豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

“刑事モース”(シネフィルWOWOW,BS451ch)

2020年10月31日 | テレビ&ポップス
 
 贈与論のマルセル・モースから一転して、きょうは、“ 刑事モース ”のはなし。

 10月30日は午後1時から、BS451チャンネル、シネフィルWOWOWで“ 刑事モース ”を見、夜8時からはBS 560、AXNミステリーチャンネルで“ アラン・バンクス ”を見た。
 それ以外は散歩と読書。散歩はいつも通り、読書はE・ブレイク『最小の結婚』を読んでいるが難航しており、コメントは少し先になりそう。

 “ 刑事モース ”のほうは、若き駆け出し時代のモースが主人公なのだが、警部になったモースとまったく似ていない俳優が演じているため、どうしても“ モース警部 ”の若いころの話という感じがしない。ストレンジ警視正(?)や法医鑑定医などは、体型や顔つきがどことなく似た俳優が演じているのだが・・・。
 モース警部の方は、すぐに事件関係者や時には容疑者の中年女性に恋心を抱くのだが、刑事モースにはその萌芽はまだうかがえない。

 昨夜の話の内容は、“ モース ”も“ アラン・バンクス ”も、警察内部の腐敗が絡んでいた。
 警察の腐敗はたびたびイギリス・ミステリーのテーマになっているが、BBCも含めてよくテレビで放映できるなと思う。
 “ アラン・バンクス ”は、主人公の署内恋愛(?)がサイド・ストーリーになっていて、恋愛ドラマ風でもあり、イギリスの離婚した夫婦や夫婦間の子の生活をうかがうことができる家族ドラマ風でもある。
 “ ガンヒルの決斗 ”のことを、キネマ旬報で「浪曲調西部劇の水準作」などと評していたのに倣うなら、昨日の“ アラン・バンクス ”は「浪曲調ミステリー」であった。

 2020年10月31日 記


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マルセル・モース/有地亨訳 『贈与論』

2020年10月28日 | 本と雑誌
 
 マルセル・モース/有地亨訳『贈与論』(勁草書房、1962年、新装版2008年)を読んだ。
 長らく絶版(品切れ?)だった時にはものすごく読んでみたいと思っていたので、新装版が発売されるとすぐに購入したのだが、いざ手に入れてからは本棚に並べたままになっていた。
 ようやく時間を気にしないで読書ができるようになり、読むことにした。

 本文よりも詳細な注の方が分量が多いのだが、注はほとんど読み飛ばした。十分に理解できたとはとても言えないが、面白かった。
 未開ないし原始社会において行われる「義務的贈答制」(互酬的贈答・返礼)を対象に、贈答を受けた場合に、返礼を義務づける規則は何であり、贈答品の内部に潜むいかなる力によって受贈者は返礼を義務づけられるのか、という問いに対して、モースは、ポリネシアなどの南洋諸島、アメリカ・インディアン、エスキモー(当時の用語に従う)など北米の民族誌研究の成果、さらには古代ギリシャ、ローマ法、インドの慣習などを検討することによって回答を試みる。
 ものが贈与され、相手がそれを受領した場合に、返礼の義務を生じさせる力は、贈与されたものの中に存在する。贈与、受領、返礼という一連の現象は、たんなる経済的、法的現象であるにとどまらず、政治的、家族的現象でもあり(社会階級や氏族、家族にかかわる)、宗教的(呪術、アニミズムにかかわる)でもある(253頁)。
 このような互酬的贈答・返礼を規律しているのは経済的要因(取引)ではなく、宗教的、呪術的、道徳的、感情的、そして法的な意義を有する「全体的社会事実」(有機的統一体、社会制度全体)であり、かかる互酬的贈答・返礼によって氏族間、家族間の安定が図られていると結論する。
 要約に自信はないが・・・。

 わが国の法学者でモースのこの著書を最も深く参照したのは広中俊雄教授の「契約とその保護」だが、ぼくは読んでいない。ただ法学部の初学生だった頃に幾代・鈴木・広中共著『民法の基礎知識(1)』(有斐閣)という本で、広中氏の「無償契約はなぜ要物契約なのか」という小論を読んだ。等価交換を当然の前提と考えていたぼくは、この小論で、現代社会に残る無償契約、とくに贈与の不思議さを知らされた。 
 現代においても、贈与は、経済的な価値の均衡が支配する売買や賃貸借などの有償契約とはまったく異なる性質を持っている。
 子どもに与えるお年玉や誕生祝い、婚約の際に交換する結納や婚約指輪、寺社等に対するお賽銭やお布施、喜捨は何のためになされるのか。あるいは結婚式や就職祝いなどにおける饗宴(時として大盤振る舞い)は何のために行われるのか。これら授受されるもの、提供されるものに経済的価値しかないとは現代人も考えていないだろう。
 ドイツ民法には、「忘恩行為」があった場合には「贈与」を取り消すことを認める条文があるが、この条文なども前時代の亡霊が近代民法に混入したものと思っていたが、前時代の亡霊どころではない、原始以来の人間社会の全霊がこもった規定だったのだ。
  
 十分に理解できなかったのは、ポトラッチ、すなわち徹底した破壊行為である。
 ポトラッチは、かんべむさし『ポトラッチ戦史』(講談社文庫、1979年)ではじめて知って、衝撃的印象が残ったが(「ポトラッチ」などという習俗はかんべの創作ではないかと最初は思った)、モースの中でもいくつかの事例が紹介されている。
 自分自身のささやかな蔵書類の断捨離すらままならないでいるのに、自分が獲得し、保有するものすべてを徹底的に破壊しつくすなどということが如何なる心理的メカニズムによって可能になるのか、本書を読んでもぼくには理解できなかった。そんな鷹揚さはとうていぼくには不可能である。

 モースは本書の最後で、この研究によって、いかにして『キヴィリタス』(civiltas)、『公民精神』(civisme)の結論に達しうるかがわかる、それを意識的に嚮導する技術こそソクラテスのいうところの「政治」(Poitique)であると結んでいる。“civiltas” には注がついていて、「市民間の権利、義務の関係がお互いに素直に認められ、それがお互に完全な程度にまで守られ、保障されている、いわば市民的な社会の理想を表現した概念」とされる(260頁、306頁)。
 なお、吉田禎吾・江川純一訳のちくま学芸文庫版では、この個所は、<古い用語を再び用いるなら--「礼儀正しさ(civilite)」、また今言われているような「公民精神(civisme)」という結論をいかにして導きうるのか(が)明らかになる>と訳してある(292頁)。
 これこそ、民主主義の精神、あの “virtue” だろう。


 戦後の家族法学は人類学、社会学からどんどん離れていってしまったように思うが、この訳業が、穂積陳重、(台湾時代の)岡松参太郎、(初期の)中川善之助、青山道夫とつづくわが国の家族法学の水脈の一つの到達点を示す作品であることは間違いない。大学を卒業されてから10年足らず(9年目)にこの訳業を完成されたことにも驚嘆する。
 有地先生とは、編集者時代に九州大学の研究室でお会いしたことがあった。米軍のジェット機が轟音を立てて低空を通過するたびに会話を中断しなければならなかった。先生は「今度は私の自宅へお出で下さい」と仰って下さった。
 九大をご定年後、学会の仕事の準備で一度だけ聖心女子大学の先生の研究室にお伺いしたことがあった。軽井沢のような木立の中に低層の建物が点在する聖心女子大の構内に入ったのは、その時一度だけである。九大の研究室とは打って変わって静かな研究室だった。
 それらのご恩、ご学恩に何ら応えられなかったことを恥じるばかりである。

 2020年10月27日 記


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中村桂子 『学生たちの牧歌 1967‐1968』

2020年10月27日 | 本と雑誌
 
 東京新聞の2020年1月5日付で、中沢けいがこの本の書評を書いていた。
 「この作品に描かれた民主主義のレッスンと呼んでもよいような朗らかさは・・・」という評言が気になって、読んでみたいと思った。
 先日、近所の図書館の蔵書目録(?)を検索していたら、この本が収蔵されているのを見つけたので、さっそく借りてきて読んだ。

                             
 
 がっかりした。
 この話のどこが「民主主義のレッスン」なのか。
 ぼくには「主義」といったものはない。あえて言えば、高校生の時に読んだ小田実のエッセイ「古今東西人間チョボチョボ主義」が自分には合っているなと思った程度である。
 しかし、それが「主義」かどうかは疑問だが、「民主主義」にだけはこだわりがある。できることなら「民主主義者」でありたいと思ってきた。
 で、中沢けいの言葉に反応したのだが、この小説に描かれているC大学自治会は民主主義とはほとんど無縁の話であった。執行委員選挙をめぐる選管委員による不正を選管委員の一人である著者(らしき人物)は平然と傍観しているが、選挙(投票箱への自由!)の不正など最悪の反民主主義的行為ではないか。

 小池真理子の『恋』と時代背景は似ているが、恋愛小説ともいえない。
 まあ、あの頃の中央大学で(巻末の解説者はC大学を中央大学と明記している)起きたことを、そんなことがあったのかと覗き見ることはできた。
 あの駿河台下の、中庭を囲む回廊式の四角形の校舎(イギリスの大学を思わせる)や、中大会館から延びる秘密の地下道などを知る者としては、背景描写の中に往時をしのぶことができた。

 身銭を切って買った本に裏切られると腹が立つが、図書館で借りた本に失望しても大して腹は立たない。


             

             

 冒頭の写真および上の写真2枚は、ぼくが不遇の時代を過ごした図書館。
 脱サラ時代を脱して以降30数年間一度も足を踏み入れることがなかった。当時から入り口わきに置かれたソファーに座って老人たちが新聞や週刊誌を読んでいた。今もその光景は変わっていなかいが、今度はぼくがその老人側の人間になってしまった。


 2020年10月26日 記


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三丁目の夕日(2020年10月24日)

2020年10月25日 | あれこれ
 
 予約してあった本が届いたという連絡があったので、図書館に出かけた。
 連絡は留守電に音声案内で入っていた。時代は変わった。ただし複数予約した本のうち、どの本が準備できたかは分からない。「ご予約の本1点が準備できました」という音声だった。
 晴れて天気も良く、セーターでは少し暑いくらいの気候だった。

 行った先は練馬区立の大泉図書館。
 40年近く前の、脱サラ時代に通った図書館である。

             

 当時はできたばかりの図書館だったが、芝生の庭に植えられた木々もずい分大きくなり、たわわな枝に緑の葉が生い茂っている。以前はもっと明るい庭だった。
 庭先のベンチに座って弁当を食べたりしたのだが、今は庭には出られないようだ。

             

 図書館の向かい側は大泉教会。
 祖母の葬式を執り行った場所である。建物は新しく立派になっていた。
 その向こうに、JRの送電線の鉄塔がそびえている。

             

 帰り道で、白子川にかかった橋を渡る際に、ふと見ると、白い鳥が二羽川面に浮かんでいた。
 シラサギか? 白鳥ではなさそう。

             

 夕方、洗濯物を取り込もうとベランダに出ると、南の空高くに三日月と半月の間くらいの白い月が浮かんでいた。見えるだろうか。

 冒頭の写真は、夕方散歩に出た際に、夕暮れ時の東側の建物や空が赤く染まっていたので撮った。きょうの夕日は、西の空よりも東の空の方がきれいだった。
 ぼくが生まれ育ったのは2丁目だが、現在住んでいるのは3丁目なので、今日のタイトルは「3丁目の夕日」ということに。

 2020年10月24日 記


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『星の子』--というか芦田愛菜を見てきた

2020年10月23日 | 映画
 
 また昨日も「いきいき健康券」(!)を使って、近所の映画館、T-JOY SEIBU 大泉で『星の子』を見てきた。
 「芦田愛菜ちゃんが出ている映画をやっているよ」というので、それだけの理由で見に行くことにしたのである。

 10年近く前だろうか、彼女が子役でテレビに出ていた頃から、子役特有の「こまっしゃくれ」感がなかった。            
 その後、10年を経て、サンドイッチマンと一緒に出ているテレビ番組を毎週見ているうちに、彼女のファンになった。
 彼女が出ているなら、というだけで出かけたのだが、見る直前になって、どんなストーリーの映画なのかを全く知らないでいることに気がづいた。
 映画館への道すがらで、初めて『星の子』の内容を女房から聞いた。ちょっと不安がよぎった。

 不安は的中した。
 もう仕方がない。ひたすら、大きなスクリーンに大写しになる彼女の表情を凝視しつづけて凌いだ。幸いほとんどの場面に芦田愛菜ちゃんが出ているので、それで足りる。
 賢そうな眼差し、けっこう肉感的な口びる、親しみを感じる小鼻・・・。中学1年生くらいにしか見えない小柄な制服姿とその歩き方。

 泣いている表情が上手だった。「嘘泣き」を感じさせなかった。
 芦田愛菜ファンなら見られるだろう。40年近く前のことだが、松田聖子の『野菊の墓』でも松田聖子ファンなら耐えることができたように。 

             

             

 T-JOY SEIBU 大泉は正面入り口に飾られた現在上映中の映画のポスターは10枚すべて『鬼滅の刃』、館内のポスター類も『鬼滅の刃』一色である。
 『星の子』も、『82年生まれ キム・ジヨン』も1日2回だけの上映に減らされてしまっていた。
 イートイン・コーナーに12月公開のポケモンのディスプレイが飾ってあった。

             

 2020年10月23日 記


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きのうの夕日(2020年10月21日)

2020年10月22日 | 東京を歩く
 きのうも夕方4時半ころから近所に散歩に出かけた。
 9月の暑いころは午後5時半を過ぎてから出発したのだが、最近は日が暮れるのが早いので、4時には出発しないと、歩いているうちに薄暗くなってしまう。

 きのうは、近所の図書館によって登録証を作成してから、歩き始めた。
 以前テレビで、元(?現役だったかも)朝日新聞の女性記者が、蔵書はすべて処分してしまい、必要な本はすべて図書館で借りることにしたと語っていた。すべてを処分する勇気はないが、これからは読みたい本は原則として図書館で借りて読むことにした。
 
 図書館を出て、道が分からないので、頭上に張られた送電線(「JR送電線」と書いてある。なんでJRなのか?)を目印に、大泉学園駅の方角に向かって歩く。
 しばらく歩くと、放射7号線の北園交差点近くに出た。工事中の(と言ってもほとんど完成している)放射7号の延伸道路を東から西に向かって撮った。

                          

 この工事中の道路を今度は西側から撮った。奥が北園交差点。

             

 この延伸道路が小高くなっているところから大泉学園駅の方角を望む。駅前(駅上?)の高層ビルが何本か遠望できる。

             

 冒頭の写真は、同じく延伸道路から、道しるべの送電線越しに眺めた夕暮れの光景。実はこれが時間的には一番遅い時刻に撮ったもの。
 今日はこれだけで・・・。
 研究室の窓から眺めた都心の夕焼けが懐かしい。


 2020年10月22日 記

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江守五夫 『結婚の起源と歴史』

2020年10月20日 | 本と雑誌
 
 江守五夫著 『結婚の起源と歴史』(社会思想社、現代教養文庫、1965年)を読んだ。
 
 ぼくが大学に入学した1969年ころは、ぼくのような(政治的にはノンポリに近い、少なくともノンセクトの)学生でも「読書会」に誘われて参加したことがあった。
 当時はやっていた羽仁五郎の『都市の論理』(勁草書房、手元にない)や、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』(手元にあるのは岩波文庫版、昭和44年5月10日の第7刷。以下では「起源」)などがテキストだった。
 残念ながら、良い指導者に恵まれず、いつの間にか立ち消えになってしまった。あるいは、ぼくが勝手にやめてしまったのかもしれない。

 久しぶりに「起源」(岩波文庫)を開いてみると、第6章までは読んだ形跡があるが、第7章の初め(174頁)にリボンが挟んであって、ここで断念したようである。そして、巻末の訳者解説の中の「原始的集団の内部での生産力の発展、とくに牧畜や犂耕の導入が私有財産と父権的家族制家族の発生・強化を招き、これら相互間の貧富の差の拡大、階級対立の激化が国家を成立させるという、本書の基本的な論旨は・・・(今日でも)否定されそうにない」という文章に傍線が引いてある。・・・ということがこの本には書いてあるのだろう、ということで済ませることにしたのだと思う。
 ちなみに、この解説によれば、わが国で最初に「起源」の全訳を出版したのは、何と有斐閣だったそうだ(内藤吉之助訳、1922年)。最近の同社の出版物を考えると、同社からエンゲルスが出ていたとは意外である。

 結局「起源」は当時のぼくには難しすぎたことが中断の主な原因だったと思うが、「読書会」というのを初体験するうちに、ぼくは、やはり本は自分の関心に従って一人で読むものであり、ダメだったら途中で投げ出すことも許されるべきだ(積読(ツンドク)権?)と思うようになった。もしあのまま第7章以降を読んだ(字面を追った)としても得ることは少なかったと思う。
 後に教師になってからも、クラスの全員で一つの本を読む(読ませる)という形式の授業は苦手だった。(かつてのぼくのように)その本に関心をもてない学生に気の毒でもある。さらに、「原典を読め」(解説書は読むな)という読書指導にも反対である。良い解説書は原典を理解できないままに読むよりはるかに優っていると思う。

            

 19歳の大学1年生の時に挫折したエンゲルス「起源」に書いてあることは、ずっと後に読んだ江守さんの本書『結婚の起源と歴史』や『愛の復権』(大月書店、1977年)、不破哲三『講座<家族、私有財産および国家の起源>入門』(新日本出版社、1983年)などを読んで、ようやく多少は分かった気になれた。

 江守さんの『結婚の起源と歴史』は、エンゲルス「起源」以降の人類学の発展を、<原始社会=乱交制から文明社会=単婚制へ>という発展図式の再検討に絞って明快に整理してくれる。本文に関係する「未開民族」(現代では何と呼ぶのか分からいので、本書に従っておく)の人物や習俗の写真もふんだんに入っている。ここに登場する民族も今日ではほとんど「文明化」しているだろう。
 原始社会や、執筆当時(1960年代ころ)の「未開社会」に残る(現代人から見ると)「奇習」と思われる性習俗を、当該部族や民族において何らかの必要から承認された「性的に接近する権利」として説明し、かえって単婚(=一夫一婦制)が貫徹されていると言われている文明社会において、売淫、夫の蓄妾、姦通など、いかに性が堕落しているかを指摘し、これまでは理想にすぎなかった「一夫一婦制」をいかに実現させるかが私たちの課題であると結んでいる。

 今回再読して、腑に落ちたことが一つある。
 最近はアメリカ諸州や西欧などの諸外国で同性婚(同性のカップル同士が結婚すること)を認める方向にあり、わが国でも認めるべきであるという主張が行われているが、ぼくは同性婚だけでなく、近親婚や複婚( polygamy。一夫多妻制、多夫多妻制(集団婚)など結婚の当事者が3人以上の婚姻)がなぜ議論の俎上にすら上らないのかを不思議に思い続けてきた。
 同性婚の可否についてはこれだけ議論があるのに、近親婚(モンテスキュー『法の精神』はかなり広範囲に近親婚を認めていたが、本書では「性的に接近する権利」を承認する社会でも外婚制(近親婚回避)の掟は厳しく守られていると指摘している)や複婚についてはその可否や範囲をめぐってまったく議論がないのはなぜなのか。
 近親婚や複婚に賛成するというのではなく、婚姻の自由に対するこれらの制限に関する議論すら行われないことへの疑問である。
 そんなことを思うぼくの記憶の「古層」に江守さんの本書で知った文明社会以前の社会における「性的に接近する権利」による多数当事者間の性的関係が承認されていたことの説明が説得的だったことがあったのではないか、と今回再読して思ったのである。江守さんはそれを現代社会に再現させようなどとは言っておられないが。

 なお、本書にはけっこう「文明批評」的なことも書いてあって、聖職者の性の堕落の箇所では、スチュワーデス殺し事件のベルメルシュ神父への言及があり(235頁。同事件については松本清張『黒い福音』というノンフィクション小説がある)、日本の売春汚職事件(昭和31年)をめぐって「赤線は社会の共同便所」(!)などと国会で放言した参議院議員の発言なども紹介されている(241頁)。ほかにも、イスラム国の首相の第2夫人になった日本人女性のこともどこかに書いてあった。
 その他の箇所でも、資料を援用して主張を展開しながらも、時おり著者自身が顔をのぞかせることがある。とくに印象に残ったのは、ある写真のキャプションである。他では「寝宿の前の娘」(115頁)、「前掛けを織る女」(123頁)のように「娘」、「女」と中立的(没主観的)だったキャプションが、「ダヤーク族(ボルネオ)の美少女」だけは、なぜか「美」少女となっている(117頁)。このキャプションは著者の入れたものか、編集者が入れたものか分からないが、著者が嫌う文明社会の側による価値観の持ち込みではないか。確かにその写真の女性は「美少女」だと思うけれど(蛇足かな)。

 ※ 冒頭の写真左側は黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』(社会思想社、現代教養文庫、1992年。原書は「萬朝報」1898年)の表紙。明治期の政治家、実業家、官僚、学者、お雇い外国人、その他市井の人も含め、いかに多くの男たちが妾を囲っていたかを実名を挙げて暴露している(計510名が登場する)。このような一夫多妻制的な状況では、複婚の可否など検討することすら憚られるであろう。


 2020年10月20日 記
  

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映画 『82年生まれ キム・ジヨン』

2020年10月15日 | 映画
 
 『82年生まれ キム・ジヨン』 を見てきた。

 出かけたのは、近所の映画館<T-ジョイ>。現在の正式名称は(上の写真のネオンサイン?によれば)「T-ジョイ SEIBU 大泉」というようだ。 
 出かけたきっかけは、練馬区の地域包括支援センターで給付している「令和2年度 いきいき健康券」(!)をもらったからである。65歳以上の練馬区民は、練馬区内の映画館で(といっても大泉のT- ジョイか、豊島園の映画館(豊島園に映画館があるらしい)の2館しかない!)、1回につき1000円割引で、年度中に3回映画を見ることができる。
 「健康券」プラス200円を払って、チケットを購入して入場。

             

 映画館で映画を見るのは、数年前の『小さなお家』以来である。
 コロナが収まらないので恐る恐るだったが、午後7時からの回は、われわれを含めて観客はわずか8名。ガラガラで飛沫感染の心配はなさそうだった。ぼくを除いて全員が女性だった。しかも(うちの女房を除けば)みんなキム・ジヨンよりずっと若い世代の女の子だった。

 6時55分開演なのに、7時10分ころまで延々と近日公開予定映画の予告編がつづく。どれもこれも見る気を起させない予告編ばかりだったのでうんざりする。しかも音量が凄まじい。さすがの耳が遠いぼくにもうるさい。今の人たちはあんな音量が平気なのだろうか。
 YOUTUBUでみる小津安二郎「秋刀魚の味」や「彼岸花」の穏やかな予告編が懐かしい。

             

 ようやく館内が真っ暗になり、『82年生まれ キム・ジヨン』 が始まった。
 1982年生まれの韓国女性が受けてきた差別がテーマだが、今もつづく儒教的因習に基づく差別と、もっと現代的な働く女性に対する差別とが混在する。
 盆暮れ(?)には夫の実家に帰省することを当然視する夫への不満、帰省した息子の妻に家事労働を半ば強制する姑や小姑への不満などは儒教的因習への怒りであり、子育てしながら広告製作会社でキャリアを積もうとする主人公に対する上司や同僚による差別やセクハラなどは後者への怒りであろう。夫が育児休業をとろうとすると、「夫の出世を妨害するのか」と妻の実家に電話して怒る夫の母親などは、両者が混ざっている。
 
 キム・ジヨンの実家は、女4人(3人だったかも?)姉妹に末っ子の弟1人のきょうだいで、現在は母親が食堂を営んで家計を支えている。母親(この俳優は韓流ドラマでよく見かける人で、この人の演技力が光っていた※)自身も、弟たちを大学に通わせるために、教師になる夢を捨てミシン工場で縫製の仕事をして家計を支えた経歴を持っている。それだけに、娘には好きな仕事を続けてほしいと願っている。
 父親は空威張りするだけで権威はない。末弟も姉たちの言いなりである。この家には儒教的な家父長の権威はなく、家族は女の力で運営されている。韓国も日本と同じで、家族は「妹の力」で支えられているようである。
 キム・ジヨンは結局仕事を辞め、子育てに専念するが、次第に心を病んでいく。やがて恢復して社会復帰を果たすのだが(この辺の経緯は映画のクライマックスなので書かないでおく)、彼女も実家の家族と一緒にいる時だけは心が安定してるように見えたので、実家(母や姉)の抱擁力で恢復するというストーリーを予期したが、そういう展開ではなかった。

 ※ ネットで調べると、この母親役の俳優はキム・ミギョンさんという人だった。『82年生まれ・・・』のキャスティングでは主人公役とその夫役の次に名前が出ていた。むべなるかな、である。彼女はこれ以外にも100本以上のドラマに出演しているらしい。

 全体を通じて、キム・ジヨンの夫が、自分の母親(姑)の介入に対してあまりにも無抵抗なのが印象的だった。今でもあのような態度が韓国の夫の一般的な態度なのだろうか。妻と自分の母(姑)との間で板挟みになる夫を、何十年か前の日本の週刊誌は「ハムレット亭主」と命名したが、最近の日本の夫たちはどうなのだろうか。統計では、今でも「親族間の不和」(≒「嫁姑の不和」)は離婚原因の上位を占めているが。
 息子を愛するなら、妻と自分(母親)との板挟み状態などに陥らせないのが親としての愛情だろうと思うが、「産んで愛して育ててきた息子を妻に奪われた!」という感情を母というのはコントロールできないのだろうか。ぼくは、息子を奪われたなどという感情はまったくない。男なのでお腹を痛めていないからなのか、もともと母親に比べて愛情が不足しているからなのか。

 ついつい「1980年ころ生まれ、キム・ジヨンの夫」の立場で見てしまった。

 そう言えば、数日前のNHKテレビの深夜番組(いとうせいこう司会で、織田裕二が出演した「ヒューマニエンス」)に、北海道大学の生物学の女性教授が出演していて、ヒトの性染色体(X染色体とY染色体)はもともとは同じ長さだったのだが、Y染色体は傷ついて少しづつ短くなっていて、今から500万年くらいするとY染色体はなくなってしまい、ヒトのオスは消滅すると言っていた。ちなみに、X染色体は2本づつあるので1本が損傷を受けても他方が補完してくれるので女が消滅することはないという。※
 Y染色体の消滅以降は、Y染色体に代わる細胞が発生を発動させるようになり、メスだけの単為生殖になるらしい。500万年後のことなど心配してもどうにもならないが、生物学的にも男には勝ち目はなさそうである。

 ※ 調べたら、黒岩麻里さんという方で、「消えゆくY染色体と男たちの運命」(秀潤社、2014年)とか、「男の弱まり」(ポプラ新書、2016年)という著書があった。読んでみよう。
 
 そして今朝(10月15日)、NHKラジオ “毎朝” で、『82年生まれ キム・ジヨン』 の原作者チョ・ナムジュの第2作(?)の短編集を訳者が紹介していた。
 映画では、主人公のキム・ジヨンはどちらかと言えばおとなし目の女性に描かれていた。韓流のテレビドラマで見るような、しっかりと自己主張できる強い女ばかりが韓国女性のすべてではないと感じたが、原作者自身は映画で描かれているキム・ジヨンよりもっとしっかりした女性のようだ。
 原作は韓国で180万部、日本で22万部売れたというから、相当に女性の共感を得た作品なのだろう。
 
 2020年10月15日 記
 

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ウィリアム・ワイラー監督 『大いなる西部』

2020年10月11日 | 映画
 
 ついでに、きのう10月9日の夕方、BS放送(104chだったか?)で、“大いなる西部” をやっていた。
 東部からやってきたグレゴリー・ペックと西部の牧場主の娘キャロル・ベイカーが婚約するあたりで、雨の中を夕食の買い物に出かけ、帰宅して再びテレビをつけると、すでにこの二人は破局していて、グレゴリー・ペックは聡明で健気な女牧場主と仲睦まじくなっていた。
 キャロル・ベイカーがかわいそうに思ったが、出かけている間に破局もやむを得ない事情が起こったのだろうか。彼女はファザコン気味で、意見が対立した場合には、婚約者よりも父親を選びそうな気配はあった。
 もっとかわいそうなのは、わがテレビ西部劇の英雄「ライフルマン」のチャック・コナーズである。敵対する牧場のバカ息子役で、最後は父親に撃ち殺されてしまうのだが、ぼくだったらこんな役は引き受けない。
 グレゴリー・ペックばかりがおいしいところを全部持って行ってしまっていて、牧場主の娘をめぐって恋敵を演じる牧童頭のチャールトン・ヘストンも割に合わない役である。エンド・マークの後でキャロル・ベイカーと結婚しそうな予感はしたが。

 牧場の所有権<=法>ではなく、隣り合う牧場の水の共同利用<=掟>によって紛争を解決するグレゴリー・ペックは、昨日書き込みをした山本周五郎に対する山田宗睦の解説を思わせる。この当時(1850~60年ころか)すでに、土地の権利証だったか登記証書だったかが存在していたらしい。グレゴリー・ペックが敵対する牧場主に示すシーンがあった。正確な時代考証かどうかは分からない。

 1958年の映画とは思えないくらいに、西部の広野を描く映像がきれいだった。主役はアメリカ西部の大地( “The Big Country” )ということなのだろう。ウィリアム・ワイラー監督だけあって、2時間半の映画を飽きさせない。途中で買い物に行っておきながら口幅ったいが・・・。

 2020年10月11日 改訂


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東京オリンピック 開会式 (1964年10月10日)

2020年10月10日 | あれこれ
 
 きょう、10月10日は東京オリンピックの開会式である。
 土曜日で、午前中は学校があり(4時間目は体育で、走り高跳びの測定をやっていた)、授業が終わると飛んで帰って、1時から始まる開会式をテレビで見た。
 天気は快晴。前の日までは、今年と同じように秋の長雨が降りつづいていたが、10日の朝起きると雨はすっかり上がっていて、前の日までの雨が嘘のような真っ青な青空だった。
 10月10日は「特異日」で、気象観測が始まって以来雨の日は数日しかなかったので、この日が開会式に選ばれたという。雨が降っている2020年は、よっぽど運が悪い年なのだろう。

 ぼくは14歳の中学3年生で、学校の抽選にあたって、今はない千駄ヶ谷の国立競技場に先生に引率されて陸上競技を見に行った。入場料は100円だった。
 国立競技場の観客席の最上段に立てられた各国の国旗が秋風になびいて、国旗掲揚ポールをバタバタ(慣用的に「バタバタ」と書くが「ビタビタ」と聞こえた)と鳴らしていた音が印象的だった。
 その日の陸上は人気種目はなく(だから中学生を100円で入場させたのだろう、けっこう空席があった)、3000メートル障害の決勝と、棒高跳びの決勝があった。
 3000メートル障害はベルギーのローランツが優勝し、棒高跳びは、アメリカのハンセンとドイツのラインハルトの激戦に決着がつかず、5時ころに先生に促されて帰宅したのだが、家に帰ってもまだ決着がついておらず、夜10時ころになってようやくハンセンの優勝が決まった。アメリカはこの種目オリンピック第1回から18連勝とかだった。一緒に見に行ったクラスの女の子が「ラインハルト、素敵!」とか騒いでいた。跳躍が終わるたびに、櫛で髪をとかす気障な選手だった。ロバート・レッドフォード風でいい男だったのは確かだが。
 
             

 上の写真は「アサヒグラフ」の東京オリンピック増刊号(1964年11月1日発行、定価280円)。何度も読んだせいでかなり傷んでしまった。表紙は男子1500メートル決勝で、先頭を走っているのは、前のメルボルン大会で優勝したロン・クラーク選手(オーストラリア)だが、彼は東京オリンピックでは勝てなかったようだ。
 水泳のアン・クリスチネ・ハグベリ選手(スウェーデン)に憧れた話は繰り返さない。ほかにも高飛び込みのエンゲル・クレーマー選手だとか、自由形のデュンケル選手とか、ブラウン管越しに恋した選手は少なくない。
 閉会式の電光掲示板に浮かんだ「SAYONARA」の文字は、彼女たちとの別れの言葉だった。みんな、元気にやっているのだろうか?     

                     

 冒頭の写真は「朝日ソノラマ」1964年12月号(通巻60号)。定価380円で、ソノシートが4枚もついている。「アサヒグラフ」が280円だから安くはない。数年後でも代々木の国立屋内競技場のラーメンが70円だったから、ラーメン5~6杯分になる。入場行進する日本チームの最前列は女子バレーの選手たちである。相当なプレッシャーだっただろう。
 ちなみに、この「朝日ソノラマ」は「東京オリンピック特集」と銘うっているが、他にも、中国の核実験や、ソ連のフルシチョフ首相の辞任、池田勇人首相の辞任など、当時の政治情勢にかかわる報道なども載っている。東京オリンピックの直後に池田首相が辞任したなど、まったく記憶になかった。

      
 2020年10月10日 記

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山本周五郎『小説の効用』(新潮社)

2020年10月09日 | 本と雑誌
 
 ある絶版書を「日本の古本屋」というWEBサイトで探したところ、偶然、近所の古本屋に1冊だけ在庫があることが分かった。しかもAMAZONより3割方安い値段であった。
 散歩のついでにその古本屋に立ち寄ると、店頭の<100円均一>の本棚に「山本周五郎全集」(新潮社、1984年)が(おそらく)全巻並べられていた。最終巻の30巻『小説の効用・雨のみちのく』には全エッセイと年譜が収められていたので、これだけ買うことにした。
 ただし「100円均一」はその本箱の3段目の棚だけで、山本周五郎全集は1冊300円(+税)だった。

 山本周五郎も、若かった一時期熱心に読んだ作家の一人である。おそらく最初に読んだ「さぶ」(新潮文庫)をはじめ、文庫本を本棚から取り出してみると、「ながい坂」は1973年12月1日、「さぶ」は1973年12月18日に読み終えたと書き込んである。私が大学4年のときである。山本周五郎の本は、新潮文庫を数冊と、四六判の軽装版のシリーズ(これも新潮社か)を数冊、計10冊くらい読んだ。四六判のほうはどこかにしまい込んで見つからない。

 どういうきっかけで読み始めたのかは記憶がない。誰か評論家が、山本周五郎は日本のドーデだったかメリメだと書いていたのを記憶しているので、授業のフランス語で読まされたドーデかメリメがきっかけだったかもしれない。 
 失礼ながら、大学4年のぼくがどうして「山本周五郎なんか」と思うのだが、とにかく読み始めてみて、気に入った。10冊くらい読んだだけで、山本周五郎が好きだったなどというな、と言われるかもしれないが、飽きっぽい性格のぼくにとっては10冊読んだ作家はそうはいない。
             
 今回これを書くに当たって、新潮文庫版をめくってみると、「五瓣の椿」の解説を山田宗睦が書いている(!)。
 その中で山田が、山本周五郎は、<法>というものに深い関心をもっている作家である。・・・<法>と<掟>というテーマはギリシア悲劇の主題の一つであった。・・・山本周五郎が『五瓣の椿』でとりくんだのは、御定<法>も罰せられない罪がこの世にはあり、それを人間の<掟>から審くというテーマであった」と書いている。それは、神の<掟>を守るものが、人間の<法>によって死なねばならぬというアンチゴーネで示された矛盾であるとも書いてある。 

 山本周五郎には父との思い出がある。
 山本周五郎は面白いと父に吹聴したところ、父も山本が気に入って、父の方はぼくと違って徹底的な人間だったので、新潮文庫に入った山本の全作品を購入して、読んでいた。
 父とはそりが合わず、あまり交流はなかったのだが、ぼくが父に与えた影響はこの山本周五郎と、長谷川伸だけである。これも何がきっかけだったか、長谷川伸の「印度洋の常陸丸」(中公文庫)を読んで面白かったので、父に紹介したところ、長谷川伸にこんな作品があるとは知らなかった、と言っていた。
 父との多少は意味のある交流で記憶にあるのは、この2人の本を紹介したことだけである。

             

 さて、その山本周五郎であるが、読まなくなった時期ははっきりと記憶にある。
 新聞の広告に『山本周五郎xx小説集』というのが時折出ていたころ、すでに彼にあまり強い思い入れはなくなっていたことを覚えているのである。
 今回購入した『小説の効用』の巻末についた彼の年譜を見ると、昭和50年(1975年)の「滑稽小説集」と「感動小説集」を皮切りに、1979年の「抵抗小説集」、1982年の「真情小説集」まで、10冊近くが実業之日本社から出ている。
 ということは1973年に気に入った山本周五郎を1975年ころには読まなくなっていたようだ。「婦道小説集」、「強豪小説集」などというネーミングに拒否反応が出たのかもしれない。しかし、この年譜を見ていると、「感動小説集」とか「真情小説集」などは改めて読んでみたい気もする。

 『小説の効用』に収められた彼のエッセイは、山本の作風からは意外な感じがした。
 山本の小説に登場する主人公たちに比べると、著者ご本人はけっこう辛辣だったり、臍曲がりだったりするのである。直木賞を辞退し、毎日出版文化賞を辞退している。直木賞を欲しい作家はゴマンといるだろうに。ぼくだって、くれるものなら即もらうだろう。
 あの時代は、純文学対大衆文学などという図式があって、「大衆文学」は劣位の文学と見られていたらしい。山本は当然「大衆文学」の側の作家とされていたらしく、一生懸命自分の側(自分自身)を擁護する説を述べている。
 確かに、引用されている座談会における中島健蔵の発言などはひどいものである。
 いわく、「大衆文学というものは・・・」「まげ物といっちまえばいいんだ」、「日本大衆文学にはヒューマニズムがない」、「その中にある物の考え方(は・・・)ただ封建的だよ」、「まあいってみりゃ大衆小説とはパチンコみたいなもんだろう」(20頁)という引用が、本当に中島本人の発言だったとしたら、少なくとも山本周五郎に対しては失礼な発言であり、山本は「うんざりする」と反論しているが、本心はとてもその程度ではなかっただろう。 こんな風に言われては反論が辛らつになるのも当然だろう。

 「大衆文学」だろうと「娯楽文学」(山本は自分の作品を「娯楽文学」と書いている箇所があった)だろうと、彼が目指した「現在、生活している最大多数の人たちに訴えて、ともに共感を呼びたい」という目標は(34頁)、少なくとも20歳代初期のぼくには伝わった。おそらくぼくの父にも。
 山本周五郎は大変な読書家、勉強家だったことが随所でうかがえるが(例えば「樅ノ木は残った」のための仙台への取材旅行)、ぼくの印象に残ったのは、戦後初期の小説の短評のなかで、加藤周一「或る晴れた日に」という小説を「戦後第一の作といってよかろう」と激賞していることだった。しかも内容は「高原の疎開地における文化人と土地人」の両面を書いたものだという。
 この「疎開地」とはおそらく信濃追分だろう。読んでみたくなった。手に入るのだろうか。

 この「小説の効用」という随筆集の中で、現在のぼくにとって、もっとも印象的だったのは「畏友山手樹一郎へ」という短い文章だった。
 山本の最初の小説を、自分が編集長を務める雑誌に掲載してくれ、のちには自身も作家になった山手(その後は没交渉になっていたようだが)の作家として行く道への悩みに対して、穏やかな助言を与えているのだが、年を取り、先の見えてきたわが身に染みるいい文章だった。
 要するに、自分が書きたいものを書き、自分が生きたいように生きればよいではないかというだけのことであるが、20年以上も没交渉だった旧友からこんな言葉をもらったら心安らぐだろう。

 2020年10月9日 記


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きのうの夕焼け(2020年10月5日)

2020年10月06日 | 東京を歩く
 
 きのう、10月5日午後5時すぎだったか、近所に散歩に出かけた。

 大泉学園駅近くの西に開けた道に出ると(下屋敷通りというらしい)、ビルの間から西方の真正面に、きれいに染まった夕焼け空が見えた。

 学生時代、本田路津子(HONNDARUTSUKOとキーボードを叩くと一発で出てきた。感動!)の「秋でもないのに」が好きだった。
 「秋でもないのに 沈む夕日に 魅せられて・・・」という歌い出し(2番の歌詞かも・・・)、「あかね雲さえ 泣いているだろう」で終わるあの歌を聴くと、センチな気分になった。
 「秋でもないのに」というけれど、あれは秋の歌だろう。

 子どもの頃に聞いた夕焼けの歌といえば、三橋美智也の「夕焼け空が 真っ赤っか トンビがくるりと輪をかいた・・・」というのを思い出す。曲名は知らない。
 昭和30年代の夕暮れ時の豪徳寺商店街のスピーカーから流れていた。竹脇昌作(無我のお父さん)がDJをやっていた(おそらくTBS、当時の東京放送)の番組だった。♪ ニッポン信販のクーポン ♪ というCMが流れていた。美空ひばりの「花笠道中」も同じころだった。ぼくの「3丁目の夕日」(実際は世田谷2丁目だけど)である。

 夕焼けの歌ではなく、「秋」の歌まで広げると、ぼくは、初秋なら「思い出の渚」(ワイルド・ワンズ)、晩秋なら「風」(はしだのりひことシューベルツ)が好きだ。
 「真夜中のギター」、「いつまでもいつまでも」もいい。
 それよりなにより、秋といえば松田聖子の「風立ちぬ」と「風は秋色」を忘れていた!

             

 ちなみに、秋の小説で一番気になっているのが、坂上弘「ある秋の出来事」。数十年にわたって題名が気になりつづけているのだが、今まで読んでいない。
 坂上弘は何かほかの小説を読んだが、ぼくの趣味ではなかったので、「ある秋の出来事」も題名は気に入っているのだが、読むのが怖い。どんな話なのだろう。ぼくも歳をとったから、読んでみたら違う印象をもつかもしれない。
 実際に読んだ秋の小説の中では、庄野潤三「ガンビア滞在記」と「シェリー酒と楓の葉」がいい。


 2020年10月5日 記

 追記 「秋でもないのに」のジャケットをアップしたいと思ってレコードを探したけれど、見つからない。「恋の季節」や「亜麻色の髪の乙女」など、絶対に捨ててはいないので、どこかにまとめて仕舞い込んでしまったのだろう。庄野潤三の表紙カバーだけ追加しておいた。


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きょうの軽井沢(2020年10月3日)

2020年10月05日 | 軽井沢
 
 軽井沢3日目。
 朝7時に起きると薄日が差しているが、昨日ほどの晴天ではない。
 きょう帰京するが、帰る日が好天だと癪に障るから、曇っているくらいがちょうどよい。しかも、帰京は道が混まない午前中と決めているので、東からの日ざしがまぶしくない曇り空の方が助かる。

 今日は帰るばかりなので、書くことはない。
 そこで、昨夜、正確には10月3日早朝に目が覚めて聞いたラジオの深夜放送から。

 NHK第1の “ラジオ深夜便” では、午前3時から「シンガー・ソングライターが提供した楽曲」特集とやらをやっていた。他の歌手に提供した曲は、ご本人が歌ったヒット曲ほど記憶に残っていないものが多かった。放送されたほとんどの曲をぼくは知らなかった。
 特集の最後に流れた曲が、中島みゆきが1977年に桜田淳子に提供した「しあわせ芝居」だった。当時の桜田淳子には中島みゆきは無理がある。
 中島みゆきは1975年に「時代」でデビューしたと紹介していた。そうだったか・・・。中島みゆきと五輪真弓は同じころにデビューしたが、この二人は他のフォークシンガーとは違った独特の雰囲気を持っていた。

            

 上の写真は10月2日の軽井沢の旧道。

 “オールナイト・ニッポン” が終わった朝4時からは、ニッポン放送で「あさぼらけ」というのをやっていた。
 DJも誰だか聴きそびれたが、東急池上線の話をしていた。
 西島三重子の「池上線」の歌詞に「古い電車」とか「すきま風に震えて」とかあるので、池上線はどんな電車だったのかと思っていたが、同線では1977年まで戦前に作られた車両が使われていたということを知って、納得したと話していた。
 昭和30年代に、伯母が雪が谷大塚に住んでいたので、正月の挨拶の折などに五反田から池上線に乗ったのだが、すきま風が吹きこむほど古い電車だった記憶はない。あの当時は、他の路線でも床が木製だったり、吊り革の輪が木製の車両などはいくらでもあったから、別に記憶には残らなかったのだろう。

 この番組に出ていたニッポン放送の政治部デスクの渡辺さん(?)だったかが、若いころに池上線の石川台から乗ってくる一回り年上の女性に恋をしたなどという思い出話を、CM中にDJに喋ったところ、DJがオンエアーで暴露してしまったため、二人で大笑いしていた。
 そういう話は好きだなあ。石川台駅といえば、小津安二郎「秋刀魚の味」で、岩下志麻が片思いの吉田輝雄とホームの上で恥ずかしそうに少し離れて会話するシーンが撮影された駅である。

   *   *   *  

             

 今回の旅の最後に、上信自動車道の横川SA近くの吊り橋。
 この吊り橋を下から眺めた写真を見たことがあるが、地上から100メートルくらいあって、目がくらみそうだった。高所が苦手のぼくは、この橋を通るのが苦手である。
 この吊り橋を渡ると、いよいよ軽井沢も終わりという感じになる。とくに夏の最後の帰京の時には「今年の軽井沢もこれで終わったな」という気持ちになる。
 ちなみに、軽井沢に行くときは、東松山の道路を跨ぐゴルフ場のネットの屋根の下をくぐると、さあ東京を離れたぞ、という気持ちになる。

 以下は、今回の軽井沢の写真を落穂ひろい的に何枚か。

             

             

 上の2枚は、発地市場から東側、南側をのぞんだ写真。10月2日撮影か。
 冒頭の写真は、10月2日に鬼押出しへ向かう有料道路脇から眺めた浅間山。        
           

 2020年10月5日 記


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きょうの軽井沢(2020年10月2日)

2020年10月04日 | 軽井沢
 
 軽井沢2日目。
 天気予報どおり、朝から快晴。絶好の部屋の風通し日和(?)である。

            

 追分の “すみや” にちょっと立ち寄り、借宿の知人を見舞ってから、女房がお気に入りの発地市場に出かける。10時前に到着すると、10月のウィーク・デーにしてはけっこうの人出だが、開店30分前から数十人が並ぶ8月ほどではない。
 義姉に送るシャイン・マスカットを買うのが主たる目的。気に入った詰め合わせがないので、自分で、リンゴなどを組み合わせるために段ボール箱をもらって帰る--予定だったが、あまりに天気がよいので、そのままドライブすることにした。

 どこへ行くか。
 志賀高原はちょっと遠い。草津、白根はGo-to で混んでそう。海野宿、別所温泉は2、3年前に行ったばかりだし、浅間サンラインはもっと秋が深まってからの方がよい、などと迷った挙句、結局は国道146号を鬼押し出し方面へ登って、道の駅から浅間山を眺めることにした。
 有料道路の途中にある道の駅は、浅間山を眺める絶景ポイントの1つで、嬬恋の農家直送の新鮮な野菜を安く買うことができる。

 中軽井沢駅前から星野、塩壷、旧西武百貨店前、旧グリーン・ホテル跡地などをくねくね登っていく。途中、塩壷温泉の向かいあたりに千ヶ滝郵便局があった。赤い三角屋根の郵便局は、かつてはもっと登ったところ、西武百貨店前から直進する山道が左に曲がる突き当りにあったのだが、その後長い間閉ったままになっていたのだが、いつ移転し、再開したのだろう?
 峰の茶屋の交差点を過ぎて、有料道路に入る。料金280円。

             

 ところが、驚いたことに、行くつもりだった道の駅は閉まっていた。
 信号のある交差点を右折しようとしたが、進入禁止の柵が閉まっている。道の左側の路肩には数台のクルマが停車している。コロナではなく、それ以前に廃業してしまったようで、営業終了の張り札も何もなかった。
 はじめて軽井沢に来た義姉を連れて、朝早くに立ち寄ったら、ちょうど地元の農家の人がその朝とれたばかりの野菜を運び込んでいる最中だったのは、もう十年近く前のことになる。

             

 仕方がないので、路肩にクルマをとめて、浅間山の写真を撮る。変わった形の雲が湧いて流れていた(上の写真)。
 浅間山は中軽井沢から眺めるのが、ぼくにとってはベストなのだが、鬼押出し、北軽井沢方面からの浅間山は、“カルメン、故郷に帰る” にたびたび登場して、笠智衆が「変わらないのは浅間山だけ」と嘆いたシーンを思い出させる。しかもあの映画はぼくが生まれた昭和25年に撮られたので、70年前の浅間山を見ることができる。
 確かに、この日の浅間山も70年前と全く変わってなかった。

             

 帰りは有料道路ではなく、一般道で峰の茶屋まで戻るつもりだったが、右折するところを間違えて、同じ有料道路に出てしまった。往復で560円の出費。
 さらに白糸の滝を通る有料道路で旧軽井沢に向かったのだが、通行料200円くらいの記憶だったが、なんと500円! 料金の記憶はすべて10年から20年(もっと昔かも)のものだったらしい。その代わり、ほとんど一人旅でまったりと走らせることができた。
 もったいないので、久しぶりに白糸の滝まで歩いた。

             

 旧軽井沢ではいつも通り、神宮寺の駐車場にとめる。

             

 旧道はそこそこの人出。余り10月には来ないので、例年と比べてどうなのかは分からないが、自粛要請期間中よりは賑わっている。ほとんどの人がマスクをしている。
 女房が混みあう浅野屋でパンを買っている間、観光会館のラウンジで、街よく人を眺めて時間をつぶす。

             

 夕方、ようやく帰宅。
 義姉に送る荷物を作って、追分のコンビニに持ち込んだが、ちょうど今日の最終便が行ってしまったばかりだと言う。
 荷物を預けたのち、浅間山の姿がまだきれいだったので、浅間テラスに向かう。
 沈む夕日を浴びて夕もやにかすむ浅間山の山影が刻々と変化していく。冒頭の写真と下の写真は5分くらいの間に撮ったもの。 

             

 この日の夜が満月だという。昨日10月1日の中秋の名月は「満月」ではなかったのか!
 流れる雲の間から月がのぞくのを待って、窓辺に立つこと数分。結局完全に雲が晴れることはなかった。

             
         
 スマホのカメラで撮ったものなので、見えるかどうか。フラッシュを切る方法は分かったが。
           

 2020年10月4日 記


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きょうの軽井沢(2020年10月1日)

2020年10月03日 | 軽井沢
 
 10月1日(木)、午前9時前に出発して軽井沢に行ってきた。
 Go to Travel キャンペーンの東京解禁に便乗したわけではなく、天気予報でこの2、3日は天気が良さそうだったので、家の風通しと片づけに行くことにしたのである。

 急ぐ旅ではないので、途中休憩も入れてお昼頃に到着すればよいと思って、9時に出発したのだが、新座料金所前で「火災渋滞 藤岡120分」という電光掲示があり、それでも所沢、川越、鶴ヶ島あたりは順調に流れていたのだが、高坂手前あたりから渋滞になり、一寸刻み。
 ようやく事故現場を通過する際に見ると、黒っぽいスポーツカー・タイプのクルマが黒こげになっていた。運転席側のドアが開いていて、シートなどが燃えてしまった運転席が見えていた。単独事故の模様。

             

 それ以後は順調に流れ、上里で少し休憩して、上信自動車道、碓氷軽井沢インターで出て、晴山通り(通称プリンス通り)へ(上の写真)。
 曇り空、気温は南軽井沢交差点の道路標示では15℃だった。黄葉している木も多少はあったが、紅葉にはまだ少し早い。
 
             

 ツルヤに立ち寄って、食料品を買い込んで家に向かう。
 写真は、ツルヤから眺めた浅間山。といっても、雲に隠れていて、ほとんど見えない。

             

 夕方、日が暮れる前に、近所に散歩に出かける(最初の写真も)。
 別荘地内を歩いて、かつての西武百貨店西区販売所(?)前の郵便ポストに(上の写真の中央の赤いやつ)。
 祖父が存命中は、よく夕方になると散歩がてらこのポストに郵便を入れに行っていた。亡くなって既に36年が経つが、ポストはあの当時のままのようで、錆びて赤いペンキも色あせていた。
 このポストに郵便物を投函する人はいるのだろうか。

 このポストの北側には、一昨年まではNECの広大な保養所があったが、昨夏来てみると跡形もなく解体されてしまっていた。
 夕方に来てみると、工事車両が停まっていて、建築確認が掲示してあったので、眺めると、施工主は確か<T8>と書いてあった。スマホで調べると東急系の企業らしい。
 かつての西武百貨店(や堤一族の未明荘)跡地の向かいに宿敵東急の建築物が建つとは、隔世の感がある。

             

 家路に向かって、かつての高原バスのバス通りを歩いていると、歌鳥の里という停留所があったあたりの道沿いに<近畿大学>の表札のある平屋の瀟洒な建物が建っていた。
 ここ数年間(十数年間かも)荒れたままの更地だった所がきれいになり、通りの景色も良くなった。
 近畿大学は何に利用するのだろうか。学生たちのセミナーハウス用にしては小さいように思うが。

                          

 この夜は中秋の名月とか。
 夜11時ころには、南の上空に月が出ていたが、雲に隠れがち。
 夜中の3時ころに目が覚めると、西の空が明るく光っていて、4時間ほど前には南にあった月が西というより西北の方角の上空から木々の葉を照らしていた。
 またしても、スマホのカメラはフラッシュがついてしまい、窓際の木の葉に焦点が当たってしまった。


 2020年10月1日 記 


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