豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

セルジュ・ティスロン 『家族の秘密』(クセジュ文庫)

2020年05月28日 | 本と雑誌
 
 遠い昔、ラジオの深夜放送で、不思議なシャンソンを紹介していた。
 記憶では、こんな歌詞だった。

 ある時、少年が口笛を吹いて嬉しそうにしているので、
 父親が「何かいいことでもあったのかい?」と聞いた。
 息子が言うには、好きだった彼女にプロポーズしたら、
 彼女も “ oui ” と言ってくれたので、ぼくたちは結婚することにしたんだ。
 これを聞いたお父さんは、顔を曇らせて言った。
 「残念だけど、お前と彼女は結婚できない。
 実は彼女はお父さんが浮気をして産ませた子、お前の腹違いの妹なんだ」と。

 少年ががっかりした顔をしているので、
 母親が「何か心配事でもあるのかい?」と聞いた。
 息子がお父さんから聞いた話を伝えると、
 これを聞いたお母さんは、笑顔になって言った。
 「大丈夫、お前たちは結婚できるよ。
 だってお前はお父さんの子ではないのだから」と。

 晴れて二人は結婚することになった ♪ ♪

 というのである。
 講義で嫡出否認のあたりをやるときに、余談でこのシャンソンを紹介すると、毎学年かならず学生の笑いを取ることができた。

 この歌は、「家族のスキャンダル」という歌で、フランスでは結構有名らしい。
 Google で検索すると、何件か記事がヒットする。ダリダなども歌っているらしい。
 昨年買った、セルジュ・ティスロン『家族の秘密』(クセジュ文庫)にもこの歌のことが出てきたので驚いた(54ページ)。
 歌詞はちょっと違っていたが、ストーリーは間違っていない。

 フランスでは、妻が産んだ子の7%は夫の子ではないという(半公式の)統計数字が、ある学術論文で紹介されていたが、フランス法の専門家は実際はもっと高い数字だろうという。
 こんな歌が歌われるくらいだから、フランスでは「不倫は文化」なのだろう、フランス人はこんなことは歌って笑い飛ばしているのかと思っていたが、クセジュによれば、フランスの子どもはこの問題でけっこう悩むらしい。

 そして、本題のバルザック『結婚の生理学』である。
 数日がかりで、ようやく昨晩読み終えた。
 第2部の途中から、これは風刺小説ないしパロディ小説だろうと決めた。そう思うと、叙述の冗漫さ、大げさ振りも理解できる。

 「序論」と「第1部 総論」を読んだときは、この本は、妻が貞節を守り、夫が子の父親が誰なのかで悩まなくなり、家庭の幸福が守られるためには、夫はどんな予防策を講ずればよいのか、その兆候が表れた場合にはどのような対抗手段を取ればよいのか、についての「真面目な」議論というか考察だと思ったのであった。

 しかし、あまりにも深淵そうな、しかし冗漫な記述を読まされているうちに、どうもこの著者は、決して妻の貞節の維持や姦通の防止を本気でテーマにしているのではないのではないかと思うようになった。
 極めつけは、夫が出かけるふりをして、留守宅に愛人がやって来た頃合いを見計らって不意に帰宅するという対抗策(戦術論?)である。
 夫が手なずけておいた召使だか義母だったかに、下剤を混ぜたワインを飲まされていた愛人は、慌ててクローゼットに隠れるのだが下剤が効いてきて、我慢できずにナポレオン帽の中に脱糞する、などという「戦術」のあたりで、風刺ないしパロディ小説であるとの確信に至った。

 訳者である安士正夫さんの解説には、「単なる風刺もしくはパロディとみなすことができない」とか、「流行に迎合したユーモラスな調子にもかかわらず」といった評価が書いてある。
 ということは、「単なる」風刺、パロディではないとしても、「風刺」の側面もあり、「ユーモラスな調子」の小説であることには違いないのだろう。
 それにしても、よくもこんなテーマを1巻の書物に仕立て上げたものだと、バルザックのエネルギーと筆力に感服させられた。

 さて、次のバルザックは何を読もうか。
 
 2020/5/28 記

 

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まだまだバルザック 『結婚の生理学』

2020年05月24日 | 本と雑誌
 
 バルザック『結婚の生理学』第1部「総論」がようやく終わった。
 冗長というか粘着質な文章のため、しかもギリシャ、ローマ、フランスの先賢たちの言葉がちりばめられており、論旨をたどれないこともしばしばなので、すんなりと読み進められない。しかし、定年無職となり、何の時間的な制約もないのでじっくりと読んでいる。
 久しぶりの上製、箱入りの文芸書(文学全集!)で、頁の紙質も上等、頁をめくるたびにいい匂いが漂ってくる。30年以上にわたって自室の本棚の最上段に飾ってあったので、湿った感触もない。
 読書ってこんなものだったかと、思い知らされた。

 ところで、これは「小説」なのだろうか? 
 本気で「結婚」という制度を検討した学術論文とはいわないけれど、まっとうなエッセイだと思う。今日的には(少なくとも1950年代であれば)「結婚(あるいは姦通)の法社会学」と標榜する資格はあると思う。
 バルザックは、父の後を襲って公証人の書記をしていたというから、図書館にこもってローマ法や慣習法を研究していた学者とは違って、革命後のフランスの生きた法(law in action)を実地で体験していたのだろう。
 しかも著者には、夫の死を待つパトロンがあり、彼女から本書執筆のための情報をもらっていたと序章で書いている。

 ルソー、ディドロ、ヴォルテールらも引用されるが(とくに『エミール』、『新エロイーズ』)、こちらの勉強不足もあって、論理の流れが理解できない。
 最初は論旨を追おうと苦慮したが、バルザックという人は田舎の寄宿学校時代に懲罰で閉じ込められた図書館の本を読み漁り、博覧強記ではあるがその知識は雑駁だったと知ったので(霧生)、あまり悩まずに読み飛ばすことにした。

         

 民法213条などが訳注もなしに登場したりするので、Dalloz の “CODE CIVIL” などを引きながら読んでいる。趣味の読書というより「勉強」っぽくなってしまう。
 妻が夫の金庫から金をつかみ出そうとするときに、夫たちは民法213条に書かれた権利を思い出すというのだが、同条は(現行法では)「夫婦は共同で家族の精神的、経済的な方針を確立し、子どもに教育を提供して将来に備えさせなければならない」と規定している。
 どうも文脈的にしっくりこないので、ナポレオン民法(1804年)当時の213条を調べると(立命館大学の中村義孝教授の翻訳が同大学のリポジトリの掲載されている)、「夫は妻を保護しなければならず、妻は夫に従順でなければならない」という条文だったようだ。
 これでもいまひとつしっくり収まらないのだが、この本が書かれた1829年頃の213条はすでに改正されていたのだろうか。それとも1804年民法213条の「妻の保護」は、妻が夫の金庫から金を持ち出す行為を許容するように解釈されていたのだろうか?
 
 ちなみに、フランス民法212条は「夫婦は互いに貞節(fidelite)を守り、扶助し協力しなければならない」と規定する。この、妻の貞節こそが本書のテーマである。
 妻が貞節を守り、夫が自分が(妻の産んだ)子の本当の父親であると確信できるようになり、母親が子供の初等教育の任務を全うし、私生児(自然子)がいなくなり、売笑婦が世の中からなくなることが、本書の目的である(らしい)。
 1829年当時のフランスでは、バルザックの計算では、人妻1人に対して4人の愛人有資格者たる独身男性が存在しており、しかし娼婦によるのではなく、彼らから妻の貞節を守る方法を伝授しようという。

 この目標は、バルザックが公証人書記としての体験から得たものではなく、これまた霧生の本(霧生和夫『バルザック』)によれば、バルザック自身の生い立ちに由来するようである。
 バルザックは、生まれると同時に乳母のもとにやられて、実母による養育を受けることができず、4歳になって生家(実母のもと)に戻されたが、母の愛情を得ることができないまま寄宿学校に入れられたという。そしてバルザックの母はこの期間中に愛人との間に子(バルザックの弟)をもうけている。
 『結婚の生理学』には、子どもを寄宿学校に入れるのは母(妻)が不貞の時間を捻出するためであるという記述がある。
 またバルザックは、妻の貞節を守る手段として娼婦による解決を否定するのだが、彼の父親は売春廃止の運動をしていたという。その父親の主張を受け継いだのであろうか。

 そしていよいよ、本書の第2部、第3部は妻の貞節を無疵に守るための手段が詳述されると予告されている。いったいどんな手段が書いてあるのだろうか

 2020/5/24 記


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霧生和夫 『バルザック』(中公新書)

2020年05月21日 | 本と雑誌
 
 承前 (バルザック『結婚の生理学』つづき)
 ・・・と書いた後で、読み始めた。
 序章と第1部<考察1>まで読んだところで、この小説のテーマが「姦通」であること、題名がサヴァラン(洋菓子の?)の「味覚の生理学」に由来することは、解説者たちの知見ではなく、バルザック自身が語っていることを知った。
 解説を読み、月報を読んでから、いざ小説本体を読み始めるなどという邪道を歩んだための失敗であった。

 なお、霧生和夫「バルザック」(中公新書、1978年)によると、「結婚の生理学」はバルザックの第2作である。第1作が「ふくろう党」ということは、東京創元社版のバルザック全集は作成順(か発表順)に配列されているのだろうか。
 「人間喜劇」は全26巻で、東京創元社の全集も26巻ということはこの全集はオリジナルの「人間喜劇」と同じ構成なのだろうか。
 ちなみに、霧生は “ La Comedie humaine ” を「人間喜劇」と訳すのは不適切であり、「人間模様」または「人生劇場」という訳が忠実だろうという(165ページ)。
 「人生劇場」は別な意味で不適切だから(尾崎士郎!)、「人間模様」だろう。

 サロイヤンの “ The Human Comedy ” を高校か予備校時代に読んだ。あれも「人間喜劇」と訳されていたが(小島信夫訳、晶文社)、内容的には、日本語でいう「喜劇」よりは「模様」だろう。
 ぼくが読まされた章は、郵便配達のアルバイト(勤労動員だったかも)をするカリフォルニアの田舎町(イサカ)の少年が、子か孫の戦死を知らせる郵便を老母(老婆)宅に届けるという話だった。

 ついでに、モームの「人間の絆」(The Human Bondage)は「絆」ではなく、「しがらみ」とでも訳すべきだと、かつての同僚だった英文学の先生が言っていた。
 あの二人の関係のどこが「絆」なのかと長年訝しく思っていたのだが、その先生の言葉を聞いて積年の疑問が解けた。

 2020年5月21日 追記


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バルザック 『結婚の生理学』

2020年05月20日 | 本と雑誌
 
 バルザックの『結婚の生理学』を読み始めた。正確には「読み始める」だが。
 東京創元社のバルザック全集、第2巻(昭和48年初版、昭和50年再版)である。

 定年になったら、講義や研究のための読書はやめよう、趣味として好きな本を読もうと思っていたのだが、定年になって最初に読んだ本は、定年のその日(3月31日)に送られてきた『日米親権法の比較研究』であり、その後も「教育」(親の教育権)つながりで、『エミール』(岩波文庫)を読み(ただし上巻と下巻の一部(エミールの結婚のあたりまで)だけ)、「ハマータウンの野郎ども(lads)」(ちくま学芸文庫)を読んだ。
 どうも家族法の周辺から完全に脱却することができない。

 末弘厳太郎『嘘の効用(上)』(冨山房文庫、川島武宜編)も読んだが、これも法律の勉強のようなものである。
 『嘘の効用』は、以前に日本評論社版の末弘厳太郎選集で読んだが、川島武宜編で読むと、いかにも川島らしい配列になっていて初めて読んだような印象であった。
 ちなみに、法律学が「嘘」の学問であるというのは、法学部生になったかなり早い段階で、ぼくが体感したところであった。不特定物売買に瑕疵担保責任規定が適用される「特定」の基準である(とされる)「履行として認容して受領したか否か」の判断をめぐって「嘘の効用」の実例を知った。当時は(今でも・・・)ただの「嘘」としか思えなかった。

         
 
 しかし、やっぱり法律から離れられない、これではいけないと思い、とうとう今日に至って30歳の頃から抱いていた定年後の読書の予定通り、バルザックを読むことにした。
 そのつもりで、東京創元社版のバルザック全集は昭和50年ころに買っておいたのである。
 第11、12巻『幻滅(上・下)』、13巻『浮かれ女盛衰記(上)』、18巻『農民』、21巻『村の司祭』が欠けている。当時品切れだったのだろう。ただし、「農民」は河出書房の世界文学全集版をもっている。

 第1巻から読もうかと思ったが、第1巻の「ふくろう党」という題名は触手が動かなかったので、第2巻「結婚の生理学」から始めることにした。

 『結婚の生理学』の原書は1829年刊行だが、当初は1826年にバルザック自らが経営する印刷所から「夫の法典ーーまたは妻を貞淑にする法」という題名で1部(!)印刷されただけで放置され、その後29年になって「結婚の生理学」と改題し改めて出版されたという(巻末の安士正夫氏の解説)。
 テーマは姦通であり、バルザックは法科の学生の時に講義で「姦通」という言葉を聞き、感銘を受けたのが本書執筆の契機になったと本人が語っているという(月報に載っていた平岡篤頼氏の随筆による)。

 「夫婦の幸福と不幸に関する折衷哲学的考察」という副題がついており、あまり「生理学」的ではない内容を予感させるが、姦通もまたフランスでは「結婚の生理」現象なのかもしれない。
 家族法は、「家族の病理学」のような学問であるから、「結婚の生理学」という題名には惹かれるが、生理学的に順調な家族はどのように描かれているか、などと期待しないで読んだ方が良さそうである。
 そもそも、この題名に改題したのは、出版の前年にサヴァランの「味覚の生理学」という本がベストセラーになったため、バルザックがこれに便乗しようとしたからだという(安士解説)。

 などと講釈を書いているが、まだ1ページも読んではいないのである。
 本を読む前に書き込みをするのは初めてではないかと思う。

 2020年5月20日 記


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きょうの浅間山(2020年5月13日)

2020年05月13日 | 軽井沢
 自粛は何日目になるのだろうか? もともと出不精なうえに友達もいないので、家にいることはまったくストレスにはならない。
 あえていえば、天気の良い日に軽井沢に行けないことがストレスかもしれないが、4月にテレビで、軽井沢に疎開する人間が増えて、地元の方が迷惑しているという報道があり、ツルヤの駐車場が東京ナンバーのクルマで溢れている映像を見て、行く気は失せた。
 あんな連中と同じ行動はしたくない。

 そんなわけで、日々、買ったまま読まないでいた本を読んでいる。
 1日1冊を目標にしている。

 例えば、ルソー「エミール」。
 これなど、遅ればせながら読もうと思ってページを開くと、なんと上巻はすでに読んだ形跡がある。まったく記憶にないのだが。
 教師を辞めてから「エミール」を読んだところで間に合わないのだが、しかし読んでいる。教師生活を送っている間は時折気になっていた本なので・・・。

 わが子はすべて捨て子にして、孤児院に預けておきながらの「エミール」をどう読めばよいのか? 堀尾輝久ほか「ルソー・エミール入門」(有斐閣新書)の説明では納得できなかった。

 きょうなどは暑くて、軽井沢が恋しくなるが、じっと我慢である。
 そして、きょうも長野県道路事務所のHPから、現在の浅間山を眺める。

                  

 何年か前までは、軽井沢スケートセンター従業員のHPがあり、そこに「きょうの浅間山」がアップされていたが、今は無くなってしまったようだ。
 ついでに、鳥井原東交差点付近の写真も。写真で見る限りでは、どうも自粛は緩んでしまっているようである。

         

 2020/5/13 記

 

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今年のゴールデン・ウィーク(2020年)

2020年05月07日 | 軽井沢
 今年のゴールデン・ウィークは、もちろん家で自粛の日々。
 夕方の散歩以外はじっと家にこもっていた。散歩も家の近所を2000歩から3000歩程度歩くだけ。ついでにスーパーに立ち寄って食料品を買うときも女房だけが店内に入るようにした。

 軽井沢にももちろんいかなかった。
 またしても、長野県道路情報センターの画像で我慢する。
 最初は、4月26日の正午ころの入山峠(だったか?)から望んだ浅間山。春霞にかすんであまりみえない。

         

 つぎの2枚は、定番の鳥井原東交差点付近。4月26日と27日の正午ころのもの。
 例年のゴールデン・ウィークに比べれば交通量は少ないように見える。

           
 
          
         
 テレビのニュースでは、軽井沢駅付近の人出が前年同日比で90何%減とかやっていたけど、軽井沢駅のどのあたりなのか?
 北口ではあまり意味はないし、南口もショッピング・モールへの来客はもっぱらクルマだろうから駅周辺の人出の増減はあまり意味がないように思うが・・・。

 最後は4月26日の追分。

         
 
 さて、この1週間で何をしていたかというと、本も読んだが(本の話はまた後日)、一番は、BS560チャンネル、AXNミステリーで、 “信念の女警部 ヴェラ” を見たこと。
 一昨日からきのうにかけて、シーズン1の第1話から、シーズン8の最終回までを一挙放送していた。

         

 最初の頃はあまり見ていなかったので、初見のものが多かったが、シーズン6あたり以降はけっこう見ているものが多かった。

         

 上の写真は、シーズン6の “背負うもの” の1シーン。
 “ヴェラ” には珍しく大学ものだった。大学理事会のスキャンダルをめぐるストーリーの展開や場面によってはモースを思わせる。

 AXNミステリーでは、“ヴェラ”、“モース警部”(主任警部?)、“フォイル” が秀逸。
 “モース” を継いだ “オックスフォード・ミステリー”(ルイス警部?)もいい。どちらかと言えば “ルイス” のほうがクセがなくて、ぼくにとっては好ましい。

 “ブラウン神父” と “バーナビー” はイギリスの田舎の風景を楽しむために見ている。
 わが国のもので言えば、“小京都ミステリー” のようなものか。“もう一人のバーナビー” は、2016年にイギリスを旅行した時に現地で放映されていたので、懐かしい。

 冒頭の写真は、退職の際に職員の方(女性!)から送られた花束。
 水やりはしていたけれど、連休の初めにとうとう枯れてしまった。ありがとう。

 2020/5/7 記    


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