『さかさま恋愛講座 青女論』(角川文庫)
“青女”という言葉、以前よりこの本のタイトルを見るたびに不思議だなと思っていたのですが、読んでみて分かりました。男性の青年という言葉に対して女性のそれに対応する言葉がなく、寺山修司が作った造語だったんですね。
確かに少年―少女という言葉があるものの、青年という大人になる過程でも女性に適応した言葉がありません。少女から大人の女へというように、男性とは違って一機に飛んでしまいます。女性には男性のような青年という言葉が象徴するようなライフサイクルの一時期がないのでしょうか。そのような寺山修司の疑問から生まれたのがこの“青女”と云う言葉です。
本の中では寺山は一貫して、まだまだ社会の古層に根付いている男尊女卑の古い因習の呪縛から解き放たれて、想像力を駆使し一人の個人として人生を楽しむ女性としての生き方を説いています。当時としては、かなり新鮮であったのでしょう。しかし、今では寺山の主張などやすやすと乗り越えて、その上に携帯電話片手にマナーも無視し“青女”なんて言葉を一笑に付すようにあぐらをかいている女達があたり前、我が物顔で出現しています。寺山が定義した“青女”なんてそもそも幻想であったのかも知りません。
“青女”に置き換えられる言葉は。しいていうならば、ギャルなんでしょうか。
そのギャルという言葉も青年―ギャルと対置させてみると、女に一本取られている感じがしなくもない。ボクの実感、時代は大きく変化を見せ、悩むことから楽しむことへシフトした?
◆寺山語録~「さかさま恋愛講座 青女論」より~◆
“長い一生のうちで、女の子がお嫁さんになれるのは、たった一日だけです。離婚して再婚すれば二日、再婚の記録を十二回持っている女性にしたところで、たった十二回しかお嫁さんでは、いられないのです。”
“たのしいセックスができることは、ダンスや歌がうまかったり、絵に秀れていたり、演技が上手だったりするのと同じようにその人の教養であり、才能であるべきです。”
“仮に女の一生を六十五年としましょう。女は六十五年間恋愛することができる、というのが私の考え”
“ひとは何時も、自分自身のものでしかないのであり、そこから出発した思い出だけが、コミュニケーションの回路に辿りつくことができる”
“青女”という言葉、以前よりこの本のタイトルを見るたびに不思議だなと思っていたのですが、読んでみて分かりました。男性の青年という言葉に対して女性のそれに対応する言葉がなく、寺山修司が作った造語だったんですね。
確かに少年―少女という言葉があるものの、青年という大人になる過程でも女性に適応した言葉がありません。少女から大人の女へというように、男性とは違って一機に飛んでしまいます。女性には男性のような青年という言葉が象徴するようなライフサイクルの一時期がないのでしょうか。そのような寺山修司の疑問から生まれたのがこの“青女”と云う言葉です。
本の中では寺山は一貫して、まだまだ社会の古層に根付いている男尊女卑の古い因習の呪縛から解き放たれて、想像力を駆使し一人の個人として人生を楽しむ女性としての生き方を説いています。当時としては、かなり新鮮であったのでしょう。しかし、今では寺山の主張などやすやすと乗り越えて、その上に携帯電話片手にマナーも無視し“青女”なんて言葉を一笑に付すようにあぐらをかいている女達があたり前、我が物顔で出現しています。寺山が定義した“青女”なんてそもそも幻想であったのかも知りません。
“青女”に置き換えられる言葉は。しいていうならば、ギャルなんでしょうか。
そのギャルという言葉も青年―ギャルと対置させてみると、女に一本取られている感じがしなくもない。ボクの実感、時代は大きく変化を見せ、悩むことから楽しむことへシフトした?
◆寺山語録~「さかさま恋愛講座 青女論」より~◆
“長い一生のうちで、女の子がお嫁さんになれるのは、たった一日だけです。離婚して再婚すれば二日、再婚の記録を十二回持っている女性にしたところで、たった十二回しかお嫁さんでは、いられないのです。”
“たのしいセックスができることは、ダンスや歌がうまかったり、絵に秀れていたり、演技が上手だったりするのと同じようにその人の教養であり、才能であるべきです。”
“仮に女の一生を六十五年としましょう。女は六十五年間恋愛することができる、というのが私の考え”
“ひとは何時も、自分自身のものでしかないのであり、そこから出発した思い出だけが、コミュニケーションの回路に辿りつくことができる”
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