豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

吉村武彦『ヤマト王権』

2022年05月31日 | 本と雑誌
 (承前)
 次に、吉村武彦『ヤマト王権』(岩波新書、2010年)を読んだ(冒頭の写真)。
 なぜ「ヤマト」なのか、なぜ「王権」なのか? から勉強のやり直しである。     
 『後漢書』に登場する1~2世紀の「倭国」から、3世紀半ばの「邪馬台国」の卑弥呼を経て、4世紀前半、『日本書紀』では第10代とされる崇神をヤマト王権で最初の天皇とし(34頁~)、それから6世紀初の推古朝(592~628)までを本書『ヤマト王権』の対象とする。   
 『漢書』や『魏志倭人伝』に「倭」と表記されている政権のことを、著者は「誤解を避けるために」「やまと」ではなく「ヤマト」と表記するというが(まえがきⅷ頁)、どう「誤解」されるのかぼくには分からなかった。
 『後漢書』などによれば倭王自らが「王」と名のっていたことから「王権」と表記し、王宮(ヤマト権力の中心を著者は「王宮」と呼んでいる)の所在地や権力の範囲が「大和」地方に限定されるわけではなく、いわゆる「大八洲国」(東北地方南部から本州、四国、九州)に及ぶことから「ヤマト」と表記するようだ(同ⅸ頁)。

 『日本書紀』には「はつくにしらすスメラミコト」(=初代「天皇」)が2人登場するが(51頁)、神武天皇以降の数代は実在せず、「書紀」では第10代とされる崇神天皇を、著者は(ヤマト王権の)初代の王とする(55頁)。
 『宋書』に登場する「倭の五王」のうち「珍」が反正(仁徳の子)、「武」が雄略(仁徳の孫)と比定される(73頁)。継体の(天皇)即位(507年)によって仁徳系は断絶する。「継体」という諡号は、当時の貴族にとって継体が新しい「王統」と見られたことを反映しているという。
 継体が応神の五世孫であることは事実だとあるが(~117頁)、どのような根拠からそう断定できるのかは書いてない。古代の男たちは、どのようにして生物的父子関係の存否を確信していたのだろうか。文化人類学の世界では、どの時代、民族にも父子関係(生殖)を確信させる根拠となる独自の「民族生殖理論」というのがあるうそうだが、日本古代の「民族生殖理論」はどのようなものだったのか。
 「王統」という用語も分からない。「王統の変更」は「万世一系」と矛盾しないのか。
 ぼくの学生時代から提唱されていた騎馬民族説をはじめとする王朝交代説をめぐる(井上光貞、直木孝次郎、水野佑ら昔ながらの面々の)議論も、「万世一系」への関心から興味があったのだが、本書の学説紹介(98頁~)だけではぼくは十分には理解できなかった。
 古墳(とくに前方後円墳とヤマト王権の関係)、遷都など王宮の所在と権力関係、朝鮮半島諸国との関係なども、ここにうまく要約できないところを見ると、残念ながら理解できていない証拠である。   
    
 なお、「天皇」という文字史料は、飛鳥池遺跡から出土した木簡(677年のものとされる)が初出で、720年に編纂された「日本書紀」や712年の「古事記」が(歴代の倭王を)天皇と表記するのは後世の知識による加筆であるとされる(~11頁)。「天皇」が正式な制度上の名称となったのは浄御原令(689年施行)であるが、大海人皇子が(天武)天皇(本書の年表によれば673年即位)であったことは間違いないとある(12頁)。

   *   *   *

 以下は、『ヤマト王権』(岩波新書)の中から、ぼくの関心に触れた知識をいくつか列挙しておく。
 5世紀代の王の后妃の出自は、豪族との婚姻が多いが、6世紀の欽明天皇以降になると近親婚が増えてくるとあった(「ヤマト王権」41頁)。具体的にはどの範囲の近親婚で、どのような理由からだったのだろうか。
 記紀には王位継承をめぐる兄殺しの伝承が記されているが、継体天皇は王位継承者を定める「大兄」制度を創設した。背景には5世紀後半からの家長の地位の父系的、直系的継承や、6世紀前半の夫婦同一墓という家父長制的な動向があった。
 しかし一夫多妻のもとでは后妃ごとに大兄が存在するため、特定の長子を「太子」(皇太子)とする制度が生まれたという(134頁)。なお、同著『古代天皇の誕生』によれば、「大兄」「太子」制度以降も複数の王位継承候補者が存在する場合には、「群臣の議と推挙」によって継承者が決められた(吉村武彦『新版・古代天皇の誕生』角川ソフィア文庫、2019年、113頁)。ただし「群臣」といっても、厩戸皇子の場合の蘇我氏のように、時の有力者の意向が強かったという(同~120頁)。
 継体天皇の没後に、継体の子のうち仁賢天皇の娘のと間に生まれた欽明天皇が即位するが、『書紀』は彼を「嫡子」と表記しているという(152頁)。これがわが国における「嫡子」の初出なのだろうか。
 氏姓制度が成立する以前の5世紀までは、倭国王は「倭」を姓として名のったが、氏姓制度が確立すると、倭国王は氏(も姓)も名のらないことになった。氏、姓を付与する王は氏姓制度を超越する存在となったのである。近代までは天皇一族と(五色の)賤が無姓者であったが、近代になり賤は有姓者となったが、天皇一族は現在も姓がない(170頁)。
 天皇に氏(姓)がないことは森達也『千代田区一番一号のラビリンス』もこだわっていた。

 2022年5月30日 記

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『新・もういちど読む山川日本史』

2022年05月30日 | 本と雑誌
(承前)
 ということで、天皇家の「万世一系」の歴史を古代にさかのぼって勉強し直すことにした。
 まずは「錆落とし」として、ぼくの高校時代には知られていなかった吉野ケ里遺跡だの、稲荷山古墳だのといった考古学的な新知見を知るために、五味文彦他編『新・もういちど読む山川日本史』(山川出版社、2017年)の古代の部分を読んだ。
     
 基本的には、『日本書紀』『古事記』などの記述を、『漢書』(後漢書)『魏志』(倭人伝)『宋書』など中国の歴史書や考古学上の発見と照合しながら、史実を確定していくという方法に変化はなかった。ただ、埼玉(さきたま)古墳から出土した鉄剣や木簡の銘文など最近の考古学上の発見から判明した事実がいくつか加わっている。
 逆に、定番だった仁徳天皇陵が「大仙陵古墳」に改められ、聖徳太子像が「伝聖徳太子画像」と改められ、ともに写真がなくなっていた。以前にゼミ生の教育実習を参観した際、先生(ゼミ生)が仁徳天皇陵の航空写真を見せながら「これは何だったかな?」と質問したところ、一人の男子中学生が大きな声で「鍵穴!」と叫んだ。思わず吹き出してしまった。
 仁徳天皇陵、聖徳太子像だけでなく、教科書に載っていた源頼朝や足利尊氏らの肖像画も本人かどうか怪しくなっているらしい(山川の本には「伝」として載っている)。彼らは実際にあんな顔をしていたのだろうと、中学、高校時代のぼくは単純に信じていたのだが。

 なお本書は、かつては「大和朝廷」と呼ばれていた4世紀から7世紀の中央政府を「ヤマト政権」と表記する。その理由は、「大和」の表記が出てくるのは養老令(757年)以後であり、初期の勢力は大和国全域に及んでおらず、「朝廷」の実態はなかったことが挙げられている(27頁)。

 2022年5月29日 記

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津田左右吉『建国の事情と万世一系の思想』ほか

2022年05月26日 | 本と雑誌
 
 森達也『千代田区一番一号のラビリンス』(現代書館、2022年)を契機に、ぼくは、自分がいつの間に、そしてなぜ上皇ご夫妻に現在のような思いを抱くようになったのかを探るべく、武田清子の『天皇観の相剋』(岩波同時代ライブラリー)を再読し、そこで紹介された津田左右吉の『建国の事情と万世一系の思想』(世界1946年4月号)を読んでみた(青空文庫で閲覧できる)。

 津田は、皇室の起源と日本国家の起源、さらに日本人の由来は別のものであり、神代に関する記紀の記述は史実ではないとしたうえで、「万世一系」という思想がどのように形成されたかを史実に基づいて推論する。戦後に発表された論文だが、津田の論旨は戦中と変わっていない。よくぞ戦中にこのような考えを発表できたと感嘆するが(ただし起訴された)、歴史的事実に基づいて論ずることこそ真に皇室を尊敬する態度であるという津田の信念の発露だったのだろう。
 ぼくは法的親子関係において血縁(生物学的な親子関係)を重視してきた。法的親子関係をめぐる紛争(嫡出否認の訴え、認知の訴え、親子関係存否確認の訴えなど)において、紛争当事者が重視していたのは「血縁」であり、血縁の存否によって大部分の紛争は解決されてきたと考えるからである。
 しかし、血液型鑑定やDNA鑑定によって生物学的な父子関係が確定できるようになったのはここ数十年のことである。科学的に父子関係が確定できなかった時代に、それにもかかわらず人々はなぜそれほどまでに「血縁」を重視してきたのかはぼくにはよく分からない。
 そのカギとなるのが「万世一系」の思想ではないかと思った。天皇家が「万世一系」という血縁を強調するから人々も血縁を重視するようになったのか、それとも人々が血縁を重視するから天皇家も血縁を重視(「万世一系」)するようになったのか。

 「万世一系」という言葉は『日本書紀』のなかですでに使われているそうだが、日本における「血縁」信仰を辿った研究はあるのだろうか。津田の論文も、表題から期待したのだが残念ながらぼくの疑問には答えてくれなかった。青空文庫版11頁あたりにわれわれが皇室に抱く敬愛の情が養われた起源の説明はあるが、説得的には思えなかった。
 その起源の1つとして、津田は日本人が単一民族であったことも強調するが(青空文庫版8頁ほか)、このような考えは、最近の研究では否定されている。
 かつて読んだ福岡伸一『できそこないの男たち』(光文社新書、2008年)をひっぱり出して再読した(2009年1月28日読了のメモあり)。
 そこで紹介されている近年のDNA研究によれば、最も早くに日本列島に到達したのは、アリューシャン列島および朝鮮半島を経由して旧石器時代に日本列島に到達したC3型Y染色体をもつ男たちであり、ついで縄文文化の担い手となったのがD2型Y染色体をもつ男たちで、このY染色体を有する男が現在の日本でもっとも頻度が高く、アイヌ、東北、日本海、沖縄に多く見られるという(218頁~)。

       
 福岡の記述は他の研究者の引用なので、これも以前読んだ中橋孝博『日本人の起源ーー人類誕生から縄文・弥生へ』(講談社学術文庫、2019年)を眺めた(2019年5月11日読了とメモがある)。森達也の『迷宮』から始まって、ぼくは別の迷宮に迷い込んでしまったようだ。
 中橋の著書は人類の起源に関する学説史から始まって(そこに書かれた研究者間の争い(喧嘩?)も面白い)、頭がい骨、身長、耳垢、腋臭までをも研究対象とした「日本人の起源」に関する科学的研究が紹介されている。
 日本人の遺伝因子の地理的な分布を説明できる統一モデルは未だ解明されていないが、人の移動、混血効果、環境への適応変化などが混合したものと推定したうえで、「日本人の形成に、大陸からの度重なる遺伝子流入が重要な役割を果たしたことは、もはや否定しがたい事実といえよう」、「日本人が、大陸の、特に朝鮮半島や中国の人たちと遺伝的に強い近縁関係にあるということ自体はいわば当然のことである」と結論する(215~6頁)。   
 
 さて、今回のぼくの目標は、天皇(現在の上皇)に対する敬愛の念の起源というか心理的な機序を探ることだから、日本人の起源に関しては、「日本人」は単一の民族(統一的なエスニック集団)に由来するのではないことを確認して、先に進むことにする。

 2022年5月26日 記 

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森達也『千代田区一番一号のラビリンス』

2022年05月25日 | 本と雑誌
 
 森達也『千代田区一番一号のラビリンス』(現代書館、2022年)を読んだ。
 図書館に申し込んだら、予約者がすでに24人いると言われたので、当分来ないだろうと思っていたら意外に早く順番が来た。
 フィールディング『トム・ジョウンズ』第2巻を読みかけだったが、面白そうだったのでこちらに切り替えた。

 主人公は著者本人と思われるドキュメンタリー作家の森克也(!)。
 彼は天皇(現在の上皇)は何かを語りたいのではないか、その本心を聞きたいとの思いを抱き、フジテレビで「憲法」シリーズの企画を提案する。
 数名がオムニバスで憲法上のテーマを選ぶのだが、森は日本国憲法第1条、象徴天皇を選ぶ。他の企画者として是枝裕和も登場するが、実話なのだろうか。それ以外の映像作家やフジのディレクターなども実在の人物なのかどうか、ぼくには分からない。

 この企画の進行過程に従ってストーリーは展開する。
 主人公の森は、園遊会の場で天皇に直訴状(手紙)を手渡した山本太郎に天皇との仲介を依頼し、山本が天皇に拝謁する際に彼の秘書として同道する。これも実話なのかどうか、ぼくには分からない。
 その後、天皇ご夫妻との面会が実現し、御所の地下に掘られた地下道を一緒に探索するあたりからは荒唐無稽のストーリーが展開する。これがラビリンス(迷宮)なのだろうが、その隠喩もぼくには分からなかった。
 ちなみに書名の「千代田区一番一号」は皇居の住所であるが、皇居の正式の地番は「千代田区千代田一番地」である(現在は一番一号らしい)。わが戸籍法では、本籍地は日本国内の一地点であれば居住実態がなくてもよいことになっており、千代田区千代田一番地を本籍とする人間が数千人いると学生時代に授業で聞いたことがある(これは森の本には書いてないこと)。
 「カタシロ」なる物体(?)が頻繁に登場する。ネットで調べると、何かのゲームのキャラクターらしいが、これもぼくには何の隠喩なのか分からなかった。

 森の実家には昭和天皇ご夫妻と皇太子ご夫妻の写真が飾られており、彼はその写真のもとで暮らしていた(~71頁)。
 その言葉や行動から、森は天皇(現在の上皇)に対して敬愛の念を抱いており、天皇は本当は何かおっしゃりたいことがあるのではないかと思ってきたことが今回の企画の出発点にあるという。
 ぼくも上皇ご夫妻に敬愛の念を抱いている。尊敬といってもよい。お二人の一貫した行動から伝わってくる歴史に対する責任と平和を希求される心情への共感である。
 しかし明示的に語られることはなくても、ご夫妻がお話になりたいことは私たちに十分に伝わっていたとぼくは思う。

 日本国憲法第1条の「象徴」という言葉は、バジョットが『イギリス国制論』で立憲君主制における国王の地位の説明に際してもちいた “symbol” に由来すると言われている(W. Bagehot, “The English Constitution”, Oxford World's Classics, p.45. “Crown ・・・ to be a visible symbol of unity ・・・.”)。
 ぼくは他の誰でもない、あのような方が日本国の「象徴」であってよかったと思う。

 2022年5月22日 記

 ※ その後ぼくは、ここに書いたような気持がどのようにして生まれたのかを知りたくなって、津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」を読み始めた。そして迷宮に迷い込んでいる。(2022年5月24日 追記)

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モーム『世界の十大小説(上)』

2022年05月12日 | サマセット・モーム
 
 サマセット・モーム『世界の十大小説(上)』(西川正身訳、岩波新書、1958年、手元にあるのは1975年18刷)を読んだ。

 上巻で取り上げられた小説家および小説は、ヘンリー・フィールディング『トム・ジョウンズ』、ジェイン・オースティン『高慢と偏見』、スタンダール『赤と黒』、バルザック『ゴリオ爺さん』、チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパ―フィールド』の5作品。序章として「小説とは何か」というモームの小説論が載っている。
 各編は、最初に著者の評伝があり、つづいて取り上げた小説の概要とモームの評価が記されている。この評伝の部分が、まるで各作家の人生を素材にしたモームの短編小説のようで面白い。

 例えば、スタンダールはグルノーブルの弁護士を父に生まれた。フランス革命の恐怖政治がグルノーブルにまで及んだ際、貴族趣味でカトリックだった父は(商売敵の弁護士の策略によって)注意人物のリストに載せられてしまったが、スタンダールはこのことを嘆く父に対して、(商売敵の策略だったとしても)「何て言ったって、お父さんが共和国が好きじゃないのは本当じゃないか」と言い放ったという(147頁)。
 父親のことを、何も話さないケチな男だったと批判しながら、スタンダールはその父親からいくばくかの金をだまし取っていたという。たいていの子供なら大きくなれば忘れてしまうのに、彼は53歳になっても、幼いころの父親に対する恨みを抱きつづけた。

     
 ※『世界の十大小説』にかけてあったカバー。駿河台の中央大学生協のものである。

 スタンダールは、子どもの頃につけられたイエズス会士の家庭教師を憎んだことから、過激な反教権論者となり、王党派だった父と叔母への反感から共和主義者になった。それでいて革命派の集会に参加したところ無産者の不潔さと野卑な口のきき方が我慢できず、私は庶民を愛するが、庶民と一緒に暮らすことは私にとって拷問であると日記に書いている(~148頁)。
 彼は、自分の言葉づかいを純粋なものにするために、毎日ナポレオン法典を1ページ読むことにしていたという。--ぼくはこのエピソードはバルザックかと思っていたがスタンダールだった。モームは、これによって得た冷たく、平明で、自己を抑制した文体が『赤と黒』をいよいよ恐ろしいものにし、息もつけぬ面白さを増すことになったと評する(182頁)。

 ぼくは思春期の頃にスタンダールの『恋愛論』を読んだ。恋愛のハウツー書のつもりで読んだのだったが、まったく何の役にも立たないし、面白くもなかった。彼の時代背景と彼の特異な女性遍歴を知ると、あの本が20世紀半ばの日本の高校生の恋愛に何の役にも立たないことは当たり前のことである。
 スタンダールの女性遍歴、恋愛も、幼くして失った母への代償作用だったのだろう、と今回モームによる評伝を読んで思った。

     

 でも、今回の読書でぼくが読んでみようという気になったのは『赤と黒』ではなく、『トム・ジョウンズ』か『デイヴィッド・コパ―フィールド』である。『ゴリオ爺さん』は再読する気になれず、『高慢と偏見』は何であんな小説をモームが絶賛するのか、ぼくはいまだに理解できない。
 小説は娯楽である、面白いと思えない小説を無理に読む必要はないというのがモームの小説論の基本だから、彼に従って(という訳ではないが)ぼくは面白くない小説は読まない。
 で、上の2冊だが、どちらも長編である。『トム・ジョウンズ』は岩波文庫(朱牟田夏雄訳)で4冊、『デイヴィッド・コパフィールド』は新潮社世界文学全集(中野好夫訳)で3冊(しかも2段組み)もある。時間の無駄にならないだろうか。
 両方ともモームの紹介の筆が達者なので面白そうに思えただけで、どちらも17、18世紀の話しである、それほど面白くはないのではないか、とも思う。

     

 『トム・ジョウンズ』を読んで、彼の生き方に感化されたとしても、今さら瘋癲老人になるわけにもいかないだろう。『デイヴィッド・コパ―フィールド』は当時のイギリス裁判事情などに関心があった頃なら面白かったかもしれない。しかも以前にRetold版で読んだのであらすじは分かっている(“David Copperfield”,OUP, Oxford Bookworms)。短いけれど、これを再読する気にもならない。
     

 迷っているくらいならと、昨日病院に行くときに時間つぶしと思って『トム・ジョウンズ(1)』を持参した。フィールディングは人間性に関する穏健で最良の観察者であるというモームの言葉を信じて読んでみることにした。
 読み始めるとけっこう面白かった。著者フィールディングの前口上から始まるのだが、作家たるものは少数の客を呼んで無償のご馳走をふるまう紳士と思ってはならない、作家とは金さえ出すものなら誰でも歓迎する飲食店の経営者でなければならないという。この態度は共感できる。
 前口上に続いて本題に入る。サマセットシャの田舎地主にして同地の治安判事も務めるオールワージ氏がロンドンから帰宅して屋敷の自室に戻ると、わがベッドの中に1人の赤子が捨てられていたのである。何という始まり方か! まるでスティーブン・キングのようではないか。読者は、これからどこに連れて行かれるのだろうか。しかも『汚れなき悪戯』につづいて、またしても「捨て子」問題である。
 これは読めるかもしれないと思った。しかし、待っている患者が少なかったため、残念ながら第1章に入った途端に名前を呼ばれてしまった。

 もし今後『トム・ジョウンズ』についての書き込みがなければ、途中で挫折したと思ってください。

 2022年5月12日 記

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西武ライオンズ球場(2022年5月8日)

2022年05月09日 | あれこれ
 
 5月8日(日)、母の日。息子から母の日のプレゼントで野球の券をもらったので、西武球場に野球を見に行ってきた。今は「ベルーナ・ドーム」と言うらしい。
 西武ライオンズ対日本ハムファイターズ戦。
     

 プロ野球見物は、最後に見に行ったのが何年前かも記憶にないくらいに久しぶり。息子がまだ子どもだった30年くらい前が最後か・・・。まだ西武球場がドームになる前である。
 さらにそれ以前の1970年代にも、家内とデートで西武戦を見に行ったことがあった。その時は引退間際の野村克也と田淵幸一が西武に拾われ、まだ現役のキャッチャーをやっていた。2人ともランナーを出すと簡単に盗塁されていた。誰だか忘れたが、ショートもよくエラーをしていた。
 ライオンズが西武に買収されて間もない弱小球団だった頃である。
 われわれが座った3塁側内野観客席にいちばん近いところで、バークレオという選手がレフトを守っていた。真下のブルペンでは、金城という色白のピッチャーが投球練習をしていた映像の記憶がある。

     
 
 1990年代、2人の息子が子どもの頃は、西武線沿線に住んでいたので、毎年ライオンズ友の会に入って、年に何回かは見に行っていた。
 友の会の年会費は確か2000円だったが、ライオンズ・カラーの水色のヘルメットやリュックサックなどの景品のほかに、子どもは1年間何度でも無料で入場でき、大人の無料入場券も(確か)4枚ついてきたので、少なくとも年に2回は見に行った。
 郭泰源、渡辺久信、渡辺智男、伊東勤、秋山幸二、清原和博、デストラーデ・・・の時代である。東尾修がまだ現役で、監督は森昌彦(か広岡達朗)、毎年優勝しては西武百貨店や西友で優勝バーゲンが開催され、店内には松崎しげるの歌うライオンズのテーマソングが流れていた。
 上の写真はその頃(1990年)の野球選手カード(「’90プロ野球ゲーム」球団別選手カード、タカラ)。箱はなぜか近鉄バッファローズだが、中のカードは西武ライオンズの選手だった。

     

 時は流れて、出かける前に「プロ野球選手名鑑2022」(日刊スポーツ)を買うと、西武ライオンズは去年は最下位ではないか! 相手の日ハムは5位! 選手名鑑は前年度のチーム順位に従って選手紹介が載っているので、調べやすい。
 ぼくが小学生の頃、玉電山下駅近くの家から友達と歩いて見に行った駒沢球場では、万年5位の東映フライヤーズと万年最下位の近鉄パールス(後にバファローズに改称)が対戦していた。
 外野席が子ども50円だった。コロッケが1個5円の時代だから、コロッケ10個分である。現在コロッケ1個が50円なら500円に相当する。高かったのか、安かったのか。
 外野は芝生で、ライトを守る(レフトかセンターかも・・・)ラドラ選手の背番号44がフェンスのまじかで見えた。ちなみに近鉄のバッテリーはミケンズとボトラである。妙にナウい球団だった。
 久しぶりの野球観戦がパリーグ最下位と下から2番目のチームの対戦というのも偶然か。

     
 
 1塁側、日ハム側の内野席に座ったのだが、周りには結構西武ファンが目立った。息子によると、日ハム側の観客席の方がチケットの値段が安いのだそうだ。
 真下のブルペンで、日ハム先発の杉浦が投球練習をしていた(上の写真)。一番よく見えたのは日ハムのブルペンで、その次がライトを守っていた万波中正だった。
 連休の最終日だというのに、観客の入りはせいぜい8分程度で、空席が目立っていた。息子を連れて行っていた頃の連休中からは考えられない光景である。

     

 試合は、山川穂高の2打席連続ホームランなどで、西武が5対1で勝った。
 山川の2本のホームランのほかにも、試合開始前のメンバー表交換で新庄監督が小さく見え、日ハム清宮の2塁打があり、最後には(登板はなかったが)吉田輝星がブルペンで投球練習をする姿が見えたので、まあ良しとしよう。おかわり君、中村もいつの間にか39歳になっていた(冒頭の写真)。

     

 ダルビッシュや大谷のようなスター選手が不在で、両チームとも寂しい印象である。日ハムのユニフォームもパッとしない。
 小学校3年生の孫も、小学校時代のぼくのようには野球に興味がない様子であった。ぼくは、小学3年生だった昭和33年に長嶋が巨人に入団し、4年生の昭和34年に王が入団した日本プロ野球最盛期の子どもだった。遊びといえば、紅梅キャラメルの野球カードを集めるくらいしかなかった。雑誌は貸本屋で借りる「野球少年」が定期購読書(?)だった。
 アメリカに行ってしまうまでの佐々木朗希に希みを託すか・・・。

 2022年5月8日 記

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六本木を歩くーー国際文化会館

2022年05月07日 | 東京を歩く
(承前)
 鳥居坂教会のオルガン・コンサートを終えて、ふたたび国際文化会館へ向かう。
     

 40年前の5月6日はつつじの花が咲きほこっていたが、玄関へ向かう坂道の両脇に植えられたつつじは、きょうは既に枯れはじめていた。これも地球温暖化の影響なのか。
 建物の向うに見える高層ビル(六本木ヒルズ?)も40年前にはなかった。まさにスカイ・スクレーパー! 風景を台無しにしてしまっている。 
 100年後はどうなっているのだろうか。国際文化会館は旧岩崎邸庭園の跡地だそうだが、末永く残っていることを祈りたい。
     

 13時に予約してあったレストラン “SAKURA” の入り口には鎧兜の五月人形が飾ってあった。今年わが家では孫たちが来る予定もなかったので飾らなかった。
     

 階段を下りて、階下の庭に面したテーブルで定食のランチ。
     

 メニューに従うと、まず「ホワイトアスパラガス オランデーズソース スモークサーモン添え」
     

 つづいて、「ゴボウのクリームスープ カプチーノ仕立て」。
 「ゴボウ」と聞いて、ちょっとどうかなと思ったが、美味しかった。泡立てたクリームともあっていた。
     

 メインは「牛ヒレ肉のグリル フォアグラを添えてロッシーニ風 赤ワインソース 温野菜添え」。
 残念ながらフォアグラは苦手なので、家内に任せる。肉を熱いうちに食べようとあせったため、最初に写真を撮るのを忘れてしまった。
     

 最後にデザートとコーヒー。「ラズベリーとアールグレイのムース フレッシュフルーツ添え」。冷やした西洋梨が美味しかった。
     

 窓越しに、芝生の庭とその向こうに東京タワーが遠望できる。やっぱり以前と形が変わったように見える。
     

 「40年以上前のきょう、ここで結婚式を挙げたので・・・」とマネージャーに頼んで、庭に出させてもらって記念撮影。
 40年前に集合写真を撮った芝生はもっと広かったような記憶があるのだが・・・。
 
 2022年5月7日 記

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六本木を歩くーー赤い靴の少女像

2022年05月06日 | 東京を歩く
 
 きょう、5月6日は私たちの結婚記念日。
 40数年前のこの日、六本木の教会で式を挙げ、国際文化会館で披露宴を開いた。
 当日は今にも雨が降り出しそうな曇り空だったが、国際文化会館の庭にはつつじが咲きほこっていた。幸い最後まで雨は降らなかった。

 コロナ禍の自粛要請も緩んできたので、久しぶりに六本木から麻布十番を歩くことにした。
 大江戸線の六本木駅で降り立ち、アマンド前の交差点に出る。正面には東京タワーが見える。少し形が変わったのではないか?
     

 工事中のロア・ビルを曲がり、鳥居坂教会の前を通ると、「本日12時25分から12時55分まで オルガン・コンサートが開催されます」という掲示が出ていた。月に1回開催される催し物らしいのだが、偶然きょうがその日だった。
 開演まで1時間ほど時間があるので、まずは「赤い靴の女の子の像」を見に行くことにした。
 実は昨日(5月5日)の東京新聞の連載「のぼりくだりの街」は鳥居坂の特集だった(下の写真)。
     
 
 その記事の中で、野口雨情の童謡「赤い靴」の女の子は「異人さんに連れられて(異国へ)行っちゃった」ことになっているが、実は、この子は実在の人物で「きみちゃん」というのだが、アメリカ人の養子になってアメリカへ行く直前に結核に罹患してしまい、鳥居坂下にあった鳥居坂教会付属の孤児院で9歳で亡くなったのだそうだ。
 そして麻布十番の路地に「きみちゃん像」という赤い靴の女の子の像が立っているというので、それを探して散歩することにしたのである。

     

 東洋英和女学院の建物を左に見ながら、鳥居坂の急坂を下る。鳥居坂下の交差点を左折して少し歩くと、間口の余り広くない神社の木立が見えてくる。
 十番稲荷神社という神社だが(下の写真)、かつてはここに「きみちゃん」がいた鳥居坂教会付属の孤児院があったという。     
     

 この神社の前の横断歩道を渡って、麻布十番商店街を越えると左手に公園があって、そこに赤い靴の女の子の像、「きみちゃん」像が立っていた(冒頭の写真)。
 結核で亡くなった少女は、コロナ禍のもとにあって、お洒落なマスクをつけていた。
 ただし東京新聞の記事によると、きみちゃんの生涯は不幸ばかりだったわけではなく、東洋英和女学院の生徒に連れられて、同校の校長室で日向ぼっこをしていたこともあったという。     
 像の台座には、きみちゃんを紹介する石碑も建っている。  
     

 となると、横浜の山下公園にある赤い靴の少女像は何なのかということになるが、「横浜の港から船に乗って 異人さんに連れられて行っちゃった」と歌詞にあるのだから、あれはあれでよいのだろう。きっとそういう女の子もいたことだろう。
 ゆっくりと歩いて、あえぎながら(というほどではないが)鳥居坂を登って、ふたたび鳥居坂教会に戻り、オルガン・コンサートを聴く。 
     
 教会の建物は新しく明るくなり、当時の面影はないのだが、40年以上前の結婚式を思い出しながら、バッハその他の教会音楽を聞かせてもらった。
 
 2022年5月6日 記

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ヴォルテール『カラス事件』

2022年05月04日 | 本と雑誌
 
 ヴォルテール『カラス事件』(中川信訳、冨山房百科文庫22、1978年)を読んだ。

 この本が出版された1978年はヴォルテールおよびルソーの没後200年にあたり、この本もそれを契機に訳出されたようだ。
 1978年はぼくが結婚した年だが、まだあのころは刑事訴訟法の研究者になることを夢見て、誤判や冤罪に関心があったのだろう。
 ただし読んだ形跡はまったくなく、わずかに166頁に色あせた付箋が挟んであるだけだった。なぜ166頁だったのかは不明。

 カラス事件とは、1761年に南フランスのトゥールーズで起きた一青年の(おそらく自殺と思われる)死亡を発端とした冤罪事件である。
 プロテスタントを信奉する商人ジャン・カラスの家で、ジャン夫妻、長男マルク、次男ピエール、ボルドーからたまたま来ていた旧知のラヴェス青年の5人が夕食を共にしており、長年同家に奉公している女中(カトリック教徒)が給仕をしていた。
 やがて来客が帰宅することになり、全員が階下に降りると、少し前から姿が見えなかった長男マルクが両開きのドアに横棒を渡し、その横棒に懸けたロープで首を吊っているのが発見された。一家は慌てて医者を呼びにやったが、すでにマルクは絶命していた。
 
 騒ぎを聞きつけた近所のカトリック教徒たちが集まってきて、マルクは翌日カトリックに改宗することになっており、それを阻止するために父親を中心とする一家で彼を殺したのだ、来客はその死刑執行役としてやって来たのだという噂を広めた。
 実際にはマルクには改宗の予定はなかったばかりか、かつて三男のルイがカトリックに改宗した時も本人の信仰を尊重して反対しなかったくらいに、父親は家族の信仰に寛容であった。
 マルクは以前からうつ状態に落ちいっており、自殺したものと家族は考えたが、改宗を阻止しようとした父親らが長男を殺し自殺に見せかけたのだという噂が広まった。カトリック教徒からなる市参事会は、この噂話に従って、その場にいた5人全員をマルク殺害の容疑で投獄したが、越権行為として事件は当地の高等法院で審理されることになった。

 13人の裁判官のうちには被告人らの容疑を疑問視するものもあったが、狂信的にカトリックを支持する一人の裁判官が頑迷に有罪、死刑を主張して譲らなかったため、結局8対5で、父親は拷問のうえ車責めによる死刑、ピエールは終身追放刑、妻は免訴、ラヴェスは追放刑、女中はカトリック信徒だったことから釈放という判決が下った。
 1762年3月9日、父親に対する車責めによる死刑が執行された。父親は最後まで自らの無実を訴えるとともに、自分を死刑にした裁判官たちを赦すと言って絶命した。
 父親が有罪なら共犯者である家族も全員有罪で死刑にするべきだったが、裁判官たちはそうはしなかった。父親以外を死刑にしなかったのは、拷問によって父親が最後に罪を告白するだろうと裁判官が期待していたからであり、最期に至ってなお無実を主張したことに裁判官たちは驚愕したという。ーー有罪なら最後には罪を告白する、最期まで無実を主張するのは無実の証拠であると当時は考えられていたようだ。

 ピエールらの無実の訴えにより、この事件はヴォルテールの知るところとなり、彼はカラス一家の冤罪を雪ぐために一家を支援し、公開されていなかった訴訟記録の開示、そして国王および国王顧問会議による再審、カラス一家の名誉回復を求める論陣をはった。
 最終的に宮中訴願審査法廷(238頁)は、裁判官全員一致で被告人ら全員を無罪とする判決を下し(1765年3月9日)、国王は一家に対して3万6000リーブルを下賜した。さらに再審無罪判決を下した国王裁判所は、誤判をした裁判官に対する処罰および賠償も指示している(240頁)。

 本書は、カラス夫人、ピエールらの弁明書などのカラス事件資料集と、この事件の救援のためにヴォルテールが書いた「寛容論」からなる。
 ヴォルテールは、カトリック教徒たちの不寛容、狂信的な熱狂がこの冤罪事件を生んだ原因であると考え、不寛容が妥当するのは犯罪行為に対してだけであり、信仰については各人の自由に委ねることがキリストの教えであるとして、信仰に対する寛容を説いている。
 多くの寛容、不寛容をめぐる史実が論じられているが、ぼくの能力を超える。

 当時のフランスはアンリ4世の寛容政策(ナントの勅令)は遠い過去のものとなり、ルイ15世の不寛容政策(異端弾圧)がまかり通っていた。当時トゥールーズのプロテスタント市民は200人しかいなかったという(訳者解説ⅳ頁)。
 トゥールーズの高等法院は多くのプロテスタント牧師を死刑に処し、市民の間にはプロテスタントに対する強い怒りがあったという(同ⅵ頁)。
 そのような背景のもとで、カラス事件はフレーム・アップされたのであった。ドレフュース事件はユダヤ人に対する差別が根底にあり、戦後日本の松川事件などは共産党に対する偏見に基づく冤罪事件だった。ゾラがドレフュースのために闘い、広津和郎が松川の被告たちのために、野間宏が狭山事件被告のために闘ったように、ヴォルテールはカラス一家のために闘った。
 
 カラス事件で、ヴォルテールが家族の冤罪を確信した根拠は、68歳の老父が単独で28歳の青年を殺して、ドアにロープをかけて自殺したように偽装することは物理的に不可能であるという点にあった。
 これは八海(やかい)事件における単独犯説vs共犯説の対立を思わせる。八海事件の検察側は、被害者を自殺に見せかけるために鴨居に吊るす偽装行為は単独では不可能と主張し、弁護側は単独でも可能であるとして(確か法廷で)正木ひろし弁護人が一人で実演して見せた。
 八海事件で有罪となった被告人は壮健な青年で、被害者は老夫婦、偽装工作もかなり杜撰だったのに対して、カラス事件の父親は高齢だが、被害者は壮健だったうえに、被害者の身体には争ったことをうかがわせる傷一つなく、着衣も整然と整えられていた。
 何よりも、信仰に寛容だった父親には、たとえ改宗するとしても息子を殺す動機はまったくない。

 本書を読んだ人は、おそらく一家の無実を信じることだろう。
 父親の非業の死は痛ましいが、他の家族が国王裁判所によって再審無罪を勝ち取ったことに少し安堵させられた。
 こんな目にあいながら、裁判官を赦すという父親の寛容はぼくには到底無理である。

   *   *   *
 「寛容が内乱を招いたためしはまったくなく、不寛容は地球を殺戮の修羅場と化してしまった」(107頁)というヴォルテールの言葉が印象に残った。
 なお、「日本人は全人類中最も寛容な国民であり、国内には12の宗派が根を下ろしていた」、しかし「13番目にやって来たイエズス会が他の宗派を認めようとしなかったために・・・すさまじい内乱が国土を壊滅させてしまった」という記述がある(105頁)。どの史実を指しているのだろうか。
 ※ 1587年に豊臣秀吉は最初の禁教令を出したが、この禁令は、個人的なキリスト教信仰は「その者の心次第」として許容しつつ、大名領主の信仰に制約を加え、バテレンに国外退去を命じたものだった。しかし、キリスト教信徒による神社仏閣の破壊、日本人を奴隷として連れ去る人身売買などが起こったために、1596年のサンフェリペ号事件(同船の乗組員が、宣教師は植民地支配の尖兵である旨を供述した)をきっかけに、宣教師および日本人信徒26名を長崎の丘で処刑したという(家永三郎=黒羽清隆『新講日本史』三省堂、1986年、271頁)。このことだろうか? しかし「国土を壊滅させてしまった」とまでは言えないだろう。(2022年5月5日 追記)

 2022年5月4日 記

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新宿住友ビル、三角広場

2022年05月01日 | 東京を歩く
 
 4月30日、天気が良かったので、新宿住友ビル、三角広場で開かれている「生活のたのしみ展」に行ってきた。
 糸井重里プロデュースとか。その中のある店舗で姪がアルバイトをしているので、散歩かたがた彼女の仕事ぶりを眺めてきた。

     
     

 ネットのライブ情報では「比較的すいている」とあったが、11時半過ぎに到着してみると、入場待ちの行列ができていて、会場内もごった返していた。
 入場時に一応体温測定はあったが、ソーシャル・ディスタンスなどとうてい不可能。完全にコロナ前の催事場の賑わいに戻っていた。
 幸いなことに若者はあまり多くなく、どちらかといえば、われわれのような中高年が多かった。3回目接種を済ませていることを信じて、連休明けに感染者数が上昇しないことを祈ろう。

     

 出店している店は、ぼくの見たところでは「通販生活」ふうの商品が多い印象。
 糸井とみうらじゅんの対談をやっていた。みうらは嫌いではないのだが、雑踏がうるさいのと音響が悪いのと+ぼくの耳が悪いのとで、あまりよく聞こえなかった。
 混雑がすごいうえに、ぼくには縁のない店ばかりなので、会場から退出して、日ざしがふりそそぎ、さわやかな風がわたる外のベンチに座って、行きかう人を眺めながら時間をつぶすことにした。
 そのうちに昼休み休憩になった姪と合流して、会場近くの京鼎楼(Jin Din Rou)でランチをしながら、しばし歓談。
 13時半、仕事に戻る姪と別れて、都庁の展望台に上ることにした。しかし、都庁舎の入り口に行ってみると、警備員から「現在はコロナのワクチン接種会場になっているため、展望台には上れない」と言われてしまった。

 仕方ないので、新宿副都心の街路を歩いてから帰宅した。
 そよ風に若葉がゆれ、五月晴れの青空にビル群の威容が映えていた。気もちのよい散歩だった。

 2022年4月30日 記

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