飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

僕は知らない寺山修司NO.13⇒『あゝ、荒野』(②)

2006-12-19 | 寺山修司
寺山修司『あゝ、荒野』(河出文庫)

“思い通りの座席に腰をおろすと、彼は入口で貰った映画の梗概のチラシに目を通し、お目当ての肉体シーンが、十一巻長尺フィルムの中のどのへんに現れるかを推量する。そして早すぎもせず、遅すぎもしないように生理的なコンディションを整えるようにする。やがて映画がはじまり、主演女優の小川真由美が、だるそうな流し目でスクリーン一杯に流し目を送る頃になると、彼の右手がそっと自分の前チャックにかかり(一週間の間、孤独だった)自分の男根を自由にしてやるのである。”

  ⇒映画館の暗闇の中でひっそりと自慰にふける、まだAVなどない時代
   ポルノ映画館の神話としてそれはまことしやかに語られていなかったか。


“荒野のようなこの年のビルというビルの壁の狭間で、もはや政治のレベルでは自由をとらえることが出来なくなったサラリーマンたちが(最上階の隅にある清潔なトイレットで恐怖からのがれようとして、ひっそりと)、オナニーにふけっている。それはたぶん下半身による救済の時代の象徴とも言えるだろう。”

  ⇒今では見ることがなくなった公衆トイレの中の猥雑な落書き。それは
   こんな気分の男達が人知れずひっそりと残していった遺跡であったのか。


“たかだかリング位の広さに畳を敷きつめて、その上にテレビだの電気冷蔵庫だの洗濯機だのを積みあげて、おまけに平均値というサイテイの家具とかあちゃんと蒲団をしきつめて、、電気消して七、八分の性生活にしがみついて子供を作り、夢を質屋に入れて、ほんの少しの貯金を、手に入れようとしている月給鳥たち”

  ⇒これは俺のことをさしているのか。しかし俺は自立し自分の稼いだ金で
   食っている。誰にも迷惑もかけず生きている。リング程の広さの何が悪い。
   俺は身を粉にして働いてもがきながら生きている。そう声高に言い切れな
   いのは俺だけなのか。


“「皆、忙しそうに歩いてゆくけど、どこへ行くのかね」とムギが言った。「皆、本当に行くところなんかあるのかね」”

  ⇒本当は皆行くところなんかないのを知っている。それでも人はせかせか
   と動き回らなければならい事情があるってもんで、そうしないと置いて
   けぼりくっちまうからね。それでいいんだよ、都会で生きることは。
   そうやって人は見ることを忘れていく鞍馬になっているんだよ。


“空にかくれようとして飛んでも、鳥は空にみずからを消すことは出来ないのさ。俺たちだって街にかくれようとしても、群衆のなかにみずからを消すことは出来やしないだろう。そんならいっそ「かくす」ことよりも「あらわす」方に賭けるできではないか。”

  ⇒立て、立つんだジョー。アニメ「あしたのジョー」の主題歌を作詞した
   寺山修司。この言葉こそ寺山のメッセージであったのではないか。
   一切の呪縛から解き放て。今魂の叫びが咆哮する。


音立てて墓穴ふかくきみの棺下ろされし時きみ目覚めずや



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