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遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

「満州国は私の作品だ」は岸のことば。滿蒙開拓は日本の若手官僚だった岸が中心になって日本の資本を注ぎ込み最先端の国家を捏造した。満洲がなければ大東亜戦争もなかった。統一教会を宗教法人と認めたひとでもある。

関東軍、中国農民の土地を強奪

日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の関東軍は、中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。

旧大日本帝国陸軍の関東軍が、開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。

農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に服さざるを得なかった中国人農民たちの、日本人に対する強い憎しみが、日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児をぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。

(岸信介はさっさと逃げた、A級戦犯として巣鴨に入れられたが アメリカの方向転換 CIAとの取引で刑罰を逃れる)

195万人の苦難

当時、中国東北部(満州)に住んでいた国策開拓移民は、【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、多くの家庭が母子老人家庭となっていた。戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭避難民は、戦闘に巻き込まれて約3万人が死亡した。

その後、病気と飢えで約21万人が死亡した」と報じている。


合田一道著『検証・満州1945年夏 -満蒙開拓団の終焉』扶桑社 2000年8月発行)は、満州各地の開拓団の日本人母子老人家庭避難民が、ソ連軍と武装した中国人暴徒集団の両者に襲われて、【殺害】されたり、集団自決(=集団自殺)に追い込まれたりした悲惨な状況を詳しく述べている。

財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編『満蒙終戦史 全928頁(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)の第812頁~第813頁は次のように述べている。

受難は終戦時の満州在住の日本人約195万人(関東州内25万人を含む)すべての運命であった。もちろん程度の差はある。しかしながら、
ソ連軍の満州進撃の日から、遣送帰国の日まで、不断の危機と苦難にさらされなかった日本人は、ほとんど皆無であったろう。

なかんずく、開拓農民の受難は数多くのの実例にも見られるように悲惨深刻を極めた。この成行きは、しかし、当然ともいうべきであろう。敗戦とともに、旧満州国の権威は一挙に崩壊した。

ソ連軍の侵入、前満州国軍・蒙古軍の反乱、通信・交通の杜絶、原住民の蜂起などが相次いで、いわゆる王道楽土は恐怖と混乱の世界に急転したのであった。

特に、ソ満国境の開拓団のなかには、ラジオさえ持たず、したがって日ソの開戦も終戦も知らず、事実を知ったときには、関東軍と日本人役人がいち早く退避した後で、ひとり曠野に取り残された形となったものが少なくなかった。

しかも、それまでに、開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵され、開拓団の大部分は無力な老人・婦女子・子供のみであったことが混乱と悲劇を一層増大したのであった。ごく少数の男子残留者が開拓団全員を護衛して集団南下を企図したのであったが、この退避行の道程こそ、ほとんどが、見るも無惨な、地獄絵図となったのである。

ソ連軍または中国人暴徒の襲撃に遭って殺害され、自殺して、全滅した開拓団、及び1,000名以上の自殺者を出した開拓団は、100以上を算える。

参考情報:羽田澄子監督の「嗚呼 満蒙開拓団」2009年8月

以上

残留婦人 残留孤児

それだけでなく満州には多くの残留孤児 残留婦人が残され 苦難を強いられたのである。

⇒ こちら

以下抜粋

.........旧満州の地に一人残された子供は悲惨な人生を歩むこととなった。それはもちろん当人が選んだ道ではなく、明らかに日本帝国、満州帝国が選ばせたものであった。子供は中国人に引き取られ、それが優しい人であればまだいい人生を歩むことが可能だったのかもしれないが、それがいい人でなければどんな仕打ちを受けるか分からなかった。敗戦をした日本帝国の日本人に、満州移民事業で半強制的に土地を取り上げた日本人に、現地の人は恨みを持っていたに違いない。そして、それが戦後旧満州の地に残された日本人に向けられたことは自然なことであった。中国人の家で働く子供、そこで虐待を受ける子供、そして彼らはたとえ中国で大人に成長したとしても中国人から差別を受けてしまうのであった。何かにつけて「日本人だ…」と言われ、差別の対象となった。

また、旧満州の地には多くの日本人女性が残された。彼女らに残された道もまた死ぬか、満州の大地で中国人の家に入って生きていくかという究極の選択であった。彼女らの運命は現地の中国人の手に委ねるしか生きていく方法はなかったのである。良い中国人にめぐり逢うか、それとも悪い人にめぐり逢うかはその人の持つ運命に任せるしかなかった。いい人に出会った女性はその後の人生をまだ平穏に生きることは出来たが、悪い人に出会った女性は、その運命を呪っても日本帝国を恨んでもどうにもなることではなかった。ただ悲惨な人生を生きるしか手はなかったのである。そんな人生を私は知る由もない。その時代に生まれなければ、その時代に生きていなければ、戦争に関わらなければ知ることも解ることもないのである。

以上

(正確な死者数はわかりません).....どれだけのひとが子どもを捨てて逃げたかわかりません 自らの手で殺したひともいたでしょう。すっかり忘れて また戦争をしようというのでしょうか。

⇒ こちら


 

 

 



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