」と、「しつこく」言われたが、「警察に行ってもよいのかどうかについては、まったく答えていただけなかった」ことも、

   「???」

に思っています。これは、この弁護士さんが「アドバイスを装って、自分に有利な状況にしようとしている(事実を隠そうとしている)」と考えれば、合理的に説明できるのですが、しかし、本人に確かめてみないことには、これが本当かどうかは、わかりません。私には思いもよらない、奇想天外な説明が、あり得るかもしれないからです。



■追記
 「実名表記の是非と納得」に記載のとおり、実名表記をしても問題ない(むしろ実名で表記すべきである)、と考えておりますが、「弁護士こぐまの日記」を開設されている、「こぐま弁護士」からの反論を待っているために、とりあえず今回は、実名を表記せずに記載しています。

コメントを投稿