豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

滋賀の旅・近江八幡その1(2024年3月20日)

2024年03月24日 | あれこれ
 
 3月20日(水)、朝9時にホテルを出発して、大津駅からJR琵琶湖線で近江八幡駅に向かう。新快速で約25分。今にも雨が降り出しそうな空模様で、しかも寒い(下の写真は大津駅ホーム)。
 近江八幡では、ヴォ―リスの建築物を訪ねるのが主たる目的。ヴォ―リスの事業に協力し、その建築を支援した近江商人の経済力を示す建築物も少なくない。
   

 ここでも、まずは駅前の観光案内所に立ち寄って観光地図をゲットし、おすすめの順路を教えてもらう。
 駅前から路線バスに乗って「八商前」(八幡商業?)で下車し、街を歩きながらヴォ―リスの建築物を眺めてから、八幡堀の屋形船に乗って、その後に「商人(あきんど)通り」を歩くというルートをすすめられたが、気がつかないうちに八商前を通過してしまい(駅前から3つ目のバス停だった)、「八幡堀」(はちまんぼり)というバス停まで来てしまった。観光客らしいグループが下車したので、われわれも下車する。

  

 八幡堀バス停を降りると、バス通りに面して、「白雲館」というレトロな外形の建物があり、1階は観光案内所になっている(上の写真)。
 説明パンフによると、この建物は、もとは明治10年(1877年)に八幡東学校の校舎として近江商人たちの寄付によって建てられたもので、生徒数が増えたために他校に統合された後は町役場や郡役所として使われてきたが、戦後は空き家となって老朽化していたのを、平成6年(1994年)に近江八幡市が開校当初の姿に復元したという。

 どうせ近くまで来てしまったのだから、まず屋形船に乗ろうと船着き場に行ってみると、20人以上の台湾からの観光客と一緒でよいなら間もなく出る船に乗ることができると言われたけれど、騒がしいのは嫌なので、1時間後に出る次の便まで近くを歩いて時間をつぶすことにした(冒頭の写真は堀にかかる橋からの眺めた八幡堀)。

   
   
 近江八幡というくらいだから、まずは「八幡」様に参拝する。「日牟禮(ひむれ)八幡宮」といい、創建は1800年以上前という(上の写真の1枚目)。
 すぐ近くに八幡山ロープウェー乗り場があったが、小雨まじりの曇り空で見晴らしは悪そうだし、頂上付近は風が強いというので、乗るのはやめた(2枚目)。

   
   

 バス通りに戻って、通りを東方向に歩く。
 道端の小さな公園にヴォ―リス像が建っている。ヴォ―リスに向かって少女が花束を捧げている(上の写真)。
 説明板によると、アメリカ生まれのヴォ―リスは1905年(明治38年)にYMCAから派遣されて来日し、ここ近江の地をキリスト教精神に基づいた理想社会とするために、企業家として「メンソレータム」で有名な会社(近江兄弟社)を興したほか(上の写真2枚目。現在は「メンターム」という商品名)、医療や教育事業(近江兄弟社学園)などを展開し、1964年(昭和39年)に83歳でこの地で亡くなったという。この公園はヴォ―リスの最初の住居があったゆかりの場所らしい。 
   
   
      
   

 バス通りを背にして駅側(南方向)に曲がると、近江商人の旧住居が並ぶ通称「商人(あきんど)通り」になる(上の2枚の写真。地図では「新町通り」とある)。一番立派なのは寝具の「西川」の本店(本家)。京都その他の「西川」はここの分家らしい。3枚目の写真は、その西川の旧住居。木造だが暖炉の煙突があり、帚目の通った立派な石庭には松が植えられている。

   
   
   

 町中を歩きまわって見かけた雰囲気のある建物を何軒か。
 一つはかつて尋常小学校として建てられた和風の建築物(1枚目)。先客が結構いたので中には入らず通り過ぎる。
 次は、「るるぶ滋賀びわ湖」にも紹介があった旧郵便局の建物(2、3枚目)。大正10年(1921年)、ヴォ―リス初期の建築だそうだ。

 1時間経過したので、12時近くに船着き場に戻る。予約名簿に「大人2名、子ども1名、犬2匹」という書き込みがあり、近くでわれわれに向かって吠えまくる犬を連れた家族連れがいて不吉な予感がしたが、船の到着を待つ。 (午後の近江八幡は次回に。)

 2024年3月23日 記
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