Potential of aromatherapy

aromatherapy and golf and movie

『ブルックリン』

2017年03月31日 | 映画


監督:ジョン・クローリー
脚本:ニック・ホーンビィ 
    『わたしに会うまでの 1600 キロ』  
    リース・ウィザースプーン主演の自分探しの映画もよかったです。

出演:シアーシャ・ローナン
   『つぐない』は大好きな映画です。キーラ・ナイトレィ主演でしたが
   シアーシャのついた嘘で、引き裂かれる男女。
   深い映画でした。

今回のブルックリンは、静かに一人の女性の生き方。
南国の海のような薄いブルーの瞳のシアーシャ・ローハンの
女性としての生き方、恋愛・・・・
その眼差しが美しかったです。


道端のハナニラがいろんな場所にみられますね。

ずっと赤字

2017年03月31日 | 看護師の仕事など
訪問看護ステーションは、大規模なほど黒字です。
小規模なほど赤字です。

私のステーションも、全国平均のスタッフ人数より少ないので
赤字です。
基本的に赤字。

毎日、こんにちわ、訪問看護ですーーーと元気に訪問して
バイタルサインチェックして、清拭したり、浣腸したり、
散歩したり、薬をカレンダーに貼ったり、リハビリテーションしたり、
入院や退院の調整をしたり、訪問看護計画書作成、報告書作成、
保険請求、そして24時間対応しているのに、赤字です。

人件費が高いのでしょうか?
そう、一般病棟よりも人件費は高いです。
若い看護師さんがいないからです。
20代の看護師さんは、夜勤をばりばりやるために、ほとんどが病棟です。

訪問看護師は、夜勤ができない人が多いです。
そういう私も、子供がいたために夜勤ができなかったから訪問看護を
希望したのでした。
常勤でいるためには、病棟では夜勤をしなければなりませんから。

そういう流れで、訪問看護師にはけっこう小さな子供がいるのでした。

そして、200人近くの利用者さんと契約しても、実際に今生きているのは
50名ちょっとです。
契約しても契約しても、患者さんが入れ替わるのでした。
だから経営は安定しません。


歴史は繰り返す

2017年03月30日 | 看護師の仕事など
昨年の同じ頃、『ベルサイユの宮廷庭師』という映画を観ていました。
昨年の今日は、菜の花に囲まれて、患者さんと過ごしました。

今日も患者さんと散歩しました。

毎年、毎年、同じ日に同じものを食べていることもあります。
季節もの、行事ものはそうなりますね。
今は桜の写真が同じように並んでいますが、今年はまだ桜は
ほとんど咲いていません。

早く咲かないでしょうか。

 世の中に たえて桜のなかりせば 春のこころはのどけからまし

在原業平の歌を、今の時期は必ず思い出します。

 世の中に、まったく桜の花というものが無かったならば、
 春を迎える人の心は、おだやかでいられるだろうに。

「美しい桜の花よ、どうか散らずに、このままずっと咲いていておくれ」という、
はかない花の命を惜しむ思いを、裏返しの形で表現した歌ですね。

調べると、古今和歌集なのか伊勢物語なのかはっきりしないようです。

これに対して、つっこんだ歌も有名です。

 散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき

 散ってゆくからこそ、いっそう桜は素晴らしいのです。
 この辛い世の中に、永遠に変わらないものなど何があるでしょうか。

命が短いからこそ、価値があるみたいな感じ。


 命みじかし 恋せよ 乙女 そんな歌もありましたね。


ゴルフのスイング~インサイドアウトになろう

2017年03月29日 | ゴルフ
どうしても、ボールを打とうと思うと、アウトサイドインになります。

 ゴルフをやっていないとわからないですけれども。

いろんなサイトをみて、いろいろと工夫してみて
やっと修正できそうです。

 ①両上肢を体から離さないようにする。
 ②離さないようにするために、左上肢を左側胸部から離さない。
 ③バックスイングのときから、斜め後ろ方面に両上肢をもっていく。
 ④腰を先に回す。
 ⑤腰を先に回しながら、両上肢は我慢する。
 ⑥左肩を前に出さない。
 ⑦右手をしっかり固定する。

これを練習場でやって、動画を見るといい感じになります。
レックチェックで確認しています。



雪なんか降ってる場合じゃないです。

『グランドイリュージョン  見破られたトリック』

2017年03月28日 | 映画
『ソーシャルネットワーク』のジェシー・アイゼンバーグ 主演。
あなたは必ず爽快にだまされる・・・ってことで
だまされました。

えーーーって最後に思いました。
でもニューヨークからマカオに一瞬で行かれるのかしら?とか
思いましたけれども。
雨粒も下からふっちゃうし。

映画三昧な日々です。
ソーシャルネットワークとか、やっている暇はありません。





お寺さんの駐車場に咲いていました。
赤と黄色の2色です。何というお花でしょうね。

『ハドソン川の奇跡』

2017年03月27日 | 映画
トム・ハンクスとアーロン・エッカート。
ローラ・リニーもトムハンクスの奥様役で。

監督: クリント・イーストウッド
原作: チェズレイ・“サリー”・サレンバーガー / ジェフリー・ザスロウ

飛行機が川に着陸したという事故です。
全員助かったのですが、機長はいろんな調査の対象
になります。

人間とコンピューターとの比較とか、面白かったです。
で、ハドソン川ってどこらへんかしら?思って。



実際に日本人が2人乗っていたのですね。
全員助かってよかったです。

『ジェイソン・ボーン』

2017年03月26日 | 映画
あらすじがこんがらってて、人に説明することができません。
シリーズは全部観ていますが、全くもって難しいです。

最新作にはトミー・リー・ジョーンズ、ヴァンサン・カッセルもでています。
豪華キャストですね。

アリシア・ヴィキャンデルがでていて、何の映画だったかなーーーと

『戦場からのラブレター』
『二つ星の料理人』
『アンナ・カレーニナ』
『リリーのすべて』

すべてみていました。
ちょっと暗いけれども、印象的な顔立ち。







ゆきやなぎが綺麗に咲いている今日この頃です。

ベル薔薇

2017年03月25日 | 雑記


池田理代子の「ベルサイユのばら」は大好きでよく読んでいました。
今も職場においてあります。
フランスのことはよく知りませんでしたが・・・
これを読んで、フランスのことを調べた人も多いのかなと思いました。


日本人の建築家

2017年03月24日 | 雑記
世界でも有名な日本人の建築家。
よく知っている人もいれば、初めてきく名前もあります。

☆妹島 和世+西澤 立衛
☆安藤 忠雄 表参道ヒルズが有名ですが、あとはあまり知らなかったです。
☆丹下 健三 聖マリアカテドラル教会
☆槇 文彦
☆伊東 豊雄
☆石上 純也 1974年生まれの若い人 
☆隈 研吾 
☆原 広司
☆磯崎 新
☆藤本 壮介

安藤忠雄のことを知りたくて、調べてみました。
瀬戸内リトリートに行きたいですし。

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以下はウィキペディアから抜粋。

大阪府大阪市港区生まれ、同市旭区出身。
双子の兄で、さらに弟がいる三人兄弟である。
双子の弟は東京で北山創造研究所を主宰している北山孝雄。
下の弟は建築家の北山孝二郎(ピーター・アイゼンマンとのコラボレーションで名を馳せた)。
一人娘だった母親の実家を継ぐために、生前からの約束にしたがって
大阪市旭区の祖父母安藤彦一・キクエの養子となる。
大阪の下町にある間口2間、奥行き8間の長屋で育つ。

大阪府立城東工業高等学校卒業後に、前衛的な美術を志向する
具体美術協会に興味を持ち、関わったこともあるが、
大学での専門的な建築教育は受けておらず、関西の建築家・都市計画家の水谷頴介などの
建築設計事務所でのアルバイト経験と独学で建築士試験に合格したという。

木工家具の製作で得た資金を手に、24歳の時から4年間アメリカ、ヨーロッパ、
アフリカ、アジアへ放浪の旅に出る。
ヨーロッパからの帰路、マルセイユで数週間待たされた後、
帰国の船に乗り、象牙海岸、ケープタウン、マダガスカルに立ち寄り、
インド・ムンバイで下船する。

安藤は“何かに導かれるように”汽車に乗り、ベナレスに向かった。
ガンジス川で牛が泳ぎ、死者が荼毘に付される傍らで多くの人々が沐浴するさまや、
強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く大地、
生と死が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、
逃げ出したい気持ちを必死にこらえながらガンジス川の岸辺に座り込み、
「生きることはどういうことか」を自問し続けた。

「人生というものは所詮どちらに転んでも大した違いはない。
ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいいのだ。
闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。
その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、ゲリラとしての生き方を決心する。
1965年、24歳のときである。この放浪中に安藤が撮影した写真は、
ルイス・I・カーンの作品集などで使われている。

過去にはプロボクサーでもあった。
高校2年の時にライセンスを取得し6回戦まで行ったが、ファイティング原田の練習風景を見て、
その才能に圧倒され、ボクサーとしてやっていくのを諦めた。

1977年のローズガーデン(神戸市生田区)等初期の作品のいくつかは、
弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める
浜野商品研究所(1992年、浜野総合研究所と改名)と共に実現した。

1970年代には個人住宅などの小規模建築、1980年代には商業施設、寺院・教会などの
中小規模の建築の設計が多かった。
1990年代以降は、公共建築、美術館建築、また全国や海外の仕事も増えている。
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チェ・ゲバラに傾倒していた時期もあったとのこと。
こうしたものを読むと、平凡さを感じる今日この頃です。

旅人もいいですね。



写真を見ながら、旅をするのもいいかもしれません。

ピント

2017年03月23日 | 雑記
可愛いふっくらスズメだったけれども、ピントが別のところにあっています。
カメラのピントは、枝になっていたようです。
せっかくのふっくらスズメ。

奥行きが複雑なものは、ピントが合わせにくいです。

お話のピントが合わないよりはマシかもしれません。



『イン・ドリームス』殺意の森

2017年03月22日 | 映画
アネット・ベニング主演
『アメリカン・ビューティ』で、主演女優賞にノミネートされてから
なんとなく名前は記憶しています。
誕生日が5月29日。
ふたご座です。
『天国からきたチャンピオン』のウォーレン・ベイティの奥様。
この映画は、私の好きな映画の5本の指に入ります。

このころのウォーレン・ベイティは素敵でした。
この前のアカデミー賞授賞式で、史上最悪の受賞作品発表の間違いを
してしまったので、最近有名になりました。

そのニュースをみて、年を重ねたことを実感しました。
『天国からきた・・・』では、当然ながら若くて。
出会うべき人は、必ず出会う・・・そういう映画です。

その奥様のアネット・ベニング。
映画では、エキセントリックな役柄で、感情移入していました。
予知夢をみて、自分の子供が殺されてしまい
さらにはパイロットの夫も殺されてしまい
最後には自分も・・・

ロバート・ダウニーjuniorが若いです。


体の機能

2017年03月21日 | 看護師の仕事など
「もういっぱいいっぱい」というそんな言葉もよくきかれますが、
人間は意外と予備能力が多いのです。
もうだめーーと思っても、いあ甲斐と切り抜けることができます。

なんとかなるものなのです。

患者さんたちも、脳に病変があっても、「できる部分」があるのです。
認知症の患者さんたちも、できない部分があっても、できる部分を
発見することも多々あります。

どこの臓器も、10%しか使っていないと言われます。
肺活量も一生懸命測定しても、日常は10%です。
脳の機能もそうですし、体もそうかもしれません。

肺がんでも、健康な部分が残っているから普通に呼吸ができます。
酸素の必要もありません。

脳の場合、予備能力が高い人は、小さい時に学習の機会が多いとか
学歴が高いとか、頭をよく使う仕事をしていた人だそうです。
そして、年を取ってからは、社会的なネットワークが豊富で
活動的な仕事をしている人だそうです。
小さい時には戻れないので、今、そう、活動的な生活をすることが重要です。

脳に刺激を与えることです。

何かにチャレンジするということは、ニューロンの密度が高まり、シナプスが形成されます。
ひとりぼっちでもあきらめず、
早歩き運動や、クロスワードパズルなどで頭を鍛えるといいそうです。
うちは母がクロスワードパズルを毎日やっています。
きっと認知症にはならないことでしょう。
父はなりそうです・・・・・。

これからの人生、
明るく、やりたいことをやって
難しいことに挑戦して
楽しく暮らしたいものです。



たとえば、こういうお花の数を数えるとか・・・・

『インフェルノ』

2017年03月20日 | 映画
監督:ロン・ハワード
主演:トム・ハンクス
   
スターウォーズのフェリシティ・ジョーンズも。

『ダ・ヴィンチコード』のシリーズです。
ハーバード大学の宗教象徴学者ロバート・ラングドン教授が主人公となってるものです。
『天使と悪魔』も読んだのか、忘れました。
以下はサイトからのあらすじ。

数々の謎を解き明かしてきた宗教象徴学者ロバート・ラングドン教授(トム・ハンクス)が、
人類滅亡の恐ろしい計画を企てている生化学者ゾブリストが詩人ダンテの叙事詩「神曲」<地獄篇インフェルノ>に
隠した暗号の謎に挑む。
 ゾブリストは「このままでは人類は100年後に滅びてしまう」
と言われるほどの深刻な人口増加問題の過激な解決策として、
人類の半数を滅ぼす為のウィルスを生み出す。
そしてダンテが予言した人類の“地獄”の未来図=<地獄篇インフェルノ>になぞり計画を実行する。
「100年後の人類滅亡」または
「今人類の半分を滅亡させて生き残る道」どちらが正しい未来なのか?
宗教象徴学の天才に対して、生化学の天才が突き付けた挑戦状。
ラングドン教授は地獄篇インフェルノの暗号コードに挑み、その選択を迫られる。


どこかで見たことある女優さんが出演していて、それがシセ・バベット・クヌッセンです。
でも、調べるとどの映画も観ていませんでした。
デンマーク出身の48歳。未婚でお子さんもいらっしゃる。
デンマーク映画の『アフター・ウェディング』というのに出演しているけれども
主演がマッツ・ミケルセンでした。
テレビドラマのシリーズドラマの『ハンニバル』の主演。
『カジノロワイヤル』の悪役です。

映画の旅は面白いです。


草間彌生の写真もいいです。

『パニック・フライト』

2017年03月19日 | 映画
原題が 「Red eye」

レッドアイって、夜中に出発して翌朝着く飛行機のことをいうそうです。
朝方、みんな目が真っ赤だから。

レイチェル・マクアダムスが可愛いけれども、キリアン・マーフィーが恐かったです。
彼のもつ目の青さが、恐山を思い出させます。
不思議なブルーです。


ハラハラドキドキ、わくわくで楽しめました。
ちょこっとあらすじ・・・

ホテルのベテランフロント従業員のリサは、
遅れてを出発した深夜の飛行機に乗ったところ、
空港でのチェックイン時に知り合ったリップナーと隣同士になる。
だが、リップナーは実は暗殺グループの一員であり、離陸後、
リサの父親の命と引き換えに、標的の政府高官一家が泊まる予定の部屋を
変更するようにリサを脅迫する。
繰り返し対抗するリサだったがうまくいかず、
ついに部下のシンシアに変更を指示する。一家は変更された部屋に通された。
沖合では釣り船に偽装した暗殺グループが待機していた。
夜が明けた着陸直後、リサはあらかじめ乗客から盗んだボールペンでリップナーののどを刺し、
リップナーの携帯電話を奪って、開いたばかりの扉から空港ビルへ逃げ出す。
声の出なくなったリップナーは後を追う。

『生きがいについて』神谷美恵子著書

2017年03月18日 | 看護師の仕事など
先日、タイのハンセン病院で働いている看護師さんに会って
思い出した本です。
学生時代に読んだものですが、そこでハンセン病を知りました。
それまでは知りませんでしたから。

そして、今、神谷美恵子氏に興味をもって、調べてみました。
下記はウィキペディアから抜粋です。

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神谷美恵子は1914年(大正3年)に内務省職員である父前田多門とその妻房子の長女として
岡山市に生まれた。
父親は内務省におけるエリート官僚として、外国との折衝を始めとした役職を歴任したため、
一家は頻繁に転居している。
美恵子は翌1921年(大正10年)に聖心女子学院小学部へと編入。
1923年(大正12年)になると、父はジュネーヴに新設された国際労働機関の日本政府代表に任命され、
一家はスイスへと向かった。
美恵子は市内に存在するジャン=ジャック・ルソー教育研究所付属小学校へ編入学した。
この頃両親は二人の結婚式の媒酌人であり当時国際連盟事務次長を務めていた新渡戸稲造と
親密に交際しており、彼を尊敬していた両親と同様に美恵子も新渡戸から大きな影響を受けた。

小学校卒業後はジュネーヴ・インターナショナル・スクールへと進学した。
スイス生活が長引く中で、兄妹はフランス語を日常会話においても用いるようになった。
後になっても「読み書きと思考は今でもフランス語が一番楽である」と語っている。

1926年(大正15年)に一家は帰国し、父は東京市制調査会専務理事として勤務した。
美恵子は一旦自由学園に編入学したが、そこでの教育が身に合わず数ヶ月の内に成城高等女学校へ
と転学している。
学校の他にアテネ・フランセにおいて語学を。
1932年(昭和7年)に成城女学校を卒業すると、津田英学塾本科へと進学し文学を専攻した。

1934年(昭和9年)に美恵子は金澤からオルガンの伴奏役としてハンセン病療養所施設の訪問に
同行するよう求められた。
叔父とともに多磨全生園を訪れた彼女は、患者の病状に強い衝撃を受けた。

ある種の「召命感」とともに自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとした、と語っている。

美恵子は医師としてハンセン病患者に奉仕しようと決意し、東京女子医学専門学校の受験勉強を開始した。
両親や津田英学塾の星野塾長はこれを諌め、1935年(昭和10年)に本科を卒業すると
塾長の薦めに従い大学部へと進学した。
当時の津田の大学部では、数名の生徒に対して西脇順三郎が英語を、
玉川直重がラテン語を教えるなど貴重な教育体制がくまれていたが、
美恵子はハンセン病治療に寄与したいという思いを捨てきれなかった。

彼女は結核に感染したため軽井沢へと療養に送られたが、組織的な勉強の重要性に気付いた彼女は
その訓練をかねて秋には旧制高校の教授資格である英語科高等教員検定試験に受験し合格している。
一旦は病状が収まったものの、翌年に再発し再び療養生活へと入った。
死ぬまでに古典文学を読んでおきたいとベッドの上で独学に励み、イタリア語でダンテを、
ドイツ語でヒルティを、さらに古典ギリシャ語で新約聖書を読み進めていった。
その中でもマルクス・アウレリウスの『自省録』(ギリシャ語)は彼女の生涯を通しての座右の書となった。
結核は医師の薦めで受けた人工気胸術によって完治している。

朝日新聞で論説委員を務めていた父親は、二・二六事件の頃から軍部および特高の注意を引くようになり、
これを危惧した友人らの斡旋によってこの施設の初代館長に任命された。

以前から渡米の話を持ちかけられていた一家は、揃ってニューヨーク近郊スカースデールに移り住んだ。
美恵子はこの頃にも医学への転向を再三父に申し出ている。
父はこれを許さず、彼女はコロンビア大学大学院古典文学科で古典ギリシア文学を学びはじめた。

翌年にはフィラデルフィア郊外に存在するクエーカー運営の学寮ペンドル・ヒルで寄宿生活を送り、
生涯の友人となる浦口真左と出会っている。

医学部進学に対する父の許しを得た美恵子は1940年2月からコロンビア大学医学進学課程に入学した。

翌年戦争の勃発を危惧した一家は父を残して帰国し、
美恵子は東京女子医学専門学校本科に編入学した。

この頃コロンビアにおいて出会った人物と婚約したと見られるが、すぐにこれは解消された。
翌1941年(昭和16年)12月には日本海軍のパールハーバー攻撃によって日米は開戦し、
父はエリス島でしばらく抑留生活を送った後に第一次交換船で日本へと帰国した。

1942年(昭和17年)の10月には当時ハンセン病の権威であった太田正雄(木下杢太郎)の研究室を訪問し、
さらに卒業前の1943年(昭和18年)には岡山県の長島愛生園で、12日間を過ごして
日本のハンセン病治療史における重要人物である、光田健輔と知己となるなど、
ハンセン病治療に対する関心はこの頃になっても変わっていない。

友人が精神分裂病を病んでいたことから、精神医学にも興味を持つようになり、
1944年(昭和19年)女子医専を卒業すると、東京帝国大学精神科医局へ入局して、
内村祐之教授のもとで、精神科医としての教育を開始した。

1945年(昭和20年)3月11日の東京大空襲によって、東中野の実家は全焼し、
家族がみな疎開するなか一人で精神科病棟に移り住んで患者の治療に当たった。

8月に日本がポツダム宣言を受諾、父は東久邇宮内閣において文部大臣に抜擢され、
美恵子はその仕事を手伝うために父の秘書としてGHQとの折衝および文書の翻訳作業などに
従事することになった。

美恵子は文部省における仕事を続け、事務嘱託の身分でGHQ教育情報部との折衝にあたった。
語学の才が他に代え難かったことから、大臣よりも高額の俸給を受け取っていたともいわれる。

東大へと戻り、東京裁判において東條英機の頭を叩くなどして精神科に収容された大川周明の
精神鑑定を手伝っている。

東大医学部では、ある同僚の若い精神科医から、「ストーカー」的執着を示され、大変困惑していたようである。

7月に、東京帝国大学理学部の講師を務めていた植物学者神谷宣郎と結婚した。

神谷は美恵子と同時期にアメリカ東海岸で研究生活を送っており、
同じく植物学を修めていた浦口真左のペンシルベニア大学サイフリッツ研究室における同僚でもあった。
二人は世田谷に新居を構えた後、上北沢へと転居し、ここで長男の律が誕生した。

結婚後十年ほどの間の暮らしは戦後の物資不足や次男の粟状結核などもあり、
極めて苦しいものであった。
栄養失調により、律の体調が悪化した際にはララ物資による粉ミルクの支給を受けなんとか小康を取り戻した。

1949年(昭和24年)に夫の宣郎は大阪大学教授に招聘され一家は大阪へと移った。
12月には次男の徹も生まれ、主婦として多忙な生活を送る一方で、
以前愛読したマルクス・アウレリウスの『自省録』の翻訳書を創元社から出版した。
1950年(昭和25年)に宣郎はペンシルベニア大学に招かれたが、美恵子は子供二人とともに
大阪にとどまりアテネ・フランセやアメリカン・スクールで語学を教えた。

1951年(昭和26年)に宣郎は帰国し一家は芦屋に移り住んだ。
結核に感染した次男の治療薬を闇市で手に入れるために、
自宅での私塾やカナディアン・アカデミーでフランス語を、
1956年(昭和31年)からは神戸女学院大学で非常勤講師として文学を教えた。
1954年(昭和29年)に初期のガンが発見されラジウム治療を受けた。

1957年(昭和32年)に、長島愛生園におけるハンセン病患者の精神医学調査を開始した。
この業績をもとに1960年(昭和35年)に大阪大学で学位を取得、神戸女学院大学の教授に任命され、
1963年(昭和38年)からは母校の津田塾大学教授に就任した。

精神医学およびフランス文学などの講義を担当しており、
芦屋の家から岡山県と東京を往復する生活を続けている。
愛生園での研究や1958年(昭和33年)に京都でおこなわれたゴッホ展を見たことがきっかけとなって、
後に『生きがいについて』を構成する文章を書き進めていった。

1963年(昭和38年)にはアメリカで研究生活を送っていた宣郎のもとを訪れ、
その帰途に同地におけるハンセン病施設および英仏の精神病施設を見学している。
スイスではユネスコの政府代表となっていた兄の陽一からミシェル・フーコーを紹介された。

1965年(昭和40年)からは、長島愛生園の精神科医長に就任し、
自宅から療養所へと通って治療にあたった。
1966年(昭和41年)には、第二次世界大戦中に自殺したヴァージニア・ウルフの病跡を調べるため渡英し、
夫のレナード・ウルフと面会した。
二人はレナードの死まで文通を続けている。

この年にみすず書房から『生きがいについて』が出版された。

その後は愛生園での医療に携わる傍らでフーコー[5]、ジルボーグの翻訳、
自身の著書の執筆、ウルフの病跡学研究などをおこなった。
1972年(昭和47年)に心臓を悪くして以降は、心身に大きな負担を強いていた愛生園での仕事を辞め
家庭と執筆を中心として生活したが、晩年の数年は十数回にわたる入退院を繰り返し、
1979年(昭和54年)10月、心不全のため、65歳で死去した。

二人の妹はそれぞれソニー創業者井深大、伊藤忠商事の副社長を務めた人物と結婚した。
父 多門は後述の野村胡堂と共にソニーの前身である東京通信工業に出資しており、
名誉職であるが初代社長を務めた。

美恵子の長男神谷律は父の宣郎と同様に生物学者となった。
東大大学院理学系研究科教授、学習院大学理学部客員教授などを務め、
藻類がもつ鞭毛の構造および運動機構に関する研究を手掛けている。
次男神谷徹は、京都大学理学部で宇宙物理学を修めた(1973年卒業)
のち古楽器演奏家となり、リコーダーとユニークなストロー笛の演奏で人気を博している。


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こういった人生、あるものですね。