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飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

サルバドール・ダリに告ぐ#17・・・寺山修司「私という謎」(鏡―ダリ)講談社文芸文庫

2007-01-06 | サルバドール・ダリ
~ダリ展を観た。そしてダリを感じダリを知るために~

◆寺山修司「私という謎」講談社文芸文庫◆

昨年は江戸川乱歩に関することを執拗に連続して書いてきた、それも200回という回数をだ。(乱歩①乱歩②乱歩③)しかし、それを中断させてしまうほどインパクトを受けたのが寺山修司であった。(寺山修司についても目下記事を投稿中。カテゴリ参照)突然この歳で・・・。涙がでるくらい切なくなる寺山の創作物。その寺山修司がサルバドール・ダリについて言及していた。寺山がダリをどう観ていたか気になるところである。

それによると寺山が中学生のときに見た夢、鏡を見ている自分の目から蟻が這い出してくるという夢。後年、寺山はダリがブニュエルと共同で製作した「アンダルシアの犬」で男の手から蟻が這い出してくるシーンを観てびっくりしたという。

寺山はそこから“手の中央の黒い穴かによって通底している表皮と内核といったものについて考えぬわけにはいかなくなった”とし、“ダリの世界は事物の表面への猜疑にあふれている”と論をすすめる。ダリの好奇心は表皮をめくることだと、少女が海面=表皮をペロリとめくっている絵を例に出しながら。

そのイメージはボクにとっても印象深く、それはカルロス・サウラ監督がスペインの奇跡の3人(ダリ、ブニュエル、ロルカ)を素材に創った映画「ブニュエル ~ソロモン王の秘宝~」を観た時、そのまさに海面=表皮をめくるシーンがありあっと声が出そうになるくらい感動したのであった。

寺山は言う“おそらく、ダリにとって水面は、鏡面のようにその裏側への関心を誘うものであるのだろう。それを、めくってみたいと思う動機は、ほとんど鏡の裏側を引き剥がしてのぞいてみたい、という衝動と変わるものではないかもしれい。”そのようなダリの美的世界は“内部によって、表面が犯されつづける”ことではないか?と。


寺山修司がダリと面会した時の会話が紹介されている。

  ダリが「女の顔はただのピクチャにすぎない」と言った事。

  ダリが「テレビについてあんなにすばらしい表面はないよ」と言った事。


そういえば寺山が主催した劇団「天井桟敷」にも、サルバドール・タリという役者がいた。(「万有引力」の芝居でその役者は見ることができました)そのタリというすかした名前もどことなく表面的にも感じるボクである。

そして、なぜか“めくる”という言葉を打ちながら子供の頃(35年以上前)に流行ったスカートめくりを思い出してしまったのだ。それは女の子のスカート(=表面)の向こうには何があるのだろう?という興味に違いなかった。おそらくHな感情の萌芽ではあるのだが、セクシャルな感情とダリ的関心の行為は結びついているのだ!勝手に関連付けることにした。


■■水の影に眠る犬を見るため非常に注意深く海の皮膚をもちあげる少女である私(1950年)■■


少女が海面=表皮をペロリとめくって、海の底にいる犬を見る絵、寺山修司もエッセイに取り上げるくらいだから共振するものがあったのだろう。ところで1986年に出た月刊誌ユリイカでダリを特集しており(ユリイカについては後日投稿しようと思います)、そこに画家の池田龍雄という方(私は知らない人)がダリのこの絵について言及している。

“ダリは明らかに意図的に重力を無視している。少女も、海も、海中の岩も宙に浮いているではないか。一方、おそらく海を一枚の薄膜として描くことによって、暗に、絵画もまた同じく二次元の皮膜に過ぎないことを見せつけているような気がする”

“このおかしな「海」の絵には、他ならぬその絵画が、二十世紀後半からはっきり前面に押し出してきた、絵画の「平面性」あるいは「皮膜性」の問題を、お得意の暗喩的方法で示してやろうという意図がひそんでいるのかもしれない。”

   (青土社「ユリイカ」1986年11月・池田龍雄「夢の重さ―イメージの魔術」より)


池田は寺山とは違った視点で問題の海をとらえ、ダリはイメージによる絵画の重さを夢よりも軽くしてしまったとしているのであった。分かったような分からないような結論?

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※寺山修司関連過去記事です。
僕は知らない寺山修司NO.1⇒劇団☆A・P・B-Tokyo『田園に死す』
僕は知らない寺山修司NO.2⇒歌舞劇『田園に死す』
僕は知らない寺山修司NO.3⇒流山児祥★事務所『狂人教育~2006バージョン』
僕は知らない寺山修司NO.4⇒Project Nyx公演『「かもめ」或いは寺山修司の少女論』
僕は知らない寺山修司NO.5⇒絵本「かもめ」
僕は知らない寺山修司NO.6⇒TVドラマ『わが心のかもめ』&カルメン・マキ『かもめ』
僕は知らない寺山修司NO.7⇒ストロベリーソングオーケストラ『迷宮列車』
僕は知らない寺山修司NO.8⇒寺山修司・実験映像ワールド
僕は知らない寺山修司NO.9⇒『さかさま恋愛講座 青女論』
僕は知らない寺山修司NO.10⇒『家出のすすめ』
僕は知らない寺山修司NO.11⇒『ドキュメンタリー家出』
僕は知らない寺山修司NO.12⇒『あゝ、荒野』(①)
僕は知らない寺山修司NO.13⇒『あゝ、荒野』(②)
僕は知らない寺山修司NO.14⇒寺山修司+森山大道「あゝ、荒野」展

※江戸川乱歩を巡る言葉で寺山修司を取り上げた過去記事
乱歩を巡る言葉25・・・盲人書簡・上海篇/寺山修司
乱歩を巡る言葉26・・・私という謎・少年探偵団同窓会―江戸川乱歩/寺山修司


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2 コメント

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あけおめ! (猫姫少佐現品限り)
2007-01-06 16:01:47
TBありがとうございました!
寺山修司は、見たこと無いのですが、赤テント、黒テントは、何回か見ました。シュールさに憧れていた文学少女だったのですが、今はもう、、、立体視にしか感動出来ないような平凡さで、、、
学生の頃から座右の銘は Paranoiac Critic と書いていますが、その昔は、わからないまでも、何か感じようとしたものです。
スカートめくり、正にダリと共通の世界観ですね。
頷いてしまいました。
返信する
ことよろ! (飾釦)
2007-01-07 10:02:50
スカートめくりに理解いただきうれしいです?

以前私は立体映像のソフトを販売していたことがありました。

また見てやってくださいね。
返信する

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