言語空間+備忘録

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「ウイグル暴動」への対応にみる習近平と李克強の相違

2011-12-11 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.175 )

 09年6月下旬、広東省の玩具工場で働いていたウイグル族の従業員が漢族の従業員から差別的な待遇を受けたとして対立が深まり、漢族とウイグル族との乱闘に発展して、ウイグル族の従業員2人が殺されるという事件が起きた。この事件の情報が新疆ウイグル自治区のウイグル族に伝わると、同自治区でも日頃の差別的な扱いに対する不満が爆発、7月5日にはウイグル族により漢族住民ら100人以上が殺害されるという、いわゆる「ウイグル暴動」が勃発した。
 それに対し、中国当局は事態を鎮静化させるために、暴動発生から1か月間に2000人以上の "ウイグル族テロリスト" を逮捕・投獄するなど、独立派を徹底的に弾圧した。その後も秘密裏に激しい「ウイグル狩り」が続いているとも言われる。亡命人組織「世界ウイグル会議」のラビア・カーディル議長は、逮捕されて消息不明のウイグル族は「1万人に達する」と指摘しているが、その厳しい弾圧作戦を指揮している指令塔こそが習近平であることは、海外にはあまり知られていない。
 中国の治安機関の内情に詳しい在京の国際情報関係筋によると、近平は中国共産党政治局常務委員会のなかで、主要な任務である党務のほか治安維持も担当しており、実質的に治安維持の最高責任者になっている。党内における治安維持部門の最高機関の正式名称は「中国共産党中央安定維持工作小組(グループ)」で、別名「6521弁公室」と呼ばれる。これには党政法委員会書記の周永康・党政治局常務委員や孟建柱・国務委員兼公安部長ら党・政府の政法・公安関係部門の責任者がメンバーとして加わっている。
「6521」とは、09年10月1日の建国60周年の6、3月10日のチベット蜂起50周年の5、それに6月4日の天安門事件20周年の2、最後に宗教団体「法輪功」の信者が北京・中南海を包囲した99年4月25日から10周年の1を合わせた4つの数字だ。いずれも09年が節目の年であり、不測の事態に対処するために当局が弁公室を設けて厳重な警備態勢を敷いたのである。

(中略)

 折しも、ウイグル暴動が発生した7月5日、胡錦濤・主席は主要国首脳会議(イタリアのラクイラ・サミット)に参加するため北京を留守にしており、治安維持担当の最高責任者として、暴動への対応は近平に委ねられた。
 近平はただちに党序列ナンバー2の呉邦国・党政治局常務委員に常務委員会の招集を求め、暴動の拡大を防ぐために人民解放軍や武装警察部隊を投入して鎮圧する方針を決めた。会議の焦点は暴動鎮圧後の「ウイグル族テロリストグループ」への対応だった。近平の方針は、
「徹底的に弾圧すべき。草の根を分けてもテログループを摘発し、叩きつぶす。手段を選んではいられない」
 という厳しいものだった。
 それに反対したのが、近平のライバルである李克強・副首相だった。
「そんなことをしたら少数民族が反発し、漢族(中国人)の一般市民に危害が加えられる。あくまでも漢族と少数民族の融和を図るために寛大な措置をとるべきだ」
 温家宝・首相が李の意見に賛意を示した。温は国民から「国父」と慕われるだけあって、党指導部内でも穏健派とされ、安定を重視する政治信条の持ち主だ。
 これに対して、周永康や賀国強・党規律検査委員会書記が近平同様、「徹底弾圧」を主張。賀慶林と李長春の両常務委員も弾圧を支持した。オブザーバーとして会議に参加していた孟建柱・国務委員や、新疆ウイグル自治区党委書記の王楽泉・党政治局員も近平側に与し、会議の大勢を占めた。この場で採決すれば結果は明らかだった。
 しかし、議長役の呉邦国は、
「この場には胡主席がいない。私が至急、電話をして指示を仰ぐ。方針を決めるのは、それからでも遅くはない」
 として、会議をいったん散会にした。

(中略)

 胡はサミット首脳会談当日の7月8日午前、専用機でローマを発ち、同日午後には北京に到着。ただちに中南海のオフィスに入り、近平や周永康、孟建柱、さらに王楽泉ら担当者からウイグル情勢についてブリーフィングを受けた。夜には緊急の常務委員会を招集し、
「新疆ウイグル自治区社会の大局の安定を維持することが最重要の緊急任務であり、事件の背後で陰謀を操った者や組織した者、騒動の中心分子、暴力を用いた犯罪分子には、法に従って必ずや厳しい打撃を与えなければならない」
 などと決議した。これは、近平が主張していた内容とほぼ同じだった。
 決議を受けて近平の立場は極めて強くなった。会議には政治局メンバーもオブザーバーとして出席していたが、李克強と同じ共青団グループである李源潮・党組織部長や汪洋・広東省党委書記らも、近平の方針に同意したとされる。


 いわゆる「ウイグル暴動」をめぐって、習近平と李克強の意見が対立した。このとき、習近平は徹底弾圧、李克強は融和路線を主張している。しかし政治局常務委員のほぼ全員、および国家主席である胡錦濤も徹底弾圧を主張したために、最終的に習近平の立場は(李克強に比べ)極めて強くなった、と書かれています。



 「ウイグル暴動」の是非、すなわちウイグル族の立場・主張の是非は、ここでは考えません。

 ここでは、習近平と李克強の対応方針・態度に焦点を絞って考察します。



 「ウイグル暴動」への対応をめぐって、習近平と李克強との対立が生じているのですが、「おかしい」と思いませんか?

 李克強は北京大学時代、民主化運動を何回も弾圧し、潰しています。その李克強が、なぜ、徹底弾圧に反対し、融和路線を主張したのでしょうか? 李克強は、習近平に「対抗するために」融和路線を主張したのでしょうか? それとも、当時の李克強は大学時代とは異なり、思想が変わった、つまり民主主義的になったのでしょうか?

 ここで、胡錦濤が国家主席になれたのは、チベットで同様の暴動が発生したとき、胡錦濤が「ただちに」厳しい態度をとったからだということを忘れてはなりません。その対応が小平に評価され、胡錦濤は国家主席に引き上げられたわけです。とすれば、胡錦濤が徹底弾圧(習近平の主張)を支持したのは、「当然」だったといえるでしょう。

 つまり、李克強が習近平に「対抗するために」反対意見を提出したという考えかたは、そもそも成り立たないと考えられます。習近平に「対抗するために」、国家主席である胡錦濤に支持されない考えかたを「あえて」提出したとすれば、李克強は大馬鹿者だということになるからです。



 とすれば、当時の李克強は大学時代とは異なり、思想が変わり、民主主義的になっていたのでしょうか?

 ここで注目すべきは、李克強自身の言葉です。引用します。李克強は、
「そんなことをしたら少数民族が反発し、漢族(中国人)の一般市民に危害が加えられる。あくまでも漢族と少数民族の融和を図るために寛大な措置をとるべきだ」
と言っています。この言葉は、「漢族(中国人)の一般市民」を守るために、ここは融和路線をとるべきである、と受け取れます。とすれば、李克強は民主主義的になっていたのではありません。あくまでも「漢族(中国人)」を中心に考えており、中国の分裂を断固阻止する、と考えているわけです。

 つまり李克強は、
ここは「とりあえず」融和路線をとっておいて、「騒動が収まったあとで」関係者(=ウイグル族指導者)に厳しい処分を課せばよい
と考えていたのではないかと考えられます。



 したがって、李克強と習近平のちがいは、ただ一点、「ただちに」厳しい態度に出るか、「あとで」厳しい態度に出るか、の相違にすぎないと考えられます。

 ここで、この相違が何を意味するのかを考えてみれば、

 李克強の手法は、(1) 騒ぎ(暴動)の拡大を恐れ、(2) いったん懐柔するかに見せかけつつも、あとで厳しく処分するというもので、いわば「利口な手法」だといってよいでしょう。これは秀才タイプの李克強らしい、「利口な」対策だといえます。

 これに対して、習近平の手法は、(1) 人民解放軍や武装警察部隊の力を信頼し、(2) 「はじめから」厳しく対処・処分するというもので、いわば「強権的な手法」だといってよいでしょう。これは人民解放軍や武装警察部隊にも人脈を構築している習近平らしい対策だといえるでしょう。



 両者のちがいをまとめれば、
  • 李克強は、
    1. リスクを避けようとする傾向がある
    2. 切れ者
  • 習近平は、
    1. 強権的な手法をいとわない
    2. 素直な考えかたをする(=思考は比較的単純)
ということになるのではないかと思います。



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1 コメント

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少数民族弾圧の手法 (根保孝栄え・石塚邦男)
2016-09-19 20:10:47
・習近平は弾圧、李克強はリスクを避けようとして一テンポ置いて懐柔策をとるが、やはり弾圧は弾圧だ。

・結局は漢民族優先の人種差別だ。

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