ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

歌詞における性の逆転について

2012-06-23 06:31:39 | 音楽論など

 昨日、気まぐれにAKB48についてなど書いてみたが、そのついでに。

 以前から不思議に思っていたのだが、AKB48の歌詞の多くが男言葉によるものであるのはなぜなんだろう?これまでリリースしてきたシングル曲の殆どがそうでしょう。「君が好きだ~♪」とか、男の立場で恋を歌っているものばかりだ。
 彼女らはもちろん女のコの集団なのであって、それがオトココトバで歌うのはどう考えたって不自然なのであって、何か理由があるはずなんだが。

 一番初めに思いつくのは、歌における性の要素の漂白ということだ。女の子が男の言葉で、「ボクは~」とか歌うことで、その歌からはリアルな性の匂いは剥ぎ取られて、なにやら健全めいた世界が広がる。なんか永遠にセックスもせずに、ニコニコとフォークダンスでも踊っていそうな世界。
 けどねえ、流行歌なんてものの多くが古来より男女の性愛をもっぱら歌ってきたのであって、表現のツールにわざわざその場を選んでおきながら、そこからセックスの気配をあえて剥ぎ取るってのも不思議な話なんであって。

 ファンの男の子たちの意識を、「メンバーとリアルにセックスしたい!」ってことなどに向かわせず永遠の幼児性の中に閉じ込めておいて、コンサートのチケットとかグッズとかCD買うこととか”総選挙”のことだけ考えるように閉じ込めておく、そのための細工なんじゃないだろうか、なんて考えたりするのだが。

 そういえばずっと以前にこの場で、女性シンガーソングライターであるヒトトヨウの作になる”ハナミズキ”の歌詞が、なぜ男言葉であるのかについての考察をゴテゴテ書いてみたことがあったなあ、なにを書いたのか思い出せないが。まあ、思い出せないくらいだから、大したことは書いてなかったのだろう。

 昔の、というか高度成長期の歌謡曲など振り返ってみると、逆に男の歌手たちが頻繁に女言葉の歌を歌っていたものだ。”夜のムード演歌”とか称して。
 あれもどういうものなのかと不思議なのだが、興味深いのは、その場合の歌詞における性の逆転はむしろ、より深い性の深淵をうかがわせるものだった、と言うことだ。
 たとえば若き日の森進一が苦しげに顔を歪めて「あなたにあげた夜を返して」とか歌っていたのを思い出すと、その種の歌を当時、支持していたオトナの女性たちが内に抱えていた性の懊悩が濃厚に匂うような気分になる。このへんも面白いなあ。

 とか、疑問を列挙しただけになってしまったが、このへんは今後もしつこく考えてみたい。




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