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『生きがいについて』神谷美恵子著書

2017年03月18日 | 看護師の仕事など
先日、タイのハンセン病院で働いている看護師さんに会って
思い出した本です。
学生時代に読んだものですが、そこでハンセン病を知りました。
それまでは知りませんでしたから。

そして、今、神谷美恵子氏に興味をもって、調べてみました。
下記はウィキペディアから抜粋です。

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神谷美恵子は1914年(大正3年)に内務省職員である父前田多門とその妻房子の長女として
岡山市に生まれた。
父親は内務省におけるエリート官僚として、外国との折衝を始めとした役職を歴任したため、
一家は頻繁に転居している。
美恵子は翌1921年(大正10年)に聖心女子学院小学部へと編入。
1923年(大正12年)になると、父はジュネーヴに新設された国際労働機関の日本政府代表に任命され、
一家はスイスへと向かった。
美恵子は市内に存在するジャン=ジャック・ルソー教育研究所付属小学校へ編入学した。
この頃両親は二人の結婚式の媒酌人であり当時国際連盟事務次長を務めていた新渡戸稲造と
親密に交際しており、彼を尊敬していた両親と同様に美恵子も新渡戸から大きな影響を受けた。

小学校卒業後はジュネーヴ・インターナショナル・スクールへと進学した。
スイス生活が長引く中で、兄妹はフランス語を日常会話においても用いるようになった。
後になっても「読み書きと思考は今でもフランス語が一番楽である」と語っている。

1926年(大正15年)に一家は帰国し、父は東京市制調査会専務理事として勤務した。
美恵子は一旦自由学園に編入学したが、そこでの教育が身に合わず数ヶ月の内に成城高等女学校へ
と転学している。
学校の他にアテネ・フランセにおいて語学を。
1932年(昭和7年)に成城女学校を卒業すると、津田英学塾本科へと進学し文学を専攻した。

1934年(昭和9年)に美恵子は金澤からオルガンの伴奏役としてハンセン病療養所施設の訪問に
同行するよう求められた。
叔父とともに多磨全生園を訪れた彼女は、患者の病状に強い衝撃を受けた。

ある種の「召命感」とともに自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとした、と語っている。

美恵子は医師としてハンセン病患者に奉仕しようと決意し、東京女子医学専門学校の受験勉強を開始した。
両親や津田英学塾の星野塾長はこれを諌め、1935年(昭和10年)に本科を卒業すると
塾長の薦めに従い大学部へと進学した。
当時の津田の大学部では、数名の生徒に対して西脇順三郎が英語を、
玉川直重がラテン語を教えるなど貴重な教育体制がくまれていたが、
美恵子はハンセン病治療に寄与したいという思いを捨てきれなかった。

彼女は結核に感染したため軽井沢へと療養に送られたが、組織的な勉強の重要性に気付いた彼女は
その訓練をかねて秋には旧制高校の教授資格である英語科高等教員検定試験に受験し合格している。
一旦は病状が収まったものの、翌年に再発し再び療養生活へと入った。
死ぬまでに古典文学を読んでおきたいとベッドの上で独学に励み、イタリア語でダンテを、
ドイツ語でヒルティを、さらに古典ギリシャ語で新約聖書を読み進めていった。
その中でもマルクス・アウレリウスの『自省録』(ギリシャ語)は彼女の生涯を通しての座右の書となった。
結核は医師の薦めで受けた人工気胸術によって完治している。

朝日新聞で論説委員を務めていた父親は、二・二六事件の頃から軍部および特高の注意を引くようになり、
これを危惧した友人らの斡旋によってこの施設の初代館長に任命された。

以前から渡米の話を持ちかけられていた一家は、揃ってニューヨーク近郊スカースデールに移り住んだ。
美恵子はこの頃にも医学への転向を再三父に申し出ている。
父はこれを許さず、彼女はコロンビア大学大学院古典文学科で古典ギリシア文学を学びはじめた。

翌年にはフィラデルフィア郊外に存在するクエーカー運営の学寮ペンドル・ヒルで寄宿生活を送り、
生涯の友人となる浦口真左と出会っている。

医学部進学に対する父の許しを得た美恵子は1940年2月からコロンビア大学医学進学課程に入学した。

翌年戦争の勃発を危惧した一家は父を残して帰国し、
美恵子は東京女子医学専門学校本科に編入学した。

この頃コロンビアにおいて出会った人物と婚約したと見られるが、すぐにこれは解消された。
翌1941年(昭和16年)12月には日本海軍のパールハーバー攻撃によって日米は開戦し、
父はエリス島でしばらく抑留生活を送った後に第一次交換船で日本へと帰国した。

1942年(昭和17年)の10月には当時ハンセン病の権威であった太田正雄(木下杢太郎)の研究室を訪問し、
さらに卒業前の1943年(昭和18年)には岡山県の長島愛生園で、12日間を過ごして
日本のハンセン病治療史における重要人物である、光田健輔と知己となるなど、
ハンセン病治療に対する関心はこの頃になっても変わっていない。

友人が精神分裂病を病んでいたことから、精神医学にも興味を持つようになり、
1944年(昭和19年)女子医専を卒業すると、東京帝国大学精神科医局へ入局して、
内村祐之教授のもとで、精神科医としての教育を開始した。

1945年(昭和20年)3月11日の東京大空襲によって、東中野の実家は全焼し、
家族がみな疎開するなか一人で精神科病棟に移り住んで患者の治療に当たった。

8月に日本がポツダム宣言を受諾、父は東久邇宮内閣において文部大臣に抜擢され、
美恵子はその仕事を手伝うために父の秘書としてGHQとの折衝および文書の翻訳作業などに
従事することになった。

美恵子は文部省における仕事を続け、事務嘱託の身分でGHQ教育情報部との折衝にあたった。
語学の才が他に代え難かったことから、大臣よりも高額の俸給を受け取っていたともいわれる。

東大へと戻り、東京裁判において東條英機の頭を叩くなどして精神科に収容された大川周明の
精神鑑定を手伝っている。

東大医学部では、ある同僚の若い精神科医から、「ストーカー」的執着を示され、大変困惑していたようである。

7月に、東京帝国大学理学部の講師を務めていた植物学者神谷宣郎と結婚した。

神谷は美恵子と同時期にアメリカ東海岸で研究生活を送っており、
同じく植物学を修めていた浦口真左のペンシルベニア大学サイフリッツ研究室における同僚でもあった。
二人は世田谷に新居を構えた後、上北沢へと転居し、ここで長男の律が誕生した。

結婚後十年ほどの間の暮らしは戦後の物資不足や次男の粟状結核などもあり、
極めて苦しいものであった。
栄養失調により、律の体調が悪化した際にはララ物資による粉ミルクの支給を受けなんとか小康を取り戻した。

1949年(昭和24年)に夫の宣郎は大阪大学教授に招聘され一家は大阪へと移った。
12月には次男の徹も生まれ、主婦として多忙な生活を送る一方で、
以前愛読したマルクス・アウレリウスの『自省録』の翻訳書を創元社から出版した。
1950年(昭和25年)に宣郎はペンシルベニア大学に招かれたが、美恵子は子供二人とともに
大阪にとどまりアテネ・フランセやアメリカン・スクールで語学を教えた。

1951年(昭和26年)に宣郎は帰国し一家は芦屋に移り住んだ。
結核に感染した次男の治療薬を闇市で手に入れるために、
自宅での私塾やカナディアン・アカデミーでフランス語を、
1956年(昭和31年)からは神戸女学院大学で非常勤講師として文学を教えた。
1954年(昭和29年)に初期のガンが発見されラジウム治療を受けた。

1957年(昭和32年)に、長島愛生園におけるハンセン病患者の精神医学調査を開始した。
この業績をもとに1960年(昭和35年)に大阪大学で学位を取得、神戸女学院大学の教授に任命され、
1963年(昭和38年)からは母校の津田塾大学教授に就任した。

精神医学およびフランス文学などの講義を担当しており、
芦屋の家から岡山県と東京を往復する生活を続けている。
愛生園での研究や1958年(昭和33年)に京都でおこなわれたゴッホ展を見たことがきっかけとなって、
後に『生きがいについて』を構成する文章を書き進めていった。

1963年(昭和38年)にはアメリカで研究生活を送っていた宣郎のもとを訪れ、
その帰途に同地におけるハンセン病施設および英仏の精神病施設を見学している。
スイスではユネスコの政府代表となっていた兄の陽一からミシェル・フーコーを紹介された。

1965年(昭和40年)からは、長島愛生園の精神科医長に就任し、
自宅から療養所へと通って治療にあたった。
1966年(昭和41年)には、第二次世界大戦中に自殺したヴァージニア・ウルフの病跡を調べるため渡英し、
夫のレナード・ウルフと面会した。
二人はレナードの死まで文通を続けている。

この年にみすず書房から『生きがいについて』が出版された。

その後は愛生園での医療に携わる傍らでフーコー[5]、ジルボーグの翻訳、
自身の著書の執筆、ウルフの病跡学研究などをおこなった。
1972年(昭和47年)に心臓を悪くして以降は、心身に大きな負担を強いていた愛生園での仕事を辞め
家庭と執筆を中心として生活したが、晩年の数年は十数回にわたる入退院を繰り返し、
1979年(昭和54年)10月、心不全のため、65歳で死去した。

二人の妹はそれぞれソニー創業者井深大、伊藤忠商事の副社長を務めた人物と結婚した。
父 多門は後述の野村胡堂と共にソニーの前身である東京通信工業に出資しており、
名誉職であるが初代社長を務めた。

美恵子の長男神谷律は父の宣郎と同様に生物学者となった。
東大大学院理学系研究科教授、学習院大学理学部客員教授などを務め、
藻類がもつ鞭毛の構造および運動機構に関する研究を手掛けている。
次男神谷徹は、京都大学理学部で宇宙物理学を修めた(1973年卒業)
のち古楽器演奏家となり、リコーダーとユニークなストロー笛の演奏で人気を博している。


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こういった人生、あるものですね。

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