豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

きょうの軽井沢(2022年8月27日)

2022年08月27日 | 軽井沢

 現在の浅間山。中軽井沢、沓掛テラスの図書館2階からの眺め。
 天気は良いけれど、頂上から裾野にかけて、雲に隠れています。
 地上の空気は澄んでいて、秋を感じます。

 昨日はラジオで、門あさみの “シーズン” がかかり、NHKラジオ深夜便では午前2時台にレターメンの “涙の口づけ” “ミスター・ロンリー” 、その他の懐かしい曲がかかっていました。

 2022年8発27日 記


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映画『エデンの東』

2022年08月24日 | 映画
 
 映画『エデンの東』を見た。「1954年製作、Renewed 1982 。エリア・カザン監督、ワーナー・ブラザース」となっているが、DVD(ワーナー・ホーム・ビデオ)の製作年はケースにもディスクにも記載がなかった。

 ディスクが2枚入っていて、1時間近くある特典映像のほうも、面白かった。
 ジェームス・ディーンのプロフィールや、衣装合せ(ワードローブ・リハーサルとかいっていた)、未公開シーン、さらにニューヨークでのプレミアム試写会を訪れた面々が映画館に入っていく映像(テレビ番組で放映されたらしい)も入っていた。原作者のスタインベックまでもがインタビューに答えていたが、微妙な顔つきだったようにぼくには思えた。見終わったらもっと微妙な顔つきになったのではないか。
 特典映像によると、キャル役のジェームス・ディーンと父親役のレイモンド・マッセイは本当に仲が悪く、撮影中も険悪な雰囲気だったという。
 本当にウマが合わなかったのか、それとも父子間の葛藤を演技するために、ジェームス・ディーンが意図的に父親役の俳優と険悪な雰囲気を作ったのか? 特典映像を見てから本編を見たのだが、このことを知って映画を見ると、父子間の葛藤がいっそう真に迫って見えた。

 さて本編のほうだが、久しぶりに見たのだが、やはり良かった。
 中学3年生の秋に原作を読んでから相当の時間が経ったので、原作との違いも気にならなかった。何年か前に見たときには、原作との違い、とくにラストシーンの違いが気になったが、今回はそんなこともなかった。
 『エデンの東』のテーマは父に対する子の反抗である。父親は厳格なキリスト者で、子どもたちにもキリスト者らしい生活を要求する。兄は従順に父に従うが、ジェームス・ディーン演ずる弟キャルは反抗する。キャルも本当は父に愛されたいと思っているのだが、父はキャルを受け入れない。
 兄弟の母は、この父を嫌って家を出て近隣の町で売春宿を経営している。その事実をキャルから知らされた兄は自暴自棄になって志願して戦地に赴いてしまう。ショックを受けた父は脳溢血に倒れ、死期が迫っている。

 原作のラストシーンは、「ティムシェル、アダム・トラスクは目を閉じ、そして眠った」(野崎孝訳、早川書房)だったと思う。
 「ティムシェル」とは古代ヘブライ語で、「人は道を選ぶことができる」という意味だそうだ。聖書原理主義者の父アダムは聖書の意義を探るために古代ヘブライ語を勉強するような謹厳な男だった(ただし、映画では熱心なキリスト者としての父親という部分はカットされている)。
 弟のキャルはそんな父親(レイモンド・マッセイ)の価値観の押しつけに反抗するのだが、そのキャルに対して臨終のベッドで父は「ティムシェル」と語りかけるのだった(ただし、ティモシー・ボトムズがキャルを演じたテレビドラマの『エデンの東』のラストシーンでは「ティムシェル」ではなく「ティムショール」と発音していた)。「人は道を選ぶことができる」、これこそ原作の『エデンの東』が伝えたかったメインテーマだと、当時のぼくは読んだ。
 映画のラストシーンはかなり違っていた印象だったのだが、今回改めて見てみると、ラストシーンで父親はキャルに向かって、ちゃんと「人間は道を選ぶことができる」と語りかけているではないか!
 さらに前半のどこかのシーンでも、「ほかの動物と違って人間は道を選ぶことができる」という台詞があった。エリア・カザンはスタインベックの意図を忠実に再現していたのだ。
 
 「人は道を選ぶことができる」という自己決定の原則は、中学3年生の時以来ぼくの核心的な価値観だと思って生きてきた。しかし、ぼくは本当に「自分で道を選んで生きてきたのだろうか」と最近では思うことがある。むしろ抗いがたい何かの力によって生かされてきたのではないか。

 2022年8月24日 記

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粟屋憲太郎『東京裁判への道(上・下)』

2022年08月23日 | 本と雑誌
 
 粟屋憲太郎『東京裁判への道(上・下)』(講談社選書メチエ、2006年)を読んだ。その後、講談社学術文庫にも収載されたようで、そちらを読みたかったけれど図書館になかったので、講談社メチエ版を読んだ。
 読んでからだいぶ時間が経ってしまったうえに、上巻はすでに図書館に返却してしまったので確認もできないけれど、メモを頼りに思い出しながら書いておくことにした・・・。

 最初に、東京裁判と軽井沢との関係について。実は軽井沢はわずかながら東京裁判の舞台になっていた。
 戦犯に指定されて自殺した近衛文麿の遺書などを捜すために、国際検察局(IPS)は軽井沢にあった近衛の別荘も家宅捜索した(上73頁)。
 朝日新聞記者だった小坂徳三郎が、軽井沢で近衛を取材したこともあった(上79頁)。小坂は確か信越化学の創業者の一族で、後に自民党の国会議員になったが、軽井沢の旧中山道沿いに「小坂」という表札のかかった古くて広い別荘がある。以前この近くを歩いていたら、作家の堺屋太一がタクシーで乗りつけて、この別荘に入って行くのを見たことがあった。小坂徳三郎に連なる人物が住んでいるのではないだろうか。
 親・近衛派の人物として鳩山一郎が登場するが(上92頁)、終戦の年、霧に覆われた旧軽井沢の別荘地で、特高の目を盗んで近衛、鳩山らの和平派が終戦工作を行っていたことを、御厨貴が新聞記事に書いていた(「新聞に現われた軽井沢」)。
 今でも旧軽井沢には「近衛レーン」とか「鳩山通り」などと呼ばれる小道があるらしい。

 内大臣の木戸幸一は、弟(東工大学長)が都留重人の岳父だったので(!)、都留のハーバード大学の同窓生を介してGHQに人脈があったという(上101頁)。
 その筋から、天皇を無罪とするためには木戸内大臣が無罪となることが絶対条件だと言われ、木戸は日記を提出するなどIPSに協力したのだが、木戸日記は天皇に責任が及びうる記述が多かったため諸刃の剣であった(上112頁~)。IPSの木戸尋問調書は(木戸日記に比べて)詳細に木戸の証言を記録しているという(上121頁~)。
 木戸は、長州閥でもあり、農商務省閥でもあった岸信介を擁護し、(長州閥に属した)東條首相の実現の原動力になった(上135頁)。IPS尋問調書によれば、木戸と天皇は「穏健な “火事場泥棒”」とサケット検事に皮肉られている(上140頁)。「火事場泥棒」は、木戸が伝えた天皇自身の使った言葉だそうだ。

 木戸はあまり好ましい人物ではなかったようで(上98頁~)、田中隆吉に対する調書によれば、木戸は「日本のヒトラー」(宇垣一成の言葉)であり、「銀座の与太者」(同)と呼ばれていたという(上230頁~)。
 木戸と田中は、IPS(国際検察局)の二大協力者だったが(上231頁)、笹川良一なども美談で語られてきたが、IPSの尋問調書によれば、実際には多くの容疑者を告発することでGHQ側に迎合していたことが分かるという(下144頁)。

 昭和天皇の戦犯不指名、免責はかなり早い段階でマッカーサーが決意していたが、天皇の免責を目的として作成された『昭和天皇独白録』に関しては、その後、吉田裕がその英語版の存在を確認し、NHK取材班がボナ・フェラーズ文書の中から英語版を発見したが(上174頁)、実は英語版のほうが先に作られたという。寺崎英成が執筆したものと推測されている(上177頁)。
 結局、東京裁判で、容疑者の訴追と免責を分けたのは、すでに顕在化しつつあった米ソ間の冷戦であり、アメリカ側はある時期から天皇と財閥を免責する方向に戦略を転換させ、これをキーナン検事も了承していたのだった(下115頁~)。
 細菌戦の人体実験を行った石井四郎らの731部隊関係者や(下82頁~)、戦争挑発の先頭に立って宣伝費をばらまいた久原房之助、石原広一郎、中島知久平らは免責された(下118頁)。

 松岡洋右の調書は自己弁護に終始しており(下160頁~)、「八紘一宇の名のもとに、多くの若い人が命を落としたことを考えたことはないのか」という検事の質問に対して、平然と「ありません」と答えている。真崎甚三郎の調書も卑屈で自己弁護的な証言で、「もっとも格調の低い調書の1つ」とされる(下135頁。真崎は二・二六事件の軍事裁判での態度も非難されている)。
 敗戦前には「大和魂」などと叫んでいた戦争指導者たちが、時には上官、部下、時には同輩に責任をなすりつけ、あるいはアメリカ側に迎合して証言して恥じるところない、その余りにも情けない姿が尋問調書から浮かび上がってきて唖然とさせられる。
 唯一の救いだったのは、広田弘毅の態度ではないか。政治は結果責任であるから、戦時中の行動、決断に広田が責任を負うべきは当然だが、免責されたり、釈放された連中に比べた場合に(絞首刑という判決は)不公平感はぬぐえない。城山三郎による刷り込みの影響だろうか。

 弁護団の準備不足や、弁護方針の不一致、判事たちの間の不協和音などにも言及がある。
 日本の戦争犯罪を糾弾するためにインド政府は、あえてインド人判事の枠を要求して獲得したにもかかわらず、なぜ最初から日本無罪論を主張したパール判事などを選任したのか。そのパール判事は合計109回も公判を欠席してホテルで日本無罪の判決書(少数意見)を書きつづけ、病気の妻を見舞うためにたびたびインドに帰国したという(下182頁)。公判を欠席して判決を書くなど、裁判官の風上にも置けない人間ではないか。
 オーストラリア出身のウェッブ裁判長も、マッカーサーらの介入に嫌気してオーストラリアに帰国するなど、53回欠席したという(同頁)。こんな杜撰な裁判官たちによる裁判だったとは知らなかった。

 「東京裁判史観」などと称して、東京裁判を批判する論者がいるが、本書の著者は、東京裁判は決して「勝者の裁き」などではなく、日米協調で裁きを免れた負の側面があるとして、朝鮮人強制連行問題、従軍慰安婦問題、毒ガス戦などの問題が戦後に残されたことを指摘する(下183頁)。
 そして、著者らが発掘した国際検察局(IPS)の膨大な尋問調書を検討することによって、新たな「東京裁判史観」を確立させることが必要であると述べている。
 本書の著者紹介欄を見ると、東京裁判の尋問調書は著者らによって翻訳(?)刊行されているらしいが(『国際検察局(IPS)尋問調書』全52巻!、日本図書センター)、とても読むことはできない。
 本書では東京裁判の起訴段階までが対象とされており、開廷から判決までは今後の課題とされているが、その後、裁判から判決の過程を論じた著書は刊行されたのだろうか。

 2022年8月22日 記

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原武史『「昭和天皇実録」を読む』

2022年08月14日 | 本と雑誌
 
 原武史『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書、2015年)を読んだ。

 『~~を読む』式の本は、対象の本を読まずに済ませることができる場合には便利な本である。
 いい書評にもそのような効用がある。自分でヘタに読んで理解できないより、はるかに著者の言いたかったことを的確、簡潔に伝えてくれる書評というのがある。出版社に勤めていた頃、書評(とくに朝日新聞の書評)に取り上げられた本は売れないというジンクスがあった。朝日の書評が一般受けしない本を取り上げる傾向にあったせいもあろうが、書評が分かりやすかったので、読まないで済ませた「読者」が多かったからかもしれない。

 さて、『昭和天皇実録』はとても全巻を読むことはできないし、読む気もない。唯一、私の知人が昭和天皇と会った日のことがどのように書かれているかを知りたくて、その該当日の巻だけを図書館で借りてきて確認した。
 それでは、誰の解読書を読んで済ませるかだが、誰がよいだろうか。『実録』の解読書は何冊も出ているが、読み比べるほどのこともない。原は、『平成の終焉』(岩波新書)の読後感がよくなかったので迷ったが、他の解読書の執筆者にも違和感がある。消去法で原の本書が残った。

 原によれば、天皇制は、天皇を真ん中(中段)にして、その上に「アマテラス」「皇祖皇宗」らの「天つ神」の領域があり、下に「臣民」「国民」が位置する構造になっている(8頁)。臣民らに対する天皇の意思は「勅語」や「お言葉」によって明らかになっているが、今回の『実録』によって祭祀における「御告文」や「御祭文」がはじめて公開され、天皇と「神」との関係が明らかになったという(同頁)。
 しかし、「御告文」は、誰かお付きの漢学者あたりが書いているのではないかと私は思うのだが。

 本書の特徴は、やはり昭和天皇と宗教との関係に焦点を当てた点だろう。しかも昭和天皇と皇祖皇宗との間に貞明皇太后の存在があったこと、しかも皇太后の天皇に対する影響力が大きかったことを本書ではじめて知った。
 読む前には、あまりに宗教の側面に偏りすぎた解読ではないかと心配したのだが、全26巻だったかの『実録』を新書版1冊にまとめるには、どこかに視点を置くしかないだろう。そして本書はそれなりに成功していたと思う。本書は講演の記録らしく、会話体で書かれいる。そして「学術書」ではないからか、敬称略の「裕仁」は出てこなかった(と思う)。
 昭和天皇が明治大帝に対するだけでなく、まさに「万世一系」の天皇家の祖先に対する信仰を抱いていたことがわかり、ポツダム宣言受諾に際して「国体の護持」にこだわって逡巡した心情も納得できた。愛人と心中死した娘婿をも悼んでいることには驚いた。

 戦勝祈願の御告文の文面など祭祀に対して、実母である貞明皇太后が影響力を行使し介入するのを昭和天皇は嫌って、実母と会うことさえ避けるあたりは(88頁~)、どこの平民の家庭でも起きがちなことである。平民の家庭と違う点は、戦争末期にあって徹底抗戦を唱える貞明皇太后が昭和天皇に影響力を行使することによって、終戦が遅れてさらなる国民や相手国民の生命が奪われる危険があったことである。
 天皇や側近たちは貞明皇太后の影響力を排除するために、皇太后を軽井沢に疎開させるのであった(144、153~6頁)。戦争末期の軽井沢には貞明皇太后までもが滞在していたのだ。たしか小学生だった正田美智子さんも戦争中に軽井沢に疎開していたから、皇室につらなる二人までが戦争中の軽井沢にいたことになる。

 この天皇と神との関係も含めて、戦前、戦後を通じた昭和天皇の連続性が明らかになる。
 昭和天皇が戦前戦後を通して政治、軍事に強い関心をもっていたことは他の本からも明らかだが、本書からは天皇が革命を恐れており、無産政党の動向に強い関心をもっていたことが明かされる(96頁ほか)。それも無産政党を弾圧するのではなく、一定の議席を確保させて毒抜き(という言葉は使っていないが)させたほうがよいのではないかなどと発言している。他方で、小選挙区制の導入によって「一流の人物が落選」する恐れがあるのではないかといった適切な危惧も示されている。
 なお、戦後の左翼勢力に対しては183頁以下を(明仁皇太子に対して、わが国で共産主義が有力になることはないだろうと諭している)、また、朝鮮、台湾などの植民地への関心(無関心)については111頁以下などを参照。

 昭和天皇は、自分が戦争責任を免責され、かつての臣下たちが東京裁判で断罪、処刑されたことから精神的葛藤があり(203頁)、戦後の一時期カトリックに関心をもち接近した時期があったという(188頁~)。天皇が改宗しても「国体」には変更はないのだという!(195頁)。
 社会党の片山哲首相に好意をもち(186頁)、天皇退位を唱える南原繁の講話に関心をもったというのも(173頁)、彼らがキリスト教信者だったからであり、また、美智子妃に終始好意的だったというのも(247~8頁)、彼女が聖心の出身だったからだろうか。
 本書で紹介される昭和天皇の日本国憲法への態度や(170頁~。「万世一系」の天皇制を維持する松本案を支持していた)、戦後の新憲法になってからも、たびたび内奏を要求して芦田均首相を困惑させるなどの行動からは、戦後の昭和天皇のもとで「象徴天皇制の定着」(本書第5講の見出し)があったとは思えない。象徴天皇制は明仁天皇の時代に定着したと私は思う。

 戦争に対する「反省」をめぐる安倍首相の談話か、明仁天皇の「お言葉」か、「おまえの考えはどちらに近いかと問われれば、ためらうことなく天皇のほうだと答える」と原は言う(256頁)。
 私もまさに同感である。この感情が、森達也をして「明仁天皇は何かを語りたいのではないか」と思わせ、そして『千代田区一番地のラビリンス』(現代書館)を書かせたのではないか。そしてこの感情は国民の多数(少なくとも安倍首相の支持者よりは多数)の感情ではないかと私は思う。
 ただし原は、天皇の政治権限を一切否定した新憲法のもとで、天皇の「お言葉」に期待することをいましめる(同頁)。これもその通りだろう。

 2022年8月11日 記

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映画『自転車泥棒』『アメリカン・グラフィティ』『ペーパー・ムーン』

2022年08月10日 | 映画
 
 8月1日(月)映画『自転車泥棒』(1948年、イタリア、ヴィットリオ・デ・シーカ監督)を見た。
 御茶ノ水駅前の丸善の店頭で買ったDVDだが、ケースにもDVDにも発売元の記載がない(ように思う)。“MANUFACTURED BY FINE DISC CORPORATION”とあるのがそれだろうか? 
 映像の冒頭に「著作権保護期間が切れた」云々とあった。イタリア語音声、日本語字幕版で見たのだが、時おり日本語字幕が省略されていた。ストーリーを追う分には困らなかったが。
 『自転車泥棒』もかなり昔(ひょっとしたら小学生の頃)に見た映画である。
 敗戦直後のイタリアが舞台。ローマだろうか。失業中の父親は、ようやく職安で映画のポスター貼りの仕事にありつく。家財道具を質に入れて仕事に必要な自転車を買うのだが、作業中にその自転車を盗まれてしまう。
 必死で探しまわってようやく犯人の自宅を見つけ出すのだが、証拠がないため警官は取り合ってくれない。思い余った父親はデモで混乱する街中で、止めてあった自転車を盗んでしまう。群衆に捕まえられてしまうのだが、子どもが哀願したため放免される。

 同じ敗戦国、日本でも起こったかもしれない事件である。1940年代のイタリアの町の風景と人情がふんだんに出てきて、イタリア・ファンには嬉しい映画だろう。
 ぼくが一番印象に残っているシーンは、主人公の貧しい父子がなけなしの金でレストランに入るのだが、隣席の金持ちの子どもがチーズたっぷりのピザを見せびらかしながら、とろけたチーズを30センチくらい伸ばしてから口に入れる場面だった。主人公父子はチーズの乗っていない粉をこねたパイ生地だけのピザを食べるのだが、父が「あんなピザは月に100万リラ稼がなくては食べられない」と言うのだった・・・。
 ところが今回見ると、主人公父子も金持ちと同じピザを食べているではないか。大事な商売道具の自転車を盗まれながら、何でそんな贅沢ができるのか。こんなあたりがイタリア人気質なのだろうか。ぼくの記憶のほうが戦後イタリア・リアリズムに忠実なように思うのだが。

     

 8月3日(水)には『アメリカン・グラフィティ』(1973年、ジョージ・ルーカス監督、フランシス・フォード・コッポラ製作)を見た。こちらはユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン発売(2005年)の正規版。
 この映画は日本公開時に見て、その後も何回か見た。今回印象的だったのが、『自転車泥棒』の1950年代のイタリアでは自転車が貴重品だったのに、ジョージ・ルーカスが描く1962年のアメリカの片田舎では自動車が、それもかなり高級車らしいアメ車が高校生の足になっていることだった。ただし、主人公のリチャード・ドレイファスは中古のシトロエン2CVの乗っていたが。高校生仲間の一人(テリー?)が友人から借りた高級車を盗まれてしまうエピソードがサイド・ストーリーになっている。
 特典映像の撮影秘話が面白い。ルーカス監督は素人俳優たちの「演技」が嫌いで、彼らが「演技」しそこなうまでNGを出しつづけたという。逆に冒頭で、テリーがスクーターで歩道に乗り上げるシーンでは、止まりそこなって建物わきの物置に激突してしまうのだが、このハプニング場面が採用されたという。
 今ではキューバでしか見られないようなアメ車のオンパレードで、これまたアメ車ファンにも嬉しい映画だろう。

    

 8月4日(木)には『ペーパー・ムーン』(1973年、ピーター・ボグダノヴィッチ監督)を見た。これもパラマウント・ホームエンタテインメント・ジャパン(2004年)の正規版。
 ライアン・オニール、テイタム・オニール親子が、劇中でも父子にふんして、1930年代のアメリカの田舎町(カンザス州だったか)を詐欺を繰り返しながらドライブする物語。娘アンディ役の9歳のテイタム・オニールが、周囲の役者を完全に食ってしまう名演技である。この演技でアカデミー助演女優賞をもらっているのも納得できる。
 このDVDも特典映像の撮影秘話が面白い。5分近くワンカットのシーンが多く、父親がワッフルを食べるシーンでは娘が台詞を間違えたり、ワッフルが切れなかったりして、ライアンは50枚近くのワッフルを食べるハメになったという。
 ただし、DVDのカバーの、巡業サーカスの写真屋で撮った紙の三日月(ペーパー・ムーン)に父子で座ったシーンは映画には出てこない。父親が行きずりの女をあさっている間に、娘が一人ぽっちで三日月に座って取ってもらうのである。テイタムは、大事なものを入れておくためにいつも持ち歩いている古びた菓子箱(?)に、現像されたこの写真をしまっておくのだが、このエピソードがエンディングにつながっていく。映画の題名にもなった。

 8月9日(火)からは、『エデンの東』を見はじめた。
 午前中は判例集の編集作業をし、午後は原武史『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書)を読み、夜はDVDで映画を見る日々である。
 『エデンの東』は後ほど。

 2022年8月10日 記

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きょうの軽井沢(2022年8月3日)

2022年08月03日 | 軽井沢
 
 きょうの軽井沢。
 沓掛テラス内の軽井沢図書館から眺めたきょうの浅間山。

 ここ数日は軽井沢も日中は30℃を超える暑さが続いている。
 38℃とかいう東京を思えば、この程度とは思うが。

 下の写真は7月31日の中軽井沢駅前の風景。

   

 つぎは旧千ヶ滝プリンスホテルの入り口ゲート。

   

 旧千ヶ滝プリンスホテルで何があったかは、主催者側の希望によって書かないでおく。

 2022年8月3日 記

 

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藤原彰ほか『徹底検証・昭和天皇「独白録」』

2022年08月03日 | 本と雑誌
 
 藤原彰・粟屋憲太郎・吉田裕・山田朗『徹底検証・昭和天皇「独白録」』(大月書店、1991年)を読んだ。
 これも面白かった。文藝春秋がどのような意図で寺崎英成記『昭和天皇独白録』を公刊しようと考えたのかは分からないが*、「昭和天皇は一貫して平和主義者だった」と考えていた人たちにとっては「やぶ蛇」になってしまったのではないか。
 『独白録』において、天皇自身の発言が明らかになったことだけでなく、同書の公刊を契機に、昭和天皇の15年戦争(日中戦争、太平洋戦争)への関与の実態が明るみに出ることになった。

     

 * 『独白録』(文春文庫版)の巻末に付された「解説」代わりの座談会(伊藤隆・児島襄・秦郁彦・半藤一利)を読むと、当時はまだこの『独白録』が東京裁判における昭和天皇の免責、戦犯指名回避のために作成されたものであることが判明しておらず、伊藤に至っては「これはおもしろい、と思って読むのが一番素直じゃないですか」などと暢気な発言をしている(256頁)。
 ひとり秦だけが『独白録』を東京裁判対策ではないか、英訳があるのではないかと推測しているが(224、227、251~2頁など)、伊藤、児島は、根拠もなしに秦の推測を否定するだけでなく、「英文が出てきたらカブトを脱ぎますがね(笑)」(伊藤)、「せいぜい秦さんにお探しいただきましょう(笑)」(児島)などと揶揄している(245頁)。
 実際に、その後『独白録』の英文が出てきたのだが*、伊藤はちゃんと秦にカブトを脱いだのだろうか。
 * 吉田裕がその存在を確認し、NHK「東京裁判への道」取材班がボナ・フェラーズ准将(マッカーサーの副官)の文書中から発見したという(粟屋憲太郎『東京裁判への道(上)』講談社、2006年174頁)。

 この座談会でも、明治憲法下の昭和天皇が「立憲君主」だったかという昭和天皇免責論の中心論点が議論されているが、ここでも秦だけが明治憲法上の天皇の権限を正しく指摘しているのだが、これに対して、児島は「あなた(秦)、統帥大権を誤解しちゃいけませんよ・・・」、「幕僚長・・・が輔弼するわけですよ」などと明治憲法の明文規定を無視してまで(幕僚長に天皇を「輔弼」する権限などない)秦に反論している(248~頁)。
 伊藤、児島がどうしてそこまで明治憲法下の昭和天皇の権限、権威を貶めようとするのか真意は分からないが、いずれにせよ『独白録』の公刊によって昭和天皇の戦時中の言動をめぐる研究が活発化したことは間違いない。それが編集者である半藤の意図だったかもしれない。
 その成果の1つとして、本書『徹底検証・昭和天皇「独白録」』に結実する共同研究も行われたのであった。

     *   *   * 

 さて本書は、藤原彰「『独白録』の資料的価値」、山田朗「『独白録』にみる大元帥・昭和天皇の役割」、吉田裕「『独白録』と『五人の会』」、粟屋健太郎「東京裁判と天皇『独白録』」と討論からなっている。
 興味深く読んだのは、山田、粟屋の論稿と、討論である。
  
 山田の論稿は、『昭和天皇の戦争指導』の著者による『独白録』の読解である。保阪『昭和天皇』の中に、昭和天皇の戦争指導論に関する研究を論拠なしに批判した個所があったが、あれは山田に対する批判だったようだ。しかし、本書で要約的に紹介された山田の戦争指導論を読んだだけでも、理は山田の側にあるという印象をもった。
 山田が具体的にあげる「満州事変容認」「蒋介石との妥協」「ノモンハン事件」「太平洋戦争開戦決定と東條首相指名」「太平洋戦争中の戦争指導」、太平洋戦争開戦決定(1941年9月6日の御前会議)、統帥部への追従(52頁)、レイテ決戦への支持(57頁~)、沖縄戦、雲南作戦における発言など(60頁~)、『独白録』からでさえもかなり具体的に天皇の戦争、作戦への関与がうかがえる。(43頁~)。 
 天皇の意見のすべてが陸軍に受け入れられたわけではないが、かなり積極的に戦争指導に関与していたことを知った。

 他方で『独白録』では触れられなかった天皇の軍事的関与(熱河作戦、張鼓峰事件における出兵禁止令など)、「戦況上奏」における下問による注意・督促(ガダルカナル撤退後のニューギニアにおける新作戦の督促、サイパン島奪還計画の要求など)などの方法による天皇の戦争指導の実例を知ることになった(64頁~)。
 討論では、日独伊三国同盟締結の経緯の弁明、東條内閣成立への弁明、戦争終結の遅延への弁明、戦争被害への無関心などが批判される。その一方で、近衛、宇垣、平沼、松岡洋右、豊田副武らに対する悪感情、秩父宮、高松宮との軋轢などが天皇自身の言葉でかたられたことの評価などが論じられている。

 粟屋は、東京裁判開廷備過程における昭和天皇や側近の言動を、『独白録』や寺崎英成関連文書や国際検察局(IPS)文書と照応しながら検討する。
 粟屋の『東京裁判への道』(NHK出版、講談社学術文庫)はぜひ読まなければなるまい。
 天皇がマッカーサーとの会談で、「私は、国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う」と言ったとのマッカーサーの証言も本書の著者らはその真偽を疑問視し、「戦後最大の政治神話」とまで評している(154頁)。
 天皇の責任についても、近衛らだけでなく、木戸幸一も講和成立時に退位すべきだと考えており、天皇自身も一時は退位を考えたが、結局明確な責任表明のないままに終わったことが指摘される(152~6頁)。
 そして国民の側にも戦争を支持した後ろめたさ(共犯意識)があったため強く天皇の戦争責任を追及できなかった(164~5頁)。対米開戦時には国民の間にも「一定の国民的興奮があった」という(167頁)。戦後間もなくに『木戸日記』を読んだ宮澤俊義が、天皇が不満に思っていた重臣らの態度は実はわれわれ国民自体のそれの反映だと述べていたことの紹介も印象的である(168頁)。
 さらに、いわゆる「沖縄メッセージ」の発出など、戦後における昭和天皇の「象徴」とは言いかねる言動に現われた「戦後責任」の指摘(160頁)なども印象に残った。

 本書のどこかに昭和天皇は頭のよい君主であったという記述があった。その天皇が、軍部のミスリードや自身の判断ミスによって戦争を回避できず、また終戦を遅らせる結果になったということだったのではないか。
 昭和天皇は立憲君主としての立場を厳格に守って政府、軍部の一致した決定に異議を挟まなかった、戦時中の政治、軍事の決定はすべて近衛ら政府および東條ら軍部の責任であって天皇には責任がないと弁明する『独白録』のほうが、むしろ昭和天皇の実像をゆがめ、天皇を貶めるようにぼくには思われるのだが。
 昭和天皇は生涯にわたってかなり詳細な日記をつけていたという。いつか公開される日が来るのかどうか。より真実に近いことが書かれているのではないかと想像するが、ぼくの生きている間に公開されることはないだろう。

 2022年8月2日 記

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