言語空間+備忘録

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1907 年恐慌時の対策

2009-10-27 | 日記
安達誠司 『恐慌脱出』 ( p.97 )

 まず1907年恐慌であるが、当時を考える上で重要な事実は、まだアメリカにFRBのような中央銀行が存在しなかったことである。当時のアメリカは今日以上に資本主義に対する信頼性が高く、自由な金融システムは資本主義の根幹であり、規制すべきではないという考え方が強かった。金融システムを管理・監視するという発想はなかったのである。そのため、金融機関は、大手金融機関、および大物バンカーが中心となって結成された業界団体が、監督官庁を兼ねていた。
 1907年恐慌では、J・P・モルガンを中心としたニューヨークの大物バンカーたちが円卓会議を開いて、金融危機への対策を協議した。はじめは、銀行のインナーサークルの間で自主的に設置されていた「クリアリングハウス」(手形決済のための専門機関)が債券を発行し、それをこのインナーサークルに参加していた大物バンカーが経営する金融機関が購入、それによって調達した資金を金融市場に投入することで、事態を収拾しようとした。
 しかし、クリアリンクハウスはあくまでもインナーサークルの互助会的な役割しか果たせなかった。当時そのサークル外に位置していた「信託会社」の経営破綻は放置され、そのため恐慌はなかなか終息しなかった。
 そこで、次の措置として浮上したのが、財務省が政府保有の金(Gold)を担保に債券を発行し、その資金を、信託会社を含めた金融機関の救済のための資本注入に用いるという方法であった。これは、政府の介入を過度に嫌うアメリカの金融システムに公的資金が入ることを意味するものであったが、結局、この手法によって、アメリカの金融危機は一応、収拾した。


 1907 年の恐慌は、金融市場への資金投入では終息せず、金融機関への資本注入によって終息した、と書かれています。



 上記引用文は、戦前の 2 つのグローバル金融危機 ( 1907 年恐慌と 1930 年代の大恐慌 ) に対する政府の対策を参考にする、という趣旨で記述された部分です。冒頭の 「まず 1907 年恐慌であるが」 は、そのような文脈で書かれています。



 1907 年恐慌が、金融市場への資金投入では終息せず、金融機関への資本注入によって終息した。とすれば、「株価 PKO の是非」 を考える際には、否定的に考えることになります。

 当時の金融資本市場は、いまよりも ( 規模が ) 小さかったはずですが、それにもかかわらず、市場への資金投入は効かなかった。ならば、( もっと大規模になっている ) 現在の市場に資金投入をすることで、どれほど効果があるのか、疑問です。

 私としては、市場を人為的に操作することそのものに疑問がありますが、効果そのものに疑問符がつく、となれば、市場への資金投入 ( 介入 ) は、なおさら、好ましくないのではないかと思います。



 なお、1907 年恐慌については、



同 ( p.61 )

 危機直前までの株価高騰局面では「信託会社」という新しい金融取引の仕組みが最大限に利用されて、これが資産価格のバブルをもたらした


とされています。

 信託会社はいまも存在しており、社会的に認知されているといってよいと思います。したがって、今回のサブプライム・ローンの仕組み ( 債権を混ぜ合わせる ) も、今後、社会的に認知されるのではないかと思いますが、そのためにも、「相対取引の流動性」 を確保する仕組みを開発することが、重要になってくるのではないかと思います。

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