朝日に光る海の写真に『教行信証』行巻のお言葉が掲げられています。
至徳の風
静かに
衆禍の波転ず
「至徳の風」とは「すべてのあらゆる功徳のはたらきをもつ風が静かに吹いてあらゆる煩悩の荒波が静まって輝くのです」と云
う意です。この部分だけですと分かり難いので前後のご文を揚げておきます。
しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やか に無量光明土に到りて大般涅槃(だいはつねはん)を証す、普賢(ふげん)の徳に遵(したが)うなり。知るべし、
この私を抱きとり、照らす光明は途絶えることなく、そのぬくもりも冷えることなく通い続けている。このことは唯、南無阿弥
陀仏お一つの御はたらきなのです。
この詩情豊かなご文を読ましていただいておりますと、フと「カナリヤ」の唄が思い起こされて来ました。この不思議な唄は私
がまだ小学校へ入る前の頃、父とお風呂に入っていました。湯船は五右衛門風呂ですから大人と一緒でなければ入れません。父は
私を膝の上に乗せて静かに私を抱いていましたが突然に歌を歌い始めたのです。その唄が「カナリヤ」だったのです。
唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は
象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮かべれば
忘れた唄を思い出す
この歌詞と行巻の「大船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず」が同じような世界を表現している
ように感じるのです。勿論、西条八十さんは親鸞聖人の『教行信証』を読んではおられないとは思いますが・・・・、
「カナリヤ」の童謡は大正7年に雑誌「赤い鳥」に西条八十さんは発表しました。作曲は成田為三さんです。
親鸞聖人のよく知られているご和讃の一首、
本願力にあいぬれば むなしく過ぎる人ぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
と合わせて味わってみると理解が深まると思います。