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98年前の空の大冒険 “ローマ東京間飛行”

2018-06-28 07:00:00 | 報道/ニュース

5月31日 おはよう日本


大正9年5月31日。
代々木公園の上空に現れたのは
ヨーロッパから初めて飛来した飛行機。
降り立ったのはイタリアの若きパイロットだった。
1万6,000kmもの距離を飛んできた命知らずの挑戦に日本中が熱狂した。
この飛行から100年。
今イタリアで
当時の飛行機の図面やパイロットが残した様々な資料が発掘され
空の旅の全貌が明らかになってきた。
(98年前の飛行を調査 道原聡さん)
「今の私たちが想像を絶するようないろいろな困難や冒険があった。」
当時代々木公園は旧日本軍の練兵場として利用されていた。
そこに降り立ったのがイタリアの飛行機ズヴァ。
パイロットと機関士の2人乗りで
翼が上下2枚の複葉機である。
胴体や骨組みは実は木製で
翼は布張りである。
この飛行機の出発はローマだった。
当時の飛行機は1度に飛べる距離が数百~1,000km。
トルコやインドなど約30か所を経由して109日間かけて東京へやって来た。
ヨーロッパから東京への初飛行を成し遂げたのは
イタリアの飛行士 アルトゥーロ・フェラリン中尉(1895-1941)。
ライト兄弟の初飛行からわずか17年目の快挙だった。


イタリアミラノ近郊の町ヴァレーゼ。
ここにフェラリンの長男カルロさん(83)が今も暮らしている。
(長男 カルロ・フェラリンさん)
「これは私と父の写真です。
 優しい人でした。
 いつもどこかに出かけていてほとんど会えませんでした。」
フェラリンは第一次世界大戦のさなかにイタリア空軍に入隊。
勇敢なパイロットとして知られていた。
戦争が終わると
飛行機乗りたちは世界各国への空路一番乗りを目指してしのぎをけずるようになった。
イタリアのパイロットたちが目指したのは
まだ見ぬ文化が広がる極東の国 日本だった。
当時25歳のフェラリンも日本への飛行に強い挑戦心をかきたてられた。
(長男 カルロ・フェラリンさん)
「父は冒険となれば命なんて二の次。
 危険を顧みない人でした。
 “日本にたどり着きたい”ということだけで
 そこに何があるかなんて想像すらしていなかったと思う。」
実はこの挑戦はイタリア空軍の撮影隊などによって映像や写真が残されていたことがわかった。
1920年2月 日本に向けて出発するフェラリンの映像。
当時の飛行機は地形を目印にして飛行したため今よりも低空を飛んでいた。
そのためフェラリンは上空から目にした様々な出来事を手記に記録している。
ローマを出発後 中東に向かったフェラリン。
今のイラク上空で目撃したのは
独立を目指して戦うアラブの兵士たちの姿だった。
砂漠では“銃撃されないように高く飛ぶように”と忠告されていた
飛行機からは煙が上がり
兵士の戦う姿がはっきり見えた
残念ながら戦争は各地で続いていた
次に待ち受けていたのは東南アジアの過酷な自然である。

バンコクから先は一面の森に覆われていて
今まで見たどこよりも未開の土地が広がっていた
もしエンジンが故障したら
それは即死ぬことを意味した
フェラリンの家に残されていた仲間の飛行機の写真。
ともに東京を目指した11機の飛行機は
さまざまな困難を前にほとんどが墜落していったのである。
ローマを出発してから108日目。
中国・朝鮮半島を経由して
いよいよ日本列島にさしかかった。
初めて目にした日本。
それは世界の大国に追いつこうと工業化への道を突き進む姿だった。
大坂に近づくと
やがて雲ではなく工業地帯が吐き出す黒いスモッグが立ちこめてきた
多くの煙突はあの“日の出ずる国”の長い歴史に
近代国家としての姿が加わろうとしていることを象徴しているようだった
そして5月30日 東京代々木。
20万人もの人に迎えられ
フェラリンは日本の地を踏んだ。
この快挙に皇室も祝賀行事を行うなど国をあげてフェラリンの成功をたたえた。
“イタリア万歳”と叫ぶ観衆から歓喜の花束が投げ入れられた
私の心は光り輝いていた
ついにイタリアの国旗を日本に掲げることができたのだ

勇気あるフェラリンの飛行をこんな人たちも見ていた。
戦後初の国産旅客機YS-11の設計に携わった 木村秀政。
16歳のときにこの現場にいて
“日本とヨーロッパの技術の差を痛感し空への思いを強くした“と語っている。
そしてもう1人
奄美の自然を独特のタッチで描く 日本画家 田中一村。
フェラリンが皇室から贈られた記念のアルバムの中に
当時11歳だった一村が贈った日本画があることがわかった。
いまイタリアでこの100年前の飛行を再現しようというプロジェクトが動き出している。
フェラリンが乗った飛行機の詳細な設計図も残っていた。
最新の技術を駆使して
当時の機体を現代によみがえらせようというのである。
さらにこの飛行機にエンジンを取り付け
実際にローマ―東京間を飛行させることも計画している。
(ズヴァの復元作業を担当 ジョルジョ・ボナートさん)
「東京で飛ぶのはすばらしい体験となるだろう。
 夢見ることができるなら必ず実現できる。
 そのことを若者たちにも伝えたい。」



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