朝起きて 築山で語りました。 眞白な雪柳 白椿 櫻 つわぶき 岩陰のチューリップの真紅が 雪に消えそうなおせきの着物の袖を思い起こさせました。
神社でご参拝....,地に枝を伸ばした櫻の大木は九部咲き 白い花房が爛漫と咲き誇るその美しさに涙がにじみました。
ご神木の前で波長をあわせました。
駅でついスタバに入ってしまいました。友人と昔ながらの喫茶店で会って お誕生日のプレゼントをいただきました。今日は満月だったそうです。
1時間遅れて会場に入り すぐに語る時がきました。ひさしぶりにドキドキしました。すべて「ゆだねよう」と思いましたら動悸はおさまりました。
手が小刻みに震えていました。かるいトランス状態に入っていました。思いもかけず 手振りが入っていました。
終わったあとシンと静まっていました。
「昔話とかのジャンルを超えた語り」という熱い声も聞こえ 本家の中野さんの「聞き惚れました、わたしの感情移入などうわっつらです」という過分のお褒め
もいただきました。 また荒石さんから季節感についての疑問をふたついただきました。初雪というのは積もらないのだそうです。でも そのあと素敵
だったということばもいただき 昨年の中野さん1月の荒石さんのおせき を聴いて イメージがふくらんだので おふたりに受け止めていただけ ほっとしました。
中野みつさんは今も語り続けておられるたいせつなネイティブの語り部であり 荒石さんはすぐれた継承の語り部です。
この語りは 会と先生への感謝をこめて恩返しとして語りました。すこし先鋭になったのは コピーではない再話について 提案したかったからです。
やさしいひとたちのいる会でしたから。
伝承の語りをそのまま暗記して語ることを使命と考えている方には反発もあるだろうと思います。それは覚悟のうえでしたし
先生の もっと勇気をもって自由に(伝承の昔話を)語る ということばに呼応しようと思いました。
中野みつさんの語りもおなじものがたりが骨子はそのままでも 聴くたびに複雑になったり語彙が豊富になっていたりします。
語りとは本来 即興で 語る人 聴くひと その日の天気 場でかわってゆくものなのです。
テキスト 文字とおりを暗記するものではありません。伝統とは伝承とはなんでしょう。
あたらしいものを取り入れないなら 色あせ 衰退してゆくだけではないでしょうか?
どこかで 今 とつながっていない 社会と隔絶した語りに どんな意味があるのでしょう?
語りは後生大事に床の間にかざっておくものだけではなく 学問の対象だけでもありません。
今 このときの くらし いのちの鼓動とつながっているのだと思います。
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わたしにとっては はじめての昔話との抱擁であり格闘でもありました。ものがたりは語りを聴くと萌芽はすぐ生まれるのですが
それを抱卵している時間一ヶ月がとてもながくて けっこう堪えました。ものがたりがすこし熟しすぎてしまった感がありますが、今はとてもやすらかです。
来月 こちらの学童で語らせていただくことがもうひとつの恩返しであり 提案です。
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よしあしではなく さまざまな考えがあり それぞれが信じることに向かえば それでいいのだということを前提にして申しますと
この会では語りとはほぼ100% 伝承の語り・昔話 です。 でもわたしにとって 昔話は10から20%くらい.....
語りとは懐の深い太母であり 原初の森であり あくなき冒険であり 身体と魂の統合の予感であり 未来へつなぐ希望であり 姿を見せぬ神でもあります。
来年こそは手をつけかねていたことに一気に身を躍らせたい、そのために手放せるものはみな手放し 身軽になって本質にちかづく旅に出たいと思います。
今回の語りがいっときのセンセーションに終わるのか それともなにがしかの波紋を呼び 何かそのなかから生まれるものがあるのかどうかわかりません。
けれど もう それはどうでもいいことです。ただ 前に進みましょう。
雪ん子おせきで わたしは 原話にはない じさの人間像を伝えたかった....雪国でばさと寄り添って 駄賃仕事で口に糊するじさ その心情を最後の
せりふに篭めました。それはとてもしあわせなことでした。 じさ ばさ おせき おやすみなさい また雪の降る頃に会いましょう.......。
後半が長いという指摘にたいして 時間軸はひとのこころのなかで均等に流れているわけではない 無限に感じる一瞬もあれば あっというまに
過ぎ去る七日もあると付け加えておきます。