猿田彦をしらべていた。
出雲の佐田大社が、猿田彦を祀っていて
どうも・・・
大社は、
大赦の意味だと思う。
出雲大社も先の王国?の王を惨殺し
怨念・祟りを恐れたのだと思う。
そのために、大赦(深く許されよ)と
したのではないか?
佐田大社も熊野大社も、そういう仮定のうえで、
考えてみている。
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ウガヤフキアエズ王朝実在論さまの
記事を読んでいくと、同時に、
飛騨口碑をよむと、
妙に符合するところが出てくる。
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飛騨口碑では、
高千穂を目指すニニギノミコトや猿田彦(御在所岳付近に定住)が描かれている。
ウガヤフキアエズ王朝実在論さまのほうでは、
ニニギノミコトとともには、きておらず
祖母山に天孫降臨したニニギの一行は、「ヤチマタノチマタ」まで下りてきたところで、猿田彦一族に遭遇します。
と、しています。
そして、ウガヤフキアエズ王朝実在論さまは、猿田彦が居た場所、と思われるところを発見するのですね。
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その石碑を見たとたん、全身に戦慄が走りました。
なんと、そこには「猿田彦大神」と彫られているではないですか!
そういえばこの石碑、平凡そうに見えて、実は微妙な難しい曲線で彫られています。
つまりタダモノではないということ。
それはかつて、猿田彦が世界中を航海したときに使用したという船のカタチを表しているのでしょうか?
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ニニギノミコトはまず【出雲族】の王様であった大国主に相談して、協力と助言を仰ぎます。
ニニギノミコトに知恵者の大国主が提案したのは、祖母山を越えた反対側、その北側斜面に展開していた【猿田彦族】との同盟関係の締結でした。
なぜなら、【高千穂族】と【猿田彦族】とは、一番近い距離にありながらも、険しい祖母山・傾山が交流を阻んで、お互いに一度も顔を合わせたことが無かったからです。
ちなみに、【猿田彦族】とは縄文人であり、この頃は「稲作」の中でも特に「陸稲(おかぼ=畑で作られる稲)」を主食としていました。
⇒ウエツフミでは、この陸稲を炊いたものを「コワ」と呼んで、「イイ」とは区別している。現在の「おこわ」の語源。
そして、彼らのお祭りが現在の「獅子舞」なのです。
だから、大石遺跡から稲作の痕跡が出土しているのです。
また、林業やシイタケ栽培、炭焼きなどの「山の暮らし」を得意としていた彼らは、オオヤマツミ(山の神)の子孫であると記されています。
険しい祖母山を越えて、北側斜面を下ってきたニニギの命の一行は、ようやく「ヤチマタノチマタ」と呼ばれていた、豊後大野市の三重町あたりに到着します。
ここは、交通の要衝であり、北の宇佐地方、南の高千穂地方、東の海岸部の佐伯や臼杵、西の阿蘇地方、どこに行くにもここを通らなければならないゲートウェイだったのです。
ここで、【猿田彦族】の王様である猿田彦が待ち構えていました。
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飛騨口碑のほうでは、
大山祇の18代あとが猿田彦
この一族は飛騨から下りて、御在所岳のちかく、平野あたりをおさめて
きたる時に備え、船を作っていた。
なので、この1族の墓?はそれを意味する、舟形である。
天孫降臨は忠誠心で国を護った史実である | 日本人のルーツ (roots-hida.info)
さてここで鈴鹿の猿田彦命(さるたひこのみこと)の事をお話しましょう。
昔に遡り、十五代淡上方様が海辺を固めて連絡網を作られた時、この鈴鹿の地に山本高山土公命(やまもとたかやまつちのきみのみこと)を派遣されていました。
山本高山土公命が家来やその家族を引き連れて降り鈴鹿の地に代々住み、猿田彦命はそれから18代目の御方です。
約二百年程たったでしょうか、鈴鹿は人も増え猿田彦命を中心に繁栄していました。
本家の飛騨には代々忠誠を尽くくして、親しく付き合っていたのです。
猿田彦命の祖父に当る御方の兄弟に舟造命(ふなつくりのみこと)という御方が大海へ乗り出しても壊れず更に帆をはって走る立派な舟を完成しておられたのです。
山本高山土公命が飛騨を出る時、淡上方様から
「海辺を見回り、連絡網を作り、子孫を増やして、立派な舟を早く造れ」
と厳命されていたのです。
山本高山土公命の墓は、その事を忘れぬ為舟形になっています。
その願いが猿田彦命の3代前の御方によって成就して鈴鹿は立派な舟を持つ一大勢力を形成していました。
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と、かなりのところまで一致しているのです。
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そして、飛騨口碑のほうでは、
高千穂を目指すとき、
こおろぎとあだ名した、日本人より、色の黒い人がいて
「おお」としか、いわない?
その人たちに協力を求めた。
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と、いうのですが・・・
これが、猿田彦だとするのなら、先導していた猿田彦と二人いることになりますし
同道していた姫は、日本人より、色の黒い人 こおろぎさんとアダナしているので
飛騨口碑では、まちがいなく、別人になります。
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口碑が残らなかったのか(年代がわかりにくい)
ウガヤフキアエズ王朝実在論さまのほうの資料が不足しているのか
と、思うのですが
飛騨口碑では、
笠沙族という存在がいて
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それどころか、アメノウズメの美貌に一目ぼれした猿田彦は、ニニギにお願いしてアメノウズメを自分のお妃にもらい受けます。
⇒ウエツフミによるが、この部分を記紀の作者は削除。
ここに、両部族の固いきづなが確立されたのです。
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山の幸族と笠沙族(かささぞく)とは結婚で同盟して海幸族
どうやら、猿田彦一派が山の幸族のようですね。
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ところが、飛騨口碑では
猿田彦がニニギノミコトを高千穂に案内している。
山の幸族が猿田彦ーニニギノミコトという事になる。
つまり?笠沙族が元に居た部族。地名としてもあっている。
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縄文人の王様・猿田彦と弥生人の王様・ニニギはここで出会った! - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)
ところがこのあと、
【高千穂族】の皇太子である「海幸彦」がニニギの命のあとを継いで天皇に即位しようとしますが、
ここに【猿田彦族】の皇太子である「山幸彦」が反乱を起こします。
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笠沙族=高千穂族
山幸族=猿田族=飛騨族
と、取れます。
飛騨口碑
山の幸族と笠沙族(かささぞく)とは結婚で同盟して
海幸族(隼人)を攻めたのです。
それで、海幸族が弱り切ったところを、飛騨族(天孫)が仲裁して平和になり、
飛騨族(天孫)と笠沙族が結婚して九州を平和に平定したのです。
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飛騨口碑では、
隼人族を海幸族と呼んでいるのですね。
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ウガヤフキアエズ王朝実在論さま
結局この反乱は、【高千穂族】=笠沙族、がその皇女の「豊玉姫」を、
【猿田彦族】の皇太子である「山幸彦」のお妃に差し出すことで解決します。
しかも、天皇の地位を【猿田彦族】に譲り渡します。
つまり、政略結婚が行われたという訳です。
⇒これが海幸彦山幸彦伝説の真相。
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【高千穂族ー笠沙族】ー皇女「豊玉姫」
【猿田彦族(山の幸族)(飛騨王朝族)】ー皇太子山幸彦
猿田彦族+高千穂族=「ウガヤフキアエズの命」
飛騨族+笠沙族=ウガヤフキアエズ王朝へ
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では、笠沙族とは何者だったのだろう。
と、いう事になります。
たぶん、この部族?は
「こおろぎのように茶黒い肌の日本語が通じない」渡来人だったと思えるのです。
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他のサイトをあたっていきますと、
九州には、
インドネシアのほうから来た部族がいた。
と、いう話もあり、ここで、いったん、ピリオドをうち、
再度、猿田彦を調べなおしてみました。
伊勢のほうに戻った・・という話もあるし
猿田彦神社は、天千木を載せていました。
これは、すこし意外でしたが
飛騨口碑から考えれば
飛騨の天照の子孫なので、当然とも、
思えたのですが、
前王朝とも考えられる存在なので、
さもありなんとも思えるのです。
ところが伊勢神宮のほうでは、月読ー豊受は地千木になっています。
天意に沿う事をしていなかったということでしょうか?
確かに、伊勢の天照からいえば、邇邇芸命(大和王朝のニニギノミコト)を先導したということでは、
天意に沿ったということになるという、カモフラージュ?
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話、ずれました。
この猿田彦をしらべていくと、
古事記は光の神のような書き方で
日本書紀は赤い目玉と長い鼻と3mをこえる背丈
と、実態がつかめません。
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それを「火山」ではないか?という文書を発見し
さらに調べていくと
取材メモ「火山と古事記」 - 古事記、火山、秀吉──歴史を幻視する本 桃山堂 (hon-momoyamado.com)
に、いきあたり・・・
スサノオ=阿蘇
伊弉冉=火山
猿田彦=火山
と、いう結論を持っても良いと思われる文書にたどり着いたのです。
その中で
伊弉冉の話の中。
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追走する火山の女神
![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/none/path/sf100717b20d22a47/image/i8b0adde00e67fcf5/version/1460788823/image.jpg)
ホルアのそりに乗って、追いかける火山の女神ペレから逃走中。(写真は、「ハワイの神話と伝説」サイトより)
火山の女神といえば、いちばん有名なのはペレです。
世界でも有数の火山エリアであるハワイ諸島。
ペレは、ハワイ島のキラウエア火山の火口に住んでいるそうです。
火のように官能的で美しい女神のようですが、少々、切れやすい性格で、ささいなことで怒りをあらわにします。
このあたり、イザナミに似ています。
イザナミは約束を破った夫イザナギを追走して殺そうとしますが、ペレにも同じような伝説があります。
ハワイには、伝統的なスポーツとして、草の斜面を「そり」で滑り降りるホルア(holua)という競技があるそうです。ハワイ島カフクにいたふたりの若い族長はこの競技が好きでしたが、ペレもホルアが大好きでしたので、人間の美女の姿で仲間に加わりました。ふたりの族長は、恋のライバル関係となりますが、毎日のようにペレをまじえて、ホルアを楽しんでいました。
そのうち、ふたりはホルア好きの美女が、ふつうの人間ではなく、火山の女神ではないかという疑惑をもち、距離を置こうとします。しかし、ペレはそれを許しません。無理矢理呼びつけ、草が枯れるまでホルアを続けさせます。怯えたふたりが逃げようとすると、ペレは美女の仮面を脱ぎ去り、火山の女神としてふたりを追走します。
百年まえの出版ですが、" HAWAIIAN LEGENDS OF VOLCANOES"(W. D. Westervelt 1916)という本がネット上で公開されているので、省略しつつ、追走場面を引用してみます。
彼女の髪は逆立ち、体は炎に包まれ、目は稲妻のように燃えさかっている。口からは煙を吹き出していた。
恐怖にすくみあがったふたりの族長は海に向かって逃げ出した。ペレは両足で大地を踏みしめた。すると、大地震がカフクの土地を襲った。恐ろしい炎の波が地面から吹き出し、カフクの町全体を覆い尽くしてしまった。
なだれ落ちてくる炎の上にはペレが乗っかっていた。ふたりの男たちは北へ向かって逃げようとしたが、ペレは炎で遮ってしまう。今度は南に向かうが、それも邪魔されてしまう。 しかたなく、カヌーで海に逃げようと海辺に駆け下りた。
必死で走る二人。どんどん海に近づいていた。だがペレは燃える腕を、かつての恋人だった男に投げかけた。あっという間に、その男の命は奪われ、その死体の上に流れてくる溶岩で小山ができた。 もう一人の男は恐怖で固まってしまったところを、ペレに捕まり、あっというまに溶岩の山によって埋められてしまった。 こうやってペレの二つの丘はわずかな間に出来上がった。
ハワイ島の海岸近くに、「ペレの丘」という溶岩でできた二つの丘があり、その由来を物語る伝説という趣向になっています。
この伝説で描かれているペレの追走劇は、明らかに、溶岩流です。
地質学者は玄武岩質という用語をつかいますが、ハワイの火山から出される溶岩は、粘性が弱くて、流れやすいものなので、現実に人間と追いかけっこになる局面があるようです。
この画像をみて
思い浮かんだのは、ウガヤフキアエズ王朝実在論さまが見つけた
猿田彦の石碑の形
そして、
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では、笠沙族とは何者だったのだろう。
と、いう事になります。
たぶん、この部族?は
「こおろぎのように茶黒い肌の日本語が通じない」渡来人だったと思えるのです。
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ハワイ島カフクなどのハワイ人?が火山から逃げて
九州に上陸し、のちに、
ホルアの碑をたて、猿田彦(火山)の安定を祈ったのかも・・
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その後、
日向あたり(推定)(北九州)に居た部族?にウガヤフキアエズ王朝がつぶされると
日向のほうが天孫族となり、ニニギノミコト降臨のはなしが、奪われた?
日向のほうが(たぶん)邇邇芸命
ウガヤフキアエズ王朝のほうが瓊瓊杵尊(杵の字が入るのでという単純発想)
そして、猿田彦も出雲のほうで、
ー多分ー国譲りの時に一緒に殺戮された?
それが、佐田大社ということになるか?
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ところが、大赦を得なければならないくらいだから
猿田彦はかなりの大物なので、
殺したのはまずい・・となったのか?
伊勢に帰ったとか・・・
一方で、
猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れる。
阿邪訶の文字も、この言い伝えはまがい物ですよ。と、暗喩しているように取れる。
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比良夫貝(ひらふがい)は実際手を挟むほど大きく、海底の岩?にでもくっついているのかもしれないが
むしろ、ひらふ(比良夫)のほうが、問題だろう。
これは、そのまま考えると
夫にするのは、(どっちが)良いと、読める。
猿田彦が夫ならー妻は
『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する(「命(みこと)」は敬称、以下同様)。神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女(オズメ)」の意とする『古語拾遺』説、『日本書紀』の表記通り「髪飾りをした女(鈿はかんざしの意)」とする説などがある。
「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。
ひらふは、「ひろう」とも読める。踊りを「披露」した天宇受賣命と取れる。
ひらふ貝に挟まれたというのは、もしかすると、
天宇受賣命にだまされた。欺かれた。とも考えられる。
++++++++
そして、売太神社
稗田町にあり。祭神は稗田阿礼命、天鈿女命、猿田彦命。三社明伸ともよばれていた。
「延喜式」神名帳の添下部の「売太神社」は、「賣田神社 稗田村ニ在り、今三社明神ト称ス」とあり、賣田は「ヒメタ」と振仮名されている。
稗田の天鈿女命の子孫稗田阿礼の出身地で、古代神楽舞などに供奉した猿女君の居住地と伝えられている。猿女君が賜った田を猿女田、持主を猿女田主と呼んで、のち猿の一字を略して女田主、すなわち売田主と呼ぶようになって、その祖神を祀る社を売田神社と称するようになったとの口伝がある。
賣田は「ヒメタ」売太ー売女とも考えられる。
祭神の稗田阿礼命も 太(ユダ?=ウガヤフキアエズ王朝)を歴史を、結果的に大和王朝に売ったことになった。
と、いうほうの意味なのかもしれない。
*********
猿女はサロメとよく似ている。
サロメ(英・独:Salome, 仏:Saloméなど)は、ヘブライ語シャローム(Shalom, 「平和」)に起源する女性の名前。
キリスト教(カトリック教会)ではこの名を持つ聖人サロメがおり、その聖名祝日は10月22日である。
+++++++++++『サロメ』(Salomé)は、オスカー・ワイルドの戯曲。
ユダヤの王エロドは、自分の兄である前王を殺し妃を奪い今の座に就いた。妃の娘である王女サロメに魅せられて、いやらしい目を彼女に向ける。その視線に堪えられなくなったサロメは、宴の席をはずれて、預言者ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)が閉じ込められている井戸に向かう。預言者は不吉な言葉を喚き散らして、妃から嫌がられている。預言者との接触は王により禁じられているのだが、サロメは色仕掛けで見張り番であるシリアの青年に禁を破らせて、預言者を見てしまう。そして彼に恋をするのだが、預言者のほうは彼女の忌まわしい生い立ちをなじるばかりである。愛を拒まれたサロメはヨカナーンに口づけすると誓う。
エロドはサロメにしつこくダンスをしろと要求し、何でも好きなものをほうびにとらせると約束する。サロメはこれに応じて7つのヴェールの踊りを踊り、返礼としてエロドにヨカナーンの首を所望する。預言者の力を恐れて断るエロドだが、サロメは聞き入れない。あきらめたエロドはヨカナーンの首をサロメにとらせる。銀の皿にのって運ばれてきたヨカナーンの唇にサロメが口づけし、恋を語る。これを見たエロドはサロメを殺させる。
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ちなみに 売太神社はメタ神社とよむ。
「メタ」は元来は古代ギリシャ語で「あとに」という意味で、線文字Bで書かれたミケーネ・ギリシャ語での用例が最古のものである。この元来の意味も学術用語で使われる事があり、例えばMetatheria(後獣下綱)は、生物の分類を木で表したときTheria(獣亜綱)のあとに来る事による命名である。
「超越した」、「高次の」という意味で「メタ」が用いられるようになったのはアリストテレスの『タ・メタ・タ・ピュシカ』(古希: τὰ μετὰ τὰ φυσικά、直訳は『自然に関するものの後に』だが、通常は『形而上学』と訳される)という書物に起源を持つ。
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ちょっと、わすれてしまったが、
猿田彦を祀っていた神社と思うが
摂社のなかに祀っている「誰か」を公開しない神社がある。
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瓊瓊杵尊(ウガヤフキアエズ王朝)に背乗りし、邇邇芸命にした???属?なので、
猿田彦を惨殺したということを隠さねばならなかったのだろうと思う。
どこかで、読んだことでは、
ニニギノミコトは猿田彦を「おおきみ」と呼んでいたとか
かなり上の位の人に接する態度だったとか・・
飛騨口碑のほうを信じれば、
それは納得がいく。
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だが、仮に佐田大社が佐田大赦で、猿田彦を祀っていた(封印した?)とするなら、
なぜ、出雲でまつったのだろう?
いかにも、出雲側が猿田彦を殺したかのように見せているとも思える。
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そして、邇邇芸命の中に「芸」があるのは、
猿女君ー古代神楽舞などに供奉した猿女君に
かかわりはないのだろうか?
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そして、もうひとつ。
笠沙族がハワイからの渡来者であったとするなら
この部族と合流したのがウガヤフキアエズ王朝ということになり
のちに和歌山にウガヤフキアエズ王が上陸している。
ここも、和歌山の地名は、ハワイから来た神ワケアに由来する。
と、いうことにつながってくるのではないだろうか?
*********
追記
笠沙族も 笠笹族だったのでは。
ウガヤフキアエズ王朝実在論さまの写真をみても
笹の葉のようなボードだったと思える。
これを普段は背負子(しょいこ)がわりにしていた?
ボードのとがった方が頭の上にでっぱってくるので
笹の笠のようにみえた。すこし曲がっていただろうし・・・
で、かさささ族からかささ族にかわったのかも・・・
背負子(しょいこ)とは、荷物を括りつけて背負って運搬するための枠からなる運搬具。
呼称にはしょいわく、おいこ、せいたなどがある。キャリーボーンもほぼ同様の構造のものである。
********追記2******
猿田彦も単純に文字音を考えると
火山(噴火)が起きないようにという意味に思える。
猿ーさるー去る
田は、祭祀
彦は火の子(溶岩・噴火砕石などは、火の子供と見立てられる)
火の粉が去りますように・・という意味合いかな?
*********