ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

カライブラヒムギル幻想館

2012-10-30 21:22:10 | イスラム世界

 ”Ben Buraya Ciplak Geldim”by Nil Karaibrahimgil

 ニル・カライブラヒムギルと読むんだそうです、この名前。トルコのぶっ飛びアイドル、Nil嬢の2012年新譜であります。いや、1976年生まれとのことで、アイドルとか”嬢”とか呼んでいる場合じゃないんですが、ジャケ写真や、その音楽性などから、あえてそう呼んでみたい気分なのですな。
 盤を回してみると、なるほど噂に聞いた通りの音楽遊園地ぶりで、嬉しくなってきます。その、トルコの各種伝統音楽を踏まえつつ微妙に脱線を繰り返し、果てしなくズッコケ続けて行く暴走の快感、これはクセになりそうだ。

 Nil嬢の、やや情緒不安定気味かと見えつつも崩れ落ちることなく、コケティッシュにしてリズミカルに狂って行くハスキーな歌声、これも魅力的であります。先に、伝統音楽を踏まえつつ、などと書きましたが、伝統楽器とエレクトロニクスの要素との混交もかっこよく決まっています。
 例えば3曲目に収められている、イスタンブールを歌った歌など、聳え立つ古きモスクの優美な姿の影から、不意にモクモクと今日的な狂気が飛び出し、風景のすべてを不吉な色に染め変えてしまう。そんな幻を呼ぶ手つきも鮮やか。このディープでアーシーな幻想館に一度囚われれば二度と出ること能わず。

まあ、さほど帰って来たいとも思えない現実世界だけれどもね。





台湾極楽隊近況

2012-10-29 02:36:01 | アジア

 ”Only Love”by Huang Lian Yu

 台湾に、”新寶島康樂隊”なる土俗系フォークロックバンドあり。
 それはいかにも台湾らしいとぼけたユーモアと、その陰に潜む毒と、濃厚な土属性を湛えた、なんとも奇態なるバンドで、もう十数年前になるがバンドの歴史の初期には日本盤さえ出たことがあるとは、全く今となっては信じられない話だ。よくもまあ、あんなマニアなバンドが。いずれ、バブルというのはすげえもんだな、という方向に話は帰着してゆくのだが。まあ、それはいいとして。
 これは、そのバンドの中心人物のひとり、ホァン・リェンユーが2008年にリリスした2枚目のソロアルバムである。

 ホアンは漢民族の中でも独特の歴史を生きた支族、”客家”の血を引く者で、客家語を用いて歌う、そのあたりは珍しい存在であったりする。というか彼が籍を置いた新寶島康樂隊というバンドそのものが、北京語や台湾語、そして客家語が乱れ飛ぶ、不思議なバンドだったようだ。
 ホァンは、台湾の現実にたいして彼が感じている共感や違和感を、その飄々としたユーモアを湛えたキャラのうちに表現してきた。このアルバムでもその姿勢は変わらず、なんとも楽しい楽趣のうちに、台湾の現実がくっきりと浮かび上がってくる仕掛け。

 なんといっても4曲目に収められたタイトルナンバーあたりからが、このアルバムのハイライトだ。なにしろ台湾語のマージービート・ナンバー。非常にビートルズを感じさせる作風である。多分、”愛こそはすべて”あたりをパロディにしたかと思われる世界が、実に楽しげに繰り広げられる。
 そして次に現れるのが台湾語による沖縄島唄。デビュー当時のネーネーズあたりがモトネタなんだろうか、のどかに沖縄への憧れが歌われるが、時期的になにやらむずがゆい気分にならないでもない、というヤバさをあえて楽しむ、なんて気分で聞くとますます楽しい、みたいな妙なポジションに置かれているのかも知れない、この曲。

 さらに次にはモロに”カラオケ”なるタイトルの曲で、ベタな男女デュオの演歌調が、台湾の場末で安酒に興ずる名も無き大衆の喜怒哀楽を伝える。
 そんな具合にファンクナンバーやらロックやらフォークやら演歌やらが乱れ飛ぶ、おもちゃ箱をひっくり返したような楽しさで、これで歌詞の意味が分かったらますます楽しめるんだろうなあと、もどかしくなったりもする。

 歌詞で思い出したがこのアルバム、歌詞カードがすごい。ミュージシャンの手書き、というか明らかに作詞作曲の際に使ったメモのコピーをそのまま並べている。
 歌詞の訂正箇所は横線を引いて消され、推敲後の言葉を書き加え、その文章の上にはコードネームが書き込まれている。いちいち汚い。
 まさに舞台裏をそのまま公開してしまっている身も蓋もなさが笑える。さらに、どうやら彼はメロディを書き記す際、五線譜に音符ではなく、数字を並べる、いわゆる”ハモニカ楽譜”を使っている、なんてことまで分かってしまうありさま。

 この辺のあけっぴろげなユーモア感覚がともかく彼の魅力と言えるだろう。そんな彼の個性のよく出た好作品だ。




エジプトの夜の標的

2012-10-27 22:44:05 | イスラム世界

 ”Aktar Men Ale Waqt”by Laila

 アラブ・ポップスの世界においては、まさに”今が旬”と言わんばかりのノリで攻勢を強める湾岸サウンド、”アルジール”の、天地を揺るがすようなポリリズム攻撃の快感にただ身を任せるばかりの私だったのだが、その間を突いてこんな具合にグッと重心を落として迫る一枚も出てくるのだから、アラブの音楽魔界はますます深い。
 エジプト出身の若手だとのこと。彼女、見た目もエロいが歌声も十分エロい。ジリジリと摺足で目標に迫る中世語りものの腕利きの刺客、なんてものを想起させる、地を這い回るようなテンポを落としたリズムに乗せて、官能的な、だが刺すような怜悧なものも内に秘めたライラ女史の歌声が発火する。

 うっかり親戚の法事の席の帰りに聴いてしまったせいか、このアルバムを支配するリズム、念仏のテンポと同じだよな、なんて思ってしまう。あるいはヤクザのタンカバイか。
 ともかく今のアラブ世界でこのテンポでジットリと迫る人は、あまりいないはずだ。何やら凶悪な(しかもセクシーな)ケモノに狙いを定められ追い詰められた気分。
 そのノリはアナログ盤の用語で言えばA面が終わり、B面に移ったところで一気に燃え上がる。リズムは一気にアップテンポとなり、狂おしく燃え上がるライラ女史の粘度の高い唄声は、そのまますべてを焼き尽くしてしまうのだった。

 初めて聴いたときは、「なんか地味だなあ」とか感じたものだったが、聴き返すたびに味わいが増し、奥行きが広がってゆくようで、これはすごいものに出会ってしまったかな、などと思ってみたり。




それでも船は行く

2012-10-26 01:45:27 | いわゆる日記

 コンゴのユニークな身障者バンド(こういう表現は叱られるんだろうか。でもみんな、そういう認識だよね)である”ベンダ・ビリリ”の新譜が出たとかで、音楽雑誌にアルバム評などが出ている。それ読む限りでは出来が良さそうなのだが、なぜかあまり聞く気が起こらず、注文も出さずにいる。このまま聴かずに終わる可能性が高い。
 不思議な新楽器を導入などして、その音楽性もゴンコの伝統的ポップスの形からは微妙に、そして愛嬌たっぷりにズレまくったそのサウンドを私は結構お気に入りで、たしかその年のベストアルバム10枚の中に選出もしたのだった。
 にもかかわらず、この興味のなさはなんだ。出来が悪いという評判でも立っているならともかく、その逆なのだから、意味が通らない。自分の心中を探ってみても、なんとなく聴く気が起こらない」なんて答えしか見つからないんだが。

 なんか、こんな微妙な行き違いってのがあるんだな。聴いても不思議でないバンドの新譜に、なぜか興味がおこらない。その一方、それほど良いってわけでもないバンドを、だらだらと聴き続けたり。その場の成り行きの気まぐれとしか言い様がないんだが。

 同じく音楽雑誌を読んでいたら日本の女性シンガー・ソングライター、”たむらぱん”の新譜が出たようだ。こちらも一時入れ込みかけたのだが、今はもう、聴く気にならない。これには説明できる理由がある。

 そもそも”たむらぱん”に興味を持ったのは、あるアニメの主題歌を聴いて気に入ったからだった。もう何年も前の話で、アニメのタイトルも忘れてしまったが。
 それは良い具合にひねくれた日本語のロックで、こいつはいいやと。この歌い手は好きになれそうだ、と。
 で、早速、出たばかりのセカンドアルバム、次いで1stも買い込んできて大いに期待して聴き始めたのだが。なんかねえ。期待したような面白さが感じられなかったのだ。音楽としての出来はいい、見事なものだとさえ感じたのだが。が、どうも彼女の音楽を楽しめなかった。

 そこには、なんというのかな、アニメの主題歌にあった”軽み”が感じられなかったから。なんか生真面目に張り詰めた感性。代わりに漲っていたのは、そんなカチカチの感触だった。
 おそらく彼女、真面目な人なんだろうね。それが、アニメの主題歌の仕事などでは、メインの仕事ではないゆえに自然に肩の力が抜けて、私好みの軽みのある音楽性を発揮する。ところが、自身のアルバム、などという物件になると「立派な作品を作らねば」なんて意識が勝ってしまい、まあ、私のようなファンには残念な結果が出てしまうのだ。

 その後も、彼女の手になるテレビの子供向けの番組のジングルなどを聴いたりするたびに、「うん、やっぱり”たむらぱん”って良いなあ」と思いはするのだが、そこで聞ける楽しさは、やっぱりアルバムの中にはないのだろうなあと、膨れる思いを握りつぶしている。
 彼女が肩の力を抜いて、私の愛する軽みがメインに置かれたアルバムなど出してくれる日は来るのだろうか。とりあえず、気長に待つつもりではいるのだが。

 「ワールでミュージック的観点から日本の歌謡曲を聴き直してみる」という探求目標は前からあったのだが、「自分ももう年寄りである」との自覚のもとに、この夏から気を入れて聴き始めたNHK”ラジオ深夜便”の”にっぽんの歌”コーナーだが、個々の歌手やら作詞者やら作曲者やらでテーマを絞った番組作りが資料としてありがたく、いろいろと刺激をもらっている。背景を知るうち、あれこれ興味を惹かれるようになった楽曲もあり、なんとなく聞き流していた歌手たちの人生のうちに控えるドラマも知った。

 そうこうするうち、なんだか知らないが、「歌謡曲世界に再踏み込みを行うなら、まず奥村チヨから聴き直さねばならん」なんて出どころ不明の思い込みが心中に発生し、あちこちネット店を探索するのだが、私の探していた「”恋の奴隷”とかで盛り上がる前、”ごめんねジロー”期の彼女が出したオリジナルアルバム」のCD化されたものが見つからない。CD化されなかったのか、されたが、もう廃盤になったのか。などと思いながら夜明けまで検索を繰り返し、諦めて夜明けに眠り、目が覚めて遅い朝飯を食い終われば、なんでそんなものに執着したのか、自分でもわからなかったりする。

 それでも船は行く。

東京タワー行きカントリー・トレイル

2012-10-23 16:01:27 | その他の日本の音楽

 23日放送の「NHKラジオ深夜便」の”日本人歌手で聞くカントリー&ウエスタン”を、ある種、揚げ足取りみたいな気分で聴いてみた。揚げ足取り気分とはどう言う意味かといえば。
 どうやら我が国でも戦後しばらくして、カントリー・ミュージックのブームのようなものがあったようだ。それはあのジャズの大ブームとは比べるべくもなかったろうが、それでもそれなりの流行を見せたはずだ。それはその後、歌謡界に少なからぬ数の”カントリー系”の歌手が排出されていることでもあきらかだろう。

 モロにそれとわかる小坂一也のような人から、ヒット曲、「骨まで愛して」で、カントリーの唱法を非常にエグい形で演歌のフィールドに応用してみせた城卓矢なんて人、そこまで行かずとも、妙に鼻にかかった発声法が強力にカントリー臭を放っていた北原謙二とか。あの辺の人々の、歌謡曲の歌い手としては非常に違和感があるような、それはそれでいいような不思議な魅力、あれはいったいなんだったのか。
 創成期の日本のカントリー・ミュージックの録音を聞いて、それらの人々の音楽的出自について何事か突っ込める部分に出会えるのではないかと、当方としては期待したわけである。

 とはいえ、そこまで面白いことには簡単には出会えない。そこで聞けたのは突っ込みようもない、何やら非常にさわやかな出来上がりの和風カントリーの世界だったのだ。
 日本語詞の、まるで講談みたいな大時代な言葉使いが強烈な印象を残す小坂一也版「ゴーストライダース・イン・ザ・スカイ」などという”逸品”もあることはあるのだが、多くの録音は、まるでディズニーランドの書き割のような汚れなきおとぎ話としての開拓期アメリカ西部への憧れを歌った清潔なホームソングばかり。

 とはいえ、今回の放送を聞く限り、当時はことのほかヨーデル唱法が好まれていたようで、いたるところにレイホ~レイホ~と裏声は響き渡る。その美しき高原幻想などは確かに、その後に続く清らかな青春歌謡の登場を予告するものと思えなくもないのだった。
 さらには、たとえば寺本圭一などという人の歌唱には、どこか演歌のコブシに通ずるナマな肉体性がほのめかされてもいるように感じられ、やはり戦後の日本におけるカントリーと歌謡曲の関係、探求してみたくなってしまうのである。



何なんだ、この夢は

2012-10-21 23:02:24 | いわゆる日記

 先日来、妙な夢に襲われている。

 夢の舞台は現代アメリカの、地方小都市のようだ。そこに7~8人の子供たちを持つ、貧しい黒人の一家があり、夢の中で私は、その兄弟の長男のようだ。地味なスーツにネクタイなど締め、どうやら真面目な会社員として、一日の家計を支えているようだ。
 窓の外に田園風景が広がる古びた家に住むその一家だが、ある日、その子供たちのうちの次男と三男が、自分たちの兄弟、両親、祖父母など、ともかく一緒に暮らしていた家族全員を惨殺してしまったのだ。そしてそこに、仕事を終えて、何も知らない長男たる自分が帰宅する、という夢だ。

 血の池と化した居間や玄関、無残な死体となって転がる家族たち。虚ろな目をして呆然と立ちすくむ”犯人”たる、まだネィーン・エイジャーの次男と三男。彼らの手には凶器となった血まみれの刃物などが握られたままだ。
 お前たちはなんということをしてしまったのだ、と怒鳴りつけたいのだが、こうしてしまった彼らの気持ちもわかる、みたいな感情が、夢の中の自分にはある。こうして文章を書いている私には、なんの事情もわからないのだが。
 家の惨状、この状況をどうすればいいのだと途方にくれる自分、などといったシーンの断片が何度も繰り返し夢に出てくる。時間はとりあえず、夢の中ではそのシーンのまま、進んでいないようだ。

 ・・・という夢。夜の夢の中に、これは出てくることはない。日中、退屈している時間、あるいは食後の満腹状態でウトウトしている時など、うたたね状態のつかの間の夢の中に、この悪夢は現れる。相当の緊迫感を持って。目が覚めると、「ああ、夢でよかった」とホッとするくらいの。
 なんだろうねえ、この夢。サスペンス映画かホラー映画のオープニングみたいな感じがあるのだが、こんな映画は見た記憶もなし。夢判断で言えば、どうなるのだろうか。

 先日来、ちょっと風邪気味で、これ以上悪化しないといいなあ、などと思っているのだが、体調不良のせいかなあ、こんな夢を見るのは。

香港、冬の情景

2012-10-19 05:30:04 | アジア

 ”預見?...遇見。”by Vincy

 香港製の冬景色系とでも言うしかないポップスの形態というのは、あれはなんなんだろうなあと以前から不思議でならないのだが。あるんだよね、昨今の香港の歌手が発表する、冬景色が目の前に広がるようなスタイルのポップスが。
 これは以前、この場で取り上げたことがあったが、キリッと澄んだ叙情が味わえるジェイド・クワンの”shine”や”New Bigining”といったクリスマス福音系ポップスまで、探してみれば、続々と見つかるのであって。新しい時代の人気者、Vincyが一昨年出したこの盤も、そんな感じの音楽が収められています。

 窓の外を見ればまばゆい星空の下に広がる雪景色。厚いコートを羽織り外に出る。一人行く冬景色の中を。凍えた掌にそっと息を吹きかけてみる、静けさの中。
 なんて感じで、自らの心の内を研ぎ澄ました冬の情景表現に託して繊細に歌いあげる、そんな感じの内省的な感触のポップス。
 だけどねえ。そんな歌が歌われている場所が、香港ですからね。沖縄よりも、台湾よりも南の地。そのクソ熱く湿気の多い土地柄で、なんでこんなありもしない冬の表情を持った歌たちが生まれてくるのだろう。
 せまくるしい土地に高層ビルがいくつもおっ立ち、かしましい中華民族の日常が展開されている、そんな日常の中から、シンと静まった温度も湿度も低いほの暗い部屋の中、繊細極まる魂がそっとピアノの鍵盤を押して出来上がった、みたいな音楽がやって来る不思議。

 ここで、”返還”直前の、不思議な焦燥感と終末感に身悶えるような切迫感を持って時代を歌っていた、”あの頃”の香港ポップスに今だ思い入れのある私などは、やはり関連付けて想像を繰り広げてしまうのですね。
 借り物の夢の時間は終わり、だが世界は終わるわけでもなく、違う日常がやって来る。過酷な現実に浸食されてゆく時間が。
 そんな時間の中で、ある種の人々の傷つきやすい魂は別の世界の夢を見る。来るはずのない冬の中で凍りついた世界を。そこでは時が流れることもなく、現実世界からの夾雑物は降り次ぐ雪の中に埋もれ、見えなくなってしまう。

 それはもちろん、かりそめの夢でしかないのだが。だからなおのこと、幻想は深い悲しみの色をおび、鋭利に研ぎ澄まされて行く。
 さて香港、明日の天気は?



モスクワシティのウズベク通り

2012-10-18 03:31:47 | ヨーロッパ

 ”Heart Magnet” Sogdiana

 ウズベキスタン出身、ロシアポップス界で活躍中のソグディアナ嬢の2008年作アルバムであります。
 ロシアで行われたタレントコンテスト参加をきっかけに見出され、2006年に15歳でデビューアルバムを出した、なんて資料があるんで、これは2ndあたりなのかな?いずれにしても画像なんか見ると、年齢よりずっと大人っぽいですな。

 ソグディアナというのは、そもそも苗字なのか名前なのかあだ名なのか?と思ってウィキペディアなど探ってみると、下のような文章に突き当たりました。

 ~~~~~
ソグディアナ(Sogdiana)は、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名。
 ~~~~~

 う~ん、何やら意味ありげだ。この名前でロシアポップス界に殴り込むのには、どのような思い入れがあるんだろう?

 アルバムを聴いてみても、あちこちにウズベクらしい中央アジアの匂いが散りばめられています。今のロシアポップスにありがちな単調な打ち込みリズムに乗って、いかにも中央アジア・イスラム圏らしい響きの弦楽器やら打楽器やらが走り抜ける。うたわれるメロディも、エキゾティックな音階の民族調のものになっている。
 このへんで、ワールドミュージック好きの血は、いやがうえにも騒ぎ始める訳ですな。ただ・・・あんまり学術的に音楽を聴いていない身の悲しさ、これがリアルなウズベクの民族音楽を反映したものか、それともロシアのアレンジャーがひねり出した作り物の異国情緒なのか、そのへんがよくわからないというもどかしさがある。いや、いかにもそんな感じのサウンドでもあるんですわ。

 しかし実際、この”民族色”は彼女がロシアで歌手としてやって行く上で一つの”売り”になっているのは、アルバムの作りから考えてもありうるのであって、そのあたりのいかにも芸能界らしい虚実皮膜のありよう、ドキドキさせられるのでありますなあ。




フラジャイル室内楽団のための組曲

2012-10-17 01:00:46 | アンビエント、その他

 ”Suite for Fragile Chamber Orchestra”by Yuko Ikoma

 アコーディオンや手廻しオルゴールの奏者として、あるいは作曲家としてユニークな活動をしている生駒祐子氏が、これも独自の世界を展開する造形作家、原田和明氏の手になる創作楽器に魅せられ、それら楽器のために書き下ろした不可思議な組曲である。

 それら創作楽器は、どうやら作者の幻想を形にした、この世に存在しない楽器群のようだ。いや、存在したところで大した役には立ちそうにない、しかし、その姿を見ていると、なんだかたまらなく嬉しくなってしまうような。我々が今住んでいるのとは別の時間軸からやって来たみたいな、道化としての道具たち。
 古時計やオモチャの鉄琴や空き缶などを組み合わせて作られたそれらは、多くは無駄に複雑なハンドル操作などが仕組まれており、その滑稽な大仰さは、昔見た、「切手を舐めるためだけに使われる巨大で複雑な機械」などというユーモラスなオブジェを思い出させる。

 もともとは、それら楽器が物体として存在するだけでも可笑しい、という芸術上の愉悦を求めて作られたものなのだろう。にもかかわらず、それを演奏し、合奏させ、組曲さえ奏でさせてしまおうと企んだ生駒氏の試みは、ジョークの2段重ねとも言うべき快挙で、虚数の王国の名においておおいに賞賛されるべきであろう。

 それら、ありえないはずの楽器たちがたどたどしく奏でる音楽は、限られた語彙しか与えられていないロボットたちの舌足らずな会話など想像させる。基本的にはトボけたおかしさに溢れた演奏の、その底の方にそこはかとなく漂う物悲しさは、一体どこから来るのだろう。機械たちが探り当てた、人間の営為の根源から、か?
 なんとも、儚い愛らしさに満ち溢れた音楽である。




古き河の流れに

2012-10-15 23:10:50 | 北アメリカ

 ”Steal Away”by Charlie Haden And Hank Jones

 かっては政治的主張も強力な戦闘的前衛ジャズ=ブラスバンドを率いて、戦うジャズマンの代名詞でもあったようなベーシスト、キャーリー・ヘイドンだが、齢も老境にいたり、このところはずっと、アメリカ合衆国内外の”アメリカの根の音楽”に、その興味は向かっているようだ。気がつけば、その方面の優れたアルバムをいくつもものにしているヘイドンである。

 このアルバムもその一枚。老ジャズピアニスト、ハンク・ジョーンズと組み、ベースとピアノのデュオで、古くから黒人教会で歌われていた黒人霊歌や南部の素朴なフォークソングなどを取り上げてみせたものである。

 「誰も知らない私の悩み」「時には母のない子のように」「行けよモーゼス」「アメイジング・グレイス」などなど、こちらにもお馴染みの曲目を挟み、ハンク・ジョーンズは老練なタッチで飄々とメロディをつずって行く。それに寄り添い、ぶっとい音で演奏を支えるヘイドン。時には前に出てきて、その丸太のよ9うな野太いベースで豪快にメロディを歌ってみせもする。
 二人の演奏は、時の流れのかなたの、遠い昔にこの道を歩み去った人々の足跡に寄せる深い共鳴を、枯れ切ったシンプルすぎる描線で写し出す。

 そのモノクロームのつぶやきは全く派手なエンターティメントではないものの、今日を生きる我々が日々の生活に疲れ、心の隅になにごとか空虚の生まれた時などにふと聴き返したくなる、独特の味わいを秘めて静かにそこに横たわっている。