Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

LA RONDINE (Sat Mtn, Jan 26, 2013)

2013-01-26 | メトロポリタン・オペラ
こちらで書いたような事情で、実際に劇場で鑑賞するまでは何を言ってみたところで、
”ラジオじゃ良さはわからん。”とか”聴く前から良くないと決め付けとる。”とフランス人の友人に言われ続けることになるので、
堂々とオポライスに対する意見を言う権利を得るため、今日は土曜のマチネの『つばめ』にやって来ました。

実はあの後も彼はまるで初恋相手への思いを吐露するかのように熱く&しつこく彼女のことをメールで語るので、
私はもうすっかりうんざりしてしまって”いい歳こいてこのエロじじいが!”(ちなみに彼の御子息と私が同い年。)とこっそり、
いや、もう返事の文面にもそのニュアンスを丸出しにしておいたので全然こっそりではないんですけれども、思っておりました。
いつもは同じ公演を見に行くとわかると事前にインターミッションで落ち合う段取りなどを確認し合うのがならわしで、
年末年始にバカンスでNYを離れていた彼と会うのはほとんど一ヶ月ぶりですのでこの件があるまでは会うのを楽しみにしていたのですが、
もうあと一言彼からオポライスへのラブ・コールを聞いたならば、間違いなくその場で彼を絞め殺してしまうと思うので、
今回は会わないのがお互いの身のため、、、ということで、
今日は一人でインターミッションを過ごすつもりでベルモント・ルームに向かい、
飲み物のオーダーと勘定を済ませ、振り向いたところで思わず”きゃっ!!” です。
フランスのエロじじいが”Madokakip~!"と両腕を広げて立っているではありませんか!
そして久々の再会を喜び合う抱擁の後に、彼が私の両手を握りしめながら大真面目な顔で言うのでした。
”君の言う通り、僕は彼女に恋してしまったようだよ、、



私がオポライス個人に対して過剰な反応を示しているように感じられたり、
あるいは、彼がオポライスにぞっこんなのを私が嫉妬しているのでは、、?
という的外れな推測をされている方がいてはいけないので少しここで説明しておかなくては、と思います。

もちろん美人なのが悪いわけでは決してありません。
オペラが視覚も伴うアートフォームであることを考えれば、一般的に言って歌手も見目麗しい方が有利なのに決まってます。
しかし、視覚的な美しさはプラスα以外の何者でもなく、また、それ以外の何者になってはいけない、
ルックスや演技も含めたビジュアルは決して歌唱(音楽による表現も含む)の不備や欠点や物足りなさを補うものではないはずです。
だから、私は歌唱にまずきちんとした公平な評価を与えないでおいて、ビジュアルとの単純な加算合計が大であればOK、という考え方にはまったく反対だし、
そこを混同するような間抜けはまさか私の身の回りにいないでしょうね、、と思っていたのが、
『ファウスト』のポプラフスカヤにメロメロになり、ミードのアンナ・ボレーナをぼろくそけなし、
『マリア・ストゥアルダ』のディドナートやヴァン・デン・ヒーヴァーを貶めかと思うと
オポライスをまるで不世出のソプラノであるかのように褒めちぎる、、、
彼の度重なる蛮行にとうとう私の堪忍袋の緒も切れたというわけです。

この話を連れにしたら、あっさり一言。
"That's because he is listening with his dick."
(それは彼が耳じゃなくチン○で聴いてるからだな。)
おお!!!こんなぴったりの表現、もっと早く教えてくれればいいのに!



シンガーズ・スタジオの記事にも書いた通り、
『つばめ』の初日の公演でのオポライスは批評家から大絶賛されて、
メトが慌てて先のシーズンに彼女をキャスティングする交渉(特にHDがその一部であるだろうことは想像に難くありません。)に出た、という話もありました。

私が同じ日にシリウスで聴いた彼女の歌唱からは、そこまで大騒ぎするほどのものを感じなかったので、
それを説明できる唯一の可能性として、彼女の声のグランドさや響きの豊かさがラジオのような媒体では十分にトランスミットされないケースか、と思っていて、
なので私は彼女をテバルディに似たタイプの歌手なのかな、、と想像してました。
オポライスがシンガーズ・スタジオの時に、自分の声種はスピントであると何度も言い張っていた、それも理由の一つです。
『つばめ』のマグダ役は冒頭からすぐに登場し、”ドレッタの夢”のような聴かせどころもすぐにやって来るので、
この役を歌うソプラノは最初からエンジンをかけようとしているはずなんですが、
それにも関わらずオポライスの声が私のイメージしていたのと全然違っていて拍子抜けしました。
声のボリューム・ふくよかさいずれも、シリウスに乗り切らないどころか、私がシリウスで聴いて想像していた”以下”です。
仮に今回のように前評判のせいで期待が膨れ上がっていたわけでなく、ニュートラルな状態で彼女の声を聴いたとしても、
”割と小さな、劇場であまり響かない声だな。”というのが第一印象になったと思います。

彼女の歌唱でこの日一つだけ耳をひいたものがあったとしたら、それは”ドレッタの夢”のFolle amore! Folle ebbrezza!の両方のfolleで彼女が出した音で、
舞台の彼女の立ち位置とは全く違う、それでいてどこと特定出来ない場所から音が鳴って来ているような感覚を起こす不思議な音色で面白いなと思いました。
ただし、全幕を通してこのような音を彼女が出したのはこの箇所だけでしたが。



シンガーズ・スタジオの時に彼女が、かつて、ある先生Aは彼女をドラマティコだといい、
また別の先生Bはルチアやヴィオレッタを歌わせようとし、
結局最終的にはその二人とは更に別の先生Cの主張するスピント説で落ち着いた、という話を披露していて、
この三つはかなりディスティンクティブに違う種類の声だと思うので、
”変なのー。”と思いながらその話を聞いていたのですが、
彼女の声を生で聴くと、何となくですがその紆余曲折の理由がわかるような気がしましたし、
そして、それと同時に彼女が本当にスピントかどうか、その点について私はかなり懐疑的になっています。

やはりスピントと聞けば連想されるレパートリーというものがあり、
さらにそのレパートリーから想像されるオーケストレーションの厚さ、というものがあって、
だから、ある歌手が”私はスピントです。”と言う時、当然、オーディエンスとしては、
それらのレパートリーのオーケストレーションをきちんと越えて響いてくる声を想像するわけです。
ところが彼女の声はかなり軽くて小さくて、ルチアやヴィオレッタを歌わせようとした先生がいた、というのは全然不思議じゃないです。
しかし、彼女の発声には通常べル・カントを得意とする歌手が持っている、
そのお陰で小さな声でも劇場の隅々にまで音が届くのを可能にする音の響きや鳴り方が備わっておらず、
また彼女は一般的に言って、音を力いっぱいフォースするような歌い方をするので、
それがまるでスピントやドラマティコに向いている・であるような印象を一部の人に与えるのではないかな、と思います。
でも、スピントやドラマティコのレパートリーを歌うのを可能にするのは歌い方だけではなくて、
それを支える声の方も大事な要素の一部なんであって、
私が聴いた限りでは彼女の声はドラマティコはおろか、スピントのレパートリーですら、
こんな声で実際の劇場の全幕公演を歌って通用するのかな、というような種類のそれです。
歌唱で消費されている力が全部音になっていないため、音が薄っぺらくすかすかですし、、。
彼女はスピントのロールを歌っている時が一番楽、と言っていて、それは素晴らしいことだと思いますが、
彼女が”歌っている”つもりでも、こんな声で歌われるスピントおよびドラマティコのロールは、
聴いているオーディエンスの方が満足感を得れないと思います。

またこんなことを言うと、フランスのエロじじいと第三次世界大戦並みの戦いが勃発しそうですけれども、
そもそも、彼女が世界で一級レベルのソプラノという前提で、どの声質かに無理矢理カテゴライズしようとするから
どうやっても辻褄が合わない、説明しきれない、、ということになってしまうのであって
私に言わせれば、彼女をどの声種にもカテゴライズしにくい理由の一つは、どのカテゴリーにおいても彼女がB級であるからで、
つまり、彼女は少なくとも今は世界一級レベルのソプラノなんかでは全くないのであって、
どうしてこんな簡単なことが70年以上も生きてきてあのエロじじいはわからないかな、、と思います。



ここまでは彼女の素質や声の話でしたが、次に表現、特にこの『つばめ』のマグダに関して。

彼女のマグダを聴いていて、一番良くわかったのは、”ああ、彼女の蝶々さんはこんな感じに歌うんだな。”ということ。
そう、マグダを聴いているのに、蝶々さん、なんです。
蝶々さんは15歳かそこらの少女で、どんな時も心情を正直に吐露するし、
ピンカートンが彼女を現地妻と見ていようが、彼女の方はピンカートンの奥さんと会うまで自分は堂々の本妻!と思っていて、
プッチーニが蝶々さんに与えているパートはそれを反映するものになっていると思います。
一方、マグダは自分のグリゼット(お針子など本職を持ちつつ、男性と金・プレゼントなどを対価に寝る女性たち)人生に”そろそろこのままではいれない、、。”と思いつつ、
しかし、最後にはそこに戻って行くことを選ぶわけで、そこには人生への諦観もある、、、俗な言葉で言えば蝶々さんよりずっと”大人”の女性です。
だから、蝶々さんの表現に必要な一目盛りとマグダの表現に必要な一目盛りは幅が違っていて、
マグダを歌う時にその微妙な匙加減を表現し尽くせず繊細さを失うと、この話の肝心なメッセージが観客に届かない、ということがあると思うのです。
オポライスは先の素質の部分について書いたような、歌唱方法の問題(音を響かせるよりも力で音を押そうとする)も関係しているのかもしれませんが、
マグダを歌う際にもアプローチがすごく蝶々さん的=マグダの表現に必要とされるそれに比べて表現が大味で、
大切なディテールが落ちていたり、マグダがどのような感情を持ちながらある言葉、フレーズを歌っているのか、それが全く伝わって来ない箇所がいくつもあって、
まるで蝶々さんを歌っている、その言葉だけが『つばめ』の作品のそれになっているような妙な感覚でした。

例えば、一幕でマグダが
Denaro! Nient'altro che denaro! Ma via! (お金!お金以外は何もない!私の人生!)と歌いますが、
このDenaroという言葉を彼女は単純に音として歌っているだけで、
それを本気で嘆いているのか、自虐的にそう言っているだけなのか、、マグダのスタンスを表現する何らの感情も伝わって来ないのです。
ゲオルギューが2008/9年にこの役を歌った時
彼女はマグダがお金に対して持っている飽くなき憧れ・執着をdenaroというたった一つの言葉に込めていて、上手いなあ、、と思った覚えがあります。
プッチーニがこの単語につけた音楽を聴けば、そして、この『つばめ』の話をきちんと消化していれば、
ゲオルギューのこのアプローチが最も適切だと私は思っていますが、違うアプローチでも構わないから、何かをきちんと表現して欲しい、と思うのですけれど、
オポライスの表現は本当のっぺらぼうでがっかり。



それからラスト、ここも大問題です。
オポライスはシンガーズ・スタジオで、マグダのことを”段々死んで行っている”と表現していました。
ルッジェーロと出会うまではそういう解釈の仕方も出来ると思います。
でも、ルッジェーロに出会ってから、それから別れる決心をするまで、マグダの気持ちはどのように変わっていくのでしょう?
最後に別れる決心をしますが、あれはマグダにとって死を意味するの?それとも死から抜け出たの?
彼女は最後のAhをきっちり歌うことに相当神経を使ってたようで(この最後の音を出すのにかなり硬くなっているのが伺えました。)、
その甲斐あって、音そのものはきちんと出てましたけど、メトに来て、きっちり音を出すので精一杯、というのもなんだか寂しい話です。

このAhはマグダ役を歌うソプラノがどのようにこの作品を解釈しているかがわかる大事な音です。
私はこの作品はマグダが結局自分の望むライフスタイルを再確認し
(だからゲオルギューのようにお金への未練が絶ちがたい、ということを先に表現しておくことが大事なのです。)、
それを選ぶ自由のために、愛を捨てる、
つまり、人生において、何かを採れば、何かを犠牲にしなければならない、というメッセージがあって、
それが表現出来てこそ、この作品が老若男女問わずにオーディエンスにアピールする公演になると思うのです。

私はだからこのAhには自分が解放され、居るべきところに戻っていけるという気持ちと、
そのために失ったもの(愛)への寂寥感、この両方、特に後者がきちんと描けているのが理想で、
残念ながら生で聴くことは出来ませんでしたが、以前こちらの記事で紹介したオフリンの歌がこれを完璧に歌唱で表現しています。
先述の2008/9年シーズン中、ゲオルギューが出演をキャンセルした日にオフリンがカバーに入った公演で、
この最後のAhを聴くと、なぜ、この作品が『つばめ』というタイトルなのか、そして幾重にも重なったマグダの複雑な気持ちを見事に表現しきっています。



同年のHDでのゲオルギューの歌唱はより失った愛と自分の人生に普通の恋愛とか結婚は決して存在しないのだ、
なぜならお金に囲まれた愛人生活が自分の居場所で、そこを捨てることは出来ないから、、という気付きへの悲しみを強調した表現になっていますが、
彼女の表現したいことはきちんと伝わって来ます。



一番いけないのはここで何を表現しようとしているのか、したいのか、が全く伝わってこないAhで、
オポライスのAhから私は何らの感情も感じることが出来なかったし、これが私が彼女の歌を聴いて”音楽性に欠ける。”と思う理由なのです。
実際、公演後、劇場の階段を降りている途中、若いカップルからこんな会話が聞えてきました。

”お母さんの許可とか言ってないで、二人で駆け落ちすればいいじゃないの。”

ああいう歌を聴いたら、そういう風に思ってしまうのも当然だな、、と思います。
それに、マグダだって、どうしてもルッジェーロと別れたくなければ、一々昔のことを告白する必要もない。
ルッジェーロを愛しているから嘘をつきたくなかった、というのも一つの見方かもしれませんが、私はその解釈をとりません。
実際、ルッジェーロは彼女が過去を告白しても、”そんなことは自分にとっては大したことじゃない。”と言っています。
ポイントは、マグダ自身が、お金と自由に囲まれた生活を捨てられない、ルッジェーロと比べてもそちらを採りたい、
ここに気付いてしまった点であって、その意味ではこの話は最早男女二人の悲恋話なんかではなくて、
マグダという女性が自分の身勝手さに気付きながらも、でも”私はこういう風にしか生きられない!”という選択と、
それについて来る代償(彼女の将来が限りなく寂しいものであろうことは誰にでも想像がつきます。)を受け入れる、そういう話なんであって、
それがきちんと歌唱で伝わらないと、上のカップルのような、”何、この話、、?”というリアクションになってしまうのだと思います。



手足が長く長身なのは下手をするとでくの坊になってしまう危険がありますが、オポライスは動きがエレガントで、
舞台でどう動けば綺麗に見えるか、ということは良くわかっていて、それは良く実践しています。
ただ、動きが綺麗なことと演技が上手いというのは全く別の問題で、
本能的な舞台勘の良さを持つネトレプコとは全く違うタイプだし(オポライスはどちらかというと事前にがっちりと演技も固めてくるタイプに見受けました。)、
また、普通に言うところの”演技の上手さ”では現在のオペラ界でトップ・レベルに入るポプラフスカヤ(歌は下手だけど、彼女の演技力はすごいと思います。)と比べて、
特別に秀でているものがあるかというと、そこまでとは私には思えないのですが、この点についてはもう少し他の役でも見てみてから判断したいな、と思っています。

というわけで、私の結論としては彼女についてはシリウスを聴いた持った感想とほとんど同じか、
下手すると未知数だった部分(声の良さ)が大したことない、と確定してしまった分、余計に評価が下がった位で、彼女のどこがそんなに特別なのか、まったく良くわかりません。
それなりにきちんと歌ってはいるのでポプラスカヤみたいな”えーっ!?”というような歌唱ではないですが、
個性とかこの人なりの表現というのが全く感じられなくて、こんなに美人でなければヨーロッパの地方劇場で活躍、のレベルで終わってもおかしくない感じです。

この公演の数日後に『リゴレット』の公演でマフィアな指揮者とインターミッションを過ごし、その際、彼女のことを話題に出したら、
この記事と同じ公演で劇場にいたらしい彼もまったく同じ意見で、”彼(エロじじい)が彼女に一体どんな特別なものを見ているのかわからんねえ、、。”と言うので、
”私の連れが、それは彼が耳でなくチン○で聴いてるからだって言ってた。”と言うと、大笑いで同意してました。
これでちょっと気が晴れたな、、と思っていたら、何とその数分後にエロじじいが我々のテーブルに現れ、
今度は『リゴレット』のジルダ役で素晴らしい歌唱を披露していたダムラウに向けてとんでもなく失礼な言葉を吐いたので、
私が再び”このチンカス野郎!!!”と噴火状態に陥ったことは言うまでもありませんが、その話は『リゴレット』のレポートに譲りたいと思います。



ルッジェーロ役のフィリアノーティはシンガーズ・スタジオの時に、モーツァルトはあまり向いていなくて、
このルッジェーロ役を含めたリリコの役の方が自分に合っていると思う、と言っていましたが、
私はこのルッジェーロ役は音のリープが多く、それが彼のまだ完全復活に100%至っていない部分を強調するような結果になっているように思えます。
それから、プッチーニの作品は歌手に遊びとか冒険を求める部分があって、そこをやり過ぎると下品になるし、やらなさ過ぎると物足りないし、で、
そこがプッチーニの作品を歌う場合に、最も歌手のセンスが問われる難しいところではないかな、と個人的には思っているのですが、
その辺、フィリアノーティはこの作品でもう少し冒険してもいいかな、、ちょっと端正で真面目過ぎるように思います。
彼の端正・真面目・スマートな個性はどちらかというと、ベル・カント・レップやモーツァルト作品の方が合っていると私は思うのですが、
ご本人がそう思っていないのは面白い点だな、、と感じます。
2008/9年の公演では駄目男を歌わせたら天下一品のアラーニャが同役を歌ったのも、フィリアノーティには不利だったかもしれません。
フィリアノーティだったら、マグダからの別れ話なんか、その奥の奥の彼女の気持ちまでさり気なく読んで、
”よしわかった、これっきりにしよう。”と大人な別れ方をしてくれそうな感じがしてしまいます。
アラーニャみたいに鼻をたらしながら(HDの時みたいに、、)”別れないでくれ。”と懇願するようにはとても見えないし、聴こえません。
リブレットには鼻をたらす、とは書いてないですが、”別れないで”と懇願はしますからね、ルッジェーロは。



プルニエ役のマリウス・ブレンチュウはこれが唯一の持ち役といった感じで、メトにはこの役でしか登場しないのですが、どうなっちゃっているんでしょう?
彼はルーマニア出身みたいなので、ゲオルギューの口利きでこの役にキャスティングされたのかな?
2008/9年と同じプロダクションなので、勝手知ったる、、という感じでのびのび歌っていましたが、以前ほど声に軽さを感じられなくなったように思いました。

リゼット役のアンナ・クリスティは今回初めて生の歌声を聴きましたが、こういう脇役ではいいかもしれませんが、
ここから主役級の役をメトで歌って行くようになって行くポテンシャルのようなものは私はあまり感じません。
どんなにきちんとした歌を歌っていても、彼女の声自体にオーディエンスに生理的な心地良さを生みだすものがないからです。
コミカルな演技はそれなりに上手い人ではあるので、キャスリーン・キムと同様、ニッチな路線に活路を見出す必要があると思います。
(ただし、声の綺麗さではキムの方が何倍も上だし、演技の間口もキムの方が広いと思います。)

ゲオルギューの口利きと言えば、指揮のイオン・マリンもそうなのかな、と思います。
彼もルーマニア出身だし、2007/8年シーズンの後の夏にメトのパーク・コンサートの一貫として行われたゲオルギュー&アラーニャ・ガラを振ったのも彼でした。
彼の指揮はなんかあっさりしてますよね、、、
私は2008/9年シーズンの時のマルコのようなべったりメロドラマティックな味付け(先に紹介したオフリンの音源の弦のメロメロぶりなんて、たまりまへん!)
が好きなので、ちょっと物足りなかったです。


Kristine Opolais (Magda)
Giuseppe Filianoti (Ruggero)
Anna Christy (Lisette)
Marius Brenciu (Prunier)
Dwayne Croft (Rambaldo)
Monica Yunus (Yvette)
Janinah Burnett (Bianca)
Margaret Thompson (Suzy)
Keith Jameson (Gobin)
Edward Parks (Périchaud)
Evan Hughes (Crébillon)
Daniel Clark Smith (Adolf)
Stephanie Chigas (Georgette)
Sara Stewart (Gabriella)
Christina Thomson Anderson (Lolette)
Jason Hendrix (Rabonnier)
Lei Xu (A Singer)
Roger Andrews (A Butler)
Conductor: Ion Marin
Production: Nicolas Joel
Set design: Ezio Frigerio
Costume design: Franca Squarciapino
Lighting design: Duane Schuler
Dr Circ C Odd
ON

*** プッチーニ つばめ Puccini La Rondine ***

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17 コメント

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美人はやっぱり・・・ (名古屋のおやじ)
2013-02-04 20:10:32
未聴だったネルソンズ夫妻のプッチーニの『アンジェリカ』のCDを聴いてみました。容姿が見えないと、つらいなあ、というのが正直なところ。歌だけではとても勝負できる代物ではありません。アンナ・モッフォもこれに比べれば、はるかに上等だと思いました。
記事を楽しみにしています。 (bchama)
2013-02-04 22:56:17
切符を買った後にフェニーチェ劇場のチェドリンスのDVDをみたのですが、つばめは捕らえどころがないオペラだなっというのが第一印象で、リゾート地のフェニーチェでの観客の反応もイマイチでしたので、初めて観るオペラであまり期待できないのかなっと言う感じで劇場に来ました。プッチーニに失礼かもしれませんが昼メロ的なオペラ、倦怠感ただようオペラという印象でそういう意味で初心者には難しいオペラかもしれませんね。作曲家にとっては思い入れがあるのでしょうが今の人間でこのような倦怠感ただよう生活はなかなか出来ないでしょう。でも倦怠感ただよう感じはある程度出ていたように感じましたが、若い男が成熟した女性に恋をするのはよくある話で、それが娼婦でも結婚まで考えて真剣に母親にも相談の手紙を書いて説得し母親もそれを許して(もちろん相手が娼婦とは知らなくて<息子を信じています。でも母親が手紙だけで信じるとは考えられません。)若い男は真剣に結婚を申し込みますが、女は冷たく愛人なら良いけれど言いますが、こう言われると男は考えますよ。所謂萎えるというものです。中年になればシメシメというものですが、若い純真な男には酷な言葉でしょう。そんな酷な言葉を言うのは昔の芸者にも共通するところがあるのでしょう。そんな色艶のある生活をする人間は現実世界には存在しません。たぶん。
リゴレットは日本でもスカラ座がこの秋に公演します。しかしながらダムラウとズーリックのリゴレットが観たかった。...METのDVDは持っているのでなおさらでした。記事を楽しみに待っています。
そういえばマリオッティは日本のボローニャ歌劇場の公演の時に正教徒を指揮してくれた人でした。失礼しました。

名古屋のおやじさん (Madokakip)
2013-02-05 13:45:46
>未聴だったネルソンズ夫妻のプッチーニの『アンジェリカ』のCD

!!!! どうしてそんな恐ろしい商品をお買い上げになりましたか?!
私はメトの『トゥーランドット』でのネルソンスの鈍くさい指揮姿が瞼に焼き付いておりまして、
なのにこの間のシンガーズ・スタジオでオポライスに“うちのだんなは最高のプッチーニ指揮者発言をされて、
もしお茶でも飲んでたら噴水状態になっていたところですが、
あの指揮にオポライスの歌がついてくるなんて、想像するだに怖すぎます。
しかも『修道女アンジェリカ』は『つばめ』と同様プッチーニの作品で大好きなものの1つです。
というか、一般的に言って私はプッチーニの作品が大好きなのですけれども、
オポライスのレパートリーにかなりプッチーニ作品が多く含まれているのが実に心配です。
メトは何を交渉したのでしょうか、、。

>アンナ・モッフォもこれに比べれば、はるかに上等

モッフォはもしかすると美人だったことでどちらかというと損しているタイプじゃないかな、、と私は思うんです。
彼女の声がまだ破綻していなかった頃は、そう悪くない歌を聴かせているのに、あの色気とアメリカ人である、という事実のせいでちょっと際物扱いされている部分があるように思うのです。
(ま、確かに時々ええっ?というようなセンスのない表現をすることもありますが、、。)

生まれたのがちょっと早すぎたかもしれませんね。
当時は今みたいに一般的な家庭用のソフトで映像が見れるものはなかったですから、鑑賞が圧倒的に音が中心で、
彼女より歌の上手い人が“真の歌手”として評価を受けていたのでしょう。
でも、もしモッフォが今現役だったら、際物扱いされることはほとんどないんじゃないかな、、と思います。
そして、私の友人がまた鼻の下を伸ばして大変なことになっていたでしょう。
bchamaさん (Madokakip)
2013-02-05 13:54:32
いえいえ!!『つばめ』は私は大傑作だと思いますよ!!
この作品は表はメロドラマ的ですが、底にはとてもクールで、ほとんど現代的といってもいいテーマが流れていると思います。

>若い男が成熟した女性に恋をするのはよくある話

と、そこまでシチュエーションを限定してしまうとなかなかとっつきにくいかもしれませんが、
『アイーダ』を見て自分は王女じゃないからアイーダやアムネリスの気持ちはわからない、、という人はほとんどいないんじゃないかと思います。
私は未婚で(いつも登場する“連れ”はパートナーであって、夫ではありません。)、子供もいません。
振り返ってみれば、あの時、あの人と結婚していてもおかしくなかったな、、と思う人もいますが、
そうはなりませんでした。
子供の頃は20代で結婚して家庭に入って、、と漠然と思っていたのが、
いつの間にかNYまで来てしまい、
幸か不幸か、今も20代の子と同じように(と自分では思いたい)がんがん働いてます。
そのお陰で、こうしてオペラに定期的に行けるだけの金銭的余裕があるのでしょう。
この中には自分で積極的に採った選択もあれば、それが運命だったのだと納得するしかないものもあるのですが、
何かを選んだ時には、必ず何かを失いました。
こんな自分は幸せか、、?
それは良くわかりませんが、こういう風にしか生きられなかったと思うし、
他の誰も、何を選ぶべきかを人に教えることは出来ません。

私が初めて『つばめ』を見た時、普段特に意識して考えたことがなかったこういうことが、形になって舞台に乗っているような気がして、すごく胸に迫りました。
自由である、ということは、一人であるということを引き受けること、、。
(さっきも書いた通り、ディテールに気をとられると、私はグリゼットじゃない、とか、オポライスみたいに美人じゃないし、金銭で援助してくれる愛人もいない、、となってしまうので、気をとられないに限ります。)

人生の色んな選択の中で、その結果、何かを失う、というのは男性も同じではないですか?

もし、これらのメッセージを歌唱できちんと伝えられていないとしたら、フェニーチェのチェドリンスもオポライス並みということで、Madokakipの“美人なだけのソプラノ“リストに追加いたします(笑)
なんとなく (bchama)
2013-02-05 20:39:59
色々な人生の中で何かを失うことはたくさんありますよ。色々有って分からないくらいです。でも、共感できるのはオペラで言えば道化師のほうですね。人生の色々な悲哀を背負って生きていますからね。何十年も生きていれば、順風満帆なんてありっこないですからね。不思議なもので悲しいとときに悲しいオペラを聴いたり観たりすると救われる気持ちがしますね。ツバメのほうは女性が多く共感を呼ぶのかもしれません。でも、生まれてよかったどうかのアンケートを取ると女性は80パーセントが良かったと。男は40パーセントぐらいに落ちるらしいですね。(笑)映画ジャイアントの中の映画の最後のシーンで夫が妻に君の言うことは100年たっても分からないというシーンがありますが感じ方にどうしても差が有るように思えます。(と決めつけるとなんか怒られそうですが(笑))
モッフォ (チャッピー)
2013-02-05 22:32:19
>モッフォはもしかすると美人だったことでどちらかというと損しているタイプ
70年代にFM雑誌に載ってた記事で彼女を知り、ずっと後になって歌声を聞きました。ちゃんとした歌手だったのでびっくりしました。
映画に出たり、ヌードになったとかで、歌手はついでにやってる人だと思ってたら違っていた。
ルネ様が脱ぐのを拒否してるのも、モッフォの失敗?に学んでるのかな、と思います。
初期の活動時期がカラスと被っていて、それも過小評価につながったのかなあ、という感じです。

今は政治家も容姿が重要だったりする。ニクソン以後は不細工な大統領はいないし、日本でも小泉以降は政治のショー化が進んでる。「党首の顔が嫌いだから、民主党には入れなかった」と言ってた同僚がいる。(まあ、党首の容姿以前に民主はアレだったが。)今は肥大化した野田前総理、若いころは結構イケメン。Yol嬢に見せたらバカ受けしたので、貼ってしまおう。
http://itaishinja.com/archives/3644970.html
HD向け (Kew Gardens)
2013-02-06 12:18:09
声に魅力もなくサイズも小さくて、演技もいまいちとなると、Opolais、度アップが売りのHD向け、ヴィジュアル重視の申し子といったら失礼でしょうかね・・・・。 覆面テストとかしたら、お友達のエロおやじさんや彼女にノックアウトされた人たちは、全く違った感想を述べたでしょうに。 

私は例のBSOのルサルカをBDで鑑賞しただけなので、何とも言い難く。 第一、あれは演出がかなりキモイので画面に気を取られてしまいます。 そういえば、もともとこの役はStemmeが歌うはずだったけれど、演出が気に入らなくて降りたとか。。。 何事にも最初があるので、これから伸びていってくれるなら、ですよね。やっぱりMETは早すぎだったかしら? 今回のHDヴューイングには入っていないのは、彼女にとっては、痛かったかも。 

ずっと昔、オペラを聴き始めの頃、会社の大御所のオネーサマから、オペラ歌手がいかに声で役を作るのかという話をよく聞かされました。 ジェシー・ノーマンが、オペラでは可憐なティーネージャーになるのかも聞きましたが、こういう話は、過ぎ去った過去なのでしょう。 ま、Park & barkの過去の遺物でもいいですけれど。 
bchamaさん (Madokakip)
2013-02-06 13:32:34
あらま!『つばめ』から『道化師』とは、これまたすごい転換ですけれども、
そして、『道化師』のような人生、、、って、ちょっとbchamaさん、すごいことになってませんか?
事情をお伺いするのが怖いので、どうぞ、詳細はそのままご自分の胸に留められ、
メトで『道化師』がかかる時にまたNYにいらっしゃってくださいませ。
チャッピーさん (Madokakip)
2013-02-06 13:33:19
>映画に出たり、ヌードになったとかで、歌手はついでにやってる人

(笑)オペラ歌手をついでにできる人がいたら、ぜひお会いしてみたいです。

>ルネ様が脱ぐのを拒否

!!!! っていうか、大体そんなニーズあるんですか!?
ないと思います!!(笑)

>初期の活動時期がカラスと被っていて、それも過小評価につながったのかなあ

あの頃はカラス以外にもごろごろ良い歌手がいましたからね、、
それは絶対あるでしょうね。

>ニクソン以後は不細工な大統領はいないし

えええええーっ!!!ブッシュ(子)とかすごい不細工じゃないですか?!
だけど、ほんとだ、、野田さん、細い、、(笑)
しかも、なぜ、口に花?しかもなぜそれをマーカーで丸??(笑)
Kew Gardensさん (Madokakip)
2013-02-06 13:34:56
演技は下手では決してないんですが、どちらかというと動きの綺麗さが印象に残るタイプ(そういう意味でいうと女優というよりモデル的な、、)じゃないかな、と思います。

>覆面テスト

そうなんですよ!!いつかやってみたいですねー。
もう最近では歌を聴く前から、彼がその歌手を好きになるか、ならないか、大体想像がつきます。

>例のBSOのルサルカをBDで鑑賞しただけなので、何とも言い難く。 第一、あれは演出がかなりキモイ

私も一部拝見しましたが、本当、いやーな気分にさせられるプロダクションでしたよね。

>もともとこの役はStemmeが歌うはずだったけれど、演出が気に入らなくて降りたとか

そうそう、このルサルカの時に本当はメトで『ラ・ボエーム』を歌う(相手は確かグリゴーロ君だったように記憶してます。)はずだったんですが、割と間近にキャンセルになったんですよね。

Another Pucciniということで、以前ムーアの歌唱を紹介したことがある“Addio, mio dolce amor”

http://youtu.be/T3fGuyC6ndg

私が『つばめ』で聴いた彼女も大体こんな感じですね。
決してめためたではないですが、音色にあまり魅力がなくて(しかも今くるよみたいにこんなに首に青筋立てて歌っているんですね。これはエロじじいの百年の恋も冷めますよ、まじで。)、
特に2‘40“、この音は『つばめ』で聴いたAhと同じですね。
歌いこなすので精一杯/満足、ってやつで、その次の音の入り方にも色気がない、、。

それに比べたら荒削りでも、ムーアはずっと面白い歌を歌っていると思います。

http://youtu.be/lXW0645G9lo

2’53”あたりからが同じ箇所ですけれど、こんな貧しい録音の音質にも関わらず、
どちらの音もオポライスよりずっと表情があって素敵です。
彼女は黒人ですけど、ジェシー・ノーマンみたいにたくましくなく(笑)、可憐なアイーダでしたし、
プッチーニ作品の全幕でも聴いてみたいです。

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