アンドレ・ブルドンのシュルレアリスム的実験小説「ナジャ」を読みました。で、今週記事としてアップした酒井健による「シュルレアリスム」(中公新書)にもこの「ナジャ」について割とページを割いて言及している部分があります。その酒井によると<ナジャは近代都市のなかに現れた風穴だった。停滞する近代の気配に穿たれた風穴だった。そこから「隠された生」がほとばしり、吹きよせてブルトンを魅惑したのである。>以降、この酒井の言及を手がかりにこの実験小説「ナジャ」について私なりの感想を書いてみたいと思います。
ブルトンはシュルレアリスムの始祖としてその手法のひとつとしての偶然性=ディペイズマンにこだわっていました。酒井によるとその姿勢は、<偶然性への忠誠、いやむしろ偶然の体験に憑かれたというべきだろう。形式への顧慮を砕くほどに感性を震わせ痙攣させる偶然の体験>を重視したものとなるのです。まさしくブルトンとナジャの関係はこの偶然の出会いから始まります。ナジャは彼との会話でその独特な発想、言葉のマジックによってメロメロにしてしまいます。ブルトンは、<彼女に会えないと思うと、人知も予言も飲み込まれていく不気味な深淵、「心の危険地帯」を思い描くようになる>というくらいにです。そこには何があったのか?
ブルトンはナジャとの関係をその小説の巻末に書かれたセンテンス、<「美は痙攣的なものだろう、さもなければ存在そないだろう」に暗示されている。つまり彼は痙攣的な美を発する女性を追いかけ>たのであると酒井の指摘にあるように、ナジャと会い一種の痙攣のような目眩く体験をさせられたブルトンは彼女のもつ毒牙の虜になったということなのです。貧乏なナジャは金のために街娼をしているようなことを想起させる場面もでてきます。彼女はブルトンが思っている以上に男を操る手練手管に長けているのではないでしょうか?私はナジャの狡猾なる面も見落としてはいけないと思います。
しかし、一方でブルトンはナジャに対し<もはや美とはいえない狂気の痙攣を見出した>とあるように、発言の節々に異常な部分を見出だしどこか変だとも感じていきます。そこは心身ともにナジャの虜になってしまいながらも、現在のおかれた状況など冷静な分析もするところが当時の先鋭的インテリゲンチャとしてのブルトンの姿がみてとれるのです。彼女の壊れかけている魂の部分は、<「全面的破壊の原理」を多かれ少なかれ意識的に持っていて、それを彼自身にも差し向けてきた>とあるようにエスカレートするのです。酒井の本にはこんな一節もありました。<同僚のナヴィルにブルトンは「ナジャとセックスをすることはジャンヌ・ダルクとするのと同じだ」と打ち明けている>、どんなセックスなんでしょう……。
やがてナジャは精神病院に入院してしまいます。ブルトンはその小説で自己弁明や自己正当化と思えるような発言を展開していきます。酒井はそんな姿勢に対して、<彼の道徳意識はさらに彼を責め立てた>とあるのですが、何に対する道徳心なのか私自身は、はっきりしていません。もともとブルトンは結婚していたわけですから浮気のひとつといってしまえばそのとおりで、浮気の相手が発病し、彼は言わば巻き添えをくわずにすんだというこのなのではないかと。相手が発病したことへの同情心のようなものと自分の道徳心が混同してしまっているのではないかと思うのです。
最後に酒井は、<ブルトンの葛藤は近代人の人道主義と美への欲求との葛藤である。つまり、葛藤の片方の根底には近代人特有の自我がある。道徳的に正当化されることを欲するブルトン自身の自我あある。葛藤のもう一方には痙攣する美への欲求があるのだ。>と締めていますが、そこに美とか人道主義などと書いてしまうと実はことの本質が見えなくなる、ぶっちゃけブルトンはちょっと変な女性にひかれた、そして自身の性的な欲求に正直であったということなんでしょ?ただ、そう書いてしまうと文学もヘッタクレもなくなってしまうんですが……。
ナジャ (岩波文庫) | |
巖谷 國士 | |
岩波書店 |
シュルレアリスム―終わりなき革命 (中公新書) | |
酒井 健 | |
中央公論新社 |
シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫) | |
Andre Breton,巖谷 國士 | |
岩波書店 |
魔術的芸術 | |
Andr´e Breton,巌谷 国士,谷川 渥,鈴木 雅雄,星埜 守之 | |
河出書房新社 |
狂気の愛 (光文社古典新訳文庫) | |
Andr´e Breton,海老坂 武 | |
光文社 |
そして、歯科ではの被せ物をした後で口がヒリヒリになった人捜しています、お心当たりのある方はご一報お願いします。