ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

Night They Drove Old Dixie Down

2007-03-30 05:18:42 | いわゆる日記


 昨日に続いて、”他人の文化に踏み込んで音楽を奏でてしまうこと”の話なのだが。
 ここでアメリカのルーツ系ロックの最高峰、ザ・バンドの2枚目のアルバムに入っていた、”Night They Drove Old Dixie Down ”という歌をもちだす。

 これはアメリカ合衆国の歴史上の影の部分を題材にした歌、南北戦争に題材を取った、”敗北した南部人による北部人への恨み節”みたいな歌なのである。この歌が昔から気になっていたのだ、私は。
 ”北軍は我々の鉄道を焼き払い、兄の命を奪い、何もかもを持って行った。先祖からの血にかけて俺は復讐を誓う”なんて歌なのだ、ともかく。

 そのような微妙な(アメリカ合衆国における南北問題!)事情を、5人のメンバー中4人が異邦人であるカナダ人、なんてバンドがおおっぴらにアメリカ国民の目の前で歌ってしまって良かったのか?などと、疑問なのである。
 あの歌をコテコテのアメリカ南部の人間が聴いたとして、どのような感想を持つのだろう?「良く我々の気持ちを代弁してくれた」と感謝する、なんて単純な構造にはなっていないだろう、人間の心は。

 それはもっと頑ななものであって、たとえば、「お前ら外国人に分かったような事を歌われる覚えはない!」とか、そんな怒りを覚えたりするのが普通ではないのか。彼ら南部人にとっては、”栄光の歴史”なんかではないのだ、その出来事は。反発を買ったりはしなかったのか、発表当時?

 あの歌を歌っているのがメンバー唯一のアメリカ人メンバーであり、しかも彼はひどく濃厚な南部訛りの持ち主であるがゆえに、そのリアリティで乗り切った、なんて話も聞いたが、そんなものだろうか?こいつはいまだにわからないままである。

ネオンの海を歌うなら

2007-03-29 04:42:38 | 音楽論など


 つけっ放しにしておいたテレビを横目で眺めながらネット相手に無駄に時を過ごしていたら、椎名林檎のライブ特集的なものをNHKテレビが放映を始めた。作品の成立由来に関する長めのインタビューがあり、そこで林檎の、出世作というか彼女のイメージ決定作だったもの、というべきか、”歌舞伎町の女王”等の歌に関して語った内容が印象的だった。というか、私の知りたかったことに関して語っていた。

 彼女自身は、これまで歩んできた人生において紅灯の巷や水商売の世界などに特に親しかったわけではなく、それらの曲が描いていた夜の街のありようは空想の産物であると。

 なるほどなあと頷いたものである。逆に私は地方の温泉地の繁華街で育った者であり、だからあのような水商売ネタの歌などに接すると微妙に感情を刺激されたりする事がある。まあ、ナマな言葉で言ってしまえば、「水商売の街の現実も知らずに、お前ら、勝手な事を言うなよなあ」である。

 「こんなうらぶれた街へ流れてきて」なんてセリフは、それが現実であるし、現実の街の住人もそのような言質を成す場合があるのだからなんとも思わないが、「この街では自分は顔役である」とか、いかにも場慣れたみたいな発言をされると、気に触る部分がないではない。お前がネオンの街の何を知っているというのだ。

 いやまあ、いきり立ってみたところで。芸能界、売れた者勝ちであって、私がこんなところで腹を立てたって、林檎が”歌舞伎町の女王”であるという仮想現実はもはや既成事実(訳の分からない表現だが)と化している。いまさら、仕方がないのではあるが、とりあえず私は、なんとなく納得できないままである。

聖スーダラ王昇天

2007-03-27 23:32:17 | その他の日本の音楽


 巨星落つ。植木等御大が亡くなった。ここ数年、病気がちでおられたのは知っていたのだが・・・

 とは言え植木御大のことであるから、最後のご挨拶にもう一度天空いっぱいに姿を現して呆然と見上げる日本全国民を相手に「お呼びでない?お呼びでないね?こりゃまた失礼いたしましたっ!」と大音声で呼ばわり、改めての御昇天など演じて欲しいと願わずにはいられないのだが。

 戦後の日本が高度成長に向かって走り始めたその時期に生を受けた当方、昭和を彩ったあの秀逸なるコメディ番組、”シャボン玉ホリデー”を基礎教養として育った。
 番組中、コメディアンとして脂の乗り切った姿で暴れまわる若き日の植木等は、まさにアナーキーなエネルギーに溢れ、真正面からの意味でヒーローだった。

 なんとか、”スーダラ節”が日本の新しい国歌として承認されるまで元気でいてくれると信じていたのだが。そいつはまあ、無茶な期待というものだった。

 湿っぽくならない。ウジウジするのはかっこ悪いと教えてくれたのが、植木御大その人だったからだ。ここは植木御大の往年のヒット曲をもって送りたいと思う。

 二日酔いでも寝ぼけていても タイムレコーダ ガシャンと押せば
 どうにかカッコが付くものさ 
 チョッコラチョイとパーには なりゃしねえ あホレ
 ドンと行こうぜ ドンとね
 ドンがららったドンとドンと行きましょう

 (「どんと節」作詞・青島幸男)

 ○クレージーキャッツの植木等さん死去
 (日刊スポーツ - 03月27日 19:51)
 映画「無責任」シリーズなどで知られ、歌手としても活躍した日本を代表するコメディアンの植木等(うえき・ひとし)さんが27日午前10時41分、呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。80歳。三重県出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。後日、お別れの会などを開く予定。
 57年から「クレージーキャッツ」のメンバーとして活動。61年に青島幸男さん作詞の「スーダラ節」が大ヒットし国民的人気者に。翌年の「ニッポン無責任時代」に始まる映画「無責任」シリーズで、日本中にブームを巻き起こした。テレビのバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」では「お呼びでない」など多くの流行語を生んだ。
 歌手としては「スーダラ節」のほかに「五万節」「ハイそれまでョ」などのヒットがある。93年に紫綬褒章、99年に勲4等旭日小綬章。
 植木さんは今年1月、食欲不振を訴え、都内の病院に入院。今月8日には一時自宅に戻ったものの、翌9日に再入院。今月中旬には病状が悪化し、この日、妻登美子さんと娘3人にみとられて、静かに息を引き取った。

谷山版の”テルー”

2007-03-26 22:51:33 | その他の日本の音楽


 ”テルーと猫とベートーヴェン”by 谷山浩子

 日曜の朝早くのニッポン放送でフォーク歌手のイルカが司会の”イルカのフォーク堂”って番組をやっている。夜昼とっちがえていて明け方寝る私にとっては寝しなに聞く”超深夜番組”となっている。

 かかるのは、ようするに”年老いたフォーク世代”とかを対象にした番組なんでしょうな、70年代とかの懐メロ・フォークの数々で、まるで私の柄じゃない。ない筈なんだが、さすが私も寄る年波か、それともそのような形で何度も聴いているうち聴き慣れてしまったのか、”風と落ち葉と旅人”なんて女の子二人が歌う爽やかフォークかなんかを聴いて、「こんなのも今となっては逆に新鮮だよな」なんて頷いているんだから弱った話ではある。まあ、そんなものを聴きつつ本の2~3ページも読めば寝付いてしまうのだから、許して欲しい。

 そんな具合で、昨日の朝もベッドに入るなりラジオをつけたのだが、その朝はなぜか谷山浩子が司会をしてた。
 谷山のファンの私としては「しめた、司会が谷山に代わったのか」とか喜んだんだけど、それどころではなかった。イルカのダンナがなくなり、急遽、谷山が代理登板なのだそうだ。そりゃ大変だね。
 イルカのダンナと言っても当方、その顔も浮かんでこないのだが、確かもともとは同じグループのメンバーとしてイルカと一緒にステージに立っていたんじゃなかったっけ。とすれば私も”現役の歌手だった時代”に会った事があるのかも知れず。
 そんな同世代の人間たちが親になり、孫が出来て、やがてある日、死んでいってしまう。
 いやあ、時というのは大変な代物だ。

 番組の中で谷山が、「アニメ映画の主題歌にと提供した歌」といって自分のCDをかけた。あの「ゲド戦記」の主題歌の「テルーの歌」だった。ありゃりゃ、あれは谷山の作曲だったのか。
 どうりで、なんか私のアンテナが反応するはずだ。いや、実はあの歌は気になっていて、でもアニメの主題歌に興味を示すのも気恥ずかしくて、聞かないふりをしていたのだ。谷山の歌であるのなら、大手を振って聞けるわけだよな。いや、谷山のファンという事自体がヤバイのか。

 映画に使われた、新人の女の子が歌うヴァージョンは、青春時代にありがちな自閉気味の心象が表に出ていたが、谷山本人の歌はもっとふくよかな人生への賛歌となっていて、オトナとコドモでは、同じ歌でもずいぶん違うものだな。

 とはいえ、デビュー当時の谷山といえば、そんな具合の自閉気味の少女が心の中で育てた幻想世界で見たものを歌っていて、当時、”お兄さん”から”おじさん”の領域に踏み入れかけていた当方としては、認めざるを得ない自分の現実へのはかない抵抗の意味も込めつつ、その現実拒否具合に声援を送る、みたいな気分で彼女の歌世界を贔屓にしていたものだったのだ。

 やがて時は流れ、谷山は・・・確かもう大分前に結婚もしているよな。そして今、盟友(なんだろう、きっと)の不幸に、ピンチヒッターとして引き受けたラジオ番組の司会を如才なくこなして、自分の歌のプロモーションもしっかり紛れ込ませる。
 そして私は、気がつけば谷山の歌を聞かなくなってずいぶんになるのだった。ずっとファンのつもりでいたのだが、そういえば彼女のアルバムを最後に買ったのはいつだったか。別に、ファンをやめたくなるような、何か気に入らないことがあったわけじゃない、時の経過の中で擦り切れていってしまうものもあるということだ。

 いつのまにか。何もかにもが曖昧になって過ぎて行ってしまう。何がいいとか悪いとかではなく。ただもう時の流れの前で、否応もなく。

 「ゲド戦記」の、まだ英語への吹き替え作業も終わっていないフィルムによる試写会がアメリカで行なわれた際、招かれていた原作者のアーシュラ・K・ル・グィンは日本語のままの「テルーの歌」を聴き、「この歌は気に入ったので、英語版にもそのまま残して欲しい」と言ったとか。その願いは聞き入れられたんだろうか。ル・グィンは、あの歌にどのような幻想を見たんだろうか、などと、ふと思った。

イスタンブールの赤色エレジー

2007-03-25 02:47:46 | イスラム世界


 ”Turnalara Tutun Da Gel”by Ozhan Eren

 ウディ・アレンとエルヴィス・コステロを混ぜたみたいな黒ブチ眼鏡の青年が、ナイーヴそうな横顔を見せているジャケ写真。トルコのシンガー・ソングライター、Ozhan Eren のアルバムであります。

 まあ、ワールドミュージック泥臭派の私としては、このようなジャケは普段は怪しんで近寄らない。”トルコにもアメリカのものと変わらないようなお洒落なポップスがあるんですよ”とか誇らしげに言い放つタイプのミュージシャンっぽい雰囲気漂ってるんで。なんか、いかにもな、「欧米か!」な歌をピアノに向かいつつ歌うのではあるまいか、なんて感じなんで。

 それを何で買ってしまったかといえば。いや、自分でも良く分からないのです。なんかありそうな気配がしたとしか言いようがない。
 まあ、買ってしまったものは仕方がないので、ともかくCDを回転させてみる。と。飛び出してきたのは。意外にもトルコの民俗楽器による厳かなアンサンブルの音だったのであります。

 ありゃりゃ。ジャケのイメージとはかなり離れた土着伝統派の音作り。収められている曲はすべて自身の作詞作曲のようですが、どの曲もトルコの伝統音楽を地味に追求した、落ち着いた作風のものばかり。このしみじみとした感触は、もしかしたらこれってトルコ人の心の故郷に触れるような作品集なのかも、とまで思わせるものがあったのでした。

 ただ、想像通りだったのは、その歌声。なにやら頼りなくフラフラと揺れ動くその声は、地に足の着いた伝統音楽をやるよりは、やっぱりお洒落な都会派の無国籍音楽を歌っている方が納得できる。

 へえ、不思議な奴もいるもんだなあと、イスタンブールの街から見た、アジアとヨーロッパを隔てるポスポラスの海峡に沈む夕日など、そりゃあこちらは行ったことも見たこともないけどよ、思い起こさせる切ない曲など聴きながら首をかしげていたのですが、あっと。日本にいましたよ、こんなポジションにいるミュージシャンが。

 この歌い手、Ozhan Erenって、トルコのあがた森魚じゃないんだろうか?それも、”赤色エレジー”をヒットさせた頃の。ジーンズに長髪で、まるで場違いの演歌歌手たちに囲まれてのテレビ出演などしていた頃の、あがた森魚だ。

 うん、そんな感じがするんだよ。その”民族派”らしくもない頼りなげな歌い方や、若いくせして見事に時代の流行に背を向けて古い音楽に居場所を求めてみたりする、そんな偏屈ぶりとかね。
 いや、Ozhan Erenが本当にそんな奴かどうか、知りませんよ。ただ、その方向で理解してみると彼の存在を納得しやすいってだけの話なんですが。

いかすじゃないか、西銀座駅前~♪

2007-03-23 01:09:35 | その他の日本の音楽


 何となく気になっていた今村昌平の昔の映画を見る。ケーブルテレビで行われた今村作品特集において。

 フランク永井のヒット曲絡みの「西銀座駅前」である。よくタモリが「ABC,XYZ、それがオイラの口癖さ~♪とかいうけど、そんな口癖の奴ぁいない」と、その妙な歌詞をからかっている唄である、”西銀座駅前”とは。
 そもそもが昭和30年代、東京は西銀座方面で開店したデパートのキャンペーンソングだそうで、それが思いがけずヒットしてしまったので便乗して作られた歌謡映画(なるジャンルがあった、当時は)なのだから、これはもう、いい加減な代物にならざるをえないだろう。実際、上映時間も1時間ほどで、作りも軽い軽い。

 戦争中、兵士として赴いた”南洋の島”と、そこにおける”原住民の娘”との恋愛のごときものの思い出が、白日夢として頻繁によみがえり、本業である薬局の仕事も上の空の男が主人公。一方、その妻は、まだ幼い子供の”お受験”に熱中し、ダンナを健康のためにと、新発売の薬漬けにしている、高慢ちきな女、という構図。
 妻がご執心の”戦後日本の新生活”を象徴する新薬と、ダンナが憧れる未開の島、この対比によって文明批評でも繰り広げるかと思いきや、そこまで深いものはなし、とりあえず話の運びの都合上、そんな設定にしておこうか、程度のものである。

 ダンナはある日、キャバレーのホステスを酔った勢いで連れ出し、モーターボートで海に乗り出し、そして(そうなるだろうと万人が思うとおりに)海路に迷い、潮に流されるまま、怪しげな島に漂着する。そこはどこか、彼がいつも見る”南洋の島”を彷彿とさせないでもない場所である。仕方なくホステスと彼は、その島で一夜を明かす羽目と成り、そしてこれもお定まり、ホステスは彼に性的アピールを送るのであるが、不器用な彼は、その気はあるものの要領を得ない対応しか出来ず、ブザマな失敗を繰り広げるのみ。
 そしてもどかしい一夜は明け、二人が島を探検してみると、そこは何のことはない、・・・であった、なる、腰砕けオチの作品。

 でも、なぜか私は、その、まあいわばたわいない映画を見るうち、切なくなってきてしまったのですなあ。
 ドラマのバックに描かれる昭和30年代の日本の風俗が、私の幼年時代の記憶を喚起する部分が多々あるってのも大きいのだが。こんな風に、ようやく戦後の荒廃から立ち直った日本人は、たわいない笑劇に興ずる余裕さえ手に入れかけていた。でも、まだまだ現実は映画のレベルに追いついてはいず、日本人の大方は貧しくて、でも、豊かであろうとする夢は疑う事もなく持っていて、そんな夢を象徴するものが、たとえば”西銀座駅前のデパート”だった。
 そんな時代に日を送る人々に見守られながら、私は、頑是無いガキとして育って来たのだった。そうだったのだよ。切ないなあ。そんなものを客観視する能力など、もちろん、当時の自分は持っていなかったのだ。当たり前だが。

 ”元ネタ”であるフランク永井は語り手として、ある時は駅員、ある時はパン屋の主人と姿を変えては登場し、たびたび画面に向き直り、展開されるストーリーをまぜっかえすように皮肉な解説を加える。そんな彼がラストシーンにおいて、当たり前の顔をしつつ、にこやかに笑いながら、吸いさしのタバコを路上に投げ捨てるシーンがあるのだが、もちろん、今日ではタバコの投げ捨てはご法度です。無駄に使い捨てることの可能な世界など無いと皆が知ってしまった今日においては。

 あの頃のあの人々は、どんな楽園にたどり着いたのか。何を手に入れるための、我々の日々だったのか。映画が無邪気に明日を信じる能天気な代物である分、なにやら物悲しい気分は五割り増しとなってしまうのである、気まぐれに時代を振り返ってみた者の胸中では。

誰かZoricaを知らないか

2007-03-22 01:02:26 | ヨーロッパ


 え~、ルーマニアのZoricaという歌手のアルバムがちょっと面白かったんで何か書いてみようと思いましてですね、とりあえず検索をかけてみたんですよ。ともかく何の知識もない歌手である事だし。どのような活動をしている人なのかくらい、知りたく思いましてね。
 が、これが何も引っかかってこない。いや、”Zorica”なる名義の記事や画像とかはたくさん引っかかってきます。が、どれもこれも私が今回書いてみようとしている歌手のZoricaとは関係のないものばかり。とりあえず分かったのは、Zoricaなる名は東ヨーロッパでは一般的な女性名で、医学上の功績を上げたZoricaって人がいるらしい、なんて、何の参考にもならないことばかり。

 もう、嫌になってきましてですね。芸能人でファーストネームだけで営業している人に言いたいよ。前から思っていたんだが、ファミリー・ネームも名乗った方が良い。かってはシンプルなネーミングの方が親しみやすかったりしたんだろうけど、このパソコンが当たり前の時代、やめた方がいい。検索がうまく行かなくて頭に来るんだよ、まったく。
 今回の場合、ともかく他に検索のキイとなるような言葉がない。そもそもジャケにはルーマニア語しか書いてないから、そうでなくともチンプンカンプンではあるし。

 と、いい加減嫌になって来てですね、もうヤケで、レコーディングに参加しているアコーディオン弾きの名前を彼女の名のあとに付けて検索かけてみたら。ありゃりゃ。それらしきサイトが引っかかってきたので驚きました。
 しかも、音楽のサイトじゃない。どうやらルーマニア料理のレストランの宣伝サイト。で、そこの座付きバンドというのかな、晩餐の合間に出てくる座興バンドで歌っているのがZoricaであるようだ。しかも、そのサイトでは、アコーディオン弾きの男の方が名前の扱いが大きい始末。うむむ・・・

 その記事に添付されていたのが上の写真です。ルーマニア料理のレストランの片隅で、こんな感じで歌うのを稼業としているのがZoricaであるようだ。いや、もしかしたら店の持ち主がZoricaかアコーディオン弾きのどちらかであるような気もする。二人のサイト上での扱いの大きさから想像するに。いずれにせよこれもすべてルーマニア語の記事なんで、なんとなく想像するしか私には出来ないんですが。
 ただ、私の手元にあるCDのジャケ写真に比べるとZoricaがちょっと老け過ぎている気がするんだなあ。ジャケ写真は、もっとアイドルっぽい。まあ、女性の顔の秘密に関してはわからないことが多いし、これはちょっとこっちに置いておきますが。

 でも面白かったんですね、これもまた。Zoricaの歌が生きている日常がどのようなものであるのかに、こちらとしては不用意のまま直面できた。こちらはワールドミュージックの何のと勝手にロマンチックなイメージを抱くけれど、とうのミュージシャンにとっては地道に”お仕事”だったりするんですね。

 私なんかがもし二人の店を訪れて「イスラム圏とキリスト教圏の文化が激突するバルカンの地にあって、さらにラテン民族の飛び地でもあるという特殊な立場にあるルーマニアの、ルーツ系ミュージシャンたるお二人にうかがいたい」とか力んでインタビューしても彼らは、腹の底で(うっとうしい奴が来たなあ。こっちはとっとと料理を食って帰ってくれるのが一番ありがたいのに)とか思うだけかも知れないなあ、と。現実を生きて行くってのは、そういうものなんですね。

 あっと、本末転倒。とってつけたようになりますが、Zoricaの音楽は、ルーマニアの民謡をモチーフにしているんですかね、シンプルで人肌に暖かい楽しいものでした。とかく尖った手触りになりがちなバルカンの音楽としては例外的に、Zoricaの陽気な持ち味の歌声とあいまって、明るい陽が終始降り注いでいる感じ。
 ここで聞かれる、どこか丸っこい印象のメロディは、バルカンではアルバニアあたりでよく聴かれるもので、その辺のつながりも興味深く感じます。

 それにしても参加ミュージシャンは、歌手のZoricaと日常のパートナーであるアコーディオン弾きに加えて、リズム打ち込み役も兼ねたキーボード・プレイヤーがいるだけのシンプルなもの。スカスカの音のむこうにルーマニアの下町のざわめきが聞こえて来そうな。徹頭徹尾、庶民派で嬉しくなる二人であります。いや、ご当人たちはもっとゴージャスにやりたいと思っているんだろうけど、おそらく。

アフガニスタンの古典音楽

2007-03-21 04:01:08 | イスラム世界


 ”Rubab Raga”by Khaled Arman

 これはアフガニスタンの民俗音楽というんでしょうか、古典音楽というべきなんでしょうか。タブラのみをバックの、ルバーブなる弦楽器の演奏もの。北インドの古典音楽の影響濃い、というか私などにはどこが違うのか分かりません。即興性の高い典雅な弦の爪弾きが繰り広げられる。

 ルバーブはメインの弦が三本で、それに付随する共鳴弦が十数本あり、これは旋律弦が爪弾かれるとそれに共鳴して鳴るばかりではなく、伴奏弦としてダイレクトに始終かき鳴らされます。

 シタールと違って使われているのがガット弦であり、それゆえバリバリと早いフレーズを弾かれると一瞬、フラメンコ・ギターに聴こえる一瞬もあり。そういえば北インド音楽から受ける深い思想性みたいなものよりも、もっと直情的な、激情と知ってもいい感情の爆発を感じる瞬間もあり、やはり影響を受けているのは明らかでも、インド音楽そのものではないなあ、と思わされます。

 アフガニスタンという地勢が示すとおり、これはあくまでもイスラム圏の音楽なのでしょう。インド音楽の形式の中でイスラム的激情が燃え上がるというか。

 最後に収められているアフガニスタンの民謡をソースとした演奏はいかにも深山幽谷にこだまする、みたいな旋律が印象的であり、このあたりはアフガニスタンの人々の、生活の中の生の感情がそのまま伝わってくるようで、感動的なのでありました。

 ところでこのラスト曲、早弾きが極まったあたりで、まるでベートーベンの”運命”の一部みたいなメロディが延々繰り出されるんだけれど、これは偶然似ているだけなんだろうか?ジョークでそんな事をやるようなタイプの音楽ではないんで、まさかと思うんだけど・・・

 いや、ほんとにまるでそのまま”運命”の中から引用しました、みたいなメロディが延々と奏でられるのであります。ジャケの解説には何も書いてはないんだけれど。これは気になります。と言いつつ、疑問の解ける日は永遠に来ないんだろうなあ。

Балаган Лимитед

2007-03-19 04:15:00 | ヨーロッパ


 ご紹介しますは”バラガン・リミテッド”であります。

 ロシア民謡を今日風にポップにアレンジして聞かせる、という趣向のコーラスグループ。現地ロシアではそれなりに受けているようで、こちらに伝えられる現地の売り上げベスト10とかに新譜がランク・インしていたりする。
 ほんとなんですかね、この人気というのは?我が国で、民謡中心に歌っているグループが人気を博するなんて考えられないものな。たとえば昔々、我が国でも”赤い鳥”なんてグループが”竹田の子守唄”なんてのを流行らせたりした、あんな感じなのか。

 グループの個性はといえば、まあ、掲げた写真をご覧になれば即、お分かりの通りおめでたいものです。難しい事は言わずにアゲアゲで行こうぜ、みたいなノリで昔の、80年代風の、と言ってもいいかもしれない、そんなやや古めのディスコ・サウンドに乗せて、哀愁のロシア・メロディを歌い上げる。日本人のロシア民謡ファンとしては、もう少ししみじみやってくれないものかと思ったりもするんですが、現地のロシア人の感性とはこんなものなのかも知れず、まあ、しょうがないですな。

 それにしても。今、ちょこっと書きましたが、この”80年代ディスコ風”ってのが面白い。当時、”ジンギスカン”とか、そんな意匠の低俗なヒット曲ってのがあったでしょう。一小節四つ打ちのドスドス打ち込まれるバスドラの音に導かれ、エッホエッホの掛け声もアホらしく、なんとなくロシア民謡調のメロディが歌い上げられる、ヨーロッパ発の軽薄きわまるディスコのヒット曲が。

 まあ、あんなものを論じても仕方がないが、それにしてもあれ、なんでネタは”ジンギスカン”なのにロシア風のメロディだったんでしょうね?昔、東方の騎馬民族に侵略された西欧人の記憶の中ではロシアもモンゴルも区別はつかない?良く分かりませんが。
 なんか、あれを想起させられる部分もないではない出来上がりなんですな、バラガン・リミテッドの音作りってのは。あんな”ジンギスカン”のノリで、ロシア民謡を楽しげに歌い上げてしまう。で、どうやらそれがロシア人たちには受けているようだ。

 ここで、妙な方向へ話が行きますが。

 たとえばアフリカの都市型ポップスなどというものの多くは、逆輸入されたというかアフリカに里帰りしたアフロ・キューバン音楽が根になっていたりする。
 アフリカからドレイとして新大陸に連れて行かれた人々が現地で出会ったヨーロッパの音楽と自らの音楽とをバッティングさせて生み出した音楽、それが時を隔ててアフリカの人々に好まれ、演奏されるようになり、新しい音楽の花を咲かせる。ワールドミュージック・ファン好みの物語です。 

 で、このバラガン・リミテッドの音作りってのも、”ロシアに里帰りした擬似ロシア・サウンド”が元になってるんですかね?あの軽薄な”ジンギスカン”の”ロシア調”に共鳴したモスクワのミュージシャンとかが真似して作り出したのが、バラガン・サウンドなんだろうか?聞いていると、そうとしか思えないんだが。
 そもそもロシア人って、”ジンギスカン”を聞いて、どういう感想を持ったんだろうか?

 なんて、さっきからいくつも”?”マーク出してますが、こんな話題、誰にも興味ないよな、うん。ということで、中途半端ですが、ここでおしまい。

 あ、”80年代風”の件ですが、これはあながちロシアのポップス状況が遅れているって証明ではない。現地には欧米風に言って”今日風”な音も存在しているのだけれど、そもそもロシアの人々ってのは、あの80年代っぽいディスコやテクノの音が根っから好きみたいですな。韓国演歌における、鼻つまんだみたいなミューミュー言うシンセの音愛好現象みたいなものであります。といったって、これも誰にもわからないような話題だが。
 

流れてしまった”イエスタディ”

2007-03-18 03:01:58 | 音楽論など


 ・・・と言うわけで、急逝したスズキヒロミツ氏を痛むニュース報道のバックには、私がいっくらやめろと騒げども、「たどりついたらいつも雨降り」などという、”モップスのフォークソングのヒット曲”が流れるのが定番となりつつ、日々は流れて行くのでありました。情けないなあ。

 私はともかく、ああいった頭の悪い無神経なフォークが嫌いで、そんなものが何でモップスの代表作みたいに扱われねばならないのかと、情けなくなってしまうわけなんです。モップスってロックバンドじゃなかったのかよ?
 だからヒロミツ氏に、「あれは嫌いな歌で、ヒットしてしまったから仕方なく、営業で歌っていただけだ」と言ってもらえて、救われた気分になったわけです。生きて行くには嫌々やらなければならないこともある、それなら理解できるし。けどなあ、死してなお営業が続くんじゃ、やりきれないよなあ。おいたわしや。

 納得できない葬送の曲といえば、昔の話になりますがジョン・レノンが殺された日のことなど、ふと思い出してしまった私なのでありました。
 ジョンが殺された日、それを伝えるニュースのバックに、やたらに”イエスタディ”が流れていたのをご記憶の方もおられるでしょう。

 当時、私も、私の周囲の者たちも、「ジョンが死んだのに、なんでポールの歌をかけるんだよ」と腹を立てていたんですが・・・当時の、特別にロックに関心もない人にとってビートルズの曲と言えば、まず”イエスタディ”だったんですねえ。まあ、「湿っぽい話題だから、静かな曲をバックに流しておけばいいだろ」とか、そんなもんだったんでしょ、テレビ局のニュース担当者の考えとしては。

 けど、”イエスタディ”といえば、あれはビートルズの曲の中でもひときわポール・マッカートニー色の強い、というか完全にポールの曲だ。”オトナの人”に、「ビートルズも良い曲を作るな」とか言われるのが嬉しくてたまらない人の愛玩物。そして、ジョンのアグレッシヴな生き方とは、まるで相容れない奇麗ごとのメロディ。
 そんなものが、よりによってジョンの死を知らせるニュースのバックにかかってしまう口惜しさってのを噛み締めた人も、当時、少なからずいた筈なんだけど。

 でも、その当時って、日本のロック状況なんてそんなものでしたよね。だって、もう、ものすごくあんまりな話なんだけど、同じビートルズのメンバーの認知度を比べてみても、ジョンのそれがポールのそれに追いついたのって、まさにあの事件の被害者となり、悲劇の主人公となってから、でしょ?

 それまでは大多数の人にとってビートルズといえばポールだった。多くのビートルズのファンにとって、ポールの作る分かりやすいポップなメロディが好ましいものだったし、ジョンって存在は、まあ、どう理解したらいいのか分からなくって二の次だったでしょ?

 それが、突然の悲惨な死というものが、ジョンの社会へ向けての発言や前衛的な表現が受け入れられる素地となって行った。突然の凶弾に倒れ、命を失うことによって、やっとジョンはポールと同じ比重を持って語られるようになった。あんまりな話だけど、我が国におけるジョンとポールの物語って、そんな風だったんだよ、お若い皆さん。

 だからやっぱり、ジョンの死を伝えるニュースのバックには”イエスタディ”が流れてしまったんだなあ。たとえば”イマジン”なんて曲は当時、皆は知りもしなかったんだよ、聞いたこともなかったんだよ。マニア以外は。それがついこの間の話。

 ともかく。流れてしまうんだよねえ。なにかというと”イエスタディ”とか”たどりついたら・・・”とか、そっち方向の曲がさあ。肝心な時に。これが悔しいのよなあ。