~戦争が起きるまで~
ネット上で「戦争のしくみが何度読んでもよく分からない」
というような意見が散見されたので、自分の整理のためにもまとめてみます。
ひょっとしたら皆さんの「分からない」とはずれた解説かもしれませんが。
ただ、やはりまとめてみると、どうしても「不自然」な部分が目に付きまして、
思いのほかの長文になりました。
戦争全般に関しては比較的よくまとまっているサイトがありました。
こちら、「なぜ?戦争をするのか」もどうぞ。
発端
始まりは「ちょっとした行き違いが元で」「辺境の些細な争いだった」が、
「明確な意思を持った各地への侵攻」になり、
「オスティアへの侵攻」へと繋がります。
ただし、どのように繋がったのかは描かれていません。
争いのエスカレートというものはありがちなことです。
言い争いが殴り合いに発展したりといったことから
古代中国の呉楚の戦争の様な、子供の喧嘩が国同士の戦争に拡大するものまで。
しかし通常はそこから「明確な侵攻」へは繋がりません。
侵攻
そもそも「帝国」のようなものが領土を拡大しようとするのは何故か?
それは「自分(達)がなじんだ秩序の及ぶ範囲を広げようとする」こと。
争いが起きたときに、それを収める効率的な手段を確保するためです。
例えば子供の喧嘩なら、側にいる大人が介入して止めることが出来ます。
大人同士なら周囲の他の人達とか警官とか、
企業や団体同士なら仲裁人や法手続き、最終的には裁判といった国家権力。
しかしそういった解決手段が確保されていない領域では、
ヤ○ザの抗争よろしく「仁義なき戦い」に発展してしまうことがあります。
そのようなことが自分(達)の領域と外部との接点で起きた、又は起きそうなとき、
それを起こす相手そのものを自分(達)の秩序の下に強制的におくことで解決を図る。
それが「侵攻」、やる側から見れば「討伐」、というものです。
奪還
そして「聖地オスティアの奪還」。
十字軍や各種領土紛争に見られる、
「本来自分(達)が治めなければいけない場所が占拠されている」といったもの。
侵攻される側にとっては自分達が現に、あるいは先祖代々生活する正当な住処ですが、
「奪還」側にとってはそれは「継続的な不法占拠」となるわけです。
これは古代の神聖王権(自らを神と位置づける)や
中国の皇帝(世界の上に立つ存在という位置づけ)のように、
「世界の全ては自分(達)の下にあるべき」というのと似てはいますが、
こちらは通常、往来困難な場所は「化外の地(蛮地)」として放置されます。
このタイプは「制圧」と呼んでおきます。
一般に戦争というものは、当事者の認識としては
「相手が一方的に攻めてきているから反撃のため攻撃する」ものです。
「奪還」や「制圧」の攻撃側としてもそれは変わらず、
「現状ではなく あるべき平和」を求めること自体が戦争に繋がるのです。
これは現在の「平和主義者」の態度が攻撃的なのも同じような理由です。
疑問
さて、それぞれの「戦争の理由」を見ると、
発端→侵攻→奪還という流れはやはり不自然です。
侵攻や奪還を「小競り合い」を口実にやるやり方は確かにあります。
しかし侵攻を奪還のためにやるやり方は例を見ません。
人間の常として「手段と目的が入れ替わる」ことはよくあるので、
「発端→侵攻」の間に連合と戦うこと自体が目的化し、
戦う口実が「奪還」に置き換わる、といったことは起こりうるかもしれません。
しかしそれは通常、戦闘がそれなりに困難になった後に起きることです。
というわけで、仕組みや流れが分かりにくいのは、説明が不自然だからと推測してみます。
(11/8)続きはこちら。
追記:
360度の方針転換さんのところで「戦略的に不自然なところ」を書いてくれていました。
こちらも是非ご参照ください。
ネット上で「戦争のしくみが何度読んでもよく分からない」
というような意見が散見されたので、自分の整理のためにもまとめてみます。
ひょっとしたら皆さんの「分からない」とはずれた解説かもしれませんが。
ただ、やはりまとめてみると、どうしても「不自然」な部分が目に付きまして、
思いのほかの長文になりました。
戦争全般に関しては比較的よくまとまっているサイトがありました。
こちら、「なぜ?戦争をするのか」もどうぞ。
発端
始まりは「ちょっとした行き違いが元で」「辺境の些細な争いだった」が、
「明確な意思を持った各地への侵攻」になり、
「オスティアへの侵攻」へと繋がります。
ただし、どのように繋がったのかは描かれていません。
争いのエスカレートというものはありがちなことです。
言い争いが殴り合いに発展したりといったことから
古代中国の呉楚の戦争の様な、子供の喧嘩が国同士の戦争に拡大するものまで。
しかし通常はそこから「明確な侵攻」へは繋がりません。
侵攻
そもそも「帝国」のようなものが領土を拡大しようとするのは何故か?
それは「自分(達)がなじんだ秩序の及ぶ範囲を広げようとする」こと。
争いが起きたときに、それを収める効率的な手段を確保するためです。
例えば子供の喧嘩なら、側にいる大人が介入して止めることが出来ます。
大人同士なら周囲の他の人達とか警官とか、
企業や団体同士なら仲裁人や法手続き、最終的には裁判といった国家権力。
しかしそういった解決手段が確保されていない領域では、
ヤ○ザの抗争よろしく「仁義なき戦い」に発展してしまうことがあります。
そのようなことが自分(達)の領域と外部との接点で起きた、又は起きそうなとき、
それを起こす相手そのものを自分(達)の秩序の下に強制的におくことで解決を図る。
それが「侵攻」、やる側から見れば「討伐」、というものです。
奪還
そして「聖地オスティアの奪還」。
十字軍や各種領土紛争に見られる、
「本来自分(達)が治めなければいけない場所が占拠されている」といったもの。
侵攻される側にとっては自分達が現に、あるいは先祖代々生活する正当な住処ですが、
「奪還」側にとってはそれは「継続的な不法占拠」となるわけです。
これは古代の神聖王権(自らを神と位置づける)や
中国の皇帝(世界の上に立つ存在という位置づけ)のように、
「世界の全ては自分(達)の下にあるべき」というのと似てはいますが、
こちらは通常、往来困難な場所は「化外の地(蛮地)」として放置されます。
このタイプは「制圧」と呼んでおきます。
一般に戦争というものは、当事者の認識としては
「相手が一方的に攻めてきているから反撃のため攻撃する」ものです。
「奪還」や「制圧」の攻撃側としてもそれは変わらず、
「現状ではなく あるべき平和」を求めること自体が戦争に繋がるのです。
これは現在の「平和主義者」の態度が攻撃的なのも同じような理由です。
疑問
さて、それぞれの「戦争の理由」を見ると、
発端→侵攻→奪還という流れはやはり不自然です。
侵攻や奪還を「小競り合い」を口実にやるやり方は確かにあります。
しかし侵攻を奪還のためにやるやり方は例を見ません。
人間の常として「手段と目的が入れ替わる」ことはよくあるので、
「発端→侵攻」の間に連合と戦うこと自体が目的化し、
戦う口実が「奪還」に置き換わる、といったことは起こりうるかもしれません。
しかしそれは通常、戦闘がそれなりに困難になった後に起きることです。
というわけで、仕組みや流れが分かりにくいのは、説明が不自然だからと推測してみます。
(11/8)続きはこちら。
追記:
360度の方針転換さんのところで「戦略的に不自然なところ」を書いてくれていました。
こちらも是非ご参照ください。
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