ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

アテネのボス、唸る

2007-11-30 03:05:36 | ヨーロッパ


 ”SALTADOROS”by MICHALIS JENITSARIS

 やあ、CDを整理していたらこんなものが出てきてしまった。これは、ギリシャの大衆音楽を聴き始めたばかりの頃の愛聴盤だった。

 第1次世界大戦とその後の混乱期におけるギリシャとトルコの領土分捕り合戦の結果、さまざまに両国間の国境線は引き直された。この辺の事情は何度解説を読んでもややこしくて良く分からないので私に詳しい解説など求めないで欲しいものだが、ともかくその結果、突然トルコ領となった土地を追われギリシャ本国に強制帰国(?)させられた大量の人々が発生した。

 トルコの文化の強い影響下で生きて来た人々が、住みなれぬ”祖国ギリシャ”にほとんど難民として流入するに当たってはさまざまな混乱があったろう。特に私などが興味を惹かれるのが、そこで拮抗したトルコの文化とギリシャの文化。しかも舞台は、たとえば大都会アテネの底辺の悪場所。
 で、そのハザマに生まれたのが、このレベーティカなる音楽という次第であります。

 はじめて聴いたレベーティカは、かのジャンルの初期の名演を収めたという”Funf Griechen in der Holle”なるアンソロジーでだった。
 タイトルが示すようにドイツ盤で、解説もドイツ語しか付いていなかったので、いまだに詳しいバックグラウンドも分からないままなのだが、地を這いずり回るような重心の低いリズムと、濃厚に粘りつきながらかき鳴らされるギリシャの民族楽器ブズーキの調べ、そしてまるでブルースシンガーみたいな歌声にすっかり魅了されてしまったものだった。

 先に大都会アテネの悪場所、なんて書いたが、なにしろ発祥したばかりのレベーティカが演奏されていた場所にはハッシシを吸わせる店などが居並び、ヤクザや売春婦が横行するあたりだそうで、たしかに、そのアンソロジーに収められた音楽には、いかにもそんな雰囲気が溢れていたものだった。

 「他人事と思って呑気な事を言うな」とか叱られそうだが、都市の底辺に立ち込めるヤバいヤクザな雰囲気の中へ身を沈めてこのような音楽を生み出して行く、その痺れるような快感というもの、たまらなかったろうな、なんて空想してしまうのです。いや実際、もの凄く面白かったろうと思うのですよ。その時代、その場に生きていたら。

 で、今回の盤は、そのアンソロジーでも強烈な印象を発していた、レベ-ティカ界のボス、みたいな人物なのでしょう、MICHALIS JENITSARISの1990年度のライブ盤であります。

 カイゼル髭というんでしょうか、ピンと跳ね上がった立派な髭でブズーキを抱えてポーズを決めたそのお姿は、なんだかスターリンに良く似ていて、そういえばかの独裁者氏はソビエト連邦はグルジアの出身だったし、レベーティカ発祥を巡る小アジアの国際関係の舞台とそう遠くはない生まれだ。血の連鎖としてまったく関係なくもないんでは?などと思うと、こいつもちょっと血が騒ぐのだけれど。

 この盤もドイツ盤で解説は全然読めないのだが、なんとなく分かる部分を拾い読んで行くとどうやら JENITSARIS の生年は1917年のようで、この盤はかなり歳がいってからの演奏といえるのだろう。

 実際、彼の1940年代の演奏が収められていたアンソロジーでは、エレクトリック・ブズーキの爪弾きも妖しく、非常にギトギトした手触りの生臭い歌を聞かせていたのだが、この盤ではずいぶんと枯れた印象を受ける。とはいえ、悪場所のおっかないボスの貫禄はむしろ増していて、ブルースシンガーっぽさはますます濃厚となっているのだが。

 音楽的にはブルースとはまるで似てはいないんだけどね。なぜかブルースを引き合いに出したくなる、その音楽的濃さ、根深ささが魅力であります。この辺の間合いが面白いねえ。重々しく繰り出されるリズムなんかは、まるで「お控えなすっておくんなせえ」と、ヤクザが古典的仁義を切っているみたいでね。

ワイルドマン・フロム・ボルネオ

2007-11-28 23:44:57 | その他の評論


 ネットの世界にはいろいろふざけたサイトがあるもので、たとえば”世界の三面記事”なんてブログは、なかなか秀逸と言いますかしょうもないといいますか、いやまいったね、と言いましょうか。そのムチャクチャさに徹した姿勢、まことに端倪すべからざるものがあります。

 要するに”東スポ”ですな。世界のあちこちから到底信じられないようなニュースを探してきてはブログにアップしている。

 集まった記事のタイトルだけを記しても、”スピード違反のトレーラーを止めてみたら、荷台から20個以上の人間の生首が ”とか、”病院の霊安室で92才老女の遺体と屍姦した24才検査技師 ”とか、”ジェルキング -- ペニスの長さ・外周を3 - 8cm 大きくする体操”とか、まったくこんなアホな話を良く思いつくものだ、そして良く集めたものだと呆れるばかり。

 最近の”ヒット作”は、”ボルネオ島でオランウータンが人間相手の売春を強要されている”ってのなんですが。
 まあ、いうまでもなくオランウータンと性交したがる男なんて、そうはいない訳で、こんな話をまともに信じる方がおかしいんですが。しかも”オランウータン売春”が好評で客が引きもきらず、なんて内容なんだから、ますます疑わしい。

 ところがこれ、なんと某ソーシャルネットワーキングサービス内の某コミュニティで、この話をメンバー全員、本気に取ってしまったんですな。

 話が本物かどうかなんて検証も省いてメンバー各氏、このアホ・ストーリーをいきなり全面的に信じてしまい、感傷モードやら義憤モードに入って、「胸が痛いです」「ボニー、ごめんね」とかクソ甘いコメントを次々に書き連ねている。あ、ボニーってのは問題のオランウータンの名です。

 世の中には疑う事を知らない人っているんですねえ。あそこのサイトに載ってる他のニュースも全部本気で読んでるんでしょうか、あのヒトビトは。 信じてるんでしょうねえ、オランウータンの話をあれだけ簡単に信じ込んでしまったくらいですから。
 大丈夫か、訳の分からないインチキ宗教とかサギとかにそのうち引っかからないようにしろよ・・・

 PS.
 以上が昨日までの話。
 今夜、そのコミュを覗いてみたら、オランウータンに関するトピは削除されてました。理由説明は無し。
 メンバーが現実を見る理性を獲得し、そのトピを恥じたがゆえの処置であれば少しは救われるけど・・・どうなんでしょうねえ。


 下に、”ブログ・世界の三面記事”掲載の問題の記事を全文引用します。

 ~~~~~

○売春宿で客を取る裸のオランウータン

<インドネシア発> 「ボルネオ・オランウータン・サバイバル・ファウンデーション」*に保護されているポニーは、数奇な運命を辿ってきたオランウータンである。実は、彼女はここに連れて来られる前まで、売春宿で人間を相手に体を売っていたのだ。

(*1999年に発足した同基金は、ペットとして捕獲されたり、山火事等で親をなくしたオランウータンを森に戻す活動をしている。)

ポニーが発見されたのは、ボルネオ島にある小さな村(元記事によると、どうやら売春に特化した村であるようだ)の売春宿で、彼女はくさりで壁につながれ、マットレスの上に横たわっていたという。

オランウータンは、赤茶けた少し長めの毛に覆われた動物であるが、ポニーは、体中の毛を剃られ丸裸だった。

男性が近づくと、彼女はくるりと背を向け、お尻を突き出したかと思うと、ぐるぐる回し始め、セックスを誘うような素振りをしたという。保護された時、彼女は6、7才であったと推定されるが、それまで長期にわたり売春宿の女性経営者(マダム)の元にいたようだ。

基金側はポニーを助け出そうとしたのだが、マダムは、ポニーは皆に可愛がられ、稼ぎもいいからと引き渡しを頑に拒否。ポニーは宝くじの当選番号を引いたりしたこともあり、幸運をもたらす存在として見られていたというのも、断る理由の一つだったようだ。

売春宿には、もちろん女性たちも働いていたが、オランウータンとセックスするという物珍しさから、そこを訪れる客の多くはポニーを指名したという。

当時、ポニーは毛を一日おきに剃られていたため、皮膚はただれ、吹き出物だらけだった。あらわになった地肌を蚊は容赦なく刺し、痒くてたまらない彼女は蚊の刺し傷を掻き続け、そこからばい菌に感染した。その上、指輪やネックレスまで身に付けさせられていた。ポニーは見るに耐えない状態だったという。

ポニーをそこから救い出そうと、基金のワーカーたちは森林警備官と地元の役人たちを引き連れ、一年にわたり何度も売春宿に足を運んだが、その度村人たちに妨害された。彼らは銃と毒が塗られたナイフをちらつかせ、ワーカーたちを脅したそうだ。

最終的にAK-47(自動小銃)で武装した35人の警官が出動し、やっとオランウータンを救出することができた。ポニーがつながれていたくさりをワーカーたちがはずそうとした時、マダムは、「私のベビーを連れて行かないで!」と、泣き叫んだという。

インドネシアにはこのケースのような動物虐待を裁く法的処罰がなく、ポニーを囲っていたマダムらは何のおとがめも受けていない。

http://omoroid.blog103.fc2.com/blog-entry-151.html

弟のいる情景

2007-11-27 01:28:44 | その他の評論


 昨今、何がなんだか訳の分からないものを挙げて行けばきりはないのだが、とりあえず今目に付いたものを一つ。
 テレビで吉永小百合がやっているコマーシャルで”シャープの液晶アクオス”とかいうのがあるのだが、それにこんなセリフが読み上げられるヴァージョンがある。

 「炎の画家と言われたゴッホには、彼の生活を応援し続けた弟テオがいました。炎を生涯にわたって支え続けた弟でした」

 ゴッホの絵、「ひまわり」かなんかが画面に映し出され、そんな”紹介文”がしみじみと語られるのだが、それで終わりなのである。まあ、確かにゴッホにはそのような弟がいた。しかし、「だからどうした?」と言えばどうもしないのであって、”そのような弟がいた”だけで話は終わり。

 そんな弟は偉いですね、でもなければ兄弟の結びつきは美しいですね、でもない、生活費は弟にたかるばかり、そんな兄貴がいたら迷惑ですね、でもない。ただ、”そんな弟がいました”しか言おうとしないのだ、吉永小百合は。
 もちろん、その話がコマーシャルの本題である”シャープの家電を売り込む”と何の関係があるのか、まったく分からない。

 「そうか、ゴッホには生活の面倒を見てくれていた弟がいたのか。それじゃ、シャープのテレビでも買いに行こうか」なんて発想を消費者がする事を想定しているのか、このコマーシャル製作者は。謎だ。

 シャープのコマーシャルというのはこれまでのものを見ても、妙に”当社は良心的企業です”みたいな自己満足の臭気に満ちていて、それが鼻につき不愉快だったのだが、こいつは鼻につく以前に何がなんだか訳が分からん。
 CMが流れるたびに首をかしげているのだが、まあ、たいていの人は気にもせずに見流しているんだろうなあ。

ブルックリン・カウボーイの夢の軌跡

2007-11-25 23:32:55 | 北アメリカ

 ”Bull Durham Sacks & Railroad Tracks ”by Jack Elliott

 23,24日と続けて田端義夫に関して書いてみたんだけど、ずっと気になっていたのが、彼の海への傾斜というか、「なぜ南島なのか?なぜマドロスなのか?」というあたり。
 ともかく、歌手としてデビューする以前は大阪の町中で幼い頃から貧しい家計を助けるため、丁稚奉公(本人談)に精を出す日々を送っていたバタヤンなのであって、湘南の海で遊んで育った加山雄三とは環境が違い過ぎる。あの”海の男”の潮の香を、バタヤンはどのようにして身に付けたのか?

 バタヤンの奄美や琉球への思い入れの内実と言うもの、まあそれに関しては、気長に調べてゆくうち分かってくることもあるでしょう、と言うことで現在のところは収めるよりないんですがね。

 ”マドロスもの”に関しては、この日録で以前、岡晴夫について書いてみたこともある(粋なマドロスの航跡を追って)んだけど、要するに当時の流行だったのでしょう、と言う方向で納得は出来る。
 抑圧的な日常に縛られて生きるよりなかった当時の大衆にとって、颯爽と船を駆って海を越えて行く”マドロスさん”の姿は、叶わぬ夢の実現だったんでしょうな。そいつを”夢を売る稼業”たる芸能人が、歌謡曲歌手が、演じて見せるのは、何も不思議はないですわね。

 と、ここでふとランブリン・ジャック・エリオットのことなど連想してしまったのですね。いきなり話がアメリカのフォーク歌手に飛んでしまって恐縮ですが。

 Jack Elliott(1931年8月1日~  )は、歴史上の評価としては、あのウディ・ガスリーの放浪の相棒をつとめ、ウディの音楽を後進のボブ・ディランやウディの息子のアーロなどに伝えた人物としてアメリカのフォーク史に名を残す人物だが、自身の、”カミソリ”とあだ名された切れ味でアメリカのトラディショナル・フォークを、あくまでもカッコ良く歌いきった、その芸風も忘れがたいものがある。

 ニューヨークの医者の息子と生まれながらもカウボーイの生活に憧れ、ついにはロデオの世界に飛び込み、その際に覚えたギターをお供に、社会派フォークの始祖であるウディやバンジョー奏者のデロル・アダムスと、アメリカ各地はおろかヨーロッパまでも歌い歩き、いつの間にかジャックはアメリカ伝承音楽界の伝説的存在となっていた。

 彼は、ニューヨークの医者の息子と調べれば分かる出自でありながら、”放浪の歌うカウボーイ”と自称し、ジャックのファンもそれを虚偽と知りながら、ジャック・エリオットの歌を”生粋のカウボーイの歌”として楽しんだ。これなんかある意味でアメリカ版の”マドロスさん歌手”みたいなものではないですかねえ?

 何でも彼はステージではひどい田舎訛りで喋ったが、正式な場では、実に”ニューヨークの医者の息子”らしいきれいな英国風アクセントの英語を使いこなすんだそうな。
 しかも彼がステージで話す訛った英語は、いかにも都会人が真似した訛りで、完全にネタは割れているとか。それでもその事で彼を非難する者もいない。まあ、デーモン小暮に向って「お前が悪魔のはずはない」と文句を言うようなものなんでしょうね。それはヤボというものだ。

 この逸話からしても、そして彼があくまでも地を這うが如くの大衆の根に関わる伝承歌にこだわり歌い続けている、そのあたりの間合いからしても、実に”マドロスさん歌手”的な存在ではないですか。

 大衆の幻想の中の”昔ながらのカウボーイ”を演じきって、どうやらアメリカ・トラディショナル音楽界の最長老組の一員となってしまったジャック。
 添付したジャケ写真は、1970年にジャックの発表したアルバムのものです。放浪の歌が多く収められたもので、”中年”のとばくちでふと足をとめ、歩いてきた道を振り返り、溜息一つ、みたいな感慨が漏れ聴こえる作品ですが、彼の、ポーズがあまりに身につき過ぎて、もはや何がリアルかも分からなくなってしまった音楽人生はまだまだ続くのでした。


続・バタやんの島歌

2007-11-24 00:06:07 | その他の日本の音楽


 さて、昨日の続き。

 田端義夫氏の”島歌もの”として有名なのが”十九の春”という曲であります。例の「私があなたにほれたのは ちょうど十九の春でした」って奴ですね。もう、バタやん島歌の代名詞みたいな存在の唄です。

 ちょっと気になっていたんだけど、この唄、沖縄特有のあの音階、”ドミファソシド~♪”じゃなくて何音階って言うんだろう、”ドレミソラド~♪”って、まあ普通の演歌なんかで使われる音階で出来ているんですね。
 あれれ?とは思ったものの、まあ、沖縄にはこのような音階も存在したのやも知れず、あるいは”本土”の影響とかでそのような音階が使われる例もあったのかな、などと深く考えずにいたんですが、今回、この文章を書くについて調べているうちに正体が知れた。

 ”十九の春”は、なんとあの大正演歌の添田唖蝉坊の唄がモトネタだったんですね。

 添田唖蝉坊といえば、まだ庶民には新聞なんてものさえ高価で手が出ない時代、バイオリンを奏でながら辻々で時事ネタの歌を歌い、その場でガリ版刷りの歌本を売って生計を立てていた、あの辻演歌師の世界の大物ですね。と言うより私なんかの世代には、フォークシンガーの高田渡が唖蝉坊の歌詞にアメリカン・フォークのメロディをつけて歌っていた、なんてエピソードで親しい人物。

 その唖蝉坊が街頭で歌い、庶民の間で流行させていた唄が、どういう経路を辿ってか琉球の遊郭地帯に流れ込み、そこの遊女の間で好んで歌われるうち琉球の普通の人々の間でも親しまれるようになったんだそうで。

 言われて見ると3番の、”(ウグイスが)ホケキョホケキョと鳴いていた”なんて歌詞はいかにも唖蝉坊好みというか。ウグイスの鳴き声と”法華経”をかけているわけでしょ?唖蝉坊は、いかにも単なる掛け声みたいに”トツアッセー、マシタカゼーゼ”なんて唄いつつ、実は”圧政、増したか税、税”って暗喩になっている、なんて仕込みを好みましたからね。

 そして、CDのクレジットを検めてみれば、”十九の春”の作詞作曲者の欄は”沖縄俗謡歌”となっている。なるほど微妙な記述ですね、これも。こんな表現しかしようがないというところでしょうか。

 こういう話を聞くと、なんかワールドミュージック魂が刺激されてゾクゾクしてしまうのですね。

 まだ”本土”から琉球へ渡るのもなかなか思うに任せなかったであろう時代、どのような人物が、何の用事で海を越え、遊郭に寄った理由は分かるものの(笑)その結果として歌を伝えたのだろう。当時の沖縄の人々の心に、添田唖蝉坊作のその歌はどんな具合に響いたのだろう?
 そんな、人間たちの繰り広げるドラマの間を流れ流れて行く音楽というもののありようを思うと、血が騒いでならないのです。

 それにしても、どうしても分からないのが田端義夫氏の歌に流れる潮の香の出所。彼の履歴を洗ってみても、加山雄三が海の若大将であるような具合の事情があるわけでなし、むしろ海とはあんまり関係のない人生を送ってるんだが・・・

 そして、彼のうちにずいぶん濃厚にあったらしい”島歌”へのこだわりの出所も気になります。
 過去に他の歌手によってレコード化されたものの、奄美大島のみでのローカル・ヒットに終わっていた歌、「島育ち」を強引にカヴァー・レコーディングし、ついにヒットさせてしまった昭和38年の逸話なども忘れがたいし、そもそも奄美沖縄絡みの歌のレコーディングの数も普通ではない。

 ともかくバタヤンの南島への思いいれ、ただ事ではない雰囲気を漂わすわけで、このうえはとりあえずその正体解明のためのとっかかりとして、どのような曲目が収録されていたのかさえ今のところ分かっていない”島歌1”でも手に入れたいものだなあ、と切望したりしているのであります。

バタやんの島唄

2007-11-23 01:17:17 | その他の日本の音楽


 ”島唄2”by 田端義夫

 以前からバタヤンこと田端義夫氏の島歌もの、もう少しスパンを広げてみればマドロス関係、海洋関係の歌と言うのが気になっていた。
 なにしろデビュー曲がいきなり「島の舟唄」であり、その後も、「かえり船」「玄海ブルース」「ふるさとの燈台」「島育ち」などなど、妙に潮風漂う出し物が、バタヤンのメニューの中に居並んでいるではないか。しかも明らかな南向き奄美~琉球航路。こいつは何か深い根を持つ志向なのか?

 このあたり、「港々の歌謡曲」のイナタい響きを求めて国境線を越えて行くのが本能のワールドミュージック者としては心穏やかではいられない。その辺のレパートリーばかりを集めたアルバムでもないものかな、などと気にはなりつつ、地球の裏側のポップス事情などに夢中になっていたのだが。
 そんなある日、なんとなく通販サイトを検索していたら、何のことはないそのものずばり田端義夫の”島唄2”なるCDが出ていたではないか。しかも、もう4年も前に。なおかつ”2”だ。”1”はこちらの知らぬ間にリリースされ、当に絶版となっているようで、なんとも間が抜けたオハナシ。

 と言うわけで遅まきながら今回やっと”2”を手に入れ、聞いてみた次第である。
 冒頭に収められた”涙そうそう”はかってラジオで聴いていて、それについてはこの日録ですでに書いている。こうしてCDを手元に聴き直してみてもこの曲の、ゆっくりと天空を過ぎって行く暖かい日差しみたいな、穏やかな手触りは変わらない。

 収められているのは田端義夫がこれまでに発表してきた沖縄~奄美関連の作品群に加え、「涙そうそう」のようにビギンや喜納昌吉の、ずっと新しい作品をバタヤン節で歌いこなした新録がいくつか。
 昔の録音と最近の作との声の張りの差は、それは仕方がないのだが、アルバムを聴き進むに連れ、気にならなくなる。
 これはビギンの比嘉栄昇が田端義夫のライフ・ストーリーを題材に作り贈った曲なのだろう、人生を振り返っての感慨を込めて歌う「旅の終わりに聞く歌は」がアルバムのど真ん中に鎮座し、「空は夕焼け旅は終わらず」と締められては、たかが数十年の時の経過など、こだわって聞いて入れらない。

 ちょっとどぎまぎしてしまったのが、これは当方、子どものころから聴き馴染んでいた”島のブルース”である。
 ”奄美なちかしゃ 蘇鉄の陰で”と、この唄がこのアルバムの中におかれ、しかもこちらの頭がワールドミュージック状態、という設定で聞き直してみると、”島のブルース”って、歌詞の通りの奄美のイメージではないね。と言って沖縄でもなし。歌のメロディや歌詞やアレンジなどなどが入り混じって醸し出すのはもっと南に下って、台湾の山地民族の習俗を彷彿とさせる、そんな世界だ。少なくとも私にはそのあたりを想定して作られた歌のように聞こえる。

 これ、製作当時の製作者側にとっては奄美も沖縄も台湾山地も似たようなもの、というか全部あわせて”南方”を構成する一つの世界、くらいの把握がなされていたんではあるまいか。そんな風に思えるが。当時の”本土の人間”の意識とはそんなものだったのかなと、なんだかヤバい気分で首をすくめてしまったのだった。

 それら、収められた”島唄”の出自も良く分からないままなのだが、作詞家や作曲家の名に普久原とか上原とか照屋とか沖縄の人らしき苗字も散見されることから、”本土”の作家が作り上げた想像の産物は意外に少なく、取り上げる島唄のソースは地道に現地に取材していたのだろうか。
 などというのも、今日、”島唄”として我々が聞く音楽に比べると、田端義夫の島歌は、若干観光絵葉書的匂いが漂うのである。まあ、そのような歌を選んで歌っていたのかも知れぬし、当時の島歌はそのようなものであったのかも知れぬ。この辺は、その方面に詳しくない当方、今後の研究課題ということで(こんなんばっかしだな)

 なぜマドロスものか、なぜ南を目指したのか、に関してはついに良く分からぬままだ。検索をかけて彼の人生を追ってみても特にそれに関わる強力なエピソードがある訳でもなし。
 デビュー曲が海絡みだったのも単に流行だったからのようだし、その後の展開もやってみたら受けたから続けた、というきわめて”大衆音楽の真実”なものだったのではないかと、とりあえず想像しておく。

 それにしても・・・かっての日本人が海の向こうに向けた視線の切ないこと。
 南の島に仮託したつましいエキゾチシズムに酔い、”純情なる島娘”の幻想に勝手に切なくなっている。
 まだ貧しかった時代の日本人たちが浜で車座になり、酒の肴のスルメを焼く、その匂いが潮の香に混じって漂ってくるようだ。船の焼玉エンジンのポンポンいう音が響いて、浜は夕暮れ。

 そして、その切なさの具現としての”マドロスの旅”を、つまりはあてない幻想行を身をもって演じていた田端義夫だった。

 そんな彼の老いた身が、南の港で予期もしなかった現世の人間たちに迎えられ、「よく帰ってきたサー」と手を差し伸べられた、そんな”ありえない帰郷”風景が収められたアルバムなのだなと勝手に理解し、最初は違和感を感じていたビギンの連中の曲にもいつの間にか馴染んでいた当方なのでありました。
 

南の島の福音歌

2007-11-21 21:36:11 | アジア


 ”Mujizat Itu Nyata”by Joy Tobing

 インドネシアの教会外賛美歌と言うのかキリスト教系ポップス、”ロハニ”に相変らず興味を惹かれて聴き続けているのですが、その方面の若いながら実力者、ジョイ・トビンの新作が手に入った。

 いやもう、彼女はロハニの第一人者と言ってしまっていいような感もありますな、このアルバムなど聴きますと。
 そのハスキーがかった高音で清浄なるメロディを高らかに、そしてソウルフルに歌い上げるあたりは、もはやはまり芸と言った風格も感じられます。

 もともとは普通のアイドルコンテストかなんかの出身だと言う彼女が、なぜこの方面を歌うに至ったか、その経緯は毎度こんなんで申し訳ない、知らないんですが、彼女の出身地である北スマトラのバタック地方では、キリスト教の信仰も盛んであるそうで。
 彼女もおそらくはその関係でクリスチャンであり、賛美歌も歌いなれている。だからロハニ業界のヒトが「ああ、ちょうどいいや、歌っちゃいなよ」となったのかも。と、思いつきで言っておきます。

 また、発表してきたアルバムタイトルを見ると、「喜びの歌」「奇跡は真実」「感謝」なんて、それ臭いものが並んでいるんで、もはや専門の”ロハニ歌手”化している可能性もある。
 イスラム教人口が支配的であるインドネシアにおいて、営業的にそれがそれほどおいしいとは思えないんだけど、意外に儲かるのかのか?
 いや。そんな話題は、清浄なるロハニの響きには似つかわしくないですな。

 他のロハニのアルバムと同じく、これも美しいバラード中心に構成されたアルバムですが、3曲ほど収めらているアップテンポの曲が皆、英語の歌詞であるのはなぜ?
 そしてそれらを聴いていると、ほとんどアメリカのモダン・ゴスペルと音楽的には変わりはないんですな。それが、他のナンバーにおいてはインドネシア語で歌われている、それだけで不思議な妖気を放ち始める。この辺もこれから解明して行かねばならぬロハニの謎といえましょう。

 それにしても彼女、あるいは彼女のスタッフ、我が日本の”Misia”の歌う「Everithing」 って曲をロハニの歌詞を付けてカバーしてくれないものかなあ。良い感じの出来上がりになると思うんだが。

映画「ホワイト・ファング」批判

2007-11-20 22:08:23 | その他の評論
 月曜日、深夜のテレビで「ホワイトファング」とかいう映画を見たんだが、ありゃなんですか?駄作を通り越した異常作品。公開当時、どんな評判になったのかしら?

 ”開拓時代のアメリカ、ゴールドラッシュに沸く山奥の鉱山町における少年とオオカイとの友情話”というのが物語の要約なんだけど、ともかく脚本がご都合主義のカタマリみたいな代物。

 なにしろ登場人物がすべて、イヌ(そして、その延長線上におけるオオカミ)のことが毎日気になって仕方がないという設定ですわ。どんな世界なんだよ、犬マニアで埋め尽くされた世界なんて。賭け事は犬同士の戦いが対象であるし、街の住人の喧嘩も犬が原因。そんなに年がら年中、犬のことばかり気にしている人間集団ってシュール過ぎる。

 主人公たるオオカミも凄いぞ。巨大なヒグマに追われた少年を守るために牙を剥いて恫喝すれば、何倍もの大きさのヒグマが尻尾を巻いて逃げ、採掘場を襲った完全武装の強盗団はオオカミが咬みかかっただけでヒイヒイ悲鳴をあげて逃げ出す。

 坑道の落盤で人が土砂に埋められても、オオカミが飛んでいって前足でちょっとサクサクやれば簡単に救出されてしまうし、ついでにオオカミのその前足には金色の粉が付着していて、なんとそれがきっかけで金の鉱脈が発見されてしまい、主人公たちは一瞬にして大金持ち。

 ついて行けませんわ。なんだよこの調子良いだけのストーリー進行は。まあこういうのでなけりゃ、頭の軽いアメリカ大衆には理解不能なのかもな~。

 そして極めつけ。そこにアメリカ大陸先住民、いわゆるアメリカインディアンが登場するのだけど、その”いかにも容貌魁偉な異民族”臭を漂わせた男は、「犬に友情を感ずるなんてとんでもない。人間は犬より優れた存在だ」なんてことを”神聖な祖先からの教え”みたいな思い入れで語る。

 見えてきましたね。「心優しい人間性の豊かな白人たちは動物であるイヌやオオカミにも友情を感じたりすることが出来るが、野蛮で愚鈍な未開民族たるアメリカインディアンたちは、そのような高度な感性は持ち合わせていない」って言いたいわけですな、つまり。
 もちろん、そんな決め付けをして良い根拠って、何もないのに。

 で、「だからそんな連中を皆殺しにして、彼らの土地にアメリカ合衆国を建てたヨーロッパからの移民たちの行為は正しかったのだ」という結論に帰着するのでありましょう。ひどい話だぜ。
 まあこの辺の理屈を押し立てて、現代史ならベトナム~イラクなどでアメリカはあれこれやってきたし、我々としては”広島長崎に対する核攻撃の正当化”というもので親しい。

 「ほんとにアメリカ人って、臆面もなく底抜けに悪質だよな」と呆れた、夜更けの映画鑑賞結果でありました。

痛快なり崩壊

2007-11-19 06:48:39 | 時事


 「一流料亭でござい」とか言ってふんぞり返っていた店のいい加減な実態が明らかになり、信用が崩壊して行くのを見るのは、ある種の快感がありますな。ハハ、ザマミロ。落ちるとこまで落ちたらいいがな。

 と、以前経営していた店の関係で、その種の場所に出入り商人として関わった身としては思うのであった。

 まあ、そんなところをヒイキして「やっぱり本物は味が違う」とか、そんなもの分かりもしないのにグルメぶっていた連中の見栄も地に落ちた、こいつも痛快でありますなあ。

 ○船場吉兆、牛ヒレ肉でも偽装か…原産地記録を保管せず (読売新聞 - 11月19日 03:12)
 高級料亭「吉兆」のグループ会社「船場吉兆」(大阪市中央区)による牛肉の産地偽装表示事件で、同社が、みそ漬け商品に使った牛ヒレ肉の原産地などを記録した書類を保管していないことがわかった。
 みそ漬け商品などに使ったサーロイン肉では、佐賀、鹿児島県産を「但馬牛」などと偽って表示していたことが判明しており、大阪府警は、ヒレ肉商品でもサーロイン肉商品と同様に産地偽装が行われた可能性があるとみている。
 保管していなかったのは、「子牛登記書」「出荷証明書」「個体識別番号」で、牛の出生地や卸先などが記載されている。農林水産省が10月下旬~11月初旬、同社本店を調査した際、サーロイン肉の書類は残っていて、偽装表示発覚の端緒になったが、ヒレ肉のものは見つからなかった。同社は農水省に、「記録はないが但馬牛だ」と説明しているという。

輝ける東京

2007-11-17 23:50:34 | 南アメリカ


 ”Tokio Luminoso”by Osvaldo Pugliese

 ケーブルテレビに昔のテレビドラマばかりやるチャンネルがあって、そこで以前、”レモンのような女”というシリーズを見た。1967年あたりの作品。
 岸恵子が主演で、毎回一話完結。岸がいろいろな、当時のナウい女像を演じてみせる、と言った趣向のようだった。当方が見たのは、彼女がお嬢さん風に見えながら実は泥棒集団の女首領(!?)なるものを演じた回だった。

 その回のゲストは伊丹十三で、彼の演じる、現実から何センチか浮き上がり、いつも夢の世界に生きているような純粋な男にすっかりいつもの調子を狂わされる女首領は、「でもいいわ、今回は何も盗めなかったけれど、あいつの心だけは盗んでやったんだから」などと納得する羽目に陥る。

 当時の”オシャレなもの”をいろいろ見る事が出来たのだったが、まあ、実はドラマの内容はどうでもいいのであって、問題はそのエンディング。

 荘重なるクラシックの曲が(タイトルなんか知るはずがないよ、私が)流れる中、カメラは夜のネオン輝く東京のどこかの大通りを延々と写し撮って行くのだった。岸と伊丹が演じて見せたような不思議な男女が棲息する街、東京を称揚するのが、そのドラマの真の目的だったかのように。

 そしてこちらはそれを見ているうちに、その画面のバックに鳴り響いているのがクラシックの曲ではなくタンゴの鬼才、オスバルド・プグリエーセの楽団が演奏する”輝ける東京”であるかのような気がしてきたのである。というか、ドラマを見て後、数ヶ月経過した今となっては、完全にそちらの方が事実であるように思えている。

 アスバルド・プグリエーセ(1905~1995)は、いわゆる音楽上の革命家の一人で、アルゼンチン・タンゴの世界に独特の表現を持ち込んだ人物。ほとんどファンキーと呼びたいようなユニークなリズム処理で聞く者の血を逆流させるかと思えば、甘さを押さえたチョコレートみたいな苦味の勝っているがゆえの秘めたる甘美さが際立つ奇妙な持ち味の”泣かせるメロディ”を聞かせた。

 冷徹にして熱情的と矛盾した表現をあえて使いたいような、不思議な迷宮的構造を持った音楽を終生、奏でたミュージシャンだった。それでいて、あくまでも民衆のための音楽家であり、嫌味な芸術趣味に閉じこもることがなかった。

 そんな彼が、おそらくは来日公演の際に見た、ネオンサインの光の海、夜の東京に感銘を受けて作ったのであろう曲が”輝ける東京”である。なにしろプグリエーセであるから、月並みな東洋趣味のメロディなどは一片たりとも出てこない。
 瞑想的な中に、どこの国のものでもない独自の響きを持つメロディが、ひそやかに甘美な夜の神秘への頌歌を詠う。

 プグリエーセにこの曲を書かせた、この一事をもってしても偉大なり当時の未来都市東京!と賞賛の言葉を捧げたい気分になってくるのだった。

 (冒頭に添付したのは、”輝ける東京”が収められたプグリエーセのアルバム、”Pugliese por Pugliese”のジャケ写真)